2011年6月1日水曜日

『教会における聖書の解釈』③

カトリック教会の教皇庁聖書委員会の文書「教会における聖書の解釈」(和田幹男訳)のコメントの三回目です。

今日は『第2部 解釈学の諸問題』についての感想です。

先ず前回と同じように第二部のアウトラインを載せてみます。第一部と違って分量は少ないので混み入ったアウトラインではありません。
第2部 解釈学の諸問題   
A.現代哲学の解釈学
1. 現代の展望
2. 解釈する場合の有用性
B.聖霊の息吹を受けた聖書の意味
1. 字義的意味(The Literal Sense)
2. 霊性的意味(The Spiritual Sense)
3. より充足した意味(The Fuller Sense、Sensus Plenior)
第一部では聖書を解釈する時の様々な方法論やアプローチが紹介され、評価されました。
第二部ではこれらの方法論やアプローチをどう取り入れるかどうかに拘わらず、テキストを解釈することに伴うより大きな「枠組み的な問題」に関して、『解釈学』と言う哲学が果たしてきた役割と、それによってテキストが持つ様々な意味の次元、聖書のテキストで言うと三つの次元を紹介します。

『解釈学』の祖として名前が挙げられているのは、シュライエルマッハー、ディルタイ、ハイデッガーですが、ここではそれをさらに発展進化させた、ブルトマン、ガダマー、リクールの業績が簡潔に紹介されています。

筆者が「(哲学的)解釈学」に出会ったのはプリンストン神学校での、ギブソン・ウィンター(Gibson Winter)教授の授業からでした。ウィンター教授は社会倫理の専門でしたが、特に社会理論、社会学の限界性を克服するような意図で解釈学、特にハイデッガーの理論を授業に持ち込んでおられました。
当時はちんぷんかんぷん、と言う感じでしたが、解釈学の持つ影響は深いものだと感じていました。解釈理論は伝統的には古典テキストを解釈する際の諸問題を扱うディシプリンだったのですが、現代では哲学や人文科学など広範囲にカバーするものになりました。

当時ウィンター教授に「解釈学入門」として推薦されたのは、Richard E. Palmer のその名もずばり「ハーメニューティックス」です。副題は、Interpretation Theory in Schleiermacher, Dilthey, Heidegger, and Gadamer、となっています。

『教会における聖書の解釈』では、「テキストと解釈者の時代的・文化的距離の問題をどう乗り越えるか」、と言う視点でブルトマン、ガダマー、リクールの3人の視点を紹介していますが、ブルトマンの場合は解釈哲学と言うより、ハイデッガーの実存的解釈哲学の聖書解釈への応用と言う意味でその影響が大きいのでガダマーやリクールらと並べられているように思います。

聖書はつぎつぎと続くすべての時代のための神の言葉である。したがって、文学批判、歴史批判の研究方法を、より大きい解釈の模型の中に組み入れることを可能にする解釈学の理論を無視することはできない。問題は、聖書本文の著者とその最初の宛先人の時代とわたしたちの現代という時代の距離をいかに克服し、キリスト教徒の信仰生活を養い育てるために、いかに聖書本文のメッセージを正しく現在化すればよいのかにある。すべての聖書解釈は、現代の意味での「解釈学」によって補完されるよう呼びかけられている。
と言うわけで聖書テキストの解釈は、解釈学的洞察を要請することになるわけだが、対象となる聖書テキストは次のような特殊な解釈対象であるという。
聖書解釈は、 すべての文学的歴史的文書一般の解釈と同じであるとしても、 同時にこの解釈にとって独特なケースでもある。 その特殊な性格はその対象から来る。 救いの出来事とそのイエス・キリストの人物における成就は、 全人類の歴史に意味を与える。 新しく歴史の中でなされる解釈は、 その豊かな意味の開示であり、 明示でしかありえない。 これらの出来事を伝える聖書の叙述は、 ただ理性だけでは完全には理解されない。 教会共同体における生きた信仰と聖霊の光のような、 特殊な前提事項がその解釈を左右する。 霊における命の成長と共に、 聖書の読者の中で聖書本文が語る現実の理解も成長する。
第二部では聖書テキストの意味(センス)を引き出す解釈として従来あった「字義的意味」と「霊性的意味」と言う捉え方に対し、歴史的批判的方法が「単一の意味」に限定しようとしたのが、ここにきて意味論的また哲学的解釈論の立場から「意味の多義性」が受け入れられる状況になっている、と指摘する。
その上で聖書のテキストを、三つの「意味(センス)」、すなわち、「字義的意味」「霊性的意味」そして「より充足した意味」で捉えられることを示そうとする。

字義的意味は、聖書テキストの著者がその時代の読者に対して意図した意味で、歴史的批判的方法によって解釈されるべき優先的な意味であるが、しかし聖書のテキストはその時代的制約に拘束されるものではない。

新約聖書がしばしば旧約聖書をキリストの出来事、聖霊の現実の光の下で新しい意味で解釈されるように、そのようにキリスト教は旧約聖書を「霊性的意味」で理解しているものである。

「より充足した意味」とは後代の聖書著者がある聖書テキストをその意図した字義的意味を超えて啓示的により十分な意味を付与するような解釈のことである。(例、マタイ1:23とイザヤ7:14の関係)

とまあ、簡単に三つの「意味」の簡単な説明を試みてみた。
説明的には「霊性的な意味」と「充足した意味」とを「字義的意味」から区別することはできるが、それは単にテキスト解釈の範囲に限定されるものではなく、テキストの新しい時代への適用、応用と言う実際的な関心から出てくるのではないか、とも思われる。新約聖書における「(旧約)聖書」の具体的扱い方を追跡していくと、様々な牧会的、宣教的文脈において聖書テキストの意味の開放性が見て取れる。
別な新約学の視点から言えば、それは聖書テキストの相互関連性(インターテキスチュアリティー)にも通じるものではないだろうか。

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