2014年1月25日土曜日

(4)信仰と科学

昨日は朝から軽い頭痛がしていた。
頭痛薬を服用したが、夜になっても余り変わりばえしないので、早めに就寝することにした。

目が覚めたのは3時半過ぎ。
今度は空腹の時のような軽い腹痛。

また寝ようと思っても無理そう。
しかし起き上がるのには早過ぎる。

どうしようってんでスマホにすがりついた。
ツイッターやフェイスブックは面倒くさい。

ラジコは好きな音楽がない。
辿りついたのがYOUTUBE。

ちらほら探して時間潰しになりそうなのはこれか、と選んだのがこれだ。


ジョン・レノックスの動画(講演)は何度か聞いたことがある。

オックスフォードの数学の教授だが、キリスト教信仰を弁証する際には、「宇宙の実在を人格的創造神の存在」に訴えることは当然ながらするが、むしろ素朴に敬虔にイエス・キリストの十字架と復活の意義をアッピールする。

その点C・S・ルイスの「キリスト教の精髄」の議論のように、「道徳世界」の前提と「罪の現実」を軸にする。

片やリチャード・ドーキンスは、と言うと、これが真面目に聞いたことはまだなかったのではないかと思う。

数年前、アリスター・マクグラスと討論したり、N.T.ライトが彼をdismissするような発言を聞いたりしていたので、「聞くに値しない」と思っていた。

しかしこの討論を聞いてみて、やはりドーキンスなりのスタンスがあることが分かったような気がする。
「無神論」と区別されるが、思っていたほど攻撃的でも狂信的でもない印象である。

一通り聞いて感じたことはレノックスとドーキンスはやはり「Worlds Apart」なのだろう。どちらかが相手を説得するだけの切り札は持っていない。

もちろん世の中に無神論者はいろいろいるだろうが、ドーキンスのようなcommittedでインテリジェントな神論的説明不要論者はそれほどいないのではないか。

信仰もしばしばそうであるように、無神論もまた多くの人にとって、It Just feels like it、な選択に過ぎないケースが多いのではないか。

ドーキンスのように、生物の起源、宇宙の起源、生命の起源に関して、神論的説明は不要であり、むしろ科学を阻害する有害なものであることを論じるのに熱心な方は珍しいのかもしれない。

欧米では年齢が低くなるに従って「無神論」の立場を取る、あるいは表明する者の割合が増加傾向にあると聞くが、既成宗教の否定の裏でスピリチュアリティーへの関心が持続しているのとどこかで関連しているのではないだろうか。

ドーキンスはキリスト教の「救済信仰」的な面(人間の罪をキリストの死が身代わりで赦す)をpettyと度々指摘していた。

この点に関してはボンヘッファーも指摘していたし、近年そのような個人的救済宗教の牙城である「福音派」内部からも自己批判がかなり出てきている。

ドーキンスの指摘は誇張もあるが、キリスト教の新たな捉え方、あるいは提示の仕方の必要性を示唆しているかもしれない。

レノックスは最後の方で、ハーバーマスが「公共世界」を維持する上でキリスト教に基づく倫理の必要性を指摘していることを、キリスト教信仰の有効性のポイントとして挙げたが、これはドーキンス相手には上手く噛み合いそうもない議論であろう。

筆者の見たところ、ドーキンスの主張・議論はかなり狭い。
「生物の起源」、「宇宙の起源」、「生命の起源」はマクロな知的問題であるが、日常世界を生きる人間を四六時中拘束する問題ではない。

人間関係に悩み、病気に苦しみ、人生の不条理に悩み、愛し憎み合い、対立し殺し合うことに満ちている「現実」世界を生きる殆んどの人間にとっては(ドーキンスもその一人であるはずだが)、科学が問いそして提供する言説は、宗教が提供するそれよりも今のところかなりかけ離れていると言うべきだろう。

生物は自然淘汰して進化してきたことがどれだけ生物学的に証拠に基づく合理的説明であったとしても、自由・平等・慈悲・親切といった倫理的価値観を駆逐するような説得力を持ちえるかどうか疑わしい。

人は「知的パズル」を解明する為に生まれてきたのではなく(それも重要なものであるが)、よく生きるために生まれてきたのだ。

よく生きるとは、この世界で人が与えられたあらゆるもの(困難や悪も含めて)に対して回答を求めて行く生き方であり、その点で(自然)科学はすべての答えを持つものではないただろう。
人類はそのような生きる知恵を宗教的伝統に求めざるを得ないのではなかろうか。

まっ、以上は寝て起きたばかりのボケ発言とご容赦ください。

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