2010年9月12日日曜日

黙する時、語る時

「黙する時、語る時」(伝道者の書3:7b、新共同訳)
牧師と言えば説教と言うことで、「しゃべるのが仕事」と牧師自身も会衆も思っているだろうと思います。
中には「落語」まで参考にして「しゃべり」を鍛えている牧師もいるらしいですね。

自身の体験から言わせてもらうと、この「しゃべり」と言うのが案外説教の邪魔になることがあります。
筆者は説教は30分以内、と自己規制しています。

説教は牧師が勝手にしゃべっていいのではもちろんありません。
パブリック・スピーチとして、会衆と共有する機能ですから、その役目を果たすように、時間規制も含めて有意義に用いなければならないと思います。

ところがたとえ時間を30分以内、と決めたとしても、その時間枠で上手に用意したスピーチを出来るかと言うと、これがなかなかできません。

一番多い失敗は、用意したことを無理やり時間枠に入れようとして「聴衆との間」を忘れてしまうことです。
コミュニケーションが一方的になり、聴衆が置いてけぼりになっているのに気付かず、どんどん先に進んでしまうことです。
結果的に時間内に終わったとしても、これではスピーチと言う点で落第です。

この「一本調子な説教」が対人関係の会話で、しばしば弊害となって現れます。
それは会話をしているはずが、いつの間にか自分がしゃべり放しになる牧師さんが結構いるのです。
「しゃべりが得意」なのが仇になってしまうケースです。

筆者は「説教」以外の時は、心して「今度は自分は聞く番だ」と思うようにしています。(でも気が付いたら上っ調子でしゃべっていることに気付いて、「またやった」と思うことがしばしばですが。)


これが牧師たちの会話の場合はどうなってしまうと、皆さん想像されますか。

筆者が米国留学から帰って間もない頃、牧師となり、牧師たちの集まり(筆者たちのグループではこのような会合を教役者会と呼んでいます。)、に出始めた頃のことです。

このような場での発言はほぼ暗黙の了解と言うか、年長者が発言し、年少者は黙って聞いている、と言うのがパターンのようになっていました。
いわゆる年功序列が会議の場でも巾を利かせていたのです。

こちらは自由な言論の国で鍛えられて帰ってきたばかりですから、当然納得行きません。
敢えて自分の使命と思って、新参者でありながらどしどし発言しました。

最初は無言の抵抗と言うか圧力を感じましたが、段々と教役者の世代交代が進むのと相まって、“年齢”や“立場”に関わらずに発言する教役者会になってきました。

勿論放っておくとどうしても“分相応”の自重の空気が流れやすいのですが、風通しを良くしておく為には、敢えて参加者全員の発言を促すよう努力しています。


「すべての時には時がある」と言う箴言の一部を冒頭に掲げましたが、発言する時か、自分の発言を控え、他者の発言に耳を傾けるべき時か、タイミングと言うものがあります。

有名なヨブ記には、年長者三人がヨブを論破するのに失敗したのを見たエリフが、ついに発言します。
 「私は若く、あなたがたは年寄りだ。だから、わきに控えて、遠慮し、あなたがたに私の意見を述べなかった。」(32:6、新改訳)
まあエリフのようにフラストレーションがたまるまで我慢するのもどうかと思いますが(族長社会とはそのようなもののようですが)、やはり他者の知識の言葉、知恵の言葉を前提して対話する態度は、私たちのような民主主義的社会においても有益なことと思います。


「発言することに意義がある」のは、民主主義社会の初歩でありゴールではないと思います。
民主主義社会がすべての人の発言(特にマイノリティー)を尊重するのは、対話を重ねて真実に近づくため、最も知恵のある答え、解決方法を模索するためにあるのではないでしょうか。

自分の思っていることが有益かもしれないと思ったら、それは「語る時」。

他者が有益な発言をしていると思ったら、それは自分が「黙して」聞く時。

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