「小澤征爾さんと、音楽について話しをする」
と言うタイトルどおりの本だ。
そもそものきっかけは、もう一冊図書館から借りてきた、丸谷才一の「エホバの顔を避けて」だ。
ネットで調べている時、たまたま丸谷がこの本について書評のような文章を書いているのが目に留まった。
それで面白そう、と思って借りたのだ。
読んでみたら、丸谷は小澤の桐朋学園時代の英語の先生だった、とあるではないか。
しかし小沢は英語を全然勉強しなかったと述懐している。
それでレナード・バーンスタインの下で副指揮者をやっていた時、英語が分からなかったことで大変損をしたことを度々嘆いている。
一応メモとしてその中から以下を引用する。
(色々興味深いことはあるのだが、筆者がメモに残しておこうかなと思ったものだ。)
村上「特別ということで言えば、マーラーを聴いていて僕はいつも思うんですが、彼の音楽にとっては、深層意識がかなり大きい意味を持っているみたいです。フロイト的というか。バッハとかベートーヴェンとかブラームスとかそういう音楽の場合、やはりドイツ観念哲学的というか、地上に出ている意識の整合的な流れが、大事な意味を持っている。でもそれに比べるとマーラーの音楽にあっては、アンダーグラウンド的というか、地下の暗闇に潜っている意識の流れみたいなものが、積極的に取上げられているように感じられます。そこには矛盾するもの、対抗するもの、混じり合わないもの、峻別できないもの、そういういくつもノモチーフが、まるで夢を見ている時のように、殆んど見境なく絡み合ってる。それが意図的なのか非意図的なのか、そこまではよく分かりませんが、少なくともきわめて率直で正直ではある」この他には「楽譜を読み込む」と言うことで、小澤が「カラヤン先生」から学んだこととして、小さなフレーズではなく、もっと大きなフレーズの塊を読み込むこと、その中から音楽のディレクションを探ることの大切さを学んだ、と言うようなことが書いてあった。
小澤「マーラーが生きたのは、たしかフロイトとほとんど同じ時代ですよね」
村上「そうです。どちらもユダヤ人ですし、生まれ故郷もすぐ近くだったと思います。フロイトの方が少し年上ですね。マーラーは奥さんのアルマが浮気したときに、フロイトの診察を受けています。フロイトはマーラーを深く尊敬していたそうです。そういう無意識の水脈の率直な追求みたいなものが、ところどころ辟易させられる部分があるにせよ、マーラーの音楽を現在、優れてユニヴァーサルなものにしている原因のひとつじゃないかと、僕は考えています」
小澤「そういう意味では、バッハからハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスといったドイツ音楽の骨太の潮流に、マーラーは反抗したということになると思います。十二音音楽が出てくる前に、ということですが」(249-251ページ)
これは以前氷の塊をとかすで書いたように「説教を作る過程と似ている」と重なる。
その中で引用したように、「のらくら者の日記」さんが、
聖書の<スコアリーディング>なる訓練が非常に有効であることはもうお分かりかと思います。 与えられた聖書テキストのエッセンスをいかに効率よくテーマ で括るかを鍛える訓練です。 音楽の世界のスコアリーディングを聖書の読み方に適用する訳です。 ここで重要なのは、細部の正確さに拘泥しないということです。 むしろ<抽出>という作業に徹することです。と書いている部分の<抽出>は多分カラヤンの<音楽のディレクション>を細部の正確さより重視する、と言うのと相通じているのではなかろうか。
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