2014年4月30日水曜日

(1)「一区切り」から一ヵ月経って

一区切り」を書いたのは3月30日だから、ちょうど一ヶ月経ったわけである。
これからはまた一旦整理して、教会隣にある工房を足がかりにして「地域社会」との接点を探っていくことになるだろう。
と報告し、何やら「新しい構想」を抱いてるらしいことまでは書いたのだった。
この時代、この場所で、どのように宣教を展開して行けばいいのだろうか。
現代的宣教の文脈について考えている。
大きい文脈では「宣教」と言うことになるのだが、今目論んでいるのは一見「伝道」とは見えない「学習会」と言うインターフェイスだ。
とキーワードは「学習会」であることは示唆しておいた。

あれから具体的プランに落としていくため色々考えていたのであるが、「学習会」の発射台としてやはりウェッブサイトを作ることから先ず取り掛かろう、と思ったしだいである。

そしてそうなるとやはりブログ、と言うことになる。
「学習会」が看板ではちょっとパッとしない。

いくら最初は「閑古鳥」と言えど、せめてウェッブサイト名だけでも何とかならんか、と頭をひねって作ったのが、
宗教と社会 小ロキアム@巣鴨
と言う名前の「共同学習会」なのです。

コロキアム、と言うのはちょっと大げさなので、小さなコロキアムと言うことで「小ロキアム」にしました。

=ともに
ロキアム/ロキウム=しゃべる
まっ討論しながら学習する、見たいなコンセプトです。

あっそうそうこれがリンクです。

本当はアドレスを英語の、Religion and Society、としたかったのですが、どうも上手く取得できなかったので日本語ローマ字表記でやりました。

まずは「開始の挨拶」を投稿しました。
そしてこのサイトではもっと英語でも発信していく予定なので、An Introductionと英語でも投稿しました。
内容的には重なりますが、やはり書き終わると微妙に違う。


お時間ある時ご笑覧ください。 
 

2014年4月27日日曜日

(5)教会と国家 宮田光雄講演会

キリスト教系出版社である、新教出版社の創立70周年を記念する講演会へ行ってきた。
 
第1回  宮田光雄氏
「バルメン宣言の政治学」 バルメン宣言80周年を覚えて
日時:4月26日(土)午後2時から4時まで
会場:信濃町教会
 
最近突然強烈に眠気が襲うことがあり、この午後も1時間半ぶっ通しで語る講演者の話を聞くのは時に辛いものがあった。
 
しかし荒井献講演会の時もそうだったのですが、宮田氏も今に至るまで直に聞いたことがなかったので、今回行ってみたわけです。

冒頭、本当は(ユダヤ人である)シャガールの「十字架のイエス」ステインド・グラスについて話したかったのだが、バルメン宣言80周年と言うことでしゃべってくれと言う要請で(最初不本意であったが、そう言う事であれば既に勉強して知っていることでもあり、それほど準備に手間取ることもないか、と言うことで)今回の講演題になったのだ、と言うことでした。
 
用意された講演のアウトラインは、
1. ヴァイマル憲法からナチ憲法体制へ3.
2. ナチ宗教政策とドイツ教会闘争
3. バルメン宣言の神学的基本線
4. バルメン宣言の政治倫理
5. バルメン宣言と私たち
となっているように「現代的適用」は僅かに5で言及されただけであった。
 
時に涙声になりながらの「訴え」であったが、用意されたアウトラインにも『時代史的制約・・・』とあるように、「バルメン宣言の神学と(政治)倫理」をそのまま鍛え直して使っても、やはりかなり限界があるなーと思わされた。
 
今そのプリントに書き込んだメモを見ると、『4. バルメン宣言の政治倫理』 が一番書き込みが多い。
それで、以下はその書き込みを頼りにしながら二言、三言。

先ずプリントの方の「細かい点」まで紹介しておく。
4. バルメン宣言の政治倫理ーー第5テーゼの分析
巻頭引用聖句ーー国家の課題=機能的国家論ーー終末論的留保ーー拒絶命題=《全体国家》の拒否
配られた資料にある) 『第5テーゼ
 「神をおそれ、王を尊びなさい」(Ⅰペトロ2:17)
 国家は、教会もその中にあるいまだ救われないこの世にあって、人間的な洞察と人間的な能力の量りに従って、暴力の威嚇と行使をなしつつ、法と平和とのために配慮するという課題を、神の定めによって与えられているということを、聖書はわれわれに語る。教会は、このような神の定めの恩恵を、神にたいする感謝と畏敬の中に承認する。教会は、神の国を、また神の戒めと義とを想起せしめ、そのことによって統治者と被治者との責任を想起せしめる。教会は、神がそれによって一切のものを支えたもう御言葉の力に信頼し、服従する。
 [拒絶命題・・・筆者]国家がその特別の委託をこえて、人間生活の唯一にして全体的な秩序となり、したがって教会の使命をも果たすべきであるとか、そのようなことが可能であるとかいうような誤った教えを、われわれは退ける。
 教会がその特別な委託をこえて、国家的正確、国家的課題、国家的価値を獲得し、そのことによってみずから国家の一機関となるべきであるとか、そのようなことが可能であるとかいうような誤った教えを、われわれは退ける。
メモ①機能的国家論
この文章を書くにあたってバルトと神学的綱引きをしていた人物がいた、とのことである。(ルーテル派の神学者であった、と説明していたと記憶する。)
 
粘りに粘って相手が根負けした隙を突いて、バルトは表面上は論戦相手の論法を容認したように見せて、「実」を取ったのだと言う。
それが「秩序」とされるべきところをバルトは「定め」に書き換えたのだと言う。
また「国家」を聖書から説く時の基本聖句であるロマ書13章1節ではなく、Ⅰペトロが採用されたのも、国家に対する服従を幾分かでも弱める効果を狙ったものらしい。(つまり「機能的」国家論とは限定的という意義。)
 
メモ②人間的な洞察と人間的な能力の量り
タテマエ上ではなく実際の国家をリアリズムで具体的に検証すること、ドイツ語ではsachlichkeit。
 
と以上2点だが(「えっ、そんなに少ないの」と言われそうだが・・・。)、確かルーテル派の「二つの神の国」議論の伝統よりも、バルトのような改革派神学の方が「抵抗権」的思想的基盤があって・・・みたいなことも言っていたような。
 
この辺はかなり昔話を聞いているような感じであった。
現在「憲法論議」がまた盛んになっているが、国民主権の民主主義の枠組から見ても、また「権力を分権して権力の集中を規制する」ような権力規定をするのが憲法である、と言うような基本的理念に照らすと、バルメン宣言時の「教会と国家」の神学的議論の枠組みでは最早ずれている、と言う認識から始めなければならないのではないか。
 
さらに言えば、まだまだ細かいところは議論できないが、「ユダヤ人問題」が発覚した時点で、「教会論」の問題で危機的な状況を迎えていた(ボンヘッファーはいち早く自覚的だった)と言える。
 
また、「人間的な洞察と人間的な能力の量り」 ・・・具体的な政治過程の検証、と言う課題からも神学は現実から遊離してしまう、具体的な政治の問題のリアリティーを追跡するよりも、「啓示」のコトバに篭ろうとする傾向がないだろうか、と思うのだ。
 
ボンヘッファーの神学的営為は非常に状況的な面があるが、未完の「倫理」で特徴付けられている「悪の装い」などは、システムとしての神学よりも、時に即した「神学的見極め」の大事さを物語るのではないだろうか。

どちらにしても「全体主義」の20世紀を経て、国家、権力、悪の問題の複雑さ、曖昧さ(ハンナ・アーレント「全体主義の起源」「イェルサレムのアイヒマン」)を歴史的に検証する作業は幾つもなされたわけだから、それらから学んでいくことも神学の仕事であろう。 

 

2014年4月26日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2014年4月27日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ヨナ書 3:1-10

説 教 題 「ニネベの悔い改め」
説 教 者 小嶋崇 牧師

ヨナ物語(3) 3章・・・悔い改めと思い直し

2014年4月25日金曜日

(5)映画と神学2 : レイルウェイ 運命の旅路

ゼロ・グラビティ」から大分経ってしまった。

連載が1で頓挫してしまったか、とご心配かけた読者にはお詫び。

実は「見てから」と思ったが、けちな性分で新聞に載っていたこの映画の試写会に応募していたのだ。
が、(当然の如く)当たらなかった。

で、またも見ずして紹介することになりました。
「見ずして紹介する者は幸いなり」とは聖書のどこにも書いてありません。あしからず。


映画製作に至る経緯も紹介されている映画オフィシャルサイト へどうぞ。

しかしこの実話を基にしたと言う映画、またしても戦争の『傷跡』というものの執拗さを思う。

第二次世界大戦は1945年に終わった。
しかしその『傷跡』は至る所、ばら撒かれ、尾を引き、

もちろん忘れようとする力もあり、また忘れまいとする力もあり、拮抗している中で『普通の時間』は経過して行き、今2014年はある。

この映画は「赦しと和解」というキリスト教神学のテーマを持っている、と言うことで、Center For Public Christianity (音声ファイル)で映画評がなされている。

主人公が「戦争捕虜尋問」で通訳をした永瀬氏を追跡し、ついに面会して「あの時起こったこと」のあるがままの意味、戦争捕虜に対する強制労働という『殺人』を認めさせる。

二人は後に友人となり、死ぬまで交信を続けたと言う。

ナンキン・アウシュヴィッツ・ヒロシマ・オキナワ・シベリヤ・レイテ・アッツ・ツールレーキ

世界中に散らばる戦争の『傷跡』を物語るストーリーは、非人道的戦争を潜り抜けて、非人間化された人間が再生するために、今も執拗にその『傷跡』の存在の承認を求めて追いかけてくる。

そして何度でもそれに対峙して、認識して、可能な限りの和解をして、私たちは前へ向かって生き延びていくのだろう。

2014年4月24日木曜日

(4)英国はキリスト教国

 昨日「英語圏ブログ紹介⑫」で埋め込んでおいた、英国キャメロン首相のイースター・メッセージに反発の声が上がった模様だ。

 それを受けてキャメロン首相はChurch Timesに見解を提出した。
 先ず要旨を見てみよう。

 「世俗化した社会でこのような発言は不適切ではないか」、との意見に対し
I completely disagree. I believe we should be more confident about our status as a Christian country, more ambitious about expanding the role of faith-based organisations, and, frankly, more evangelical about a faith that compels us to get out there and make a difference to people's lives.
以下この要旨に沿って見解を展開している。

 特に゛政治的中立」に関して、
People who, instead, advocate some sort of secular neutrality fail to grasp the consequences of that neutrality, or the role that faith can play in helping people to have a moral code. Of course, faith is neither necessary nor sufficient for morality.
Many atheists and agnostics live by a moral code - and there are Christians who don't. But for people who do have a faith, that faith can be a guide or a helpful prod in the right direction - and, whether inspired by faith or not, that direction or moral code matters.
単に社会的安定を保つためではなく、社会改善と変革の力の源と見做している。
THIRD, greater confidence in our Christianity can also inspire a stronger belief that we can get out there and actually change people's lives, and improve both the spiritual, physical, and moral state of our country, and even the world.
この後自身の英国国教会の信徒としての信仰が名前だけ(ノミナル)ではないことをアッピールしている。

 このキャメロン首相の見解発表を受けて、カンタベリー大主教、ジャスティン・ウェルビーはキャメロン首相擁護のメッセージを発表した。

 「中世の異端審問の再来」のようなイメージをちらつかせる反対者たちに対し、ウェルビー大主教はモンティー・パイソンやイースター直後によくあるようなトンデモ話題を引き合いに出しながら極めて冷静に事態の推移を見ているようなコメントを出している。
It's all quite baffling and at the same time quite encouraging. Christian faith is much more vulnerable to comfortable indifference than to hatred and opposition. It's also a variation on the normal "Sword and Grail discovered" stuff that seems to be a feature of Easter week news. - See more at: http://www.archbishopofcanterbury.org/blog.php/20/a-christian-country#sthash.P4tWUg6h.dpuf
It's all quite baffling and at the same time quite encouraging. Christian faith is much more vulnerable to comfortable indifference than to hatred and opposition. It's also a variation on the normal "Sword and Grail discovered" stuff that seems to be a feature of Easter week news. - See more at: http://www.archbishopofcanterbury.org/blog.php/20/a-christian-country#sthash.P4tWUg6h.dpufIt's all quite baffling and at the same time quite encouraging. Christian faith is much more vulnerable to comfortable indifference than to hatred and opposition. It's also a variation on the normal "Sword and Grail discovered" stuff that seems to be a feature of Easter week news.
It's all quite baffling and at the same time quite encouraging. Christian faith is much more vulnerable to comfortable indifference than to hatred and opposition. It's also a variation on the normal "Sword and Grail discovered" stuff that seems to be a feature of Easter week news.
世俗化がより進んだヨーロッパで、そして声高な無神論者が人気を博す英国で、キャメロン首相が発した「英国はキリスト教国」メッセージは、普段は冷ややかにキリスト教に対している国民(の一部)に反発を起こしたことをむしろ歓迎しているかのようである。

 この雰囲気から言うと、昨日のジェームズ・クロスリーの分析はいささか表面的な印象とならざるを得ないのではないか。

2014年4月23日水曜日

(4)英語圏ブログ紹介⑫

今回ご紹介するブログは
Sheffield Biblical Studies


ジェームズ・クロスリーがブログ主だ。

まずは最近のポストからご紹介しよう。

この動画をご覧あれ。


現英国首相、キャメロンのイースター・メッセージだ。

キリストの名前を出しながら「隣人愛」をそれとなく話題にしたり、「アルファ・コース」と言うニッキー・ガンベル牧師が開発し今や全世界で用いられている伝道プログラムが服役者の更生に役立っていたり、貧困者や弱者救済など、宗教の社会的役割を支援する、と語っている。

宗教(キリスト教)と政治、と言えば北米の「大統領就任スピーチ」や他のスピーチでしばしば「God」に言及されることはよく知られていることだ。

クロスリーは歴代首相の政治的スピーチで「キリスト教」、特に「隣人愛の教え(欽定訳が用いられる!)」のようなものに言及されるのは、キャメロン首相に限ったことではなく、ほぼすべての首相がそうしてきた、と指摘している。David Camerons Latest Bible

最近40年の間ではマーガレット・サッチャー首相が特にそうだったと言う。
Thatcher was the most explicit and influential political user of the Bible among political leaders over the last 40 years.
よりあいまいな「アルファ・コース」も含め、キャメロン首相の聖書やキリスト教を動員するスピーチの狙いは、本来(福祉)国家がなすべき役割を、敬虔なキリスト者たちが肩代わりしてくれ、と言う信号だ、と分析している。

新約聖書学が本職ながら、現代政治の文脈でどのように聖書やキリスト教が用いられているのかを分析するジェームズ・クロスリーのような研究は、宗教社会学が専門とするところだが・・・。

とにかく大学で宗教/キリスト教を教えるとは、このような領域でもその学問的関連性(relevance)を発揮することを求められているのかもしれない。

※二つ目の動画はミスター・ビーンの保守政治家をパロディーにしたもの。相変わらず笑える。

2014年4月20日日曜日

(3)「イエスの死」歴史か、小説か・・・

 リチャード・ボウカム「イエス入門」でも言っていたなー、イエスはある意味永遠のアイコンだって・・・。

Killing Jesus: A Historyと言う本が現在ベストセラーNo.1だそうな。(著者たちのウェッブサイトによると、と言うことですが。)


 著者たちはどうも保守系のジャーナリストと(ゴーストライターではないが)歴史研究家の組み合わせのようだ。


 ケネディーとリンカーンで成功を収めたのでイエスにまで手を出したみたいだ。

 手厳しい書評が目につく。 
Indeed the authors used the same stylistic formula for their two previous books Killing Kennedy and Killing Lincoln. Both were bestsellers, and Killing Jesus is already number three on the New York Times bestsellers list. Why? Because they are fabulously easy to read: because there are good guys and bad guys, with very little in between; because there is lots of journalistically juicy, salacious gossip; and because, as with some historical fiction, you learn quite a bit about a particular era without having to think too much.

 このブロガーもかなり狭い範囲での指摘だが、ヒストリーとしてのレベルでは「かなりいい加減」、と言う判定だ。

 かように「歴史」というのは「動かせない過去」を扱いながら、それ(人物・事件)にピッタリ標的を当てることは大変に難しいものだ、と言うことだろう。

 (筆者の場合、ゴルフ練習所に初めて連れて行かれ、止まって動かないゴルフボールを打つことが予想に反して難しかったこととどこか似ている。)
 

(3)ことば/コトバ考:聖書と文学 2

今回2回目となります。

既にご案内したように、

2014年5月30日(金)、午後2~3時半
巣鴨聖泉キリスト教会
で「ヨナ書の表現よみ」と言う催しの下準備、のような記事です。

さて、現代《ことば》考、の後半となります。(2回に分割)

B.平田オリザ『対話へ』

「ぼくは、人間と人間の対話を書きたい。家族や同僚といった、 互いに理解し合っている前提で交わされる会話ではなく、 お互い分からないという前提で始める対話です。
 そもそも日本語は、他者に対して自己を説明する場面では非常に弱い言語なのでは、という感じがある。それでよかったんですね、ムラ社会では」

  「常に違うものを見ているという前提にたった人が、いっしょに思考実験に参加し、 同じものを見た、同じ時間を共有したという確証をもって考えることが大事なんです。 サンテグジュペリに『愛することは、参加することだ』という言葉があります。 同じように思うことではなく、同じものを見ること。 そこから差異を確認し、なぜ違うのか、という対話が生まれるわけです」
  (1998年1月5日朝日新聞夕刊、「伝えるということ①」)
この段階(今から16年前)の平田の関心は、まだ「公共圏を司ることばは、『お互い分からないという前提』でなされる対話から紡ぎだされるもの」 と言う認識で推移していると言っていいだろう。

 しかし平田の演劇を通しての思考実験は今やアンドロイドと言う人工知能ロボット進化系と人間との対話へ、と進んでいる。例えばここここ


 恐らくこれを演劇として楽しんでいる人は殆んどいないと思う。
 観客は平田と石黒の思考実験にお金を払って協力している、と見た方がいいだろう。
 全体としては「近未来」における人間とロボットの共存態を推理することに意義がある、と言うことを「了解する」ことで観客は何らかのリターンを見出しているのではないか。

 それにしても一番きついのはロボットと共演させられる役者ではないか。
 
 将棋ロボットに関して言えば、ゲームとしての「パラメーター」が限られているので、かなりのプロ高段者でも既に勝てなくなっている。ここ

 しかし、演劇は日常言語空間を飛び越えた「虚構」の世界だ。
 ロボットが果たして「演技」を意識できるだろうか。

 このアンドロイドを使った思考実験は、そこを問うているわけではない。
 進化して行くロボットに人間側がどう対応していくのか、を問うているのだろう。

 役者がきついのはロボット相手には「演技が通じない」というところだ。

 脚本を書く平田は別なレベルで楽しめるからまだいい。(彼は自分の思考空間で組み立てる創造性を発揮できる。しかし役者は反応の種類やスピードがひどく限定されたロボット相手には演技を工夫することはかなり難しい。ただのモノの方がよっぽど対話相手にできるだろう。自分の意図の中で動かすから。)

 まさに「フィード」がなければロボットからの「フィードバック」はない。

 ヨナ書は「ヨナ物語り」とも呼ぶくらい、その文学的ジャンルに関する疑問が前面に出てくる。

 史実に基づく物語なのか(その場合高度にテーマ化、thematized、されている、と言わねばならないだろう)、それともフィクションなのか。

 しかしヨナ書を解釈するにあたって(この書を『表現よみ』する渡辺さんにとって)、史実かフィクションかは「決定的な問い」ではないかもしれない。

 恐らく「コトバ/ことば」を「使う」ということは、世界を対象化し、主観に統合する過程で、高度に複雑な作業を行なうことであり、それがヨナ書のような「かなり雄大な言語空間」として結晶された場合、それを読み解くことは様々な文脈を総合的に判断して、その意味を選択的に提示することになるだろうからだ。
 (哲学的に過剰に聞こえたらすみません。ごく初歩的な考察を言っているに過ぎません。)

 ※次回へ続く。 

2014年4月19日土曜日

明日の礼拝案内

復活節主日礼拝

4月20日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 2:15-21
説 教 題 「キリストが生きる」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※洗礼式があります。礼拝後には昼食会があります。

2014年4月18日金曜日

(5) 2014 Good Friday Reflection

Just this morning I was reading Acts chapter 5.

Since I started reading N. T. Wright, one of the things I acquired from him and his writings is a historical viewpoint when reading the Scriptures.

When you read the Scriptures from the historical viewpoint, certain things suddenly come to light in the way you would've never expected.

I've had many such aha moments but today's entry is not one of those to share here.

I've been catechizing Mr. Y for the past four months to be baptized this Easter and since our church, being an independent congregation, don't have ready catechetical materials as well as for other liturgical/sacramental ones, I kind of used materials and insights from other Christian traditions.

(To my mind, the Roman Catholic Church has many things you can learn from.)

The basic catechetical materials for me and Mr. Y is the Apostle's Creed so we discussed each point and "unpacked" it by exploring the corresponding Scriptural passages along the way.

I emphasized again and again the historical nature of the Christian Gospel and explained how the Gospel proclamation was formulated into the form as the first disciples, the Apostles, came to realize that Jesus, after all, was the Messiah as the Scriptures have witnessed.

Now, as you read Peter's apostolic preaching on the day of Pentecost, you notice his Gospel proclamation was Israel-specific and very much so because Peter was accusing his fellow Jews of their complicity in killing Jesus on the cross by turning him into the hands of their enemy Rome and refusing Pontius Pilate's amnesty offer to take him from the execution.
this man, handed over to you according to the definite plan and foreknowledge of God, you crucified and killed by the hands of those outside the law. (Acts 2:23, NRSV)

This point is repeatedly emphasized in the following three chapters.
The God of Abraham, the God of Isaac, and the God of Jacob, the God of our ancestors has glorified his servant Jesus, whom you handed over and rejected in the presence of Pilate, though he had decided to release himBut you rejected the Holy and Righteous One and asked to have a murderer given to you, (Acts 3:13-14, NRSV)

For in this city, in fact, both Herod and Pontius Pilate, with the Gentiles and the peoples of Israel, gathered together against your holy servant Jesus, whom you anointed, (Acts 4:27, NRSV)

saying, “We gave you strict orders not to teach in this name, yet here you have filled Jerusalem with your teaching and you are determined to bring this man’s blood on us.” ...The God of our ancestors raised up Jesus, whom you had killed by hanging him on a tree (Acts 5:28, 30, NRSV)
In other words, Jesus of Nazareth didn't die for "me" in the first place.

He was killed by Herod, Pontius Pilate, the leaders of the Sanhedrine, and some of the people gathered in Jerusalem at the historic Passover Feast around ca. 30 C.E.

So Peter's appeal to repent was, I think, very specific. It was their sin of killing innocent Jesus by turning him to the hands of their enemy Rome and putting him on the cross.

Now the roles in the "law court" were reversed. It was now the Jews who were being accused of their guilt.

Jesus was vindicated by God's raising him on the third day.

Jesus was in the right; they were in the wrong.

The apostles were, with the help of the Holy Spirit, prosecuting the true guilty party.  

The conscience-stricken Jews who accepted Peter's message confessed to their guilt in this act and got baptized.

So that's the way the original Gospel was proclaimed.
It was not a proclamation of universal salvation by accepting Jesus' vicarious death on the cross.

At least, the first Christian converts were the Jews who "killed" Jesus.

Of course, Jesus' sacrificial death was established from the beginning (I Cor. 15:3).
And its universal meaning was in view throughout the New Testament.

But we should not lose sight of the fact that the Gospel proclamation was, at the beginning, very specific about who was in the right and who in the wrong.

In that light, John's following passage becomes relevant, at least, to me.

And when he comes, he will prove the world wrong about sin and righteousness and judgment:  about sin, because they do not believe in me; about righteousness, because I am going to the Father and you will see me no longer; about judgment, because the ruler of this world has been condemned. (John 16:8-10, NRSV)
(This is a very sensitive issue and I never intend to be anti-Semitic as you can see from the above construals, I hope. And so far as the atonement theology of vicarious death by one man, it's the High Priest Caiaphas, not the apostles, who first insisted. See, John 11:49-51.)
   

2014年4月16日水曜日

(5)主に神学ブログ⑦

 こちらのシリーズも大分更新が停滞している。

 今回紹介するのは今最も旬な話題を取上げ、それを「サタイアー」を効かせた小説の形で表現し、しかも矛先を「キリスト教会の牧師養成問題」としてパロディー化すると言う、結構念の入った記事を発表し終ったところのブログである。

 伊那谷牧師の雑考は、日本同盟キリスト教団伊那聖書教会の大杉至牧師のブログ。

 大杉牧師とはツイッターで相互フォローしているが、自教会と教団の仕事でお忙しいのか、余りツイートにもお目にかからないし、ブログの方も(ちゃんと定期的に巡回しているわけではないが)それほど更新がなかったように記憶する。

 それなのに2014年4月、一挙にブレークしましたね。

 小説 冲方晴男(うぶかたはるお)牧師 1

 実は少し遅れて読ませていただいたのですが、改めて大杉牧師が「生命科学研究者」として仕事をしておられたことを再確認させられました。

 たまたまと言うわけではないですが、今回のオボカタ事件に関し人並み位の興味しかなかったのですが、伊那谷牧師の次の記事で眠っていたものを少し覚醒させて頂きました。

 問うべきこと

 筆者のアズベリー神学校時代の話、神学遍歴⑥、でも書いたように、「キリスト教倫理」のクラスで遺伝子操作技術(リコンビナントDNA)について小論文を書いたのですが、その後いわゆる「生命科学倫理(bioethics)」については休眠したままになっていました。

 今回の伊那谷牧師の記事で少し目が覚めた感があり、以下のようなコメントを書かせていただきました。
 多分初コメントとなると思いますが、一言。
 ご指摘の通り様々なレベルでの問題を内包していることはある程度分かります。(生命科学者や、牧師や、様々な立場で、この問題が孕む哲学的・神学的・倫理的含意を類推できる範囲は異なりますが。)
 一般に先端科学は倫理的問題(それが問題として構成されるにはそれなりの哲学的・神学的掘り下げが必要になりますが)を解決してから次に進むと言う手順を待ってはいられないと思います。
(その時々の大枠は作られますが、それは絶えずそのような実験が可能になったり、実施されたりしてから後になってしまいます。)
  やはり「科学者」と「哲学・神学・倫理学者」との不断の対話、情報交換、さらには受益者となる「パブリック」との間の橋渡しをする役割(の人たち、やはり 一種の専門家)が確立して行かないと、今回のような「周辺的な話題」が先行して報道され、問題の核心にまで立ち入らないまま問題が雲散霧消、と言うことに なる恐れは十分あるのだと思います。
現在の生命科学の技術についてはおよそ門外漢となっている筆者が下手なことを言うことは出来ない。今の段階では筆者は「パブリック」の一人、マスメディアに煽られる一人に過ぎないのである。

 しかし、今日理研の笹井会見が行われている時、イトケンさんのツイートではっとさせられた。

 このSTAP細胞技術が生命倫理問題にどの程度関わっているのか、上のコメントではただ漠然と感じていたものが、このツイートで「至近距離に来ているかも」との予感がしたわけである。

 筆者の印象ではメディアは実験過程や結果についての様々な疑惑については識者のコメントを求めているが、この細胞生成技術の生命倫理的側面については殆んど追跡していないように思い、早速

 stem cell research obokata ethical question
でググってみた。

 今のところ目ぼしいのはこれだけか・・・。
 Why Easy Stem Cells Raise Hard Ethical Questions

Yet these cells have a troubling potential. One of the surprising features of these cells, which Obokata has called “stimulus-triggered acquisition of pluripotency” cells, or STAP cells, is that they are not only able to develop into all embryonic tissue types—they can also contribute to the development of a placenta. Neither embryonic stem cells nor iPS cells can develop into placental tissue. In fact, this has often been seen as a defining difference between embryonic stem cells and actual embryos: embryonic stem cells cannot, on their own, develop into adult organisms the way an actual embryo can, in part because they cannot grow the extra-embryonic placental tissues needed for fetal development in the womb. If STAP cells can indeed support fetal development, clusters of these cells may actually be embryos. If so, the creation of these cells would be tantamount to human cloning.

But the wide range of developmental potential these cells have does not necessarily make them embryos. There’s an old motto in biology, attributed to the great seventeenth-century anatomist William Harvey: “omne vivum ex ovo,” or “all life from eggs.” In the animal kingdom, this doctrine still holds true; embryos are fertilized egg cells, and the egg cell provides a great deal of material necessary for the embryo’s early development. Just because an adult cell has been “reprogrammed” to a state of developmental immaturity that allows it to branch off into any of the different cell lineages, that does not mean that it will be able to undergo the highly coordinated development of an embryo on its own, or even together with other such reprogrammed cells.

We should still take the possibility seriously, however, that this new method of reprogramming might make embryos. Rumors are already circulating that scientists have attempted this in mice. According to a story in the New Scientist, one of the co-authors of the study, Charles Vacanti, said that he asked an unnamed collaborator to transfer a spherical cluster of STAP cells to a mouse. Vacanti reports that the cells began to develop as a fetus, but that halfway through the pregnancy, the fetus stopped developing normally. According to Vacanti, “There was some sort of glitch—which is probably a good thing due to the ethical issues that would occur if we were able to create a live clone.” But if it is true that these cells are able to develop as embryos, then the fact they develop defectively is not reassuring. Okotaba, for her part, said that her team was interested in regenerative medicine, not human cloning.
昨年5月、既にクローニング技術で人のES細胞形成が成功している(らしい)ことがネーチャー誌に報じられている。


 はてさて現在クローニング技術でES細胞などを作っている研究者たちは「冒険家(ヴァカンテイー)」な面を持っているかも・・・だったり、「先生には内緒でクローンマウスをつくってい」た、理研の若山研究員の話を聞くと、倫理的な資質に???が感じられ、少し恐いシナリオもあり得るのかな、と思ってしまうのであった。

 とにかくキャッチアップ(する気があるかは分からないのだが)が大変そうだ。

2014年4月15日火曜日

(5)北米神学校事情2014

 昨今は日本の神学校では入学者数が減り続けているように聞く。

 一つは神学校の入学条件に「洗礼」や、(よくは知らないが)「献身している」とかがあるためか、と思う。

 しかしキリスト教主義系大学を除けば、世俗の大学で「キリスト教神学」や神学緒科を学べる場所はそうないだろうから、将来牧師や伝道師などの専門職に入らない人(例えば一般信徒や関心の高い人)も学べるような環境に変えて行く事を少しは考えてみても良いのではないか、と思ったりする。

 このクリスチャニティー・トゥデー誌記事によると、今や牧師などの専門職につく人のための学位プログラムである「マスター・オブ・ディヴィニティー(M.Div.)」取得者で、実際にそのような職につく人の数はどんどん減って全体の4割程度となっていると言う。

 筆者が取得した頃はほぼ9割がたは「ミニストリー」に入っていたと言うわけだから、神学校を取り巻く環境は大きく変わったのだろう。

 さて(カナダを含めた)北米神学校事情を知るためには、神学校の認証制度を知らなければならない。

 日本では数年前、某福音派神学校が大学院設置を巡って一苦労したことがあったが、学位がどのように認められるかに関し、日本ではキリスト教主義大学(同志社、関西学院、など)のように文科省経由と、北米のように独自で認可機関を作ってやる場合と、二通りあることになる。

 問題は後者の場合、認可機関に所属する神学校の数が少なく、神学校自体も弱体な場合、そもそも何をどう認可するかの枠組み作りと審査プロセスをそれほど念入りにはできない面がある。

 専任教員数や施設、図書館、蔵書数、学位数、履修過程、などなど相互に厳しい基準を出すだけの体力はないであろう。仮に作ったとしても、どれだけ厳しい審査を課すことができるだろうか。

 多分そんな背景もあって、特に博士課程まで考えた場合、どうしても文科省経由の認定機関による承認を求めることとなったのであろう。

 北米の話に戻るが、殆んどの神学校(大学に属する神学部も含む)が所属するのが、The Association of Theological Schoolsだ。

 現在270校所属している、とあるがそれだけの数の機関であればこそ認可プロセスにもそれなりのコストをかけられるわけだろう。そして一定の基準を保持することが認可の意義だから、審査のための訪問がある時は何かしら緊張が走った記憶がある。

 このATSが毎年統計を出しているが、この年度別統計データが半端ない。
 筆者はアズベリー神学校卒だが、当時から(30年以上も前)福音派神学校は学生数を毎年伸ばし、数を競っていた雰囲気があった。

 当時も今もフルタイムの学生数順位はほぼ変わっていない。南部バプテストの巨大校を除けば、フラー、トリニティー、ダラス、ゴードン・コーンウェル、の後にアズベリーが来ていた。一応10位以内だ。

 しかし今や事情は大分変わった。ゴードン・コーンウェルは結構頑張っているが、トリニティーやダラスは後退している様だ。

 もっと大変なのは南部バプテストの巨大神学校だ。いちいち名前を挙げないが、6校あるうち絶えず上位を競っていた神学校がかなり生徒数を落としてきている。

 その中でも最近の傾向として現れているのは、「急進カルヴィン主義」に変革しようとしているSouthern Baptist Theological Seminary や、Southeastern Baptist Theological Seminaryの方が、カルヴィン主義を取らない他の南部バプテスト神学校と比較して減少数が多い、と言うことだ。(この記事

 さて細かいことは省略し、少し大きな「神学校事情」を取上げると、一つは主流派の神学校の統廃合問題がある。そしてこれがなかなか上手く行っていないようだ。

 お金のかかる神学校教育を経ても、着任する教会がどんどん小さくなっていることは、神学校に行こうとする志気を鈍らせる。しかし教会同士が統廃合し、新任牧師をより厚遇できる態勢を取ればいいと言っても、教派間の壁はそうそう越えられるものではない。(その辺の事情はこの記事や、特にこの記事

 まだ記憶に新しいリーマンショックは退職年金などの資金からの運用益(書いた後で余りよく分かっていないことに気づいたが、個人の寄付金だけでなく慈善団体系財団法人からの大口献金に依存しているが、その基金が株・証券の運用益で作られているようだ・・・辺りのことを言おうとしたものです)で支援を受けてきた神学校運営を危機に陥れたわけだが、今ここに来てようやく回復してきているところらしい。
 しかしその間は教員数を減らしたりリストラをせざるを得なかったわけだ。

 メインラインに限らず福音派教会の教勢も今後減退する方向と見られるから、拡大拡張路線を取ってきた福音派神学校は、今後入学者数が減少して行くと、経営的にまた苦しい場面も出てくるだろう。

 そんな中での面白いことは、ATS加盟校数は減少に転じないで、増えているという点である。

 その要因は何かと言うと、①韓国系移民のキリスト者人口が多いことによる牧師教育の必要、新学校の創設、と言う動きや、②司祭数が頭打ちなカトリック教会で信徒の神学校教育が拡大に繋がっている、と言う点だ。

 色々な光と影があるものだ。

2014年4月14日月曜日

(2)「イエス入門」読書会を終えて 参加者感想文③

今年3月に終えた、リチャード・ボウカム「イエス入門」読書会参加者感想文のシリーズです。


「イエス入門」を読んで

(名前) 山田、(住所) 川口市、(年齢) 50代、男性 


 小嶋牧師と出会った頃、私はGood News(福音)とは一体全体何を意味するのか解らなかった。

 実を言えば読書会が終わった今でも自信がない。

 イエスの教えとは、道徳の教科書のようだと錯覚していたし、聖書にしても新約聖書や旧約聖書全体ではなく、4福音書を速読した程度の浅薄なイエス(キリスト教)知識しか持たなかった。奇跡物語は全く信じられず、却って私と聖書とを離れさせた。

 そんな中で、小嶋先生にこの本を紹介して頂いた。

 私は、感想文というよりはむしろ、より正しくイエスやイエスの時代を理解するための良書として推薦したい。

 本書は、かなりのスペースを割いてイエスが生きた時代背景を説明している。イエスが目指した事は、当時の時代背景を知らなければ、過去の時代を現代の法律で裁くような間違った文脈の判断を招く可能性があるからだと思う。

 当時のユダヤ人は、ローマの束縛から自分達を解放するメシアを待望していた。政教分離を疑う事も知らない現代日本人がイメージするような単なる精神的指導者ではなく、国家的且つ宗教的な指導者としてのメシアをユダヤ人は切望していた。

 小嶋先生がイエスは革命家だと読書会の中で話されていたが、多分そうなのだろう。当時の常識や律法を破り、悉く当時の指導者であったファリサイ派やサドカイ派の人々と衝突していたのだから、危険人物と言うよりは革命家の方が適当だと思う。

 当時は、例えば安息日には行動してはいけないと律法に規定されていたが、イエスはおかまい無しに人々を癒した。法律が人の行動を規制するのか、人が優先なのかをファリサイ派の人々とイエスは度々議論したが、そんな行動をとるイエスは、ファリサイ派の人々にとって自分達のルールを破り、自分達の既得権益を危うくする者であり、始末すべき人間だった。現実に彼らによって、イエスは葬られる事になる。

 イエスは統治者のローマ帝国と論争した訳でもないし、ましてや軍事的指導者でもなく、同胞のユダヤ人と論争して葬られた。伝道開始から十字架につけられるまでは凡そ3年だったが、その間どんな世界がイエスの頭にあったのだろうか。

 本書は、当時の人々やイエスがイメージしたユダヤの国、神の王国がどのようなものであったかを丁寧に説明する。その国は、人々の持つ信仰の力によって神の統治を支える神の王国だろう。イエスの俄には信じられない数々の奇跡物語も、イエスが、人々の信仰の力で神の憐れみを引き出したのだ。だからどんなケースでもイエスが病を癒せたかと言えばそうではない。イエスの育った地域でイエスを良く知る人々に対してはあまり奇跡が成功していないと述べられている。そこではイエスは、信仰の対象にはならなかったのであろう。これらを考えると、イエスが万能奇跡発起人ではなく、人々の積極的な参加が善や義を行う為に必要だと考えるべきなのだろう。受け身で待っていても何も解決しないのだ。

 神を信仰し、信頼する事によって、病や暴力や貧困を解決し、イスラエルの国だけではなく、全世界的に神の国を完成させられるとイエスが考えたのではないかと思う。

 神学とは無縁な個人的感想だから、私が正しい理解をしたとは思い難いので、本書を読んで頂き、読者が正しいイエス理解を得られれば幸いに思う。

2014年4月13日日曜日

もしお呼びいただければ・・・

説教奉仕/講師にお呼びください、と言うことですね、一応。

 私(小嶋崇)が牧師として仕えている、巣鴨聖泉キリスト教会は年2-3回礼拝を休みます(汗)。
 驚かれるかも知れませんが、日曜以外の集会(元旦礼拝、イブ礼拝、など)との兼ね合いで無理のないよう配慮した結果です。

 さて牧師である私はこれらの日曜を他教会での礼拝参加に用いるようにしました。(例えば昨年末と今年頭、教会巡り
 礼拝式のかなり異なる教会の礼拝に参加することも良い学習だと思っています。(学習は二次的なもので、礼拝に行ったわけですが。)

 今年はただ礼拝に参加するのではなく、説教の奉仕に呼んでもらえたら行きたいな、などと考えています。

 ①2014年8月10日(日)
 ②2014年12月28日(日)


の2回が当方の礼拝休みの日曜です。

 これをお読みの方で、これらの2回の日曜に礼拝説教、あるいは「聖書の学び」講師、に私を招いてくださる教会があれば、どうぞお問合せください。(2回とも同一教会、と言う意味ではありません。

《説教奉仕》
 礼拝説教は基本謝礼は必要ありません。(交通費などの経費は支給してくださると助かります。)
 
《「聖書の学び」講師》 
 以下の三つの本の主題やトピックからお話できます。
 ①ポール・マーシャル「わが故郷天にあらず
 ②スコット・マクナイト「福音の再発見
 ③リチャード・ボウカム「イエス入門
・時間としては1時間枠、私が話す時間は35-40分、残りが質疑応答です。(90分枠に延長もできます。)
 ・講師謝礼として「3000円/時間」を目安としていただければ幸いです。
 ・上記の本、①②③、の「販売コーナー」を用意して頂けると感謝です。
  当然ながらいずれもお勧めの本です。
  本の趣旨を理解して頂くことも「講師として呼ぶ」かどうかの有力な判断材料となることと思います。 

《限定事項》
 ・私が行ける教会(集会)は、JR(山手線)巣鴨駅を起点に、公共交通機関を用いて1時間程度で行ける範囲として頂ければありがたいです。
 ・2主日とも「繁忙期」なため、時間的にゆとりを持って行ける範囲となりますことをご了承願います。
 ・言うまでもなく、「日帰りできる」教会と言うことになります。

《問合せ》
 ・なるべくメールでお願いします。
  小嶋崇、sugamo_seisen(*)yahoo.co.jp
     (*)の部分をアットマークに変えてください。 
 ・①②のいずれも当日から数えて一ヶ月前までに「依頼・双方の要望確認・受諾」が終了するようお願いします。

以上色々条件をつけて申し訳ありません。
よろしくお願いします。

(5)オウム真理教ノート 2014/4/13

先日書いたものの続きになります。

《高橋のケース》
 前回取上げた「野田成人の入信パターン」がどちらかと言うと平凡なタイプであるのに対し、高橋のケースはそれなりに独特なものがあると思う。

 高橋の高橋英利『オウムからの帰還』によると、高橋は1967年東京立川市に生まれ、公団住宅で育った。

 まだ小学校にあがる前、彼は「自分が住む世界」の拡がりを確認すべくある冒険を試みる。

 それは彼の住む団地内に建てられた「同じように建てられた公団の建物」についているナンバーを「1~24、25、」と一つずつ確かめて行く、というものだった。

 19棟まで確認が進んだ時、そこで建物の棟数表示は順番通りではなくなった。ナンバー19棟の後がスポっと抜けてしまっていることを発見した。

 ここで高橋少年は意を決して同じ団地を出て、その外に「第20棟」を探しに行く冒険を試みた。

 自転車で数キロも走ったらしいが、そこに「忽然と自分の団地と同じ建物があらわれた」。

 最初は「これで続きの建物が探せる」と思った高橋少年だったが、目にするのは既に数え終った「7」「8」・・・だ。

 どうして同じ番号の建物があらわれるのか・・・。
 自分はもうかなりの距離を来た筈だ。
 じゃあれだけ走って結局自分の住む団地に逆戻りしたのか・・・。

 辺りは暗くなりかけていた。
 高橋少年はパニックに襲われていた。
 少し観察すると幾つか自分の団地とは異なるところがあった。

 しかし高橋少年は既にかなり心細くなっていたので、「この団地は自分の団地だ」、と信じたくて仕方がなくなっていた。

 そうして自分の団地の番号と同じ階の同じ番号の部屋まできた。
 ドアを開ければそこには見慣れたお母さんの顔が待っているはずだ。
 ドアをノックして出てきたのは・・・(残念ながら、やはり)違う人だった。

 と言うエピソードを紹介している。

 この《原体験(と、筆者が呼ぶ)》とオウムでの体験とを照合して分析しているわけではないが、自分のオウム体験を検証する為に書かれた手記の冒頭に掲げられたこの体験は、高橋にとってかなり大きな意味を持つものであったに違いない。

 この辺が野田とは大きく異なる点だと思う。

 どう言うことかと言うと、(宗教社会学をかじった者のざっくりした感想で恐縮だが)、野田の場合オウム入信のきっかけとなった「大学入学後の挫折体験」まで、自己の世界観をかなり根底から揺さぶられるような体験がなかったように見えることだ。

 彼は人並みに「良い学校、良い成績」路線を破綻なくなぞっていたのだろう、と想像する。

 それが東大に入って「『ガロア理論』を自分よりはるかに若い年齢で打ちたてた頭のいいやつがいる」ことを発見して打ちのめされ「自分の限界」を思い知らされる。

 しかしここまでは、従来の価値観に従って、「世間」での(相対的優劣で判定する)「自分の立ち位置」を確認しただけでしかない。

 ただこれをきっかけに「何か別の価値観、意味」を探す方向にさ迷い始める。
 「人生の揺らぎ」の局面に入り込んで、自分を支える何かを「精神的な世界」方面で物色し始めたわけだ。

(※最早一記事としては長くなってしまった。野田、高橋の本は今日中に図書館に返却しなければならない。残念ながら一旦ここで文章を止め、結論めいたことは次回に延期することと相成ります。失礼!


2014年4月12日土曜日

木曜読書会のご案内



リチャード・ボウカム「イエス入門』読書会
は今年3月で終わりました。(要望があればまた計画します。)

その後を受ける、継続のための読書会の案内です。
現在3名登録していますので、1-2名余裕があります
以下の案内を読んで興味を持たれた方、お問合せください。
(※連絡先は最後の方をご覧ください。)
 
旧約聖書入門
十戒を通して学ぶ生きる知恵
一般対象の読書会 (20145月~11月、全12)
 
宗教と聞くと戒律を思う方は多いと思います。しかし同時に何らかの規範なくしては人間関係は崩壊してしまいます。暴力やうそを律する戒めを与えられないで育った子どもはどうなってしまうでしょう。
実に戒めは生きる知恵なのです。この読書会では旧約聖書の中でも有名な『モーセの十戒』を取り上げて、そこにはどんな意味や知恵が隠されているのかご一緒に学んでみたいと思います。
子育てに悩んでいる方、人間関係の基本は何かと思っている方、キリスト教とは、またその土台となったユダヤ教とは何かと疑問に思っている方、是非この読書会にお加わり下さい。

テキスト:米村英二「健やかな人生の土台を築く~モーセの十戒に学ぶ生き方」(大津キリスト教会発行/あめんどう取次・・・リンクはここ
税込価格756
  
※この本を書かれた米村英二牧師とは個人的な面識はございません。ただ以下の動画を見ると語り口が柔らかで、分かりやすくお話なさる牧師さんのようですね。

 

日 時:(木曜日)午前10時~1130分…2014515日、529日、612日、619日、73日、717日、94日、918日、102日、1016日、116日、1120
     (417日の説明会は無料)

会 場:工房活水・ティールーム(巣鴨聖泉キリスト教会の隣です。)

参加費:6,000円(500/1コマ、但し一括前払い納入のみ)

申込期限:201458日(木)

キャンセル:途中継続できなくなった方は、お知らせ頂いた時点で残っている回数の80%を返却します。

最大人数:5名(見学の場合は、要事前問合せ。)

講 師:小嶋 崇(コジマ タカシ)巣鴨聖泉キリスト教会牧師

問合せ・申し込み:(優先)メール…sugamo_seisen*yahoo.co.jp
*に変換してください。

明日の礼拝案内

棕櫚の主日礼拝

2014年4月13日(日) 午前10時30分

朗読箇所 マルコの福音書 11:1-11
説 教 題 「夜は明けて朝となり」
説 教 者 小嶋崇 牧師
 

 
説教シリーズ:キリスト者の交わり(4)

※ディートリッヒ・ボンヘッファー「Life Together(英訳)」の個人(日本語)訳を使って学ぶシリーズ
 

「福音の再発見」をノミネート

このブログでも度々取上げたスコット・マクナイト「福音の再発見(原題、キング・ジーザス・ゴスペル)」が「第4回キリスト教本屋大賞」の10作品の一つにノミネートされました。
キリスト教本屋大賞とは
 キリスト教出版販売協会に加盟する全国のキリスト教専門書店が、過去1年間に刊行された本から「売りたい・お勧めの本」を投票形式で選ぶ。
 同賞は、低迷する出版業界を少しでも活性化させようという目的で2011年に始められ、これまで日野原重明著『愛とゆるし』(11年)、山浦玄嗣著『ガリラヤのイェシュー』(12年)、渡辺和子著『置かれた場所で咲きなさい』(13年)が大賞に選ばれてきた。
 投票には、同協会加盟書店に勤務しており、コンセプトに同意する人であればパート・アルバイトを含め誰でも参加できる仕組みで、第1回から一貫している のは、「版元が売りたい本」ではなく、キリスト教の「専門書店がお奨めする本」を選ぼうとしている点。必ずしも1年間でよく売れた本と重なるわけではな い。
 「賞を選ぶ過程も広告媒体として読者に告知していきたい」との理由から、一次選考でノミネート作品を10点選び、二次選考で大賞を決定するという2段階 の工程をとっている。また、組織票を入れないという目的で、第2回からは「自社の出版物には投票しない」という規則が加えられ、審査もより厳正となった。(説明文引用元
出版企画時は色々心配していた面もあったが、このような形で「支持」の一端が示されたので、少し嬉しい。

 この「グッドニュース」については、こちらでも紹介しています。


2014年4月11日金曜日

(3)ことば/コトバ考:聖書と文学 1

先日もご案内したように、
2014年5月30日(金)、午後2~3時半
巣鴨聖泉キリスト教会
で「ヨナ書の表現よみ」と言う実験的催しをします。

ヨナ書は短いですから、読むだけなら10分もあれば終わってしまうでしょう。

それで『聖書テキスト』を読むと言うことがどう言う意味合いがあるのか、「表現よみ」をしてくださる渡辺知明氏と、小嶋とで、対談しようと言うことになりました。

テーマは「コトバ/ことば」を巡る対論、です。

渡辺氏は「文学のコトバ」、小嶋は「聖書のことば」
と言う、カタカナの「コトバ」とひらがなの「ことば」でニュアンスの違いを整理しながら対論を進めて行こうと思っています。

それで対論のポイントを探って行くために、「ことば/コトバ考:聖書と文学」 と言うシリーズを設け、当日の対論までのスパーリングをしてみたいと思います。

先ず初回は、過去に小嶋が巣鴨聖泉キリスト教会での「修養会」プログラムで書いた文章、現代《ことば》考、から振り返ってみます。(2回に分割)
 「ことば」は空気と同じように大切なものでありながら反省することの少ないものではないだろうか。ちょうど(朝日)新聞紙上で《ことば》に関連のあるシリーズが掲載された。その中の二つの記事とどのようなクリスチャン的「対話」が可能か探ってみよう。

 先ず、詩人(長田弘)と演劇作家(平田オリザ)もともに現代人の《ことば》に対する態度を批判しつつ、あるべき方向性を探っているのだ、ということを見ておきたい。

A.長田弘『思いて取る』

「今の日本人は、言葉を、人間の配下のようにこき使えると考えて いるのではないか。しかし、実際は言葉の方が人間より大きいのです。 言葉の力が怖いから、すぐに言葉を放りすててしまおうとする」
  「伝えるというのは、実は、自ら読むということです。伝えることの本質は、どう読むかという伝えられる側の一方的な努力の中にあります」
  「この社会を生き延びるには、言葉の力をとりもどすほかない。 今の言葉はとても疲れた、脆(もろ)いものになっていて、 お互いの結びつきを表現できなくなっています。 それだけに、言葉を確かにしていく個々の一方的な努力が、 いっそう求められているのではないか」
 (1998年1月6日朝日新聞夕刊、「伝えるということ②」)

長田さんの言いたいことは以下の三つに要約できるだろう。
  • 言葉と人間の位置・力関係の転倒、
  • 読む側の努力を要請する「伝えられたもの」、
  • 人間の絆を繋ぐ言葉の力を回復するために「言葉を鋳直す」ことが必要。
クリスチャンにとっては、神の《ことば》である聖書の《ことば》との触れ合い方への警鐘として取り上げることができるだろう。
 多量の情報を処理することを必要としている現代生活で、「含蓄のある言葉」は困りものである。テレビやマスメディアのような「消費」しやすいことばに慣れさせられると、自ら深く 読む作業はしんどく感じられる。テクノロジーの革新によって「聖書」は活字として簡便に個々人の目の前にあるようになった。しかし「わたし自身が」読む作業を簡単便利にするものはないようである。それぞれが「読み手」として深くなるようなプロセスを積み重ねる、そのことが要請されている。
こんなことを書いたが、もう15年は前のことだ。
 今振り返って何を感じるか・・・。

 長田さんの新聞記事から僅か三箇所引用しただけなので、今読み返すと前後の脈絡を大分忘れてしまっていることに気付く。
 読み返してみて目に留まったのは「一方的な努力」 と言う表現が違う場所で繰り返されていること。

 かなり大雑把に読み替えると、以下のような構図に見えなくもない。
 日常会話の中に「言葉の体系」として堆積された『法律』『格言』『唄』『昔話』『○○のやりかた』等々、つまり社会が世代を超えて存続するために伝承される様々な「知恵」や「教え」や「決まり」、つまり「文化」と一括りで言われるところのものは、そのポテンシャルを「今」に最大限に活かすためには、単に文字情報を再現してなぞるだけでは到底無理だ。
 言葉を通して蓄えられた様々な文化財は、「読む作業」を重ね深めて行くことでしか、「今を生きる世代」の社会に活かすことは出来ない。
と、こんな風になるのではないか。

 ※何らかの「リフレクション」は次回以降に持ち越し。




2014年4月10日木曜日

(2)「イエス入門」読書会を終えて 参加者感想文②

「『イエス入門』感想と印象」

(名前)橋倉、(住所)豊島区巣鴨、(年齢)60代、(性別)男

 キリスト教はヨーロッパから世界に向けられた宗教と思っていましたが、ヨーロッパの宗教となる前に世界宗教であることに驚きました。
 キリスト教教義と離れてもイエス像はアイコンとして好意的であり、まさしく本書の通りです。
 キリスト教は様々な、芸術、音楽、文学に強い影響を与えているのは事実です。これらは当時の宗教文化育成として、芸術家が教会などの強権力に擁護されて芸術を生み出した。中世の文化はかならずしもすべてキリスト教と100%係わっていたとは考えられない。後世、宗教と係わらない文化は自由な個人発想に転換して現代文化の主流となっています。

 四福音書はイエス像をかなり歴史的に正確に捉えていると感じました。
 本書説明では福音書のベースである“目撃者証言”と“口述伝承”を高く評価しています。
 他宗教でも証言・口述伝承は一般的であり、年代を越えての信憑性に関しては判断が難しいと思います。

 イエスが存在した時代のイスラエルはユダヤ教で、旧約聖書が教義となっています。
 律法(トーラー)主体の宗教で、一般生活は律法を規範としていたようです。
 イエスは律法を熟知していたようですが、当時は律法を物差しにかなり硬直した宗教生活と思われます。イエスはそのような硬直した宗教性を柔軟に解釈して貧しい人々に教えを与えています。
 イエスはたとえ話を多用し、人々に解りやすく、時には考えさせるような講和で臨みました。
 イエスの講和にはかなり誇大表現もあり、如何様にも解釈できます。聖書を読み始めた人にはどこまで行動規範に必要かの解釈が難しいでしょう。

 神の国をこの地上にも作ることがイエスの使命であると感じました。本書でもかなりのページ数をこの説明に費やしています。
 非キリスト者は、天国(神の国)は死後の世界に存在し、死後、天国へ行くために信仰生活を送るように感じますが、イエスの意図は全く逆であり、マタイ福音書に記されている有名な“祈るときには”の節にあるように、
“御国が来ますように。御心が行われますように。天におけるように地の上にも“
総じて、この地上に神の国を作る事が神の支配なのでしょう。

 イエスの十字架刑後、復活して昇天したようですが、復活から昇天までの間の言動・行動はあまり福音書には詳しく記載されていないようです。
 弟子には昇天後の信仰を述べ伝えたと思われます。

 「イエス入門」著者、リチャード・ボウカム氏の文章は非常に客観性に富み、個人見解をできるだけ排除した優れた図書と思います。

 クラスに通っている間に思いつた、考え付いたこと

 本書ではイエスのひとなり・使命を歴史的事実から述べられていると思います。
 小嶋牧師様が解説している間、いろいろな質問(あまりに無知な質問で失礼しました)をあびせてご迷惑だったかもしれません。
 宗教を持たなく、キリスト教を全く知らない人間とキリスト者の間には大きな信仰の壁、知識の壁があるようです。
 私自身は技術屋なので、ジャンルを問わず、理論(屁理屈?)で理解しようとします。
 宗教と科学は相いれないと世間では言われていますが、現代に至ってはそう思いません。神学、人類学、心理学、哲学、物理学、生物学、生理学などの各視点から考察すれば幅広い理解と発展につながって行くと思います。
 一個人がすべてを勉強するのは到底無理ですが、現在までかなりの先駆者が存在するでしょうから、その資料を基にアプローチしたいと思います。

 最後に、今回のクラスで勉強させて頂き誠にありがとうございました。重ねて感謝いたします。


※ブログ主注、「イエス入門」ではカバーしきれない質問が幾つもなされました。キリスト者には「当たり前」になってしまっていることも、実際にキリスト者ではない人にも説明をしようとすると、なかなか難しいことを感じました。
 また『三位一体』や『(聖書記者への神の)言語啓示』の具体的様態など、依然として簡単には説明できないことも改めて感じました。良いチャレンジを頂いています

(2)エイビリーンの祈りのノート

 このタイトルだけで分かる人は、その本を読んだことのある人、と言うことになるだろう。

 キャスリン・ストケット『ヘルプ ~心がつなぐストーリー~』、()(


 (相変わらず映画のことには疎いのだが)2011年には映画化もされ、アカデミー賞助演女優賞や、主演女優賞にもノミーネートされたり獲得したりしたそうだ。


 公民権運動最中の1960年代、南部深部(ディープ・サウス)のミシシッピー州を舞台に描かれるのは確かに「人種差別」のテーマなのだが、むしろその具体的な生活の中での一コマ一コマが興味深い。

 筆者は1970年代後半にバイブル・ベルト州の一つであるケンタッキーで学生生活を送ったが、英語もよく出来なかったせいか、様々なレベルでの人種差別表現や行動を感知することは出来なかった。

 そんなわけで時間的にはその僅か10年前位にこのようなあからさまな差別を描いている小説はなかなかスリルに富んで思わずどんどん読み進めてしまうのだ。

 主人公はそのような差別の実態をレポートしようとする、大学卒仕立てでローカル新聞の生活欄記者のミス・スキーター。

 しかし(これは書評でも、映画評でもないのでストーリーの詳細も粗筋も書かない)筆者にとって面白かったのは、もう一人の主役、ミス・スキーターのプロジェクトの強力な助っ人、黒人ヘルプ(日本語的には「お手伝いさん」)エイビリーンだ。

 彼女は敬虔なキリスト教徒で、自分が通う教会でも一目置かれる存在だ。
 一日の激しい労働で疲れていても、エイビリーンは主に教会の仲間たちへの「執り成しの祈り」を忘れない。

 誰々さんが○○で苦しんでいます。神様助けてあげてください。

 そんな風に祈るわけだが、エイビリーンの「執り成しの祈り」は口に出すことではなく、「祈りのノート」に記録される。そして祈る(のだろう)。

 それは1時間以上に及ぶこともある。

 いつしかエイビリーンの祈りは「効き目がある」と仲間たちに広まり、何かあるとエイビリーンに「祈りリクエスト」がなされる。

 しかしエイビリーンは祈祷師ではない。コミュニティーの中で仲間たちがどんな困難にあっているかを考え合わせながら、慎重に「祈りのノート」に祈るべき内容、(多分)どう祈るべきかを書き留めていくのだ。

 一種の「祈りのレシピー」みたいなものか。

 エイビリーンのような人は単なる敬虔なキリスト者ではない。
 自分の敬虔を高めるために祈るのではない。(それもないわけではなかろうが)

 エイビリーンは祈りを通して自分が属する共同体を下支えするリーダーなのだ。

 でふと思った。荒野でイスラエルがアマレクと戦った時、実戦のリーダーは将軍ヨシュアだったが、モーセは手を挙げて祈り続けたのだった。 

2014年4月8日火曜日

(2)リチャード・ボウカム著「イエス入門」読書会を終えて

2013年6月、新教出版社刊、リチャード・ボウカム「イエス入門」を用いた読書会(概要、シラバス、予定などの資料へのリンクがあります)を無事終了しました。


参加した方々に感想文を書いていただきました。

ネット掲載許可を頂いたので数回に分けて紹介します。

「50年の謎『イクサス』」


(名前)石田、(住所)板橋区、(年齢)65才、(性別)女性

 昭和30年代の中頃にハリウッドの総天然色映画で旧約聖書関係映画が多くありました。
 例えば「十戒」・「ベンハー」・「サムソンとデリラ」等です。

 50年の謎・・・とは、キリスト教弾圧の時代にローマ貴族の奥様がお化粧していると、下女が近寄って来ておしろいの粉をこぼし《魚》マークを書いて目配せし ます。
 ご主人が来たので慌てておしろいの《魚》マークを消すのです。

 映画の題名も俳優も覚えてないのですが、金髪の奥様と淡いブルーの洋服と《魚》マークだけ鮮明に覚えています。

 《魚》マークが何なのか知りたくて聖書を読みましたが見あたりません。

 以来謎を解きたくてキリスト教関係の本を読み、謎を求めて50年たちま した。

 やっと機が熟したのでしょうか四ッ谷の聖書グッズのお店で《魚》のブレスレットを見つけました。

 また読書会に参加して《魚》マークのことを詳しく教えて頂き謎が解けた次第です。

 《魚》マークの意味は下記致します。

 新たな謎は映画の題名は何だったのか
 どなたかご存知の方がいらっしゃったらと願ってま す。

(記)  《魚》マークはイエスの頭文字【イクトゥス】
ギリシャ語で【イエス・キリスト・神の子・救世主】の頭文字をならべたもの

※筆者注、「イエス入門」には【イクトゥス】《魚》マーク、のことについての言及はないようですので、多分会話の中での余談でその話題が出てきたのだと思います。

2014年4月6日日曜日

(3)オウム真理教ノート 2014/4/6

オウム真理教について書き始めたのは、一つのテレビドキュメンタリー番組と、一人の宗教学者が提出したオウム真理教の「近代」思想史的位置づけに関する本の出版に拠るところが大きい。

それを書いた記事、オウム真理教への一視点、は2012年6月初旬だからそろそろ2年になろうとしている。
その後「オウム真理教ノート」として、特に2012年7月、8月、何本か書いた。

どちらにしても「オウム真理教」の《ラベル》で見ると、これまで9本の記事を書いたことになる。

一応それら9本の記事に目を通してみたのだが、オウム真理教がテロ事件を起こす内的意味連関、あるいは構図を一定程度説得力を持って提示できているのは小説家、しかも『物語り』を意識的に掘り下げて掬い取ってきて小説化する手法を取る、村上春樹ではないかと思う。


しかし筆者が「オウム真理教」について総括するのは時期尚早だと思っている。

と言うのも、オウム真理教ノート 2012/7/30で事件に関わった中心人物の一人、林郁夫の手記が示唆するように、やはり外側からの観察や、インタヴューだけでは十分分からない、当事者の動機や、複雑な意識が、それぞれにあるからだ。

「それぞれに」と言うのは、事件後サリン事件に直接には関わらず、そのため逮捕されず教団に暫く残った者たちが手記を出版しているのだが、それを読むと「オウム真理教」への関わり方がやはり「それぞれ」と思えるからだ。

今読んでいるのは次の二人の手記だ。

野田成人(なるひと)『革命か戦争か』


高橋英利『オウムからの帰還』


一回では済まないと思うが、先ず二人がどのようにして教団に引き寄せられたか見てみよう。

《野田のケース》
 野田は所謂ガリ勉で東大に入ったが、自分の能力に限界を覚え、「挫折し」「自殺を意識する」ことで「精神世界」に関心を持つようになったと言う。
 そうして書店の精神世界コーナーを物色しているうちに、麻原の『超能力秘密の開発法』という本に出会います。そこに記されていた『輪廻からの解脱』と言う概念は、ある意味衝撃的でした。それは自分が今生きていることの意味合いを、正面から問い直すものでもありました。そこですぐに私は麻原のヨーガ道場に連絡を取り、入信したのです。 (20ページ)
そしてあるセミナーで初めて麻原から直に話を聞くことになる。
 「ハルマゲドンと言うのは必ず起きるよ。99年に始まり、01年から03年の間にが使われる。そうなったらどうする?君たちは修行しているから、解脱して、ピカッと光った瞬間にクリアライトに入ればそれでいいよ。でも、修行していない君たちの家族や友達はどうなるんだ苦しむよね。それでいいのか君たちは。このことはインドの聖者たちはみんな知っているよ。でも彼らは諦めている。私は諦めないよ。ハルマゲドンを何とかして、食い止めようと考えているから君たちにも協力して欲しいね。」
 この説法には私は深く感動を覚えました。というよりもこれまでの自分といったら、己のことしか考えずに生きてきた。そのことが非常にエゴイスティックで、恥ずかしく感じられもしたのです。何か自分の生きている意味合いと言うか、託された使命というものに気付かされる大きな衝撃でありました。(21ページ)
キリスト者二世代目(父方)/三世代目(母方)として育った筆者にとって、このような野田氏の宗教的『ウブさ』『無垢さ』はある意味分からないでもない。(そのことを書けば長くなるので省略するが。)

 と同時に未成熟ではあっても、既に青少年期から宗教団体の影のような出来事(筆者の属する団体はある事件がきっかけで旧教団を離脱した)を通った者として、野田氏が余りにも『無防備』であった、と言う印象は拭えない。

 いくら高邁な理想を持って行動していても、そこにはさまざまな影がある。そのような「リアル」を多少なりとも経験した者には、「宗教がかったこと」だけ言われても、それを裏打ちするものがなければ、簡単には鵜呑みにしない。

 話は飛ぶが、ハルマゲドンに関連して言えば、根本主義的なキリスト者は教派の違いは様々だろうが、『空中携挙(ラプチャー)』を何らかの形で意識している。筆者が一年間過ごした米国バイブル・ベルトにある聖書学校の生徒たちは、『空中携挙(ラプチャー)』をジョークにすることも出来た。

 つまりハルマゲドンや『空中携挙(ラプチャー)』のような「聖書的終末の事柄」がどの程度にリアルかと言う問題に対しては、彼らなりに「一定の距離」を持てていたと思う。

 筆者はと言うと『空中携挙(ラプチャー)』のようなシナリオにはとてもお付き合いできない、と言うことで「終末」を封印していた。(文字通りには受け止めることは出来ない。しかしどう解釈していいか見当も付かない。だから触れないで置く。と言うスタンスだった。)

 しかし野田氏が書いているように麻原が語ったとすると、彼はキリスト教終末論、何だかよく分からないオカルト思想のようなもの、要するに極めて雑多な要素をいい加減な塩梅で接合した、常識的には「よく分からないシナリオ」を丸呑みし、極めて幼稚な麻原の予言を殆んど無批判的に受け入れた、ということになるだろう。なぜか。

 筆者の考えでは、要素は二つある。

 一つは「核戦争のリアリティー」は空想ではないと言うこと。(北米でなぜ「レフト・ビハインド」シリーズがシリーズトータルで6,500万部以上も売れたか、と言うことの背景も終末的なシナリオが、核戦争のようなリアリティーによって支えられていたから、と言う事があると思う。潜在的な恐れはリアルの世界で可能性があった。)

 もう一つは「自分の利己性」に気付き、「恥ずかしく」思った、と言うところにあるだろう。キリスト教用語では「罪」の意識の素朴なカタチと言える。

 このような初体験は現代青年が住む「宗教が人工的に殺菌除去された環境」では、殆んど「啓示的なもの」として体験されるのではないかと思う。

 もちろん「聖」と「俗」はそれほどはっきりと「サブカルチャー」と「メインカルチャー」とで棲み分けられているわけではない。
 ただ現代の世俗社会ではダイナミックな「宗教」は多分に隠される傾向、「私的空間に限定」される傾向にあり、「公共圏」から除外されることによって「一般的な話題」として共有されないために、自己が得た「宗教体験」の信憑性や正当性をチェックする機会に乏しい。

 「前田敦子は○○○○を超えた」の著者の宗教体験も、筆者から見ると「宗教が人工的に殺菌除去された環境」で育ったゆえの麻疹のようなものであり、要するに免疫がなかったのであろう。
 前田敦子の利他性が、殆んど「啓示的なもの」として体験されたのも、そのような背景の故ではないか、と思っている。

 では長くなったので、残りは次回に。


(1)お金以外に何か意味あるもの・・・


Money or Meaning
人生の報酬は何か

"One-quarter of Yale graduates entering the job market were going into finance or consulting, and Keegan saw this as a surrender of youthful talents and dreams to the altar of practicality."
マリーナ・キーガンは優秀な成績を収め、イェール大を卒業してニュー・ヨーカーで著作業の道に入る夢を見ていた。

彼女が大学に入学した時には、誰も金融やコンサルティングをキャリアーに考えている同級生は見当たらなかった。

だが4年後その1/4は実利を求めて就職する。

そんな同級生たちを見ながら「人生の意味」を問うた本の原稿(彼女のノートパソコンに入っていた)が出版された。

それは彼女のボーイフレンドが運転する自動車が事故に遭い、彼女が死亡した後だった。
そのノートパソコンは壊れたが、ハードディスクが無事回収されて出版に至った。
Marina Keegan, The Opposite of Loneliness

※著名なニューヨーク・タイムズのコラムニスト、ニコラス・クリストフの記事から。

Her First, and Last, Book

2014年4月5日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

4月6日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネの福音書 16:5-15
説 教 題 「パラクレートスの別な役割」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《御霊の働き》3
 その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。16:8 、新共同訳)

“When he comes, he will prove the world to be in the wrong on three counts: sin, justice, and judgment. (KNT) 

※聖餐式があります。

2014年4月3日木曜日

ヨナ書の表現よみ(文語訳による)

ヘブル語(旧約)聖書
ヨナ書の表現よみ(文語訳による
のイベント案内です。



日時:2014年5月30日(金)
   午後2時~3時半(※開場1時半)
場所:巣鴨聖泉キリスト教会
   〒170-0002 東京都豊島区巣鴨1-3-19
   Tel/Fax 03-3946-8035

《読み手》わたなべ・ともあき=1952年生まれ。
群馬県桐生市出身。
大学卒業後、日本コトバの会に入会、大久保忠利氏より、言語理論、国語教育理論、文章、話し方、表現よみ指導法を学ぶ。コトバ表現研究所所長、表現よみオーの会 代表、日本コトバの会事務局長。

《プログラム》
イントロ・・・小嶋崇(巣鴨聖泉キリスト教会牧師)
表現よみ・・・渡辺知明
対論・・・渡辺知明、小嶋崇
 聖書のことばと、文学のコトバ、文学作品と文語、・・・二つの異なる地点からの「コトバ/ことば」を巡る対論をします。

会場費:500円(30席限定) ★要予約
予約/問合 03-3946-8035
(メール)sugamo_seisen(*)yahoo.co.jp

(*)は@に変換してください。

2014年4月1日火曜日

2014 オープンチャーチ

今年もささやかながら開催します。

日時:2014年5月4日(日)、
    午後12時30分-14時30分
場所:巣鴨聖泉キリスト教会
地図及びアクセス

  
ゴールデン・ウィークのさなかですが、お時間都合つきましたら、また六義園、古河庭園、等散策でお立ち寄りの際は是非お立ち寄りください。
お茶とお菓子でおもてなしします。

お問合せ(電話): 03-3946-8035
お問合せ(メール): sugamo_seisen(*)yahoo.co.jp
  ※(*)の部分を@に変換してください。