2010年9月19日日曜日

「科学」と「信仰」の対話

過日(正確には二週間前)、当ブログに「有神論的世界観と『被造世界』の科学的解明」と言うポストを書きました。

今まで書いたポストの中で最高アクセス数を記録したものです。
驚きました。こんなタイトルの記事にこれだけ関心が集まるとは。(と言っても、7月に始めたばかりのまだまだひよっ子のブログです。統計的なことを口にするのはおこがましいにも程があるのですが・・・。)

事の始まりは、「はちことぼぼるの日記」のこのポストにコメントを残したことでした。
このような話題には関心がないわけではなかったのですが、何せ『科学と信仰の対話』と言ったような話題の時、殆ど科学とは「進化論」や「宇宙物理論」など「物質的自然」での事象が対象となっています。
ところが筆者は専門として少しかじったのは「人文科学」の中の「社会学」です。畑違いと言えば畑違い。不用意に頭を突っ込んでしまい、お尻に火が点き、やっと二週間経って鎮火した。そんな印象でいるところです。

そう言う訳で、また同じような議論を展開しようなどとは思いません。
ただ筆者がキリスト者として「社会科学」と言う専門にどう関わりどう悩んだかを書こうと思います。
同じような葛藤を通られた方が他にもいるかもしれませんから、共感を得ていただけるかもしれません。
またこれからそのような分野で研究しようとしておられる方があったら何かの参考にしていただけるかもしれません。

最初に一言しておくと、「社会科学」と聞いて何か変に思われる方がいると困りますので、説明しておきます。
英語で言うサイエンスは上記のタイトルのような場合は大抵「自然科学」が想定されていますが、もともとはサイエンスは『知識』一般を指す語です。
神学も theological science と呼びますし、キリスト教文明の隆盛期、中世の大学では「神学」は諸科学を統合するものでした。
しかし近世自然科学の方が飛躍的に発展し、いわゆる哲学の中にあった(あるいは古典に分類されていた)文学、歴史学、社会学、倫理学(所謂人文科学、ヒューマニティーズ)は、自然科学の方法論に影響を受けるようになり、社会科学などは20世紀に入ってもなお、自然科学的なモデル形成や実証主義的方法論の影響下にありました。(今でも経済理論などは数値モデルを使った予測可能な法則志向が基本になっていると思います。)

筆者の場合はそのような「社会科学の『科学性』を如何にして確立するか」などという専門的悩みを持ったのではありません。
筆者の悩みは、「社会科学」の世俗性(脱・信仰性)にどう対応したら良いのか、と言う悩みだったのです。
神学校の勉強を出発点として、次第に倫理学や社会学へと移行するにつれて、専門的分野はどんどん「世俗的」になったのです。キリスト教はおろか有神論的前提さえありません。

社会学の古典と言われる「マルクス」「デュルケーム」「ヴェーバー」はそれぞれなりに「宗教」の役割には関心を持っていましたが、社会科学者個人としては否定的か、中立的態度を取りました。ヴェーバーは懐疑論者だったろうと思われます。

博士課程に入ってしばらく経ったところで、「この世俗の学問をこのまま深めて行っていいのだろうか。信仰と対立してくるのではないだろうか。あるいは自分の信仰が揺さぶられるのではないだろうか。」と大分逡巡しました。

筆者が取った行動は、一年休学してこの問題について考えてみる、と言う選択でした。
自分が立てた問いに根本的な回答を得たわけではありませんが、休学している間に、このまま世俗的な学問に進んでも信仰が揺らぐことはない、と言う安心感が生まれました。
一定の見切りをつけたのだと思います。(そして研究を再開しました。)

キリスト教国アメリカでも、キリスト教系大学でないセキュラーな大学では、アカデミックな立場とは自分の宗教・信仰を持ち込まない、と言うのが暗黙の了解です。
ですから福音主義的信仰者はキリスト教主義の大学で研究するか、セキュラーな大学で肩身の狭い思いをするか、と言うのが筆者が滞在していた1980年代頃までの雰囲気でした。(福音主義が文化的に復興するにつれて事情は変わってきましたが。)

ポストモダンの状況はこのような「アカデミック」の暗黙の了解に少しずつ亀裂を入れ始めているようです。
しばらく前のポストに紹介した、Charles Taylorはテンプルトン賞を受けた著名な哲学者・社会思想家ですが、近著 A Secular Ageで、自らの宗教的立場(カトリック)を考察の対象の中に位置づけています。これにはアカデミック界からかなり波紋がありました。前例を破った感がありました。

また筆者が少しお世話になったロバート・ベラー教授は自らの信仰(聖公会のプラクティシング信者です)を大っぴらにしています。
After Virtueで哲学界に波紋を投げかけた Alasdair MacIntyre 教授は、カトリック信仰伝統(アリストテレス哲学)の学問的妥当性を主張します。

これらの三人はいずれも哲学・社会学の分野の重鎮です。まだまだ数としては少ないかもしれませんが、自分の信仰的立場を明らかにして研究を発表できるようになったことは、ポストモダン的知の状況が寄与しているかもしれません。

少なくとも人文科学系の場合、自己の立場(世界観)は「事柄を解釈する」要素として、積極的な取り扱いを受けるようになるだろうと思われます。
何故なら「無前提の解釈」「自己の世界観を捨象した対象へのアプローチ」は解釈学的に言って不十分だからです。
絶対的に客観的な解釈・中立な解釈は存在しません。むしろ自分の解釈枠を明確に自覚した上で対象に迫るのが、より説得的であり得るのです。
但し自己の解釈枠は理解しようとする対象に合わせて柔軟に修正する覚悟が必要です。
よりはっきり「見る」ために時に、「眼鏡」を外して、曇りを取ったり、レンズの強度を変えたりする用意が必要です。

5 件のコメント:

  1. ミーちゃんはーちゃんことかわむかいでございます。大変Encouragingな記事をありがとうございます。

    「キリスト教国アメリカでも、キリスト教系大学でないセキュラーな大学では、アカデミックな立場とは自分の宗教・信仰を持ち込まない、と言うのが暗黙の了解です。」

    この表現、非常に、感じ入りました。

    いまだに、「信仰と学問の分離」の雰囲気が強いのではないかと思います。「信仰と学問の分離」で、「人格的なかい離が起きている」に近い感覚を持ったりすることは、私自身も感じました。この結果、ミーちゃんはーちゃんは、技術的分野に逃げ込むことで信仰のメガネと学問のメガネを掛け替えることで、この問題から逃避したのでした。同じような違和感を感じておられる方がおられることを知り、心強く思ったのでした。とはいえ、我が国の公的機関が設立した学校にお勤めの方では、いまだにこの分離は当面維持されると思います。

    ご指摘の通り、「自分の信仰的立場を明らかにして研究を発表できるようになったことは、ポストモダン的知の状況が寄与している」と思います。ただ、いまだに、「客観がすべてである」や「真理は一つ」というお考えにとらわれているように見える方や、客観という「神話」の中に理解を押し込めようとする「近代の呪縛」に陥っている方が一般の方々にも学問の世界にも、特にマスコミ関係者の方々(テレビ関係がそうかな、と思います)、キリスト教会の方にも意外に多いように思います。個人的には残念だなぁ、と思っております。

    今回の記事、大変励ましになりました。ありがとうございました。

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  2. かわむかい様、
    大変Encouragingなコメントありがとうございます。うまく「信仰」と「学問」あるいは「公的立場」を分離して調整できれば、それはそれで良いこともあるかと思います。何しろ両者を調和させることはかなり難しい交通整理がいりますからね。
    でも単純に「宗教音痴」は政治家にしても、マスコミ関係者にしても、法曹関係者にしても、困り者です。この場合はしばしば「無知」の問題であって「分離」の問題ではありませんね。
    まあそんなこと言って、誰でも無知の領域は沢山ありますから、発言する時は何についてどこまで発言できるのか一考しなければなりませんね。
    以前ハーバーマスについて言及しましたが、以前私が留学中ハーバーマスを読んでいた頃は、一体彼は宗教をどう考えているのか殆ど分かりませんでした。ところが最近教皇と対談したり、「信仰」を現在の「世俗化時代」のファクターとして積極的に発言しているのが目につきます。ハーバーマスは西洋合理化と世俗化の潮流を広く分析しながら、「信仰・宗教」がどう市民社会に関わるのか大いに関心を持っていることを知るだけでも私にとっては興味深いです。

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  3. また少しだけコメントします。

    >少なくとも人文科学系の場合、自己の立場(世界観)は
    >「事柄を解釈する」要素として、積極的な
    >取り扱いを受けるようになるだろうと思われます。
    >何故なら「無前提の解釈」
    >「自己の世界観を捨象した対象へのアプローチ」
    >は解釈学的に言って不十分だからです。

    不十分かつ、不可能では。

    >よりはっきり「見る」ために時に、
    >「眼鏡」を外して、曇りを取ったり、
    >レンズの強度を変えたりする用意が必要です。

    「眼鏡」をはずしたり、レンズの強度を変えたりする、ということも、かなり難しいように思います。
    ただ、パウロはあのとき「眼鏡」が落ちたのかも知れませんね。

    デュエム・クワインテーゼ、という理論によれば、それは人文科学系だけでなく、自然科学も例外ではありません。

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  4. よくお出でくださいました。コメントありがとうございます。
    少し言葉不足だったようですね。「無前提の解釈」は当然「不可能」と言うべきでしょう。社会科学の方法論で自然科学に倣って言われてきたのは「価値中立」でした(解釈者の主観、信仰・信念を持ち込まない)。それが客観的知識を保証するように言われてきたのが、どうも違うんじゃないか。むしろ解釈者の「意味地平」は自覚され、解釈の要素に加わるべきではないか、と言ったようなニュアンスです。
    簡単な例が「聖書の“奇跡”解釈」にリベラル(ナチュラリスト)と根本主義的福音派(スーパーナチュラリスト)とで解釈が分かれるのは、まさに自分の世界観の影響があるからで、聖書箇所を字義的、歴史的、批評的に客観的に解釈するだけでは解決できない、と言う問題です。
    「眼鏡」は当然たとえです。「解釈の準拠枠」は対象を見る時に“自覚されない”程「自然に物を見ている」感覚を与えるわけですからそんなしょっちゅう作為的に変えられるものではありません。
    しかし対象(データ)をうまく既存の説・理論に収めることが出来ない時には、自分が信頼している「準拠枠」を改めて検証し、「事実」に適合するようにアジャストしなければなりません。
    パウロの例が出ましたが、N・T・ライト(新約学者)的に言えば、パウロはまさに自分のパリサイ派ユダヤ教を「イエス・キリストの事実」に合わせて根本的に再解釈したのです。
    デュエム・クワインテーゼは降参です。初耳です。
    コメントできません。

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  5. 初めまして、三休と申します。「科学」と「信仰」の対話と言うタイトルに見せられて投稿しました。偶々、去年の年末にThe Physics of Christianity と言う本を読んで、著者Frank J. Tipler ニューオーリンズのTulane大学の数理物理学教授が聖書は量子力学、相対性理論、標準分子物理学と全く矛盾しないと言う議論に、門外漢の私も目から鱗の状態で、長年キリスト教に対して抱いていた疑問(蟠り)ー神のキリストに於ける顕現、処女懐妊、イエスの蘇り、永遠の命ーが、一挙に崩されてゆく開放感を味わう事が出来ました。それはまるで、現代にキリスト教徒、ガリレオが再出現してくれた様な感じです。もし、まだお読みでなければ、是非お読みになって、感想などをお聞かせ下さい。宜しく。

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