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2025年5月27日火曜日

「福音」とは何か?

このブログでも度々紹介してきたスコット・マクナイト『福音の再発見(The King Jesus Gospel)』に関わる話題です。

米国のゾンダーヴァン出版社が刊行する「カウンターポイント」というシリーズがあります。論争になっているような様々なイシューに対してフォーラムを提供し、複数の著者から異なる視点で寄稿してもらい一つの本にまとめるという試みです。これまでに40冊くらいのシリーズ著作が出ているようです。

その中の一冊で今年6月に出版予定になっているのが

Five Views on the Gospel

です。

発売を前にした促販企画のようなウェビナーが(日本時間で)5月23日の朝ありました。
この本を編集した二人がモダレーターとなり「5人」の寄稿者(うち一人、ジュリー・マが欠けましたが残る4人)がパネリストとして登場しました。

  • The Reformation Gospel (Michael Horton)
  • The King Jesus Gospel (Scot McKnight)
  • The Wesleyan Gospel (David A. deSilva)
  • The Pentecostal Gospel (Julie C. Ma)
  • A Liberation Theology Gospel (Shively T. J. Smith)

これから書くのは主にその感想というか印象なのですが、マクナイトを除くとそれぞれの教派や神学伝統から見た「福音」を5-10分で語りました。
一番流麗にまとめていたのが「ウェスレヤン」を語ったデシルヴァと「解放の神学」のスミスで一番歯切れの悪かったのが「宗教改革」のホートンです。

特にホートンは改革派のレッテルを貼られることに多少神経質になっていました。というのも一番最初に語ったマクナイトが『福音の再発見(キング・ジーザス・ゴスペル)』でも新カルヴィン主義のジョン・バイパーを批判していたように、正面切った「福音とは何か」というテーマからいうとホートンが代表する立場が対立・衝突の矢面に立たされることを予感していたからでしょう。

ところでマクナイトを除いた他の3人はすべて教会史的に現れてきた教派的立場や神学的主張から見た「福音」ということであり、実質的にはそれぞれの立場の特徴点(distinctives)を語っているにすぎない部分が多いわけです。かならずしも「オリジナル・ゴスペル」とは何であったか、そのオリジナル・ゴスペルに対して各自の神学的特徴点はどの程度オリジナル・ゴスペルを反映しているのか、あるいは発展させているのか、といった思索には欠けていました。

各自のプレゼンの後、4人の間での意見の交換の時間があったのですが、やはりマクナイトがそもそも「福音とは何か」という定義の問題や「どのように定義するのか」という方法の問題が取り上げられていないということを問題提起していました。
マクナイトはそれらの問題を既に『福音の再発見』でかなりなスペースを用いてまとめているので、他の3人のパネリストたちが素通りしてしまっていることに違和感を感じているようでした。

またマクナイトは「意見の対立」を際立てるために(自著で指摘していた)ジョン・パイパーの「イエスは『義認』の福音を語った」というポイントを持ち出し、はたして義認は福音そのものなのかそれとも福音がもたらす益(benefits)なのか、と福音それ自体と福音がもたらす益を区別する必要があるのではないかとパネリストたちに問いかけていました。

さてこのウェビナーは都合90分のプログラムでした。おそらくアーカイブされて視聴可能になるのではないかと思いますが、『福音の再発見』が提起した問題を今後も深めていくために、参考になるのではないかと思います。

以上ブログ再開後の第1弾でした。

《広告》スコット・マクナイト『福音の再発見』新装改訂版(キリスト新聞社、2020年9月)を個人販売しています。




2018年8月21日火曜日

(3)「次世代教会」を展望して、3

前回、「次世代神学教育」みたいなことを話し始めました。

少し続けます。

既に2回引用した中にあった「次世代教会」の形態として
 (1)小グループ、家庭集会型
 (2)専門職を置かない自給型
がラフな特徴として言えると思います。

かなり簡単・曖昧なイメージですが、しばらくこれで引っ張ってみます。

このようなタイプが「次世代教会」の主流になるかどうかは別にして、制度的教会が弱体化し、ネット文化によりますますフラット志向に社会が動けば、このような形態のキリスト者のグループが増えて行くことは充分考えられます。

既に米国その他の地域で、制度的教会に対抗する教会のあり方として「イマージェント」と呼ばれる、いわば草の根運動が1990年代辺りから起こりました。
※ 「イマージェント」については過去の記事で簡単に説明した
 彼らはキリスト教会の様々な制度面に対し否定的態度を取る傾向が強い。
スモールグループで、集会や聖書研究を行い、自分たち自身のキリスト教表現に忠実であろうとする傾向が強い。さらに、「社会正義」「環境問題」など保守的福音派が余り正面から取り組んで来なかった問題に関心が強い。
「イマージェント」のような場合、小グループ型「次世代教会」の指導者になるよう「召命」や「志し」を持つ方は既成の教会に対する幻滅や批判を通して小グループを始める、と言うケースが多いと思います。

そのような小グループから会衆が増え、会堂を取得し、専門ワーカーを雇って「教会」のようになるケースも出てくるかもしれませんが、(日本の場合は殆ど考えにくいので)あくまで小グループのまま存続することを前提して、そのようなグループ指導者となる方に相応しい神学教育はどんなものかを考えて行きたいと思います。

(1)(理想的には)召命(Call)を意識
現実にはなかなか難しいかもしれませんが、(筆者が影響を受けているN.T.ライトさんの主張を活かせば)そのような指導者は「福音」と「召命」を出来る限り明確に意識していることが望ましいと思います。
主イエス・キリストの福音が宣言されるとき、聖霊の自由な働きによって「召命(call)」がなされ、それに応答する「信仰の従順」を出発点とする。
キリスト者のグループはどんなタイプのものであれ、「召命(calling)」に基づいて形成されるのが望ましいと思います。その際「召命(calling)」は教会のために働く専門職に就くという意味での召命ではなく、福音によって「呼び出された者たち」すべてに適用されるものです。

換言すれば、小グループ指導者は、仲間のキリスト者たちと共に、「召命」に対する自覚と理解を深め、「召命」に相応しく生活することを継続的に集って学ぶよう励ますことが出来るよう訓練する必要があると思います。

(2)グループの「柱となる活動」への理解
小グループと云うのは多分に自然な流れで形成される「仲間」のような傾向が強くなるのではないか。アットホーム、くだけた、ナチュラル、親しみやすさ、などグループ形成に多いに長所となる反面、中心となるもの、そもそもなぜ集るのかという目的や使命がいつのまにか曖昧になりやすい。そのバランスが崩れないように敏感にグループダイナミクスの方向を察知し、「中心に戻す」能力が指導者には求められると思います。

つまり、一にも二にも「召命を受けた者たち」のアイデンティティを自らもそして仲間も保持するだけの粘り強さが肝心かと・・・。

そういう意味では活動として中心になるだろう「共同聖書研究」で使徒の働きを読むことが相応しいのではないかと思う。

先ず「グループの柱となる活動」については、使徒の働き2章41~47節を時間をかけてじっくり学ぶことがいい。

次に「アイデンティティ保持」に関しては、使徒の働き20章のパウロの決別説教から多くの示唆を受けることが出来るだろう。

2018年4月8日日曜日

(3)イクサス・フェスティバル、ラリー・ノーマン、マイク・ペンス

最近ブログを更新する機会が減っている。

時間つぶしの記事でも書いておこう。(としたためてはみたものの未だにアップしていない。)

アズベリー神学校時代(1978-1981)のことになる。

学校のあったケンタッキー州ウィルモアという小さな町の近くに「キャンプ・グラウンド」と云う場所がある。

知っている人は知っている19世紀「信仰復興運動(リヴァイヴァル運動)」華やかなりし頃、野外の天幕集会に大勢の人が集ってキリスト教の説教が延々と行われた。

その野外集会(あるいは天幕集会)のことを「キャンプ・ミーティング」というのだがその場所を「キャンプ・グラウンド」と呼んでいた。

アズベリー神学校の新約学(主にギリシャ語釈義)の教授でボブ・ライオン教授という人がいた。(この記事でも少し紹介した。)

彼は教授陣の中で多少異彩を放っていた。(そう言う教授は他にも結構何人もいたが・・・。)

異彩の放ち方は様々だがライオン教授の場合はクラス外でも若者(というか神学生)たちと一緒にいるのが好きで、さらにそれらの何人かの神学生たちとは「インナーサークル」を作り親密な弟子訓練みたいなことをやっていた記憶がある。

1970年代に入ってだったと記憶するが、ウッドストック・フェスティバルの影響力に感銘を受けてキリスト教でも似たような音楽フェスティバルができないか、とライオン教授の発案で始まったのがイクサス・ミュージック・フェスティバルだった。

アズベリー神学校やアズベリー大学の学生たちは「奉仕者」として登録すればただで参加できた。筆者は3年間のうち少なくとも2回くらいは「奉仕者」として参加したと思う。多分そのうち1回はカウンセラーをやったような記憶がある。

(主に)クリスチャン・ロックバンドの演奏の合間に伝道メッセージや聖書講演がなされ、質問やカウンセリングを受けたい者はいつでもステージの近くの場所でQ&Aやカウンセリングを受けられるようになっていた。

開催時期は毎年5月頃だったと記憶しているが、実は後から知ることになったのだが、アズベリー神学校に入学した1978年のイクサス・ミュージック・フェスティバルは二つのこと(二人の人物)で非常に記憶に残るものとなったのだった。

(1)ラリー・ノーマンのレガシー

一つ目はクリスチャン・ロックの草分けと云うか、比較して言えばボブ・ディランのような伝説的ミュージシャンが出演していた。

彼の名前はラリー・ノーマン。残念ながら2008年2月24日60歳の若さでなくなった。(追悼記事、クリスチャニティー・トゥデーニューヨーク・タイムズ

ところで、1978年5月のイクサスは、筆者はまだケンタッキーの山の中(バイブル・カレッジ)にいて参加できなかったわけだ。

まー参加したとしても、まだラリー・ノーマンも含めてコンテンポラリー・クリスチャン・ミュージックについては殆ど何も知らなかったわけだから、どーってことなかっただろうが・・・。

ユーチューブには1978年のはないが、1984年のがあるので(↓)、それを置いておきます。





(2)マイク・ペンス米国副大統領

もう一人“ニアミス”したのは、現米国副大統領のマイク・ペンスだ。

ペンスについては日本でも「福音派クリスチャン」としてかなり報道されているが、彼はもともと有力なカトリックの家で育った。しかし大学時代にはしばらく信仰から遠のいていたのだが、大学の友人の感化でクリスチャンになった。

しかしまだ“本物”のクリスチャンとなっていないことを自覚し、決心の機会を覚えていたときある伝道集会に参加し、そこで回心したのだった。

その伝道集会と云うのが「1978年のイクサス・フェスティバル」であった。

当時のことをこの新聞記事がまとめている。
VP Mike Pence shares why choosing Christ changed his life
And it was a few weeks later, I went to a, what was a great contemporary Christian music festival in Wilmore, Kentucky called Ichthus in 1978, and I heard lots of great singing, just like I heard this morning, and I heard lots of wonderful preaching.
And Saturday night sitting in a light rain I walked down, and not, ya know, not out of anything other than my heart really finally broke, with a deep realization what had happened on the cross, in some infinitesimal way, had happened for me, and I gave my life, and made a personal decision to trust Jesus Christ as my Savior”.
どうも「ラリー・ノーマン」の名前は出ていないので、それが目当てではなかったようだ。


《追記》

実はラリー・ノーマンについては今年3月伝記が出版されたばかりだ。

By Gregory Thornbury

著者のグレッグ・ソーンベリーはこれまた異彩を放っている人で、ラリー・ノーマンの伝記を書いているだけでなく、1950年代米保守派キリスト教を「ファンダメンタリズム」から「福音派」へと舵を切るのに多大な影響を発揮したカール・F・H・ヘンリーについても著書がある。



今では福音派の中でもカール・ヘンリーの神学的遺産の“限界”をいう人が多い中で、彼のような若手の中からヘンリーを“再発見”する人が出てきているのが興味深い感じがするのだ。




2018年1月10日水曜日

(3)新年近況報告

当ブログも、漸減というかなんというか、最近更新回数が減っています。

シリーズものの記事も幾つかあるのですが、ストップしたまま2018年を迎えました。

雑多な内容が入り乱れますが、新年挨拶がてらまずは近況報告です。

(1)巣鴨聖泉キリスト教会の2018年標語聖句
従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。(エペソ2:19-22、新共同訳)
の特にオレンジ色部分が標語聖句となります。

取られたのはエペソ書ですから自ずからテーマは「教会」ということになるわけですが、
21世紀のグローバル化して行く世界でどのように「教会」を捉えて行くか考えて行きたいと思っています。

(2)イスラエルの問題、民族の問題

 昨年後半に4回に分けて書いた 宗教改革を越えて 最近の読書に見る流れ というのがありました。(1234)そこで触れたように、今浮上している一つの意義深い神学の問題は「教会」の問題であり、それは歴史的に言うと宗教改革の起こった16世紀ではなく、(まだ「キリスト教」とか「ユダヤ教」というような用語も認識もなかった)1世紀が焦点だ、ということです。

 キリストの教会が誕生した1世紀からコンスタンチヌス帝のミラノ勅令の4世紀まで、ユダヤ教シナゴグとキリスト教エクレシアはある種ある程度共生関係にあったのではないか・・・。言い換えれば、「parting of the ways」はまだ明確に確立したものではなかった(のではないか)。

 そういう展望からあらためて1世紀の(あえて使うと)“キリスト教”というものを見直す必要があるだろうと思い始めています。

 そうするとパウロが手紙を書いた教会における「ユダヤ人」と「異邦人」の関係の問題がより一層活き活きしたもの(live issue)に捉えられるように思います。

 キリストの教会が、ローマ帝国下にあって、キリストを主とするグローバルなヴィジョンを内包する信仰共同体として息づいていたことをより具体的に想像できるし、その際、一世紀ローマ帝国の多民族社会の統合原理・方法論に(かなり意識的に)対抗しながら、民族・性別・社会経済階層等の壁を乗り越えようとしていたのではないかと思えてきます。
洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、
 ユダヤ人もギリシア人もなく、
 奴隷も自由な身分の者もなく、
 男も女もありません。
あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
   (ガラテヤ2:27-8、新共同訳)
そこには、もはや、
 ギリシア人とユダヤ人、
 割礼を受けた者と受けていない者、
 未開人、スキタイ人、
 奴隷、自由な身分の者の区別はありません。
キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。
   (コロサイ3:11、新共同訳)
小アジア「エペソにあった教会」(コロサイ教会と地理的に近い)について言えば、
標語聖句のある2章11-22節がピンポイントに取り上げている「民族間の壁」はユダヤ人と異邦人です。

 そしてこの構図、イスラエル対諸民族の関係、は「福音」が初めから視野に入れていた問題です。
聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。   (ガラテヤ3:8、新共同訳)
それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。 (ガラテヤ3:14、新共同訳)
しかし、問題は二十一世紀のキリストの教会がこのような「福音」をどのようにグローバル化している多民族社会で実現して行くのか。その辺りのことも視野に入れて学んで行きたいと思っています。

今年もよろしくお願いします。

2017年5月6日土曜日

(3)救いについての「教理」

昨年9月、第6回日本伝道会議での「N.T.ライトの義認論」の事後報告もまだ終わってないのですが・・・

この3月『Salvation By Allegiance Alone(救いはアリージャンスによってのみ)』、という「宗教改革三大原理」の一つである「信仰義認」の「信仰(ピスティス)」解釈を巡って書かれた挑戦的な本が出版されました。

Salvation By Allegiance Alone、とは、「救いとは、信仰により、恵みによってのみ(Salvation By Grace through Faith Alone)」という公式的言い回しをもじって付けられた本のタイトルなわけです。


この『Salvation By Allegiance Alone』という本に関しては、既に幾つかのブログなどで取り上げられ紹介されています。(このことについては、N.T.ライト読書会ブログで扱っていく予定です。)


さて、この投稿では「救いの教理」をどう取り扱うか、という問題について「初歩的」なことを書いてみたいと思います。

初歩的といってもここでいう「初歩的」とは、宗教改革の伝統に立つプロテスタント教会の中では初歩的と考えられている「人が救われるのは、自分がする良い行いの功徳によるのではなく、神の一方的な恵みによってであり、ただそれを信ずることでいただけるのである。」という救いの基本的な理解 に関わることなので「初歩的」としました。

以下に「救いについての『教理』」を考えるためのテストケース を一つ紹介したいと思います。

これは「実際にあった」こととしてある場所で報告されたものです。
投稿者の許可を得て使用させていただく文章であることを予めお断りしておきます。


私は、26年ぐらい前にパプア・ニューギニアの奥地に伝道に行きました。そこでマーティンという男性と出会ったのですが、彼は、重病にかかり、骨と皮だけになり、もう立つことも座ることもできず、ただ、死ぬのを待っていました。

彼は、それまでキリストについて聞いたこともなく、教会に行く人間を軽蔑していました。しかし、私は、彼のそばに行って、イザヤ書40章の最後の部分をピジン語で読み、次のように言いました。
「昔、イスラエルという国に来られたイエス・キリストは、良い業を行い、多くの人を助けたけれど、人に理解されず、殺された。しかし、蘇って今も生きている。あなたがイエスの名を呼べば、イエスは必ずあなたのところに来て、あなたを救う。」
そして彼の体を抱きかかえるようにして祈り、彼にイエスの名を呼ぶように促すと、彼もイエスの名を呼びました。そして、私に言いました。「私は、私自身をイエスに差し出した。私は、イエスが私を救うことを信じる」と。

彼は祈りました。Bigpela hamamas Bigpela hamamas. Tankyu tru Jesus=Great joy! Great Joy! Thank you very much, Jesus.

彼は、立てなかった足で立ち上がり、家の周りにいた野次馬に向かって言いました。Jesus Krais emi stap laip=Jesus Christ is alive

彼は、その3日後に天に帰りましたが、その直前まで家族や訪れてくる人たちにイエスを信じるように語り続けました。その姿は多くの村人に衝撃を与え、イエスを求めて多くの人がやってくるようになったのです。

オーストラリアに帰って、ある保守的福音派教会でこのことを話した時、次のように言われました。「あなたは、イエスの十字架の代罰をその人に伝えなかったし、その人はイエスの代罰を信じたわけではないから、彼は救われていない。地獄に行ったと考えるのが妥当だ。

日本に帰国してからも同じように言われたことがあります。(強調は筆者)
さて、はたしてこのマーティンという方が「救われた」のかどうか・・・どちらなのでしょうか、という初期設定で「救いについての『教理』」を考えてみたいと思います。

この方(投稿者)がマーティンを「伝道」したやり方を、「救われるためのステップ」としてまとめると次のようになると思います。
 (1)イザヤ書40章の・・・読み
 (2)イエス・キリスト(がどういう方かを福音書のアウトライン要約でまとめ)
 (3)「救われる」ためにイエスの名を呼ぶことを示し
 (4)マーティンを信仰の応答に祈りで導いた

これに対し「(マーティンは)救われていない(だから地獄へ行った)」と判断した人の根拠は
 (1)イエスの十字架の死が(マーティンの罪の)代償であることを示さなかった
 (2)マーティンの信仰はこの「代償死(の教理)」に基づいたものではなかった
ということになります。

ここで一つ背景を明かします。

2016年10月に「第5回N.T.ライト・セミナー」を開催したのですが、テーマである《福音理解をめぐって》で以下のような質問をパネラーにしました。
 余り説明していることが出来ない限られた状況、危機的状況にある人に、ズバッと福音を伝えなければならない。どうしますか。
マーティンのケースはちょうどそんな具体例ではないかと思います。

信仰の《対象》と《応答》をどこに絞って福音を語るか、提示するか・・・という問題を討論するために敢えて「極限状況での福音伝達・提示」を問うてみたのです。

マーティンの場合、個人伝道した方(投稿者)は
 (1)福音の提示は・・・かなり省略し(アウトライン程度)
 (2)福音への応答 を・・・イエスの名を呼ぶに絞りました。

これと比較すると批判した方は
 (1)福音の提示は・・・「イエスの十字架の死」に重きを置き、
 (2)福音への応答 を・・・「イエスの十字架死が代償であった」と信ずることに絞りました。

※簡潔なレポートなので「細かいニュアンスの問題」は省略して論じています。

一体「人を救う」のは何によるのか、というのがこのレポートが問いかけるものです。

二つの問題をそれぞれ独立させて論じることが出来ると思います。
 (1)提示される福音の核心は何か?
 (2)提示された福音に対して応答する「信仰の対象」は何か?

これを以下のように比較点を強調してまとめてみます。
 (1)福音の核心は、
  (A)イエスの十字架の死なのか、
  (B)(イスラエルのメシアとして宣教し、十字架刑に処せられたが三日目によみがえらされた)イエスその人なのか。

 (2)信仰の対象は、
  (A)「イエスの十字架の死が罪人を救う代償であった」という教理なのか、
  (B)(十字架にかかって死なれたが今や復活して天におられる)主イエス・キリストなのか。

筆者がこの問いを解くのに大事だと思っているのは・・・
 (1)「福音」とは何か、という問いが基本的なものであり、
 (2)その「福音」に応答するにあたっての、
  (A)福音の「提示」の仕方や、
  (B)提示された福音に応答する時の「信仰」のあり方は、
  「『福音』とは何か」という「福音の核心」の理解に従属する
 というものです。

今回は「問題提起」だけにとどめます。

しばらくは、N.T.ライト読書会ブログでの『Salvation By Allegiance Alone(救いはアリージャンスによってのみ)』を書評したブログ記事を紹介することで、「問題の所在」や「神学的整理の仕方」を探ってみたいと思います。

2016年7月23日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2016年7月24日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 ルカの福音書 11:1-4
説 教 題 「御国が来ますように」
説 教 者 小嶋崇 牧師

いのり(6)


 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。 (ルカ11:2、新共同訳)
 

 「御国が来ますように」と祈るとき、幾らかでも「御国」についての具体的なイメージが浮かぶでしょうか・・・。
 20 世紀以降の西洋キリスト教では、近代化の問題に対応する中で「社会正義と平和」に取り組むリベラル派、それに反発して「個人的救霊(伝道)」を強調する保守(福音)派に分裂してきました。その分裂は「福音」の理解、「福音書」の読み方にもそのまま反映されてきたようです。
 その結果福音書の「神の国」は「この世」での社会正義・平和実現に、「十字架」は「あの世/天国」へと個人を救済する、と二分したメッセージのまま、日本に、そして現在へと、引き継がれてきたようです。

 

2016年7月7日木曜日

(5)「イエスの妻」断片、偽造ほぼ判明

一度だけ「イエスの妻」パピルス断片について記事をアップした。

遠からず収束するのではないかと云う観測を立てておいた。

当然「偽造」という線で。

しかしことはなかなか収束しなかった。

パピルス断片や使用インクが「年代もの」ということが専門的検査の結果得られたからだ。

しかし当初から、コプト語の文法や字体については専門家たちは「偽造」の心証を強くしていた。


このように(パピルス・インクの)物理的な信憑性と、(文法・字体の)内容的疑いという反発する二つの面から「決定的なこと」を出せずに時間が過ぎていった。

しかし後から紹介する、The Atlantic誌のアリエル・サバー記者が、このパピルス断片の「来歴・入手経路(provenance)」の面から徹底な調査を行った結果、とんでもないストーリーが浮上することになった。

The Unbelievable Tale of Jesus Wife

残念ながら英語をよく読める人でも、この長文の、入り組んだ「ディテクティプ・ストーリー(推理小説のようなストーリー展開)」をじっくり読むのは大変だと思う。

しかし見返りは大きいと思う。

何しろ登場人物を取り巻く「道具立て」が殆どハリウッド映画並だ。

少しだけ紹介しても、

 (1)ウォルター・フリッツ(断片をカレン・キング教授に持ち込んだ人物で、状況から見てこの人物が今回のドラマを仕組んだ張本人と推定される。)は、旧東ドイツ出身で、コプト語研究でキャリアを得ようとしたらしい。

 (2)しかし上手く行かず、一時シュタージ(旧東ドイツ秘密警察)本部跡に立てられた歴史博物館に勤め(そこに収納されていた物品が幾つも盗難に遭い、その責任を取って辞職、みたいな)

 (3)米国に拠点を置いて、(ポルノを売り物にしたウェブサイト・サービスを運営していた)妻と、「ダヴィンチ・コード」を下敷きにしたような・・・

 (4)キング教授がヴァチカンで初めて断片のことを「イエスの妻」断片と命名して発表するより3週間も前に、その名前でドメイン(www.gospelofjesuswife.com)を獲得し・・・

 以上はほんの少しだけしか紹介できていないが、そして記事が出てから3週間以上も経ち、幾らか記憶も鈍ったので多少詳細な部分では正確ではないかもしれないが、とにかく最後の「あっというエンディング」まで驚きの連続と目くるめくような展開であきれるほどのストーリーだ。


で、筆者が情報収集している範囲(新約聖書学者でネットで盛んに情報提供していたような方々)では、この記事を受けてほぼ大勢は定まったとの見解で満ちている。

幾つか代表的なものを紹介しておく。

 (1)マーク・グッドエイカー、イエスの妻福音書・最終章
  関連するメディア記事(ボストン・グローブ、等)や偽造問題を追跡してきた研究者たちのブログ記事のリンクがまとめられている。

 (2)アリン・スチューさん(コプト語/パピルスの専門研究家みたいだ)のフェイスブック・ページ
  断片がメディアに登場した初期から「偽造」をほぼ確信していたらしいが、「2016年6月17日」のエントリーに、仲間たちの「おめでとう」のようなコメントが並んでいる。

(※フェイスブックの性格上、リンクを貼るのを控えました。ブログの方には関連記事の投稿がないところを見ると、専門家としての発言は本人的には時期尚早ということかもしれません。)

[2016/07/17追記]
 (3) 「ローグ・クラシシズム」ブログの2016年6月24日の記事
 (ウォルター・フリッツにまんまと嵌められてしまった)カレン・キング教授(ハーヴァード大神学部)に多少の落ち度はあったとは言え、学者としては十分情報公開や慎重な審査のもとに発表を進めたとして弁護している。

 この記事のご苦労さんなところは、アトランティック誌記事を時系列にまとめて「流れ」を見やすくしていること。何しろいろいろな思惑で動いているわけだからそれを時系列で追ってみないとポイントがはっきりしないことが多々ある。

 (4)「ジーザス・ブログ」(英語圏神学ブログ、16 で紹介)のアンソニー・ルダンが総括的な記事を書いている。
Now that there is no longer any reasonable reason to argue for the fragment's authenticity, let us devote a bit more time for some self-reflection, shall we? I promise to make this post extra lengthy for your navel-gazing pleasure.
(最早件のパピルス断片の真正性を支持する理由が全くなくなったところで、反省すべきことを探し出して、一体全体何でこんなことになってしまったのか“自分のへそをじっくり見つめるように”振り返ってみようではないか。)
アンソニーはユナイテッド神学校(オハイオ州にある合同メソジスト認可校)の新約学教授で、史的イエス/福音書研究領域で「聖書記者の記憶」に光を当てて福音書記述を研究する比較的新しい研究手法をリードしている一人です。(あのリチャード・ボウカムの目撃者証言の手法とも多分に重なります。)
 
 彼が最後に書いているポイント―― 今やSNSは研究者間の意見交換等、研究発表に不可欠なものになってきた ―― は今回の事件がまさに証明していることなのだと思う。

 ということは研究者たちがブログ等に発表するプロセスに筆者のような素人も含めたパブリックが(多分に野次馬としてだが)参加できる時代になってきた、ということだろう。

 いや、それにしても今回の「イエスの妻(福音書)」断片事件は面白いものであった。



 

2015年8月6日木曜日

今日のツイート 2015/8/6

えー、という感じのツイート。


この方のプロフィールは以下のようになっている。
山本芳久(やまもと よしひさ)
東京大学大学院総合文化研究科准教授
1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科(哲学専門分野)博士課程修了。中世最大の思想家トマス・アクィナスを軸に、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の比較神学的・比較哲学的考察を進める。
『トマス・アクィナスにおける人格の存在論』、
「イスラーム哲学―ラテン・キリスト教世界との交錯」
(『西洋哲学史Ⅱ』所収、講談社)など。
信仰者としてのスタンスはどうなのか分からないが、これを読んで実はこの方の「信仰者としてのスタンス」について「はてな?」、と思ったのだ。

「キリストの死と復活」を、「死んで甦る神」というモチーフとして捉えた場合、それは世界の神話の中に類似のものが見つかり、その結果キリスト教の特殊性は減ずるが、普遍性は増加するゆえ、「キリスト教の真理性を裏付ける」ことになる。

と言い換えてみたのだが、何か分かったような分からないような主張だ。

まっ、比較宗教の領域では、このような議論はそもそもが初歩的なものであり、単に類似性を指摘することは、比較する意義があることを示すに過ぎない。

とすれば、「キリスト教の真理性を裏付ける」までにはまだ幾多の多様な議論を必要とするであろうから、一ツイートでここまで書くのはいかに何でも飛躍といわざるを得ない。

とまあ、そんな風に思ったわけでした。


2015年7月6日月曜日

ツイッター開始5周年

ツイッターを始めた翌日、教会ブログを始めたのでした。

ブログの方は年次報告していますが、ツイッターしていません。(普通そんなことしないですが。)

しかし5周年を迎えてやっておいた方がいいかなと思い・・・。


というのはブログはアーカイブが初めから想定されていて、そのようにプラットフォームが設計されているのですが、ツイッターはその点全然無関心みたいです。

ツイート数がある程度たまると、昔のツイートを見つけるのは大変です。

スクロールダウンだとやたら面倒。

適当に検索しても面倒。

要はアーカイブのコンセプトが丸っきりない。

せっかくいいことツイートしたな、と思ってもしばらくしてからそれを回収しようと思ってもなかなか出来ません。


そこでオススメなのが「お気に入り」を使うことです。

あー、なるほど、ツイッターの「お気に入り」はキュレーションなんだ、とあるときひらめきました。

もちろん人様のツイートを普段「お気に入り」にするのですが、ときどき自分のツイートも「お気に入り」に入れます。

後で何かのときに使うこともあるか・・・を想定して入れたりするのですが。


では現在880たまった「お気に入り」の中からいくつか選んで展示してみましょう。
















ではここまでにいたします。

2015年7月4日土曜日

今日のツイート 2015/7/4

今日は某国では一大ホリデーで、花火が打ち上げられているはず。

いまは懐かし かの国での 最初のジュライ・フォース。

でも『今日のツイート』はそれとは関係ないのです。あしからず。

今日といってもこのツイートの日付は5月13日。だいぶ前ですね。


まずはその理由から。

ことの始まりはオラショでした。

明日の礼拝説教の準備で「おらしょ」のことを思い出したのです。

そして皆川達夫さんが「おらしょ」のルーツを探したエピソードを思い出しました。

オラショとグレゴリオ聖歌とわたくし

キリスト教禁制下の信者が口伝で(かろうじて)保った「おらしょ」ですが、もはや誰もその意味を知らない・・・ということが明日の聖餐礼拝説教に関わっているのです。



以下は週報からの抜粋・・・当教会の週報には説教要旨が載ります。)

 先週もたれた・・・で・・・「聖餐式」のことを学びました。頻度もやり方もまちまち・・・意外と省みられていなかったのが式文でした。ある教会で式文使用をやめた理由は「同じことを繰り返し聞くことに飽きてしまうから」だそうです。(似たような理由で主の祈りや使徒信条が省略されることがあることを別の機会に聞きました。)

聖餐式を一つの「儀式」とみなすことが出来ると思います。そしてそのやり方が教会によってまちまちになる、とは一体どういうことでしょう。

週報では以下のように続きを書いています。

 主の死を記念、想起して行われる聖餐式は「みえることば」としての実践自体に意義がありますが、式の意義を「解釈することば」にもやはり大事な役割があると思います。「主イエスは、渡される夜」は過越しの食事であったことが福音書で語られています。神の民の贖いが更新する意義を晩餐でのイエスの言葉は示唆していました。「聖餐」式は聖書全体に照らしてその意義が理解される必要があります。式文はその縮小版です。短いですが勝手な解釈を予防するために必要ではないかと思います。
私見ではプロテスタント諸教会の多くは「歴史的教会の伝統」を余り重視していません。

そのことからくる一つの大きな問題が「福音」についての理解が変遷してきたことを自己認識として持っていない、ということです。  

その辺の問題をスコット・マクナイは『福音の再発見』で検証しようとしました。


長崎の隠れキリシタンほどではないですが、マクナイトが『救い派』と呼ぶプロテスタント諸教会はイノベーション意識は高いが、伝統意識が薄弱のように見受けられます。

ですから、ぼんやりしていると、カルト化や異端化にさらされやすく、悪く言えば新興宗教団体の域を出ないことがままあるように思います。

長崎のオラショと違い、幸いなことにプロテスタント諸教会の人たちが、「自分たちはいったい何をしているのか(たとえば聖餐式)」を確かめようとすれば、自己理解を助ける聖書があります。

そしてその聖書は誰でもが手に入れられます。


しかしその場合でも「自分たちはいったい何をしているのか」という問題意識がなければ、探求は始まらないでしょう。

オラショの実践者たちは口伝を保持するだけで精一杯であったでしょう。

現代のキリスト者がはたして「福音」の伝承と言うことを強く意識する機会があるでしょうか。

わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、 (Ⅰコリント11:23、新共同訳)

兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。・・・
最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 (Ⅰコリント15:1,3、新共同訳)

さて、殆どその意義も意味も知らないで「一つのパンから裂き」「一つの杯から飲む」ことをえんえんと続けていられるでしょうか・・・。

2015年6月12日金曜日

(4)『教会史遡行』から落穂拾い、2

前回、落穂拾い、1、では「日本ホーリネス運動史」について幾つか拾いました。


今回は、その前史として選んだ「19世紀(中・後)リバイバリズム」を取り上げます。


目玉として選んだ人物は、Dwight L. Moody(1837-1899)、ドワイト・ムーディー(ウィキ)。


ムーディーに関して「余録」として残すとすれば、彼の「回心体験」の背景となる『日曜学校』についでしょうか。


ムーディーは17歳で回心したのですが、その下地を作ったのは『日曜学校』だったと思います。

彼は故郷を離れボストンで叔父さんのところで働かせてもらう条件となったのが、教会と教会学校に通うことだったんです。

そして彼を回心に導いたのは、日曜学校の教師であったエドワード・キンボールでした。

ムーディーが働いていた靴屋に出向き、店の前でしばらく躊躇の末入店し、カウンター越しに一言二言会話を交わした後、「決心("Will you not give your heart to Jesus?")」を迫ったんです。

ムーディーはこれに応答し「回心」しました。

とそう言う経緯です。


日曜学校は、英国に起源(1780年)を持ち、米国でも19世紀初頭から、各教派が勢力を伸ばす中で取り入れられていきました。(アメリカ日曜学校協会が設立されたのが1825年)
しかし、その始まりが「私設」であったように、「教会のプログラム」として組み入れられるまでは暫く時間がかかったようです。

当初の日曜学校は宗教的な方面では「カテキズム」が教えられたそうですが、しかし(ここからは殆ど詳細を言うのは難しいですが)19世紀に入ってリバイバリズム運動が強まっていく中で、日曜学校のカリキュラム自体も「聖書を教え、明確な宗教体験を植えつける」ものとして整備されていったようです。

と言うことで、ムーディーが日曜学校で学ぶようになった時には、教会学校を通して「回心体験」を得る流れは出来上がっていたことが推測されます。(そのあたりの経緯はこの記事が簡潔にまとめています。)


次に興味深いことは、ムーディーの「回心体験記」には出てきませんが、聖書を用いて「回心体験」に導くマニュアルのようなものが、この時にはもう出来上がっていたのではないか、ということです。

多くの人がご存知の『四つの法則』は20世紀版といえるか知れませんが、これから紹介する教会の伝統ではそれは『救いの計画』として、『救いまでの5段階』として開発され、代々受け継がれていたのだそうです。


下から順に「救いまでの5段階」が積み上げられています。



そして各段階には証明聖句というか、対応する聖書のことばが決まっていて、これが会堂の壁に貼り付けられているのだそうです。

少し、その例となる紹介記事を引用します。
It’s just a Church of Christ thing, right? The “Plan of Salvation,” also called the “Five Steps of Salvation,” is unique to us, I think. And those of us who were raised in and by the Churches of Christ know them well: Hear, Believe, Repent, Confess, Baptism. In that order. As a kid in the ’70s, this was drilled into me by my Sunday school teachers in Bible class, by the preachers from the pulpits, by the youth ministers at the devotionals and rallies, and by the Open Bible Study my dad walked me through when I reached the “age of accountability.” The five steps were plastered on bulletin boards in the church hallways, illustrated by charts and diagrams on mimeographed handouts, and splashed across banners promoting the next Gospel meeting. These were the five steps, always accompanied by supporting verses of Scripture, that necessarily had to be followed — again, in order! — for one to be saved.(Five Steps To Salvation、強調は筆者)
「キリストの教会」と言う教派ですね。日本ではそれほど多くないようです。

実は強調したところは意味があって、「この5ステップの順序に従って」信ずるならば回心が得られる(何と言うのか、これも信仰ですかね)という『原理』とともに普及したようなのです。

この記事を書いた方は、この「救いの計画」のような「原理に従って人間が応答すれば、体験が得られる(はずだ)、と言う理詰めなアプローチ」はアレクサンダー・キャンベル(1788-1866)らの「聖書復帰運動」に遡る、と見ています。

Historians point back to our movement’s focus on rational thought and enlightenment thinking that characterized the mainstream culture of America at the turn of the 19th century when Stone and Campbell and others were attempting to “restore” God’s Church. It was all about scientific reasoning and empirical evidence and deductive problem-solving. Society at this time was convinced that there were undeniable patterns, unalterable designs in nature and in the world that, if learned and applied, held the keys to everlasting peace and joy.
「救いの計画は」、スコット・マクナイト『福音の再発見』でお馴染みなのですが、改めてその影響の深さと、その理性主義的背景を思いました。

ところで、たまたま、「キリストの教会」の方が『福音の再発見』を読んで自派の『救いの計画』を振り返っているブログ記事が見つかりましたので紹介しておきます。
One of the reasons I wanted to review Scot's book is that I'd like, as might many of you, to use the label soterian from time to time to describe how many Christian think.

Again, the crux of Scot's argument is that the Plan of Salvation isn't the gospel. No doubt they are related. And Scot discusses their relationship in the book. But they aren't the same. The "Good News" isn't the Steps of Salvation. In my tradition these Steps were as follows: 1) Hear, 2) Believe, 3) Repent, 4) Confess, and 5) Be Baptized (for the remission of your sins). Your tradition might have a different list of Steps. Still, at Scot points out, these Steps aren't the gospel.


この辺のことは「教会史」と「世俗の歴史」と重なり合うことですので、ちゃんと調べてみないとならないですが、何かしら調べてみるべき分野やトピックを提示する端緒にはなったかな、と思います。


※もう一つついでですが、「キリストの教会」関係の教会史はなかなか部外者には難しい。やはりその派の人が整理してくれているものを読むのでないと分かりにくい面があります。

その点このめじろ台キリストの教会がまとめてくれた文章は助けになります。 

2015年1月6日火曜日

(5)マルコ7章16節はなぜ「抜けている」のか、①

いやー、あらためて指摘される見てみると本当だね。
今まで殆ど気にも留めなかった。

先ず「マルコ福音書7章16節が抜けている」ことにどうして改めて気づいたのかを説明しよう。


先日マイケル・バードが以下のツイートをした。
で、リンクを辿ってみると(当たり前だが)バード/ウィリッツのユーアンゲリオン・ブログの記事であったが、ただ単に「ダニエル・ボヤーリンのモスクワでの講演動画」が置いてあるだけだった。

で、15分足らずの動画を見た。(面白かったが、腑に落ちない部分がかなり残った。)


と、長い話を短くすると、その後この動画を何度か繰り返し見たのだが、(ボヤーリンの「マルコ福音書7章16節が抜けているのは陰謀だ」説は置いておいて)、彼の解説はある程度説得的だが、イマイチ飲み込めないのである。(全体の流れを理解できないでいる、と言った方が正確だが。)


ここでボヤーリンの動画は一先ずおいて問題箇所を見てみよう。

(1)新共同訳聖書
7:15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
7:16 (†底本に節が欠落 異本訳) 聞く耳のある者は聞きなさい。
7:17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。

(2)新改訳
新改訳では15節の脚注に「後代の写本に16節として、『聞く耳のある者は聞きなさい』を加える」とある。

新共同訳で「底本」、「異本」辺りのことについて追加すれば、
(3)United Bible Societies編のギリシャ語新約聖書
では、16節の欠落については「B」判定となっていて、(この判定を解説する)メッツガー編のA Textual Commentary on the New Testament、では
This verse, though present in the majority of witnesses, is absent from important Alexandrian witnesses... It appears to be a scribal gloss (derived perhaps from 4.9 or 4.23), introduced as an appropriate sequel to ver. 14.
と解説している。

つまり大多数の写本では「16節は欠落していない」が、「重要なアレクサンドリア写本で欠落している」ため、アレクサンドリア写本の信頼性を取った、と言うことである。

また欠落の説明として「写本筆者士による注記ではないか」とある。
写本筆者士が4章9節や23節のように、(本文では15節で無造作に終わって17節へと繋がっていくのを)、15節の後「聞く耳のある者は聞きなさい。」と(16節を)挿入して体裁を整えようとしたのではないか、との推察である。


※次回はボヤーリンの解説を取り上げてみよう。

2014年12月17日水曜日

(3)主に神学ブログ⑧

ちょうど取り上げるのにぴったりのサイトが最近立ち上がった。

鏡を通して

は『聖書、神学、その他の随想』をカバーする、日本語のブログとしては割合はっきりとした専門ブログと言えるだろう。

英語圏では「聖書ブログ」「神学ブログ」などと分類され、その中でもさらに専門領域が細分化したブログが色々あるが、日本ではまだそこまでの専門化は到底望めないので、このような専門ブログが満を持して立ち上がったことは、オメデタイことではないかと思う。

ブログ主は、
山崎ランサム 和彦(Kazuhiko Yamazaki-Ransom)
  • 1970年大阪生まれ。東京大学教養学部卒、同理学系大学院修士課程修了。米国Bethel Seminary (M.A.T.S.)、Trinity Evangelical Divinity School (Ph.D.) 卒業。専門は新約聖書学。現在、リバイバル聖書神学校(愛知県新城市)校長。日本福音主義神学会中部部会理事長。
と博士課程を修められた専門家である。

「満を持して」と書いたが、このブログを立ち上げて、いきなり14回連載の使徒たちは聖書をどう読んだか(14) を次々アップされた。

このシリーズは連載(1)に説明されているように、日本福音主義神学会全国会議で発表された論文に基づくもので、一定の問題意識のもとに書かれたもので、(その意味では)単なる「聖書解釈入門」ではない。

(もちろんそのように読んでもいいのかもしれないが・・・。)

現代の福音主義キリスト教会には標準的な聖書解釈法があります。それは「歴史的・文法的方法」と呼ばれるものです。・・・この解釈方法を今一度見直してみようというのが、私の発表の論旨でした。誤解を恐れずあえて言うなら、このシリーズでは、「歴史的・文法的方法」が唯一の「聖書的」な解釈法なのか?ということを考えてみようと思います。

何はともあれ、充実したコンテントが次々アップされているようなので是非ご覧あれ。

2014年9月25日木曜日

(危)「某キリスト教イベントを短考する」

まだホットな話題で炎上(はまさかないと思うが)を避けるため具体的な名称等は避けて書く。
それで『難易度ランク』も初の「危(険)」 とした。
今回の記事は基本「ユーモア」の部類だと自分では思っている。
それで短い記事を書くつもりなので「短考する」とした。

先日ある催しに行ってきた。

キリスト教の文化祭のような複合的催しで、そのうちの「トーク」イベントに呼ばれた人は暫く前結構顰蹙を買った本を出した人だ。

その方がプロデュースする「アイドル・グループ」が会場で「歌や踊り」をしたそうだ。

(「・・・そうだ」と書く時点で大した事書いてないはずだから、その辺適当に。)

もともとこのイベント、プロデュースする某キリスト教系出版社のアイデアマンが、ジリ貧の日本の教会に花火を仕掛けるような趣があり、何をしても教会内外から風当たりが強い。

もしかしたら思う壺なのかもしれない。


何はともあれ今回一番「ヒハン」を浴びているのは、この「アイドル・グループ」が、教会堂で、十字架を前にして、お祈りみたいな所作をして、etc.と言うところにあるようだ。

※場所が「聖堂」かどうかは多少微妙な点を含むが、基本的には「聖堂」ではなく「ホール」であることに関して十分周知されていず、少し余計な論争になった部分があるのは否めない。

この方本人の弁によれば、「アイドル」を「本気、ガチ」で「宗教=超越体験」として捉え、実験的に取り組んでいるらしい。

これは確かに「論争の種」になるだろうな。

敢えて冒険的に言えば、この方は「新興宗教」に括られる「活動」をやっているのだろう。

大規模な教団になるかどうかを問わずに言えば、この方の「アイドル・グループ」活動は立派に新興宗教に近いものと感じられる。

少なくともこれまでの新興宗教と、この方の「アイドル・グループ」宗教活動と、何が大きく違うかと言えば、『教祖のカリスマ』が前面に出るのではなく、プロデュースする人間の「宗教理解」が推進役を務めている点ではないか。

巨大新興宗教には、もしかしたら、カリスマ教祖の背後に、教祖のカリスマを防御し、教団とのパイプ役となって教団の具体的な動向を操るような黒子の存在がいる場合があるかもしれない。

その場合カリスマ教祖はもっぱら『聖』を演出することに専念し、『俗』には手を出さずに黒子に任す。
そんな役割分担が考えられる。

しかしこの方の「アイドル・グループ」宗教活動の場合、プロデュース役が自らの「宗教理解」を公言しながら、非常に自覚的に「宗教=超越」を実験的に演出し、(恐らく)フィードバックを見ながらやっている。
そこがかなり違うように見える。

このような「宗教」実験が、かなりポストモダン的で、伝統的な『聖』を愚弄されたと感ずる者達の感性を逆なでするのは、無理もない、と愚考している。(筆者も多分についていけてないが。)

2014年6月25日水曜日

(4)雑想 2014/06/25

やはり同じテーマになってしまった。

言わずと知れた「『パウロ研究』の新しい視点」について。

あるブログ記事を読んでいて(賢い読者はすぐにお分かりと思うが)、このテーマを取り扱う環境が果たして日本で整っているのか、と言う懸念が一方であることを知らされた。

筆者のように『パウロ研究』と一応「学術領域での議論」であることを断ったとしても、警戒心を抱く方はおられるのだろう。それは無理もないことだ。

特に今頃、かつて70年代以降90年代にかけて一学術領域で盛んになされた議論(それだけでも約20年前となる)を日本に紹介するのは如何なものか--特にその議論が“福音派”を大いに分裂させた論争的なものであるとするならば--と言う見方も分からないでもない。

筆者のスタンスは「論争が巻き起こることを期待する」ものではない。

どちらかと言うと「第二神殿ユダヤ教」理解の積極的評価の可能性、としての研鑽そして受容である。


ただ、「パウロ研究の新しい視点」に対抗的な学者の方々が少なからずおられるので、その方面のことも最初から紹介しておいた方が宜しいと思う。


前回真っ先に挙げておいたThePaulPage、に「新視点」批判者・懐疑論者たちの論文を纏めたページがある。


ご覧のようにかなり沢山あって、とてもじゃないが読み切れるものではない。


たまたま読んだものを紹介しておこう。(上記ページにはリンクはされていないようだ。同著者のものはあるが。)

Sinclair Ferguson, Justification in Christ



ご覧の画像の本、Justified In Christ: God's Plan For Us In Justification の「少し長いイントロダクション」として書かれた論文である。


ファーガソンはここ50年間にもたらされた「福音」の“誤った再解釈”を嘆いている。

そして特にこの本が論敵にしている「新視点」の影響を危険視している。

もし(この本に寄稿している)批判者たちの「新視点」への懸念や疑念が、ファーガソンがこのイントロ論文でまとめている程度であれば、溝はそれほど深いものではないのだと個人的には思う。

そんな感慨を抱いた部分(論点)を三つ選んでみる。

The authors, it should be stressed, do not believe that salvation is received by a mere affirmation of the doctrine of substitutionary atonement and the imputed righteousness of Christ. But they do believe that unless the gospel is articulated in these terms (or worse, if they are denied) the good news about the Christ who does save and what it means to believe in him is distorted and the gospel is compromised.(強調は筆者。以下同様)
The "New Perspective" began life as a new perspective on Jewish faith and religion around the time of Jesus and Paul. In essence its contention is that the Judaism of this period of the second temple was - contrary to Protestant interpretations of the past - actually a religion of grace. It was most certainly not a religion of "works-righteousness." It did not teach that salvation is earned by self-effort. Rather, it held that salvation, or entry into the covenant community, was entirely a matter of grace. Thereafter obedience to the law was the way of remaining in the community whose principal external "boundary" markers were observing the Sabbath, the rite of circumcision, and the food laws. Consequently the teaching of Jesus and especially of Paul must be read (or re-read) in that light.
For Luther the great personal issue was how a sinful man can be justified before God. The "problem" the gospel solves was essentially that of his guilty condition before a righteous and holy God who abhors sin. Luther held that justification, being accounted righteous before God, takes place when the individual trusts in Jesus Christ who was "made sin for us, who knew no sin, that we might be made the righteousness of God in him" (2 Cor. 5:21). Like Calvin, Luther was awestruck by the wonderful exchange, in which our sins were accounted ("imputed") to Christ on the cross, and his righteousness was accounted ("imputed") to us through faith. For the Reformers, then, this "wonderful exchange" meant that a double imputation lies at the heart of the gospel. Thus justification was seen as "the standing or falling article of the church" (Luther) and "the hinge on which all religion turns" (Calvin).
と言うわけでファーガソンは、「新視点」が、「信仰義認」を再解釈することによって、「福音におけるキリストの贖罪のわざ」を軽んずる結果になっていないか、と言う点を重要視しているのではないかと思う。


やはりなかなか厄介な釈義的問題を孕んでいる、と言う印象。(双方が議論し合うだけでなく、双方の釈義がなぜ噛み合わないのかを説明する「解釈学的」視点も持ち込む必要があるのではなかろうか・・・。)

「新視点」を支持するにしても、伝統的「古視点(少し揶揄した感じでそう呼ばれている)」を支持するにしても、将棋やチェスではないが、双方一挙に形勢有利に持って行こうとしない方がいいのではないかと思う。


ざっとそんな感想を抱いている。

2014年5月21日水曜日

(4)洗礼後講座

今年のイースター(4月20日)に洗礼を受けたYさん。


教会に出席し始めたのは2012年。

最初は色々あってまばらな出席だったが、昨年からはほぼ毎週出席なさっていた。

昨年12月になって、通い出した時から心には決めていたそうだが、洗礼を申し出られた。

そして《洗礼準備講座》が始まった。

洗礼準備に入る前に、ほぼ毎週のように《入信講座》を取っておられた。

さて、洗礼を受けて一段落となったが、その後も終日午前中の学びを継続したい、と言うことで始めたのが《洗礼後講座》だった。

「テキストに何かいいのないかな」と思って考えていたが、スコット・マクナイト『福音の再発見』がいいかなと思って、
第8章「ペテロの福音」
から学び始めている。

今日は159-161ページをカバーした。

問い:「第一世代の福音説教」(159ページ)とありますが、では「第二世代(以降)」との違いは何だと思いますか?

マクナイトは基本的には新約聖書学者で、この本で『信仰の規準(レギュラ・フィデ)』を「キリスト教史」で扱う時はやはりアマチュアの感じになる。

それでマクナイトが、現在の「西洋大衆キリスト教福音派」が「救い派」になってしまったと言う時、その分析は新約聖書学的知見から出発して、(アマチュアである)教理史・キリスト教史を振り返っているわけだ。

その辺の事情を説明しながら上記の問いを梃子にして、ルカ福音書序文、使徒の働き1章(マッテヤの選出)の記事を読んでみた。
わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに・・・

そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人に・・・
「第一世代」とは、すなわちイエスの弟子たち=使徒たちであり、彼らは「イエスの宣教と受難と復活の証人」であったわけだ。

「第二世代(以降)」とは、イエスの目撃者証人である「第一世代」から福音を「伝承された」者たちである。
最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。(Ⅰコリント15章3節)
パウロの場合、「主の復活の証人」と言うことでは「第一世代」になるが、イエスの宣教と受難の伝承に関しては「第二世代」となる特殊なケースだ、と言うことも付言した。


そんな風にして学びを進めている。

2014年4月18日金曜日

(5) 2014 Good Friday Reflection

Just this morning I was reading Acts chapter 5.

Since I started reading N. T. Wright, one of the things I acquired from him and his writings is a historical viewpoint when reading the Scriptures.

When you read the Scriptures from the historical viewpoint, certain things suddenly come to light in the way you would've never expected.

I've had many such aha moments but today's entry is not one of those to share here.

I've been catechizing Mr. Y for the past four months to be baptized this Easter and since our church, being an independent congregation, don't have ready catechetical materials as well as for other liturgical/sacramental ones, I kind of used materials and insights from other Christian traditions.

(To my mind, the Roman Catholic Church has many things you can learn from.)

The basic catechetical materials for me and Mr. Y is the Apostle's Creed so we discussed each point and "unpacked" it by exploring the corresponding Scriptural passages along the way.

I emphasized again and again the historical nature of the Christian Gospel and explained how the Gospel proclamation was formulated into the form as the first disciples, the Apostles, came to realize that Jesus, after all, was the Messiah as the Scriptures have witnessed.

Now, as you read Peter's apostolic preaching on the day of Pentecost, you notice his Gospel proclamation was Israel-specific and very much so because Peter was accusing his fellow Jews of their complicity in killing Jesus on the cross by turning him into the hands of their enemy Rome and refusing Pontius Pilate's amnesty offer to take him from the execution.
this man, handed over to you according to the definite plan and foreknowledge of God, you crucified and killed by the hands of those outside the law. (Acts 2:23, NRSV)

This point is repeatedly emphasized in the following three chapters.
The God of Abraham, the God of Isaac, and the God of Jacob, the God of our ancestors has glorified his servant Jesus, whom you handed over and rejected in the presence of Pilate, though he had decided to release himBut you rejected the Holy and Righteous One and asked to have a murderer given to you, (Acts 3:13-14, NRSV)

For in this city, in fact, both Herod and Pontius Pilate, with the Gentiles and the peoples of Israel, gathered together against your holy servant Jesus, whom you anointed, (Acts 4:27, NRSV)

saying, “We gave you strict orders not to teach in this name, yet here you have filled Jerusalem with your teaching and you are determined to bring this man’s blood on us.” ...The God of our ancestors raised up Jesus, whom you had killed by hanging him on a tree (Acts 5:28, 30, NRSV)
In other words, Jesus of Nazareth didn't die for "me" in the first place.

He was killed by Herod, Pontius Pilate, the leaders of the Sanhedrine, and some of the people gathered in Jerusalem at the historic Passover Feast around ca. 30 C.E.

So Peter's appeal to repent was, I think, very specific. It was their sin of killing innocent Jesus by turning him to the hands of their enemy Rome and putting him on the cross.

Now the roles in the "law court" were reversed. It was now the Jews who were being accused of their guilt.

Jesus was vindicated by God's raising him on the third day.

Jesus was in the right; they were in the wrong.

The apostles were, with the help of the Holy Spirit, prosecuting the true guilty party.  

The conscience-stricken Jews who accepted Peter's message confessed to their guilt in this act and got baptized.

So that's the way the original Gospel was proclaimed.
It was not a proclamation of universal salvation by accepting Jesus' vicarious death on the cross.

At least, the first Christian converts were the Jews who "killed" Jesus.

Of course, Jesus' sacrificial death was established from the beginning (I Cor. 15:3).
And its universal meaning was in view throughout the New Testament.

But we should not lose sight of the fact that the Gospel proclamation was, at the beginning, very specific about who was in the right and who in the wrong.

In that light, John's following passage becomes relevant, at least, to me.

And when he comes, he will prove the world wrong about sin and righteousness and judgment:  about sin, because they do not believe in me; about righteousness, because I am going to the Father and you will see me no longer; about judgment, because the ruler of this world has been condemned. (John 16:8-10, NRSV)
(This is a very sensitive issue and I never intend to be anti-Semitic as you can see from the above construals, I hope. And so far as the atonement theology of vicarious death by one man, it's the High Priest Caiaphas, not the apostles, who first insisted. See, John 11:49-51.)
   

2014年4月13日日曜日

もしお呼びいただければ・・・

説教奉仕/講師にお呼びください、と言うことですね、一応。

 私(小嶋崇)が牧師として仕えている、巣鴨聖泉キリスト教会は年2-3回礼拝を休みます(汗)。
 驚かれるかも知れませんが、日曜以外の集会(元旦礼拝、イブ礼拝、など)との兼ね合いで無理のないよう配慮した結果です。

 さて牧師である私はこれらの日曜を他教会での礼拝参加に用いるようにしました。(例えば昨年末と今年頭、教会巡り
 礼拝式のかなり異なる教会の礼拝に参加することも良い学習だと思っています。(学習は二次的なもので、礼拝に行ったわけですが。)

 今年はただ礼拝に参加するのではなく、説教の奉仕に呼んでもらえたら行きたいな、などと考えています。

 ①2014年8月10日(日)
 ②2014年12月28日(日)


の2回が当方の礼拝休みの日曜です。

 これをお読みの方で、これらの2回の日曜に礼拝説教、あるいは「聖書の学び」講師、に私を招いてくださる教会があれば、どうぞお問合せください。(2回とも同一教会、と言う意味ではありません。

《説教奉仕》
 礼拝説教は基本謝礼は必要ありません。(交通費などの経費は支給してくださると助かります。)
 
《「聖書の学び」講師》 
 以下の三つの本の主題やトピックからお話できます。
 ①ポール・マーシャル「わが故郷天にあらず
 ②スコット・マクナイト「福音の再発見
 ③リチャード・ボウカム「イエス入門
・時間としては1時間枠、私が話す時間は35-40分、残りが質疑応答です。(90分枠に延長もできます。)
 ・講師謝礼として「3000円/時間」を目安としていただければ幸いです。
 ・上記の本、①②③、の「販売コーナー」を用意して頂けると感謝です。
  当然ながらいずれもお勧めの本です。
  本の趣旨を理解して頂くことも「講師として呼ぶ」かどうかの有力な判断材料となることと思います。 

《限定事項》
 ・私が行ける教会(集会)は、JR(山手線)巣鴨駅を起点に、公共交通機関を用いて1時間程度で行ける範囲として頂ければありがたいです。
 ・2主日とも「繁忙期」なため、時間的にゆとりを持って行ける範囲となりますことをご了承願います。
 ・言うまでもなく、「日帰りできる」教会と言うことになります。

《問合せ》
 ・なるべくメールでお願いします。
  小嶋崇、sugamo_seisen(*)yahoo.co.jp
     (*)の部分をアットマークに変えてください。 
 ・①②のいずれも当日から数えて一ヶ月前までに「依頼・双方の要望確認・受諾」が終了するようお願いします。

以上色々条件をつけて申し訳ありません。
よろしくお願いします。

2014年3月7日金曜日

「福音の再発見」その後

サイドバーのラベルでは「キング・ジーザス・ゴスペル」で整理していますが、スコット・マクナイトの「福音の再発見(邦題)」の企画段階からの紹介は
「福音の再発見」応援サイト でしていました。

2013年5月発売後以降は、読者の反応を紹介するサイトとして
福音の再発見サイト
として継続しています。

発売後まだ1年経たないわけですが、昨年10月は以降は更新が滞っていました。

最近また少しずつ更新し始めましたので、ここでもそれ以降の記事のリンクを紹介しておきます。

『福音』とは

紹介・書評サイト

発売後の反応⑪

ちょっとひねった「福音の再発見」紹介記事

ある方から耳にしたことですが、ある教会団体の牧師たちの研修会で「福音の再発見」がテキストとして用いられたそうです。

一過性ではなく、絶えず「『福音』とは何か?」と言う問いかけは21世紀のキリスト教の将来を左右する大事なものだと思います。

今後も読者が増えることを願っています。

2014年1月25日土曜日

(4)信仰と科学

昨日は朝から軽い頭痛がしていた。
頭痛薬を服用したが、夜になっても余り変わりばえしないので、早めに就寝することにした。

目が覚めたのは3時半過ぎ。
今度は空腹の時のような軽い腹痛。

また寝ようと思っても無理そう。
しかし起き上がるのには早過ぎる。

どうしようってんでスマホにすがりついた。
ツイッターやフェイスブックは面倒くさい。

ラジコは好きな音楽がない。
辿りついたのがYOUTUBE。

ちらほら探して時間潰しになりそうなのはこれか、と選んだのがこれだ。


ジョン・レノックスの動画(講演)は何度か聞いたことがある。

オックスフォードの数学の教授だが、キリスト教信仰を弁証する際には、「宇宙の実在を人格的創造神の存在」に訴えることは当然ながらするが、むしろ素朴に敬虔にイエス・キリストの十字架と復活の意義をアッピールする。

その点C・S・ルイスの「キリスト教の精髄」の議論のように、「道徳世界」の前提と「罪の現実」を軸にする。

片やリチャード・ドーキンスは、と言うと、これが真面目に聞いたことはまだなかったのではないかと思う。

数年前、アリスター・マクグラスと討論したり、N.T.ライトが彼をdismissするような発言を聞いたりしていたので、「聞くに値しない」と思っていた。

しかしこの討論を聞いてみて、やはりドーキンスなりのスタンスがあることが分かったような気がする。
「無神論」と区別されるが、思っていたほど攻撃的でも狂信的でもない印象である。

一通り聞いて感じたことはレノックスとドーキンスはやはり「Worlds Apart」なのだろう。どちらかが相手を説得するだけの切り札は持っていない。

もちろん世の中に無神論者はいろいろいるだろうが、ドーキンスのようなcommittedでインテリジェントな神論的説明不要論者はそれほどいないのではないか。

信仰もしばしばそうであるように、無神論もまた多くの人にとって、It Just feels like it、な選択に過ぎないケースが多いのではないか。

ドーキンスのように、生物の起源、宇宙の起源、生命の起源に関して、神論的説明は不要であり、むしろ科学を阻害する有害なものであることを論じるのに熱心な方は珍しいのかもしれない。

欧米では年齢が低くなるに従って「無神論」の立場を取る、あるいは表明する者の割合が増加傾向にあると聞くが、既成宗教の否定の裏でスピリチュアリティーへの関心が持続しているのとどこかで関連しているのではないだろうか。

ドーキンスはキリスト教の「救済信仰」的な面(人間の罪をキリストの死が身代わりで赦す)をpettyと度々指摘していた。

この点に関してはボンヘッファーも指摘していたし、近年そのような個人的救済宗教の牙城である「福音派」内部からも自己批判がかなり出てきている。

ドーキンスの指摘は誇張もあるが、キリスト教の新たな捉え方、あるいは提示の仕方の必要性を示唆しているかもしれない。

レノックスは最後の方で、ハーバーマスが「公共世界」を維持する上でキリスト教に基づく倫理の必要性を指摘していることを、キリスト教信仰の有効性のポイントとして挙げたが、これはドーキンス相手には上手く噛み合いそうもない議論であろう。

筆者の見たところ、ドーキンスの主張・議論はかなり狭い。
「生物の起源」、「宇宙の起源」、「生命の起源」はマクロな知的問題であるが、日常世界を生きる人間を四六時中拘束する問題ではない。

人間関係に悩み、病気に苦しみ、人生の不条理に悩み、愛し憎み合い、対立し殺し合うことに満ちている「現実」世界を生きる殆んどの人間にとっては(ドーキンスもその一人であるはずだが)、科学が問いそして提供する言説は、宗教が提供するそれよりも今のところかなりかけ離れていると言うべきだろう。

生物は自然淘汰して進化してきたことがどれだけ生物学的に証拠に基づく合理的説明であったとしても、自由・平等・慈悲・親切といった倫理的価値観を駆逐するような説得力を持ちえるかどうか疑わしい。

人は「知的パズル」を解明する為に生まれてきたのではなく(それも重要なものであるが)、よく生きるために生まれてきたのだ。

よく生きるとは、この世界で人が与えられたあらゆるもの(困難や悪も含めて)に対して回答を求めて行く生き方であり、その点で(自然)科学はすべての答えを持つものではないただろう。
人類はそのような生きる知恵を宗教的伝統に求めざるを得ないのではなかろうか。

まっ、以上は寝て起きたばかりのボケ発言とご容赦ください。