今日は『第4部 教会の命における聖書』についての感想です。
毎回感じることですが、文章は細部に渡って解説が必要なほど濃いものです。簡単なコメントを幾つか言って終わるにはとてももったいない内容を持っています。
残念ながら今回もほんの一部だけ選び出してコメントするに留めます。
では第4部のアウトラインを載せてみます。
A.現在化(Actualization)聖書は「神のことば」として、すべての時代、すべての文化の壁を越えて語られなければならない、と言う確信のもとに、「現在化」と「文化内順応」の原則、又その適用における陥穽や具体的間違いが述べられています。
B.文化内順応(Inculturation)
- 原則
- 方法
- 限界
C.聖書の活用
- 典礼における聖書
- 聖なる読書(Lectio Divina)
- 司牧宣教活動における聖書
- 教会一致運動(Ecumenism)における聖書
その方法について書いてある部分をちょっと抜き出してみると、例えば「現在化」が示唆している事柄を垣間見ることが出来るでしょう。
解釈哲学に発想を得れば、解釈の行程にはつぎの3段階がある。1.現在の状況にあって、そこから御言葉を聞く。2.聖書本文が照らし出したり、問題にしたりする現在の状況の諸側面を識別する。3.聖書本文の意味の充満から、キリストにおける神の救いの意志と整合性があって、現在の状況を実り豊かに発展させることができる要素を汲み取ること。新しい歴史的文脈とその時代が包摂する課題に対して「神のことば」が当てはめられ、聖書の真理が教えられるよう「現在化」が目指されている、と言う考え方が良く分かります。
現在化によって、聖書は現実にある数多くの問題を明るみ出している。たとえば、教会の役務の問題、教会の共同体としての次元、貧しい人々の優先的選択、解放の神学、女性の社会的条件がそれである。現在化によって、現代人の意識が日増しに認めるようになった諸価値に関心が高まるようになることもあるかもしれない。そのようなものとして、人権、人命尊重、自然保護、世界平和への希求がある。
「C.聖書の活用」においてもプロテスタント側から学ぶことが出来る様々な示唆のある文章が散見されます。
プロテスタントのカトリック教会に対する固定観念としては、カトリックはミサ(典礼)中心で、プロテスタントはみ言葉の教えに重きをおく、と単純化しやすいです。
しかし、「典礼における聖書」に書かれているように、第二ヴァチカン以降の典礼改革の中に礼拝の中に聖書を重んずる、あるいは機能的に用いる取り組みが、ミサ時の「説教」や「三年周期の聖書朗読」に見られるのではないかと思います。
「聖なる読書(Lectio Divina)」はプロテスタント側のパイエティズム(敬虔の育成に用いられる聖書の学びと祈り)の伝統と重なるものがあるように思います。
「教会一致運動(Ecumenism)における聖書」では、諸教会の立場を超えて「聖書」を共にする(例えば、エキュメニカルな翻訳聖書作り)ことで具体的な道が見えてくるような気がします。
色々示唆に溢れた文章が続くので途中でどこかを切り取ってコメントするのは難しいのですが、あくまでプログに掲載する程度の軽いものとしてコメントを読んで頂き、読み通す気力のある方は是非本文の方をお読みください。
0 件のコメント:
コメントを投稿