2010年9月30日木曜日

ブログを毎日更新する

今日で九月も終わり。

七月初めから始まったこのブログもようやく三ヶ月になる。

毎日更新するつもりで始めたわけではないが、気が付いたらほぼ毎日更新することになってしまった。

特に九月はこれで「毎日更新」が完結する。

自分なりには「良くやっている。」
しかしブロッガーの中には一日に幾つもポストする人もいるのだから驚きだ。

この三ヶ月のブログポスト、最初の構想から少しずれてきた点も無きにしも非ず。
教会の伝道ツールの一つとなるのではないかと思って始めてみたが、日々更新するにはトピックが続かない面がある。
と言うか「一本調子」。

それで少し違うトピックを入れてみたのだが、たまたま他のブログに書き込みした関係でまとめた「有神論的世界観と『被造世界』の科学的解明」ポストが、殊の外ヒット数が多く、他にもヒット数の多いポストは、どちらかと言うと“知的な話題”のものが多かった。
なぜだろう。

今後も続けて行くつもりであるが、「教会と世間のインターフェース」的面と、少し神学的な面と、その他もろもろと、バランスを取りながらやっていこうかなと思っている次第であります。

左側のカウンターをご覧のように、まもなく3500を超えようとしています。
予想外のペースで増えています。
誰も読まないようなブログを続けるのも大変でしょうが、ある程度リピートしてくださる読者がいるのを想定して書くのも知恵がいりそうです。

コメントを残してくれる方も何人かありました。
またこのブログを紹介したり、ポストの中に入れ込んだりしてくれたブロッガーさんたちも何人かおりました。
この場を借りてお礼申し上げます。
そのようなエクストラ・プッシュは根気良くブログを続けるのに力になります。

それでは明日から十月。
なるべく今のペースに近い更新を続けたいと思います。

2010年9月29日水曜日

「・・・とは一切関係ありません。」

教会の看板、週報、ホームページに次のような記載(具体的表現は個々の教会で多少異なると思いますが)をすることについての是非を考えてみました。(カトリックやギリシャ正教ではこのようなことか゜あるのかどうか不勉強のため不明です。)
「当教会は正統的プロテスタントに属する教会であり、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは一切関係ありません。」
巣鴨聖泉キリスト教会では、余り深く考えてではありませんが、以上のような文言をどこにも記載したことがないと思います。

筆者が主任牧師となってから、あっちの教会、こっちの教会で、こう言う文言を目にするにつけ、しばし「いかがなものか」と思ったりしますが、それ以上は深く考えないで来てしまいました。

筆者の教会で、現在このような文言をどこにも記載しないのは、以上のようにちゃんとした考えからではなく、筆者の直感で「しっくりこない」、あるいは「ニュアンスがどこかずれている」感じがしているからではないかと分析しております。

さて、とは言えこの“問題”には以前から気にかかっていましたので、昨日のポストではありませんが、「世間」と「教会」のインターフェイス上、どんな効果があるのかネット検索したところ、興味深いブログ・ポストをヒットしました。

(ハンドル名、宗教ミーハーさん)
日本のプロテスタント教会には、おおむね、以下のような文言が教会の看板に書いてあります。これってわざわざ言わないといけないことなんでしょうか?前半の文言はいいと思うんですけど、後半は言わない方がいいと思います。こういうことが書いてあると、エホバとかで悩んでいる人が、改宗のために教会にいきづらいと思います。異端のキリスト教の人たちが来ると対応が面倒くさいって告白しているようなものだと思います。習慣でどこの教会もこういうふうに書いていますけど、考え直した方がいいのではないかと私は思います。
私たちの教会は正統的なプロテスタントです。エホバの証人、モルモン教、統一教会とは一切関係ありません。」
先に少し紹介しておきますと、この「宗教ミーハー」さん、まだ二十代前半の女性で、芸能人・政治家・スポーツ選手等と宗教との関わりの情報を追っかけているようです。そして彼女のブログを読んで行くと、結構ミーハーな面だけではないことも書き綴っています。(最後にウェッブサイトのアドレス等を紹介します。)

このポストにコメントがついていましたので、それも紹介しておきます。
(Aさん) 自意識過剰なんでしょうね・・・。
(ブログ主) 統一教会と関係ない!ってわざわざかいてあったら、元統一教会の人や、統一教会に疑問を持っている人は、なかなか教会の門をくぐりにくいでしょうね。「異端の人」が来るのは迷惑だと牧師が思っているのがばればれの看板だと思っちゃいます。
(Aさん) 反対牧師がいる所はそうじゃないんでしょうけどね・・・。
(ブログ主) いろんな牧師に聞きましたけど、統一教会、エホバ、モルモンのことを異端だとしょっちゅう悪口言ってる牧師でも、それぞれがどういう教義なのかをさっぱりわかっていない人が多いですね。
反対牧師は、それぞれの宗教に関わった人たちを救援しようと必死な人もいますけど、ほとんどの牧師は、わざわざそういう信者に関わらずに、キリスト教に関心がある人を相手にしたいようです。
そんなものなんでしょうね、実態は。
筆者にズキリと来た部分は「・・・それぞれをどういう教義なのかをさっぱり分かっていない・・・」です。まさにその通り、「異端視している組織」をどう言う根拠でそうしているのか、自分自身では真面目に学んだことがない、と言う指摘です。もう既に大方がレッテルを押しているので、わざわざ自分が綿密に調べるまでもない。と言うか頭から相手にしていないのです。
もし仮にこれらの組織から脱退してきた人が、筆者に相談に来られたら、殆ど無知である筆者は狼狽することでしょう。
よく「真贋を見分けるには本物だけ見せておけ」みたいなことが言われますが、キリスト教に関しても「わざわざ異端のレッテルを貼られている組織の教義まで、真面目に勉強できるか」と言うのが本音です。

さて、問題は筆者のような無知・無関心に留まらないのは言うまでもありません。

西洋中世から近代にかけての「キリスト教文明圏(Christendom)」における正統と異端の問題の文脈と、現代とでは大きくかけ離れています。
信教自由の原則から言えば、どの宗教・信仰を取るかは個人の裁量であり、たとえ伝統的な見方で「異端」であっても、現在の市民社会で活動する「教会」は自分から見た「異端組織」を“裁く”ことはできません。
但し、「異端」であろうが「正統」であろうが、市民社会の「法」に触れるような活動をすれば、その「法」に従って裁かれます。(その教会内で有効な固有の法規や規律を持つのはまた別のことです。)

以上のような背景から、上記のような「文言」について筆者が思い至った点は二つあります。

①上記のような「文言」が、どの文脈で有意義なものになるかを考えることが大切。
看板やウェッブサイトのトップページにこのような文言を記載するのは、「パブリック・ステートメント」としての意義を持つことになるだろうと思います。と言うことは、「自分たちは何であり、何でないか」と言うアイデンティティーに言及する内容から言って、宗教ミーハーさんが指摘しているように、前半と後半ではその用法が異なるように思います。
どのようにプロテスタントの正統に位置するのかを言い切ることの方が優先的であり、特定の「異端」とは関係ない、と言及することは少々蛇足な観を否めません。
もしそのことを言いたいのであれば、別の括りでなされるのが良いだろうと思われます。

②現代人(筆者がよく使う表現で言えばポストモダン)の感性では、正統異端の別は相対化され、それらも含め、オカルト・占い・ニューエイジ・スピリチュアルなどと並列されます。
これ自体はよく考えなければならない問題ですが、現に「宗教一般を並列化」して眺める現象は「パブリックな場」で「キリスト教」と言う一宗教を伝道する者にとって想定内でいた方が良い。
これは「キリスト教も一宗教」と言う解釈のことではなく、一般現代人が「キリスト教」を見る時にはそうなるだろう、と言う意味です。

上掲ブログ・ポスト

(補記、ポストモダンの「スピリチュアル」や「宗教」への関心は、「ミーハー」に見えて侮れないと思います。上記ブログのヒット数をご覧ください。またブログ・ポストをしばらく読んで行くとはっとする記事もあります。少なくとも「現代への伝道」を考えていく上で、このような宗教の取り上げ方があることをよく把握していくことは必要なことだろうと思われます。)

2010年9月28日火曜日

教会ミシュラン・ガイド?

いや、まだそんなものはないでしょう。


しかし、教会もそのうち「新来会者」に、“消費者目線”でサービス業に位置付けられるような時代が来るかもしれません。
そして、そんな時代が到来したならば、教会のミシュラン・ガイドのようなものが出版されるかもしれません。

現にそんなガイドに近い本が刊行されています。

「万年教会新来者」が既に日本中の教会、教派を越えて、会堂や、牧師や、週報や、集会進行や、伝統・歴史について細かく調べ、比較検討して発表されている方がいるのです。

読者の中には「ははーんあの方かな」と思いつくひともいるかもしれません。

筆者の念頭にあるのは「八木谷涼子さん」。
面識はありませんが、しばらく前ご著書を読んで、「なるほど、新来会者はこういう目線で教会のことを見ているのだな」と変に感心させられました。
そしてすぐには実行できなくても改善すべきは改善しなければ、と思わされました。

後でウェッブサイトを紹介しますが、

例えば、
 「教会天動説」(八木谷の造語)というのは、「いつも来ている人」「事情を知っている人」、つまり身内にしか頭が回らなくなることを指します。 どこの社会にもこうした現象は多かれ少なかれ存在します。
 「どなたでもおいでください」「お気軽にどうぞ」などといって人を招いている教会も、例外ではありません。
 「教会天動説」に従って回転している教会は、新来者への配慮が欠けがちです。たとえば、

 * 礼拝中、いきなり式文や信仰告白を唱えたり、歌ったりする(メンバーは全員そらんじているため、わざわざどの本の何ページに載っています、などとアナウンスしない)
 * 献金の前に、「献金は礼拝参加費ではない、強制でもない」という意味の説明がない(新来者がいるとわかっているときに、これをしないのは本当に不親切です)
 * 聖体拝領や聖餐式で、受洗していない者はパンを受けられないことに対する説明が不十分(非信者の疎外感をなるべく軽くするような、わかりやすい説明をしてください)
これには思わず笑っちゃいました。
「イエスさまを信じて告白したい人は、どうぞ前に出てきてください!」
「はいっ、最低5人の人と握手してください!」
「両隣の人に、“あなたは愛されています”と3回いってください!」
「隣の人と、手をつないで賛美しましょう、はいっ、今度は手をあげて!」
誰もが、こういうノリについていけるわけではありません。

もちろん、教会ごとに個性があるのは当然です。
どこの教会に行っても同じ単純な礼拝ばかりやっていたら、それこそおもしろくありません。

わたしのいいたいのは、その教会のスタイルは活かしつつ、同時に、新来者のために工夫できることはないか? ということです。
ほんの少しの配慮があれば、新来者が楽についていけるようになるのに、ただ
「昔からこうやってきたから」
「教会とは、こういうものだから」
「つづけて通って、(あなたが)慣れればいいこと」
そんな理由で、見過ごしていることはないでしょうか?
このブログを読んでいる牧師の方、教会に通っている方、「新来会者目線」でアドヴァイスされているこのサイトから色々学ぶことが出来ると思いますよ。

このサイトは「万年新来者の声」だけでなく、各宗派・教派の違いなどを一覧にした比較表など、便利な情報も満載です。

・くりホン キリスト教教派の森 ウェッブ版 (トップページ)
・「万年教会新来者」の声 

2010年9月27日月曜日

読書の秋

酷暑も過ぎ、ようやく、と言うか急に秋になった。

秋と言えば、食欲、行楽、そして読書。
やっと本に手を伸ばすのが億劫でなくなった。

今日は読書の話題二つ。


Owen Barfield (1898-1997)

今読んでいるのは「ワールズ・アパート(Worlds Apart: A Dialogue of the 1960's)」。
邦訳はないようです。

しばらく前のブログ・ポストで「科学と信仰」のようなテーマのものを書きましたが、まさにこの本はそんな関連の本。

フィクションです。
ナレーターは、バージョン(言語学に関心のある法律家、と言うことは著者バーフィールド自身の投影)。
他に登場する対話者は、ハンター(神学者)、レンジャー(ロケット研究所員)、ブロディー(物理学教授)、サンダーソン(隠退した校長)、アップウォーター(生物学研究者)、ダン(言語哲学者)、そしてバローズ(精神分析医)。

これらの人たちが「三日間」に渡り、宇宙の進化、生物の進化、精神、意識と無意識、感覚・知覚行為と外的世界の関係、などなどを討論する、というもの。
興味深いのは、それぞれが専門的知識を持ちながら、専門外の領域、しかし関心事についてどのように対話を組み立てていくか、と言う思考(試行)錯誤の過程。
討論参加者はそれぞれ知的関心は高いが、かといって議論はそう簡単に進展しない。少し組み上がったかと思うと、別な問題が持ち上がり、その分析を始めると、また別な課題が出てくると言う、スパイラルな思考循環の繰り返し。でもそれがソクラテス的な前提の突き崩し、知識・思考の根拠を掘り下げる知的運動の活写になっている。

現在「三日目」の討論に入ったところ。果たしてどこか結論めいたところに到達できるや否や・・・。

同著者の、Saving the Appearances: A Study in Idolatry も読みたくなって本棚のあっちこっちを探し回っているが未だに捜索中。どこかに埋もれてしまっている。残念。

このバーフィールドと言う人は、ウィキペディアで調べてみたらC・S・ルイスの友人であり、J・R・R・トルキーンやT・S・エリオットにも影響を与えた人だそうな・・・。自身はルドルフ・スタイナーの影響を受けているのだとか。そう言えばスタイナーの名前出てきたっけ。

なぜ筆者がこんなオタクの様な著者の本を二冊も持っているのかって?

答えは筆者が真面目な留学生ではなく、遊学生だったから。

勉強そっちのけでキャンパス街の古本屋をはしごするのを娯楽にしていました。
特に、バークリーは立派なビルの古本屋から、間口の狭いかび臭いにおいのするみすぼらしい古本屋まで、10軒くらいあったろうか。それぞれ品揃えに特徴があった。

何が魅力かって、先ずその値段の安さ。
例えば出版時の値段が一ドルだとすると、現行価格に直して古本価格を設定するのではなく、出版時の価格を半額とか四分の一の価格にしてしまうこと。

英語の本は学術書のペーパーバックが多いので、適当に著名な本が25セントくらいで結構買えてしまうからたまらない。もうお宝探しの世界でした。


おかげで遊学を終えて帰国する時、半端じゃない量の蔵書を段ポール箱に詰めて船便に出すことになりました。全部本棚に並べられないので、ダンボール箱に眠っているのものも結構あります。いつかは日の目を見せてあげたいのですが・・・。

とまあ、そんなわけで自分の専門とか殆ど関係なく、面白そうな本で安い本は買いまくった結果、バーフィールドの本を手に入れるようになったわけ。彼の著書は確か文芸批評学コーナーあたりに並んでいたものと記憶している。

それでは皆さんも良い読書の秋をお過ごしください。

2010年9月26日日曜日

説教と学問

プロテスタント教会の牧師の主たる任務の一つは説教、と言うことには異論はないと思います。
日本に幾つくらいプロテスタントの教会があるか正確な数は知りませんが、少なくとも毎日曜日何千もの説教がなされているはずです。

説教をタイプに分けると大体次のようになると思います。
①講解説教
②主題的説教(神の愛、赦し、隣人愛、etc.)
③一応聖書箇所には言及するが、最近の問題とか、信者さんのこととか、何でも話題を選んでしゃべり通す。最後に祈りで何とか締めくくる。

もちろん「説教タイプ」について網羅しようと言う意図はありません。
ただ牧師が説教するに際しどのように読書や学問が関わってくるか、と言う問題と絡めるために大雑把にまとめてみたのです。

③のタイプは、現在その教会やその信徒が抱えている問題に対して、新聞やテレビや、雑多な読書や、それこそ今だったらネットサーフィン等、外から入ってくる情報を取り込んで関連させるような“お話し”が中心になるでしょう。聖書の引用はそれらの問題や話題に関連すると思われる箇所を“適当に選ぶ”ことになるでしょう。
筆者の勘ですが、いくつも集会を抱えていたり、忙しくて聖書、そして聖書に関連することを十分学ぶような時間のない牧師は、大体このような説教を多くするのではないかと思います。

②のタイプの説教をするためには、それなりに神学の勉強や、キリスト教書を読む必要があります。ただ主題の選択に関しては、その教会や通っている信者の必要や関心に左右されることも多く、聖書が教える主題を系統的・通覧的に説教する牧師はそれ程多くないと思われます。

①のタイプの説教をする牧師は、聖書辞典や注解書をネタ本にしていることが多いと思います。原典釈義を行った上で説教している牧師も稀にいるかもしれません。

①のタイプは、最もオーソドックスと言えます。書斎に聖書辞典や神学辞典、注解書をいくつも揃え、聖書各本の研究書も時々必要に応じて購入し、とにかく聖書からなるべく綿密に説教できるように準備しようと言う構えを持った牧師です。(実際に購入した本を読むか、積読かは様々な条件に左右されます。)

筆者は副牧師時代から、殆ど①のタイプできました。
と言っても、ある時までは神学校時代の学びの蓄えを食い潰す形でやっていました。
新しい本の学びに入る度に、注解書をいくつも買って、比較しながら、・・・なんて言うようなものではありませんでした。

ある程度行き詰まりを感じて始めている時でした。と言うのも「聖書全体に明るい」と言うレベルには到底達していない訳ですから、確かに聖書から説教はしていても、自分が暗い部分(筆者の場合は特に『終末論』)にはなかなか踏み込めませんでした。

そんな状況にいた筆者に、一つの大きな転機を与えた本があります。
それは自分で探して購入した本ではなく、たまたま友人から贈られた本でした。

G. B. Caird, NEW TESTAMENT THEOLOGY (1994)

この本はそれまでどう解釈していいのか困難であった(だから無意識に避けていた)終末論的箇所に「目からうろこが落ちる」ような光を何回も与えてくれました。
聖書は読み方によってはこんなに理解可能なのだ、と言う面白さ、解放感を与えてくれた本でした。

それだけでなく、博識な聖書学者であるケアードは聖書学の専門雑誌の編集もしていた関係で、最近の研究書にも通じていて、例えばマタイ福音書研究ならこれとこれとこれ、と言う風に脚注に丁寧に紹介していました。それを頼りに十冊余購入しました。
この本がきっかけで俄然「聖書学」の学びに火が点いたわけです。

それ以来十余年が経ちますが、二つのことを気付かされています。何とかしなければならない重要な問題だと思っています。
①仮に最近30年くらいの期間を考えても、聖書学(特に新約学)の研究は広範に深く進んでいます。
②聖書から説教するはずの牧師たちが、これら最近の研究成果を説教に反映させられていません。

この大きなギャップをどう埋めたら良いのか、と言うのが筆者のこの十年余の課題となっています。

一つ目のギャップは、牧師自身が先ず最新の聖書学研究を学ばなければなりません。
学びを通して、今までの聖書解釈を大きく変更させられる可能性があります。その葛藤や軋轢と対峙しなければなりません。
二つ目のギャップは、最新の聖書学の成果を説教に反映させる場合、聴衆をどうリードするかと言う問題です。やたらに「彼はこう言っている」「最新の学説によるとこの箇所はこういう解釈になる」などとぶつけても、聴衆はなかなか咀嚼できず、信徒が説教に期待していることとも齟齬を来たし、混乱が生じます。


試行錯誤の中で、筆者が会得し始めているポイントは、「聖書の包括的メッセージ」の視点から説教する、と言うことです。
この「聖書の包括的メッセージ」の視点自体が、最近の大きな研究成果です。
この「大きな絵」を絶えず意識しながら、講解箇所を説教することを心がけています。
「大きな絵」を意識することが、その時学ぶ「一節」「一パッセージ」の字義的・歴史的・文脈的詳細に埋もれてしまわないために必要である、と肝に銘じています。

2010年9月25日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

9月26日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 3:1-29
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 3:20
説 教 題 「約束を賜る神は唯一者です」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(47)
ガラテヤ人への手紙(35)
・律法の暫定的・限定的役割 3:19-22

※夏時間は終了、普通時間に戻ります。
(礼拝時間は約一時間です。)

2010年9月24日金曜日

N. T. ライトと「パブリック」

「パブリック・スクエアでの神学」
に寄せて

最新の「のらくら者の日記」に久し振りにライト師のことが取り上げられていました。
「のらくら者の日記」ブログは度々N. T. ライト師のことを紹介してくれる希少なサイトです。

筆者はライト師とは直接面識はありませんが、「のらくら者」さんは直に講義を聞いたり、同席したりしたことがあるので、そのお人柄をより肌で感じられていることと思います。

さて「パブリック・スクエアでの神学」のポストで、ライト師が「公共の場」に出て論ずることの重要性を強調しておられたことを、「のらくら者」さんは回想されておられます。

この「パブリック」と言う言葉、ライト師にとって幾つか重要なニュアンスを含むものです。

現在筆者は、10/9の「N.T.ライト読書会」に向け、発表メモを用意しているところです。
(当ブログでも9/9のポストで案内させていただきました。)

あらためてこの「パブリック」の意義を考えさせられています。

以下簡単に二点だけ紹介します。

① パブリック・ヒストリー
パーソナル・ヒストリーという表現がありますが、敬虔主義やリヴァイヴァリズムの影響(パーソナルな信仰表現の強調)、によって「イエスの救い」が所謂「救いの証し」のように“個人史的”に語られることへのチャレンジとして、ライト師はprivateに対するpublic と言うことをたびたび強調されます。

また神学論議(キリスト論)でも、The Story of Jesus を語る時、一世紀ユダヤ社会における、ナザレのイエスのイスラエル宣教、ローマ政権のもとでの十字架刑、復活顕現に対する多数の弟子たちの証言、など、しっかりとした歴史的基盤に則って議論されることが必要だと主張されます。
そうでなければ「自分たちの都合のいい部分だけつまみ食いしたイエス」を語ることになりかねません。
啓蒙主義は歴史批評的ツールをキリスト教に突きつけました。しかし、それは却って「史的イエス」への懐疑論的態度を強めました。
また、啓蒙主義の「信仰を公的領域からプライベートな領域に押しやる傾向」は、学者たちを「パブリック・ヒストリー」に支配されない「イエス像」を作りやすくしたと思われます。
But there is simply no point using the word 'Jesus' at all within theology unless one intends to refer to the Jesus who lived and died as a Jew of the first century. Unless quite strict controls are in place here, a whole range of theological debates wander off into pointlessness. And such controls are, I suggest, in place when we attempt serious 'Christian theology'. ...
The Christian reader of the New Testament is committed to a task which includes within itself 'early Christian history' and 'New Testament Theology', ... And this fuller reading of the New Testament neither 'excludes' nor 'contains' Jesus, nor does it merely presuppose him. Rather, it includes as one vital part of itself the task of telling the story of Jesus, with the assumption that this story took place within public history.
(The New Testament and the People of God, p.139.)
②他の世界観的ストーリーとの対峙
聖書が内包する「世界観的ストーリー」を語ることは、宗教的であれ非宗教的であれ、他の世界観的ストーリー(グノーシス主義、汎神論、啓蒙主義、諸宗教)と対峙せざるを得ません。
そしてそれが公開の場でなされる対話ではなく、対内的な場であっても(教会での信者向けの説教)、「ナザレのイエスのストーリー」を語る際、他の世界観的ストーリーとの対話を意識するべきであり、「イエスのストーリー」が「パブリック・ストーリー」であることを自覚するべきでしょう。
The more open we make the Bible, the more we must expect that dialogue with our friends and neighbours of other faiths will include the clear statement of radically different world views. (The Book And The Story)

At the same time, theology-any theology-needs biblical studies, since the claims of any theology must sooner or later come into contact, perhaps, conflict, with the stories contained in the Bible, and if a worldview of any sort is to be sustained it must be able to meet the challenge posed by its rivals.  (The New Testament and the People of God, p.138.)

2010年9月23日木曜日

ゲスト

雨の中ゲストがやってきた。

今から23年前、当教会に「短期宣教師」みたいなプログラムで送られてきたアメリカ人の女の子(今は二児のお母さん)のお母さん。
その後この女の子と仲良くなったSさんが連れてきてくれた。

このお母さん、娘が奉仕した教会を訪問したかったのだそうだ。
そして今日それが実現した、と言うわけ。

今はアリゾナで娘さんの近くに一人でお住まい。
本人曰く「インディペンデント」な性格。
少し南部訛りがある英語でハキハキ色々お話してくれた。

娘さんが日本に出発する時のナーバスだったこと。
(それもそのはず、海外はおろか州外に出るのも初めてだったそうだ。)
何もかも初めての経験。短い期間だったが日本が印象深く残っているらしい。

アラバマ大学フットボール・チーム(アメリカではフットボールはサッカーではない。)の大ファンでアリゾナに引っ越しても変わらず応援しているのだとか。

娘さん一家と通っているメソジスト教会は、毎週日曜日の出席者数がニ三百名。
水曜日の夜は夕ご飯を一緒に食べた後、聖書の学びをするのだそうだ。
その集まりには60名くらい。

ビリー・グラハムは尊敬できる伝道者だが、JFやORは尊敬できない。
尊敬するかどうかの分かれ目はお金に対する態度。
グラハム家は、豪華な生活には関心がなかった。

お住まいのアリゾナ州第二の都市はヒスパニック人口の割合が高い、メルティング・ポット(人種の坩堝)。
行政支援を受けて運営されている「チャーター・スクール」にお孫さん方は通っている。
パブリック・スクールはヒスパニック人口増加のため教育レベルが低下しているのだとか。

先祖は一方はドイツ、一方はアイルランド。
筆者が最も関心持ったのは、ドイツ系の祖先を遡ると、あの宗教改革者マルチン・ルターになるのだそうだ。
お父さんはビルダー(大工さん)で、形見の道具箱とお父さんが作った小テーブルを今も大事に使っているとか。

幸い当時の写真が残っていてそれを見ながら昔話に花を咲かせることが出来た。

会堂を見学し、ピアノの響きを確認し、最後は活水工房を見学くださった。

明日は鎌倉・箱根見学。来週は京都見学。
どうぞ楽しい旅行をお続けください。

(Sさん、勝手にブログに登場させてすみません。)

2010年9月22日水曜日

法の審き

最高検の主任検事が、郵便不正事件の証拠隠滅容疑で逮捕された。(朝日新聞、アサヒ・コム) 

この事件の主任を務めた大阪地検特捜部検事の前田恒彦容疑者(43)が押収品のフロッピーディスク(FD)のデータを改ざんした、とのこと。
皆さんも報道でびっくりしておられることと思います。

法曹関係者も人間ですから、様々な罪を犯さないわけではありません。
しかし、検察の仕事の過程でこのような犯罪がなされることは、法の運用そのものへの信頼を著しく損なうものです。
例外的な事件と認識したいところですが、「権力の濫用」はたとえ「行政・立法・司法」と三権分立してバランスを取ったとしても、避けきれない問題なのでしょう。

キリスト教では終末の「神の審き」が究極のものです。
その時各人の行いの善悪、正邪が正しく裁かれる、と言う希望を持っています。

民主主義社会では、国民主権が反映するために、市民も裁かれるだけでなく、「裁く立場」になる「裁判員制度」が日本にも導入されました。
カトリック教会は既に「聖職者」は「裁判員」に選ばれても、これを辞退するよう勧められています。(カトリック中央協議会、日本司教団公文書

カトリックの「裁判員制度」に対する態度の根底には、「カトリック教会法」があり、特に「死刑」の可能性がある事件の場合、「良心的拒否」と言う選択を視野に入れてもののようです。

プロテスタントは「国家と教会」の問題に対して、第二次大戦時の経験を活かして、「平和憲法」や「信教自由」は視野に入れていますが、「裁判員制度」に関しての議論はまだこれからと言うのが実情のようです。

「キリストの主権」は教会内のみならず、「すべての権力の上に立つ」、また「すべての権威は神から来る」、と使徒パウロは新約聖書のエペソ書(1:20-22)やロマ書(13章)で展開しています。

キリスト者として、日本国で実際に運用される法に対して、どのような見識を持って臨めば良いのかまだまだ課題は多いですね。
(仮に筆者が裁判員に選ばれたとしたら・・・。やはりその時になって判断するだろうな。)

2010年9月21日火曜日

路傍伝道

先週末は天祖神社の祭礼でした。
元となる神社は大塚駅に近い天祖神社。
その周辺に祭礼期間中、天祖神社の祭礼所(と言うのかな?)が臨時に設営される。
巣鴨一丁目の場合、ちょうど当教会の前にある児童遊園。
(ここでは公営の場所が特定宗教施設に利用される問題を問わない。)
笛と太鼓と鉢の音が否応なしに飛び込んでくる。
正直言うとなかなか“うるさい”。

そんなことをつらつらと思っている時に、ふと
「そう言えば当教会も、昔は路傍伝道で町中練り歩いたのだなー。
あの大きな音を聞いて皆さんはどう思っていたのだろー。」
と、思いついた。

大太鼓を先頭にラッパ隊が続く10人余の楽隊が、時に狭い路地まで入って行くわけです。

そして演奏される、歌われるのは決まって「ただ信ぜよ」
十字架にかかりたる すくいぬしをみよや
こはながおかしたる つみのため
ただ信ぜよー ただ信ぜよー
信ずる者はたれも みなすくわれん
筆者も子供の頃、楽隊の後について家々に入ってチラシ配布をしたものだった。
あんなこといつ頃まで続けたのだろうか。
今となっては楽隊を率いた路傍伝道をする教会は殆どないだろう。

教会の伝道方法と言えば、特別講師を招いて特別伝道会、そのためのポスター貼りとチラシ配り。
当教会も一生懸命やっていた頃は半径1キロ圏内に300枚のポスター、2万枚のチラシを配っていた。大変な労力だった。
ポスターを貼った場所を記録して終了後回収するのも一仕事。
配るそばから捨てられるチラシを拾うのも一仕事。

そんな「伝道の時代」も大分昔の記憶となってしまった。
人心はもっと複雑になった。
「信ずれば救われる」と言うようなお題目では通じなくなった。

ではどうするか。
当教会が試しているのは、地域に浸透すること。
と言っても、やたらに接点を作ることではない。
試行錯誤しながらいるが、無闇にでしゃばらず、しかし“存在感のある”形を模索している。

2010年9月20日月曜日

福音館書店

JR巣鴨駅南口ロータリーを過ぎ、
白山方面(地蔵通りの反対側)を歩いて三つ目の角を曲がると
「大和郷にある教会」、巣鴨聖泉キリスト教会に着きます。

さらにもう一つ先の通りが、豊島区と文京区を分ける通りになります。
文京区側の角にあるのが福音館書店本社ビルです。

福音館と言う名前、キリスト教を連想させますよね。
会社案内の「福音館書店のあゆみ」によれば、

1916年、カナダ人の宣教師によりキリスト教関係の図書を扱う書店として石川県金沢市で創設された「福音館」は、昭和初期に一般書籍も扱う書店に移行し ていったが、第2次世界大戦が始まり、カナダ人宣教師が日本から引き揚げるのを機に、1940年、日本人経営者に譲渡された。戦後、受験用問題集やキリス ト教会向け冊子などの製作、販売を手がけるようになり、書店事業とともに出版活動への取り組みをはじめた。
のだそうです。
この場所に移転してきたのは、1984年だそうです。

現在は『ぐりとぐら』や『ピーター・ラビット』など「子供向けの本」に力を入れている印象ですね。

先日「パン屋アルル」を当ブログで紹介しましたが、(アルルのホームページ)によると、
2010/7 福音館書店よりパン屋のイラスト取材を受けました。ストーリーは少年達のとても楽しいパン屋さんと商店街のお話です。
とのことです。
その本は「ムカシのちょっといい未来 ユウレイ通り商店街1」(田部智子作・岡田千晶画)ですって。

福音館書店に興味のある方は以下のリンクをどうぞ。

福音館書店ウェッブサイト

2010年9月19日日曜日

「科学」と「信仰」の対話

過日(正確には二週間前)、当ブログに「有神論的世界観と『被造世界』の科学的解明」と言うポストを書きました。

今まで書いたポストの中で最高アクセス数を記録したものです。
驚きました。こんなタイトルの記事にこれだけ関心が集まるとは。(と言っても、7月に始めたばかりのまだまだひよっ子のブログです。統計的なことを口にするのはおこがましいにも程があるのですが・・・。)

事の始まりは、「はちことぼぼるの日記」のこのポストにコメントを残したことでした。
このような話題には関心がないわけではなかったのですが、何せ『科学と信仰の対話』と言ったような話題の時、殆ど科学とは「進化論」や「宇宙物理論」など「物質的自然」での事象が対象となっています。
ところが筆者は専門として少しかじったのは「人文科学」の中の「社会学」です。畑違いと言えば畑違い。不用意に頭を突っ込んでしまい、お尻に火が点き、やっと二週間経って鎮火した。そんな印象でいるところです。

そう言う訳で、また同じような議論を展開しようなどとは思いません。
ただ筆者がキリスト者として「社会科学」と言う専門にどう関わりどう悩んだかを書こうと思います。
同じような葛藤を通られた方が他にもいるかもしれませんから、共感を得ていただけるかもしれません。
またこれからそのような分野で研究しようとしておられる方があったら何かの参考にしていただけるかもしれません。

最初に一言しておくと、「社会科学」と聞いて何か変に思われる方がいると困りますので、説明しておきます。
英語で言うサイエンスは上記のタイトルのような場合は大抵「自然科学」が想定されていますが、もともとはサイエンスは『知識』一般を指す語です。
神学も theological science と呼びますし、キリスト教文明の隆盛期、中世の大学では「神学」は諸科学を統合するものでした。
しかし近世自然科学の方が飛躍的に発展し、いわゆる哲学の中にあった(あるいは古典に分類されていた)文学、歴史学、社会学、倫理学(所謂人文科学、ヒューマニティーズ)は、自然科学の方法論に影響を受けるようになり、社会科学などは20世紀に入ってもなお、自然科学的なモデル形成や実証主義的方法論の影響下にありました。(今でも経済理論などは数値モデルを使った予測可能な法則志向が基本になっていると思います。)

筆者の場合はそのような「社会科学の『科学性』を如何にして確立するか」などという専門的悩みを持ったのではありません。
筆者の悩みは、「社会科学」の世俗性(脱・信仰性)にどう対応したら良いのか、と言う悩みだったのです。
神学校の勉強を出発点として、次第に倫理学や社会学へと移行するにつれて、専門的分野はどんどん「世俗的」になったのです。キリスト教はおろか有神論的前提さえありません。

社会学の古典と言われる「マルクス」「デュルケーム」「ヴェーバー」はそれぞれなりに「宗教」の役割には関心を持っていましたが、社会科学者個人としては否定的か、中立的態度を取りました。ヴェーバーは懐疑論者だったろうと思われます。

博士課程に入ってしばらく経ったところで、「この世俗の学問をこのまま深めて行っていいのだろうか。信仰と対立してくるのではないだろうか。あるいは自分の信仰が揺さぶられるのではないだろうか。」と大分逡巡しました。

筆者が取った行動は、一年休学してこの問題について考えてみる、と言う選択でした。
自分が立てた問いに根本的な回答を得たわけではありませんが、休学している間に、このまま世俗的な学問に進んでも信仰が揺らぐことはない、と言う安心感が生まれました。
一定の見切りをつけたのだと思います。(そして研究を再開しました。)

キリスト教国アメリカでも、キリスト教系大学でないセキュラーな大学では、アカデミックな立場とは自分の宗教・信仰を持ち込まない、と言うのが暗黙の了解です。
ですから福音主義的信仰者はキリスト教主義の大学で研究するか、セキュラーな大学で肩身の狭い思いをするか、と言うのが筆者が滞在していた1980年代頃までの雰囲気でした。(福音主義が文化的に復興するにつれて事情は変わってきましたが。)

ポストモダンの状況はこのような「アカデミック」の暗黙の了解に少しずつ亀裂を入れ始めているようです。
しばらく前のポストに紹介した、Charles Taylorはテンプルトン賞を受けた著名な哲学者・社会思想家ですが、近著 A Secular Ageで、自らの宗教的立場(カトリック)を考察の対象の中に位置づけています。これにはアカデミック界からかなり波紋がありました。前例を破った感がありました。

また筆者が少しお世話になったロバート・ベラー教授は自らの信仰(聖公会のプラクティシング信者です)を大っぴらにしています。
After Virtueで哲学界に波紋を投げかけた Alasdair MacIntyre 教授は、カトリック信仰伝統(アリストテレス哲学)の学問的妥当性を主張します。

これらの三人はいずれも哲学・社会学の分野の重鎮です。まだまだ数としては少ないかもしれませんが、自分の信仰的立場を明らかにして研究を発表できるようになったことは、ポストモダン的知の状況が寄与しているかもしれません。

少なくとも人文科学系の場合、自己の立場(世界観)は「事柄を解釈する」要素として、積極的な取り扱いを受けるようになるだろうと思われます。
何故なら「無前提の解釈」「自己の世界観を捨象した対象へのアプローチ」は解釈学的に言って不十分だからです。
絶対的に客観的な解釈・中立な解釈は存在しません。むしろ自分の解釈枠を明確に自覚した上で対象に迫るのが、より説得的であり得るのです。
但し自己の解釈枠は理解しようとする対象に合わせて柔軟に修正する覚悟が必要です。
よりはっきり「見る」ために時に、「眼鏡」を外して、曇りを取ったり、レンズの強度を変えたりする用意が必要です。

2010年9月18日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

9月19日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 3:1-29
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 3:19
説 教 題 「つけ加えられたもの」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(46)
ガラテヤ人への手紙(34)
・律法の暫定的・限定的役割 3:19-22

※説教、礼拝時間とも、(まだ)夏時間で10分短縮しています。
※礼拝後、役員会があります。

2010年9月17日金曜日

Today is Friday.

(牧師) Today is Friday.
(会衆) But Sunday is coming!
(牧師) Today is Friday.
(会衆) But Sunday is coming!
(牧師) Today is Friday.
(会衆) But Sunday is coming!

これっ何?
(いえ、今日は英語のポストではありません。)

ケンタッキー州はアズベリー神学校時代、ゲスト・スピーカーとして来た、トニー・カンポロが紹介してくれたエピソードの一部です。
黒人教会の礼拝で、日々の重荷や困難に直面している人々を励ますメッセージが、こう言う形での表現となって結晶したのですね。

Friday、とはイエスが十字架にかかった苦難の日。
Sunday、とはイエスが死から復活した勝利の日。

今苦難の直中にあっても、勝利の日が、解放の日がやってくる、と言う希望を会衆が一体となって告白する。繰り返すごとに、テンションが上がり、最後はシャウトになるのだろう。

黒人教会と言えば「アーバン・ミッション」の実地授業で、シカゴのスキッド・ロー(貧民街のような場所)へ行った時のことを思い出す。
その時、ダウンタウンの黒人教会の礼拝に出席したが、最初の印象は「礼拝が長い」こと。
ちょうど中間位のところで、様々な報告などが延々30分くらい続いたのには驚いた。
会衆は至ってのんびり構えている。いつものパターンなのであろう、寛いだ感じで時間が過ぎるのをゆっくり待っている風であった。
牧師の説教は同じフレーズが度々繰り返され、その間に挿話やエピソードが入る。
途中で歌を歌うようになってくる時もある。

「人柄」と言う言葉があるが、「教会柄」が違うという感じであった。
カトリックの礼拝とプロテスタントの礼拝は大分印象が違うだろう。
勿論礼拝の構成も違う。
また同じプロテスタントでも、ルーテル派や改革派でもやはり少しは違うだろう。
ペンテコステ系となると、またがらりと雰囲気が変わる。

当教会が使用している賛美歌には「リヴァイヴァル」系のものがかなり入っている。
救われた個人がその体験を歌にした賛美歌で、非常にメロディーが賑やかである。
実際、自派の歴史を遡ると、リヴァイヴアルを経験した時も通ったので、賛美歌の歌い方でも、会衆全員が大声で祈るのも、一つの伝統として結構続いたようである。
筆者の子供時代はまだそんな空気が残っていた。

現在は、大分おとなしくなった。
プログラムに「静思黙祷」の時間を置くようになってしばらく経つが、字の通り、各自声を出さずに静かに祈る時間である。

はたして当教会で牧師が Today is Friday. と言ったら、
会衆は But Sunday is coming! と返ってくるだろうか。
(勿論日本語での話しだが。)

やはり「教会柄」なかなかそうはならないだろう。

2010年9月16日木曜日

マイPCライフ

PCとはパーソナル・コンピューターの略ですね。

今ブログを書いているのはノートブック。四年前に中古で買いました。
最近少し重くなって困っています。
ウィンドーズXPの再インストールとその後のごにょごにょが面倒で放置しています。

他にデスク・トップ二台使用しています。
一台はネットに繋いでありますが、もう一台はスタンド・アローンです。
教会の週報や原稿書きなどはスタンド・アローンの方でやっています。
ちなみにOSはMEです。

と言うわけで今回は「わたしのPCライフ」と言うか、これまでのちょっとした履歴を書いてみましょう。

取っ掛かりは今は殆ど見られなくなったワープロです。
最初に購入したのは1987年でした。
留学中でしたので、それまではタイプライターのご厄介になっていました。
このワープロと言う機械はメモリーが付いているので編集出来る、と言うのが凄かった。
残念ながら感熱紙への印刷なので時間の経過とともに文書は黒ずんで見えなくなる運命。
その後ワープロを富士通オアシスに買い代えて、教会の週報作りなどに活躍しました。

本格的にPCとの付き合いが始まったのは、1996年。友人の会社で使わなくなったNEC98だったと記憶しています。MS-DOSから入れる大変さ。ウインドーズはまだ3.1でした。
この機械は素人には扱いがちょっと大変でした。二ヶ月くらいで諦めました。
お下がりをやめ、自腹で買った最初のPCは初級機。本体だけで20万円超えていました。
翌、1997年インターネットを開始し、(教会の)ホームページを立ち上げました。

この頃は毎年新規に周辺機器を買い足しましたね。
例えば、スキャナー、MIDI(コンピューター音楽生成機)、など。
そう言えば小型ノートパソコンも買いました。

21世紀を越えて関心はPC自作に変わりました。
特に秋葉原で中古部品を買い集め、組み立てるというもの。
マザーボードにCPUを載せ、その他の部品を取り付けて、電源を入れる時のスリルはなかなかでした。案外難しくなかった印象です。
自作するのが趣味なので溜まってしまい、何台か知人に払い下げました。
しかし自作、それも中古部品での自作が面白かったのはせいぜい2005年頃まで。
高性能のデスクトップ新品が安く買えるようになった後は熱が冷めました。

と言うわけで現在に至るわけですが、今となってはPCと言う機械自体には余り興味はなくなってしまいました。欲もなくなりました。何しろビジネス・ソフトを動かす程度なら10年前の機能でも十分過ぎるほどです。
筆者が使っているワードもエクセルも97です。新しくなるほど便利ではない面もありますね。
やたらに使わない新機能が追加されて却ってまごまごしてしまいます。

さて、今後もPCと付き合っていくことに変わりはないわけですが、一つだけ今の機械で気になることはファンの音ですね。静音のPCが欲しいと言えば欲しいですね。

(最後まで読んで頂いた方。オタク的な内容に付き合っていただきありがとうございました。)

2010年9月15日水曜日

牧師と読書

ようやく涼しくなってきた。
酷暑の間、殆ど読書らしきことができなかった。

手元には読みかけの本が何冊か積んである。

今日再開したのは、
Richard Bauckham, JESUS AND THE EYEWITNESSES (2006)。
普段読んでいても考えることがない(無垢に信頼している)福音書資料の「第一次目撃証言」を精査に検証し、論証している本である。
著者は最近来日もしている。N.T.ライトが教鞭を取る、セント・アンドリュース大学で長く教えていた。

Anthony C. Thiselton, NEW HORIZONS IN HERMENEUTICS: THE THEORY AND PRACTICE OF TRANSFORMING BIBLICAL READING (1992) 
は本文だけで600ページを超える。シュライエルマッハーから、リクール、ガダマー、スピーチ・アクト理論、アーペル、ハーバーマス、デコンストラクション、セミオティックス、などなど解釈学に関連する著者や理論を多数取り込んだ、聖書解釈学の本としてはてんこ盛り状態の内容である。
買ってからしばらく食傷気味で手が出なかったが、読み始めて三分の一を超えた位からようやくついて行けるようになった。9章まで読了中。

Oskar Skarsaune, Reidar Hvalvik 編著、
JEWISH BELIEVERS IN JESUS: THE EARLY CENTURIES (2007)

先に挙げたボーカムも寄稿者の一人。聖書解釈の知識に直接繋がるわけではないが、聖書の著作年代に近い資料(使徒教父)を用いた研究論文集。昨今新約聖書の背景として「第ニ神殿期ユダヤ教」資料が駆使されるようになったが、時期的にその後の資料を用いた、特に初期キリスト教のユダヤ的背景について様々な考察、洞察に導いてくれる非常に興味深い研究論文集である。

まあこんな感じで、お気づきのように三冊とも英書である。
筆者が購入して読む本は殆ど英書なのだが、何と言っても値段が安い。
日本語で書かれたキリスト教書籍は値段が高いし、そもそも訳書が多い。

しばらく前の教会役員会で「コミュニケーション」をテーマにしたセミナーの話が出て、適当な本、著者はないかと話し合った。
そこで改めて思わされたのが、筆者が日本語で書かれた本を殆ど読んでいないため、こういう時にはたと困ると言うこと。
その場で話題に上った、 姜尚中の「悩む力」や、コラムを良く書いている精神科医、香山リカのものなど、図書館で立ち読みしたり、借りてきて読んだりして見た。

先日、加藤周一を当ブログで取り上げたが、宗教、信仰に限らず、日本語の著書で「読ませる」人を探せるといいのだが・・・。

2010年9月14日火曜日

虫取り

筆者が仙台で生まれ育った頃、まわりは虫だらけだった。
虫取りに夢中になれる環境だった。

近くに東北大学キャンパスがあり、入り口の右側には学食があった。
ある日、学食前の芝生広場に、赤トンボの大群が押し寄せた。
捕虫網がなくても、殆ど手づかみで沢山取れるほどだった。

話しはずれるが、その頃の大学生はキャンパスで遊ぶガキどもを可愛がってくれたものだ。
学食に連れて行ってくれて蕎麦だったか、うどんだったかご馳走してくれた。
味噌汁が5円だったから、10円か20円くらいだったろう。
懐かしい思い出だ。

広瀬川の川原には様々なバッタがいた。
自宅の庭でもイナゴ、オンブバッタ、カマキリ、コオロギ、様々いたが、川原まで行くと、カワラバッタ、運が良ければ、でかいショウリョウバッタやトノサマバッタを捕まえることが出来た。

トンボはと言えば、市内でも赤トンボを始め、アキアカネ、ムギワラトンボ、ギンヤンマくらいまでは捕れた。ちょっと田舎に行けば、鬼ヤンマ。

現在住んでいる「大和郷の一角」は六義園が近いせいか、虫は多い方だ。
特に蝉。アブラゼミ、ミンミンゼミ、ツクツク法師、ヒグラシ。
しかしバッタの種類は少ない。原っぱが減ったからだろう。
特に減ったのはトンボ。
殆ど見かけなくなった。見かけても数が少ない。

今の子供たちには虫取りに夢中になれる環境ではないかもしれない。

先日ダイニングの網戸に何やら大きな虫の影が・・・。
何かと思って表に回り見てみると、何と茶色い保護色に身を包んだショウリョウバッタ(だと思う)。
都会の真ん中で今頃このバッタと遭遇するなんて。
驚いた。すぐ写真を撮った。
触覚を含めた長さ約10センチ。

こんな驚きが時々あるといいなー。

2010年9月13日月曜日

西岡常一

西岡常一(にしおか つねかず)
は先ごろ(1995年)亡くなった、法隆寺最後の棟梁と言われた宮大工です。

筆者が木工を趣味として始めた頃手にしたのが「木に学べ」です。
ちょうど米国留学を終え、帰国して副牧師になった頃でした。
自分のキャリア設計のようなことを考え始めていた頃でしたので、この本からは大いに学びました。

読了しての印象は、「何の分野であれ、その道を窮めた人の言う事は傾聴に値する。他の分野に通じる含蓄のある言葉だ。」と言うものでした。

大工は単に木の種類を知っているだけでは十分ではない。木の癖を理解するために植物学的な木の知識や、木が植生している土壌学まで視野に入れる。
例えば建物を建てる時に木を買う時は、一本一本買うのではなく、山ごと買う。なぜかと言うと東西南北に植わっている木の癖を建物の東西南北に合わせて使う(かららしい)。
(民家の話ではなく大伽藍建築のような場合の話ですが。)

木の癖を活かす、と言う考えは、同規格で大量生産される商品や、学校教育の規格化に対するアンチテーゼとして聞くことが出来る。
木は一本一本育った環境で皆違う。一律には扱えない。たとえマシーンカットで真っ直ぐに平らに切り出したとしても、次第にその木の素性は反ったり曲がったりして現れるようになる。
ならば建築の段階で、その木の素性を見極め適材適所で用いる方が理に適っている。

  西岡棟梁はこのような木に対する知識を、棟梁に代々伝わる口伝から、そして古建築の解体修理を通して得たと言います。特に飛鳥時代の工人の知恵の素晴らしさを賞賛しています。それは後の時代の工人のものと比較しても決して劣らないものだと感嘆しています。

イエス様は大工をしていました。使徒パウロは天幕職人でした。新約聖書には建築の比喩が度々出てきます。そして教会もしばしば建築物に喩えられています。
牧師としても「木に学べ」は大いに共通点があるなーと思います。

ツイッターで「木に学べ」のボットもありますが、ご一読をおすすめします。

2010年9月12日日曜日

黙する時、語る時

「黙する時、語る時」(伝道者の書3:7b、新共同訳)
牧師と言えば説教と言うことで、「しゃべるのが仕事」と牧師自身も会衆も思っているだろうと思います。
中には「落語」まで参考にして「しゃべり」を鍛えている牧師もいるらしいですね。

自身の体験から言わせてもらうと、この「しゃべり」と言うのが案外説教の邪魔になることがあります。
筆者は説教は30分以内、と自己規制しています。

説教は牧師が勝手にしゃべっていいのではもちろんありません。
パブリック・スピーチとして、会衆と共有する機能ですから、その役目を果たすように、時間規制も含めて有意義に用いなければならないと思います。

ところがたとえ時間を30分以内、と決めたとしても、その時間枠で上手に用意したスピーチを出来るかと言うと、これがなかなかできません。

一番多い失敗は、用意したことを無理やり時間枠に入れようとして「聴衆との間」を忘れてしまうことです。
コミュニケーションが一方的になり、聴衆が置いてけぼりになっているのに気付かず、どんどん先に進んでしまうことです。
結果的に時間内に終わったとしても、これではスピーチと言う点で落第です。

この「一本調子な説教」が対人関係の会話で、しばしば弊害となって現れます。
それは会話をしているはずが、いつの間にか自分がしゃべり放しになる牧師さんが結構いるのです。
「しゃべりが得意」なのが仇になってしまうケースです。

筆者は「説教」以外の時は、心して「今度は自分は聞く番だ」と思うようにしています。(でも気が付いたら上っ調子でしゃべっていることに気付いて、「またやった」と思うことがしばしばですが。)


これが牧師たちの会話の場合はどうなってしまうと、皆さん想像されますか。

筆者が米国留学から帰って間もない頃、牧師となり、牧師たちの集まり(筆者たちのグループではこのような会合を教役者会と呼んでいます。)、に出始めた頃のことです。

このような場での発言はほぼ暗黙の了解と言うか、年長者が発言し、年少者は黙って聞いている、と言うのがパターンのようになっていました。
いわゆる年功序列が会議の場でも巾を利かせていたのです。

こちらは自由な言論の国で鍛えられて帰ってきたばかりですから、当然納得行きません。
敢えて自分の使命と思って、新参者でありながらどしどし発言しました。

最初は無言の抵抗と言うか圧力を感じましたが、段々と教役者の世代交代が進むのと相まって、“年齢”や“立場”に関わらずに発言する教役者会になってきました。

勿論放っておくとどうしても“分相応”の自重の空気が流れやすいのですが、風通しを良くしておく為には、敢えて参加者全員の発言を促すよう努力しています。


「すべての時には時がある」と言う箴言の一部を冒頭に掲げましたが、発言する時か、自分の発言を控え、他者の発言に耳を傾けるべき時か、タイミングと言うものがあります。

有名なヨブ記には、年長者三人がヨブを論破するのに失敗したのを見たエリフが、ついに発言します。
 「私は若く、あなたがたは年寄りだ。だから、わきに控えて、遠慮し、あなたがたに私の意見を述べなかった。」(32:6、新改訳)
まあエリフのようにフラストレーションがたまるまで我慢するのもどうかと思いますが(族長社会とはそのようなもののようですが)、やはり他者の知識の言葉、知恵の言葉を前提して対話する態度は、私たちのような民主主義的社会においても有益なことと思います。


「発言することに意義がある」のは、民主主義社会の初歩でありゴールではないと思います。
民主主義社会がすべての人の発言(特にマイノリティー)を尊重するのは、対話を重ねて真実に近づくため、最も知恵のある答え、解決方法を模索するためにあるのではないでしょうか。

自分の思っていることが有益かもしれないと思ったら、それは「語る時」。

他者が有益な発言をしていると思ったら、それは自分が「黙して」聞く時。

2010年9月11日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

9月12日(日)、午前10時30分より

ヘブル書の学び(15)

聖書朗読 ヘブル人への手紙 2:5-18
説教箇所 ヘブル人への手紙 2:15
説 教 題 「受肉の目的‐キリストの死・人々の解放」続
説  教 小嶋彬夫牧師



《説教メモ》
人の子‐民の救い主・大祭司(2:10-18)⑤

※礼拝は一時間弱です。(夏時間)
※礼拝後、「食の日」昼食会があります。
(会費一人200円)『食の日募金』にも協力よろしくお願いします。)

2010年9月10日金曜日

携帯電話

えっ、携帯持ってないの?


と驚かれるほど最近は誰でもが“携帯”している。

筆者は持っていない。
PCは3台使用していて、ITに暗いわけでもない。
なぜ使用しないか特段の理由はない。

仲間の教会連合の牧師たちも殆ど持っている。

数日前のポスト「牧師の社会経験」にも少し書いたが、自称グータラ牧師としては、携帯を持つなどちょっと似合わないではないか。

筆者の分析では、ビジネスなど本当に必要としている人、持たされている人、便利で使っている人、等を除くと、一種の“自己顕示欲”が働いている人もいるのではないかと勘ぐりたくなる。

ひねくれてるねー、と言われそうだが、携帯以前、分厚い手帳のカレンダーに一杯スケジュールを書き込んだのを見せて、いかに自分が忙しいのかを見せびらかすような人がいたではないか。

携帯もある種その後継で、自分がいつ何時必要とされるか分からないほど、重要人物であるかのような錯覚を起こさせる道具のように見えなくもない。

もちろんこれほど普及した後は、持っているだけでは何てことはないものなのだが・・・。

「だったらあなたもどう」、と言われても、とうぶん持つ気はない。


先日同年代の小さな会社を企業した友人と会話した。

「携帯持ってないなら(持たなくていいなら)その方がいいよ。」
実際に携帯を使用している人には、四六時中(ビジネスに)付き合わされている、ちょっと言い過ぎかもしれないが、監視されているような感覚が付きまとうのかもしれない。


ところで最近自分でツイッターをやるようになって思ったのだが、電車で盛んに携帯画面とにらめっこしている人は、ツイートを見ているのかもしれない。

電車の移動時間などそんな風に使うのも効率的に思える。何しろツイートの数は半端じゃないですからね。

インターネットが普及し始めた時も、今またツイッターが急激に浸透している時も、ある種依存症的なヘビーユーザーが出てくるようだが、「離れられない」と言うことが「携帯している」ことの裏返しなのかも知れませんね。

携帯を持たない時代に遅れた人間の“つぶやき”でした。

2010年9月9日木曜日

N・T・ライト読書会


N・T・ライト読書会

は筆者が主宰している小さな小さな読書会です。
日本でも少しずつ知名度が上がっているとは思いますが、欧米でのそれと比較すると真に貧弱。
少しでも紹介したいと孤軍奮闘している次第です。
(※もしこのブログの読者で、日本語でN・T・ライトについて紹介していたりするサイトをご存知であれば、是非教えてください。相互リンクできるようなサイトが出てくることを期待しています。)

N. T. ライトは英国の新約聖書学者また英国国教会の主教です。」
と言う書き出しで、読書会ウェッブサイトのタイトルページでは紹介されています。
これはもう書き換えねばなりません。
公式発表では(セント・アンドリュース大学ウェッブサイトから)、既にダーラム主教を辞し、この9月1日から、セント・アンドリュース大学で教鞭をとっているはずです。

読書会は大体年2回。
大抵は私も含めて二人でやっていますが、時々ゲストがあるときは3名になったり、4名になったりします。
二人の時とは、相手はキリスト教世界観ネットワークを主宰する島先師です。
気心が通じている同士なので、どうも雑談風に始まってしまいます。

今年2回目の読書会まで1月後となりました。
読書会ウェッブサイトにある案内を、この場でも。

**************************************************
10月9日(土)
●午前10時~昼食まで・・・昼食後解散(付近で外食)
●会場:巣鴨聖泉キリスト教会(地図)
●参加希望の方は一言 小嶋か、 島先までお知らせください。
●テーマ:

2010年2回目の読書会は、ライトの聖書観を簡単に素描する『聖書とストーリー』 The Book And The Storyを事前に読んでもらってきて討論します。
特に「聖書的世界観」が他の世界観とどう対話・対立するか、「弁証論」的な角度から「聖書のストーリー」の位置づけを考えます。
参加希望者で、余裕のある方は、その他にライトのThe Last Word: Beyond the Bible Wars to a New Understanding of the Authority of Scriptureと、The New Testament and the People of Godの5章、"Theology, Authority and the New testament" にも軽く目を通してきていただければ幸いです。
静的な聖書の権威観ではなく、ダイナミックな聖書の権威観に注目してください。特に、他の(宗教的)世界観とどう関わるか、と言う宣教的な視点からも『聖書の権威』を考えるライトに注目したいと思います。
****************************************************

と言うわけで、気軽に出られるような“雰囲気”には思えないでしょうが、出席してくださる方があれば、談論風発風に変更も可能です。
「討論にまで加われないが、聞くだけだったら・・・」と言う方も歓迎します。

そう言えば過日のポスト「有神論的世界観と『被造世界』の科学的解明」にコメントくださった「かわむかい」さんも、読書会のウェッブサイトからこのブログに辿り着いたとのことです。
今度は逆コースで、読書会に辿り着いてくれる方が出て来ないかな、と期待しています。

2010年9月8日水曜日

他人様のブログにコメントする効用

当ブログも二ヶ月を過ぎ、順調に更新を続けている。

少し余裕が出てきたので、最近他のブログを閲覧するだけでなく、コメント欄に書き残す、と言うことをし始めた。
今日はその効用について。

①何でもそうだが、自分の考えていることを公けにすることは、少し気恥ずかしいけれども、勇気を用いる。だから「思い切り」「開き直り」の訓練になる。

②コメントによってブログ主と親しくなれることがある。
筆者が試したごく少ない例だが、コメントにコメントが返る例の場合、何らかの親近感を持ってくれる場合がある。(全く反応がないことも多々ある。)

③あるコメントの場合には、自分のブログを紹介することによって、お邪魔した先のブログ読者がアクセスしてくれることがある。

④自分のブログに、改まって何か書こうとする場合、着想を得るのに時間がかかる時がある。
他人様のブログにコメントする時は、大抵気安くやる場合が多いから、結構スラスラ書ける場合がある。
それを元手に自分のブログに、そのコメントを発展させて書くことが出来る。(「有神論的世界観と『被造世界』の科学的解明」はその好例である。)

なおブログによっては、コメントがすぐ公開となる場合と、ブログ主の管理による公開と、幾つか形態がある。
すぐ公開の場合、認証のため、あのアルファベットと数字の組み合わせを書き入れる作業がある。
あれは結構難しい。筆者は認証に失敗して没にしたコメントが幾つかある。損した感じは否めない。

なお当ブログにコメントを書き残してくれる方は、今のところ殆どないが、コメントするだけの気合の入ったポストの場合は、何か一言でも書き残してくれればうれしいのだが・・・。

2010年9月7日火曜日

加藤周一

連続講座「知の巨匠―加藤周一ウィーク」

が催される。

時 2010年9月18日~9月26日
所 世田谷文学館
※詳細はウェッブサイトをご覧ください。


加藤周一を表現するのに、「知の巨匠」は使い古された感じであまり好きになれない。
彼は、鋭い眼光と飄々とした動作が共存する、「精神的自由人」である。

最初に読んだ加藤の著作(論文)は、『雑種文化論』だったと記憶する。
米国留学中であったが、筆者の研究対象が理由で、日本の戦後知識人を読むようになった。
丸山真男『超国家主義』、大熊信行『国家悪』、吉本隆明のものなどとともに。

その後大分経ったが、加藤が一昨年亡くなるまで、彼は常に筆者の『知的アンテナ』であった。
彼の書くものには絶えず注意を払っていた。
晩年は回数が減ってしまい、また知的好奇心にも若干陰りが見られたが、朝日の「夕陽妄語」は常に刺激的であった。

かつて一度、新宿で持たれた加藤の講演会に出かけたことがあった。
休憩でトイレに入り、ふと横を見るとなんと加藤氏がやっておるではないか。
それが加藤を一番近くで見た体験である。
彼は全く普通の人のように行動していた。
自分が何者であるかを意識した風はまるでなかった。

加藤の「夕陽妄語」で著した文章は、一応の教養を備えた人が「熟考」するように書かれていた。
論理的構成、語彙の選別、テーマへの接近、例証、時にユーモア、などなど、簡単に読み通して分かるようには書かれていなかった。
少なくとも2回や3回読み直して、「論旨」と「分析」と「検証」を、自分なりに再構成してみるよう要請するような文章であった。
私の知っている限り、論旨の展開、水の流れる如く、殆どメモに頼らず、淀みない口調で講義を聴いたのは、加藤と、プリンストン大学の政治哲学教授であったシェルドン・ウォリン(Sheldon Wolin)の二氏だけであった。

加藤の日本文化・社会分析で、一番記憶に残るのは、日本社会は「個人が集団(組織)に組み込まれる度合いが強い」、と言う指摘である。
加藤は「文壇」や「知識人」とはあまり深く関わらなかったようである。
彼の理想は「在野の知識人」「市井の知識人」ではなかったかと思う。
彼の仲間の一人、中村真一郎も多分そうであったように、江戸時代の町人文化の中に、ゆるーい自由な知識人の共同体を見ていたのではなかろうか。

加藤の書き残したものは多岐に渡る。
加藤周一が読まれるのは、まだまだこれからではないだろうか・・・。

2010年9月6日月曜日

牧師の社会経験

牧師は専門職である。

しかし牧師の仕事の内容は一定ではない。
ある牧師は「説教」に命をかける。
すると説教準備が仕事の中心となる。
聖書を読み、祈り、参考書を読み、黙想し、説教を練る、と言う一連の作業が生まれる。

ある牧師は「牧会」に命をかける。
信者の問題や悩みを聞き、時には具体策を施し、とにかく信者の生活の様々なことに関わるのである。
特に教会が「クリスチャン・ファミリー」に支えられている、と考える牧師には「信者の結婚」が大きな課題となる。

筆者はどちらのタイプにも属さない。
強いて言えばグータラ牧師である。

牧師の資質を云々する議論に、「牧師の社会経験」の欠如がよく出てくる。
曰く、「もっと社会経験が必要だ。」
「信者が日頃どんな生活をしているのか知らない。」
「社会の現実を知らない」
などなど。

筆者はこの面でもあまり芳しくない。
地域活動をしているわけでもない。
社会に出てボランティアワークをやっているわけでもない。
かろうじて非常勤でシニアの英会話講師をやっているのと、
木工房を主宰することによって幾らか教会外の人たちの中に身を置いているだけである。

視野が狭いのは確かに良くない。
聖書関係の専門書だけでなく、雑読も必要と思う。
説教にもっと社会経験豊富なエピソードがあれば良いと思う。

ところで「ツイッター」や「ブログ」、「ネットサーフィン」は「社会経験」に入るでしょうか・・・。

2010年9月5日日曜日

有神論的世界観と『被造世界』の科学的解明

御大層な題になって申し訳ありません。

要するに、「私たちの住む世界全体をどのように考えるのか。キリスト教はどう見ているのか。」
と言うことに関する覚書みたいなブログです。

先日「無神論」と言う題のブログを書きました。
その中で「世俗化論」と言うものを紹介しました。
単純な『世俗化論」は、「科学的世界観が樹立されれば、宗教的世界観は取って代わられる」というものです。

ところがそう単純に宗教的世界観が無くなったか、と言うと現実にはまだ無くなっていません。
注意深く観察すると、現代人の世界観は、科学的世界観を中心にしながら、宗教的世界観を含む。それも異種の宗教・擬似宗教的世界観が混在して構成されているように見えます。

病気になっても、近代医学や東方医学(漢方)、民間療法から、占い、祈祷、・・・“効きそうなもの”だったら何でも手を出すのが現代人ではないでしょうか。

ある意味で『世界=全リアリティー』は、様々な学問・技術に専門化し・分化し・断片化し、全体を掴めないまま、『モザイックな世界像』、『未統合の世界観』の中を行ったり来たりしながら、答えを探して生きているのが現代人と言えないでしょうか。

つい最近「ビッグ・バン宇宙論、時の始まり」で有名なスティーブ・ホーキング博士が、ビッグ・バン理論では『神の存在』は必要ない、と改めて主張しているそうです。
ヤフー・ニュース(英語)

啓蒙主義までの科学は『神の存在』が前提されていました。
それ以降は科学は無(脱)神論的方向に発展してきました。

その間、かつて「諸科学の女王」だった神学は、とっくにその座を追われ、自然科学からまともに相手にされず、自らの城に閉じこもって何とか大学と言うアカデミックな世界で生き延びてきました。

しかし、ポスト・モダンの知的状況は、あらゆるアカデミックな権威を否定し、科学とか宗教を問わず、様々な「“私の”知っている“世界”はこんな感じ」言説が共存しています。(少し誇張して言っています。)

さてキリスト教的には、このような知的・精神世界的状況をどう見るでしょうか。

問題点① 科学の発達に神学が遅れを取ってきた
「科学と信仰」「科学と聖書」のように、啓蒙主義以降、主に「二項対立的議論」が支配的でした。その結果、キリスト教側から実証科学に対抗するために、科学的認識論、方法論を聖書に当てはめる傾向が強くなりました。(聖書の言語・叙述を科学的言説に対応させようとして、聖書を自然科学に並行するデータと見立てるようになりました。)

古い神学的前提では「二つの啓示(『聖書と言う特殊啓示』と『自然と言う一般啓示』)」と言う考え方で二者関係の調和が留保されてきたのですが、近世以降自然科学が理論的に先行し過ぎて、神学的フォローが追いつかなくなったため、致し方ない面がありました。

問題点②近年の神学的取り組み
近年になってT.F.トーランスや、最近になってアーサー・ピーコック、ウォルファート・パネンバーグ、ジョン・ポルキンホーン、そして今話題のアリスター・マグラスなど、勇敢にも「自然科学」と対話を試みる方々が出てきました。

対話の出発点として、神学者は諸科学の成果を真摯に受け止めなければなりません。近代以降の自然科学は、もはや「神の存在」と言う前提なしに、実証的に理論を積み重ねてきました。伝統的(組織)神学の枠組みにこれらの科学理論を無理やり押し込むことは知恵のあることではないでしょう。

アメリカでは「進化論」が目立って取り上げられる特殊事情があります。これも「科学と信仰」一般論と切り離しすぎると、偏った「科学と信仰」観になるのではないかと懸念します。

一般論としては①科学的知識分野全般に明るく、②聖書言語、記述の釈義的背景を柔軟に理解でき、③自然神学論史に通じている人が、議論を発展させて行ってくれるといいと思います。

実際には、一人の人がこれをやるのは到底無理でしょうから、やはり学際的共同作業が相応しいと思います。私が学んだ Graduate Theological Union の神学と自然科学研究センターMetanexus など、現在では「科学と宗教」「科学と信仰」を深いレベルで対話させている研究機関が輩出しています。今後も期待できると思います。

問題点③異なる記述言語レベルで対話は可能か
個人的に一番関心が深いのは、②の「聖書言語、記述」自体の持つ「ポエティックな表現による統合された被造世界観」です。やはりキリスト教世界観的には、聖書、特に詩篇などに表現されている『被造世界の素晴らしさを賛美する』スピリットが、科学的探究を相応しくリードする要素を備えているのではないかと思います。

その意味でも、被造世界を叙述するプライマリー言語は、聖書的表現であり、より包括的な記述ではないかと思います。科学的叙述は聖書表現やその世界観的叙述から、ヒントやインスピレーションを得ることが出来、また神学はそのような科学的被造世界の解明に示唆を与えることが出来るのではないかと思います。まっ、私の個人的期待でもありますが・・・。

2010年9月4日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

9月5日 午前10時30分

朗読箇所 ルカの福音書 22:1-23
説 教 題 「それから、パンを取り」
説 教 者 小嶋崇 牧師

聖餐に関わる事柄(6)

聖餐式を持ちます。
明日は聖餐式に用いられる「パン」の意義について思い巡らします。
「過越しの食事」で食されたパンが、イエスにおいて「過越し」「贖い」にどう関連させられ、再解釈されかを思い巡らすつもりです。

※次週、礼拝後、昼食会があります。

2010年9月3日金曜日

オープンチャーチ、2010

昨年パイロット的にやってみた

オープンチャーチ 
アーツ&クラフツ

を今年も開催します。

11月3日(水) 11:00AM~3:00PM

ちょうど二ヶ月前の第一回目の案内です。

言ってみれば「教会の文化祭」です。

ご近所の方々、あるいは六義園散策の帰路にでもお立ち寄りください。

時間内は自由にお入りください。

会堂の方では、「フラワー・アレンジメント」「写真」「習字」などを予定しています。

活水工房では、「ステンドグラス」「サンドブラスト」「木工品」などを予定しています。

展示だけでなく、即売品も用意します。
もちろん「ティーコーナー」もありますよ。

2010年9月2日木曜日

経年劣化

今年の11月が来ると、(今でもこう呼ぶのはおかしいけれど)新会堂が建って丸9年。

昨年あたりから少しずつ故障が出始めてきた。

それで今年の予算では「修繕費」を大幅アップして備えをした。

故障ではないけれど、まず蛍光灯の取替えが増えた。

しばらく前、排煙窓を開閉するワイヤー巻取り装置のハンドルが壊れた。
夏なので締め切っておくと空気が流れず暑い。
突然の雷雨の時には雨の吹込みがあるのを承知で開けることにした。
(要するに修繕を先延ばしにしているのである。幸か不幸か今年の八月に入って全く雨が降らない。)

今度はダイニングの照明スイッチが故障した模様。
電線に繋がったスイッチではなく、赤外線受光によってオン・オフするのでややこしい。

どんなものでも新しいまま、ということは無い。
年を経るに連れて磨耗したり、劣化したり、錆びたり、剥げたり、そして故障するのは当たり前なのである。
要はその備えをどの程度しておくか、であろう。

当教会はコンクリート打ち放しなので、外壁の中性化による劣化がある。
10年が目安と言うことで、その工事のための積み立てを数年前から始めた。

あまり芳しい話題ではないが、誰しも身にしみて感じている事柄であろう・・・。

そそう言えば思い出した。玄関木製扉の塗装が剥げてきていた。
これもそのうち何とかしなければ・・・。

(ブログ毎日更新のための繋ぎ用苦肉のネタでした。読んでくれた人、お付き合いくださりありがとうございました。)

2010年9月1日水曜日

パン屋アルル

昔、米国留学中のバークリー時代、お世話になったイーストベイ・フリーメソジスト教会。
当時日語部牧師をしておられたのが梅北伸雄先生(残念ながら若くして主の御許に召されました)。

梅北先生はグラフィック・デザインの勉強をなさりに米国に来られたが、後に牧師になられた。
当時教会では何人かの青年たちが、「教会の案内・パンフレット」製作に知恵を絞っていた。
そしてアイデアとして結実したのが「ベイ・エリア観光マップ」。
ベイエリアのイラストに、教会を書き入れる、と言うアイデア。

梅北先生自身による、遠近法でデォルメしたベイ・エリアの鳥瞰図のようなイラスト。
フリー・ウェイから教会へとパッと見て分かる見事な絵地図。
今もどこかに残っていると思う。
あんな教会案内、思いついたのは多分他にはいなかったと思う。そのくらい斬新だった。
残念なことに印刷までには至らなかったと記憶している。

当ブログの最初の頃、「教会パンフレット」を紹介したが、バークリー時代のアイデアの一端はこれに活かすことができたのではないかと思っている。
要するに「教会」だけを案内するのではなく、「教会と地域」を一緒に紹介する案内、が言わんとしたことで、大分導入に時間を取ってしまった。


当教会のパンフレットの地図には、半径100メートル余にあるお店などを幾つか紹介している。
パン屋のアルルはその中で一番と言っていいほど繋がりが深い。

何せアルルのパンを毎日食べているから。
普段食べているのは、天然酵母の食パン。
聖餐式の時に使用するのは直捏ね食パン。

「個性パン創造アルル」

「アルルの親父(パンG)は話し好き」とホームページに書いてある通り、本当に話し好き。
当方木工を趣味とするが、パンGはできれば大工になりたかった、とか話に聞いたことがある。
話し好きなだけでなく、研究心旺盛で色んなパンを試作する。
アレルギーの人のためのパンや、無塩パンなども作っている。
テレビや、雑誌で取材されることも多いので聞いたことがある人も中にはいるかもしれませんね。
通販もしていて、全国あちこちから注文が来るようです。

日本人的には『日毎の糧』(主の祈り)、と言うとまだお米ですが、朝食はパンという方は意外に多いのでは・・・。

関心持たれた方は、どうぞウエッブサイトをご覧ください。