2014年4月27日日曜日

(5)教会と国家 宮田光雄講演会

キリスト教系出版社である、新教出版社の創立70周年を記念する講演会へ行ってきた。
 
第1回  宮田光雄氏
「バルメン宣言の政治学」 バルメン宣言80周年を覚えて
日時:4月26日(土)午後2時から4時まで
会場:信濃町教会
 
最近突然強烈に眠気が襲うことがあり、この午後も1時間半ぶっ通しで語る講演者の話を聞くのは時に辛いものがあった。
 
しかし荒井献講演会の時もそうだったのですが、宮田氏も今に至るまで直に聞いたことがなかったので、今回行ってみたわけです。

冒頭、本当は(ユダヤ人である)シャガールの「十字架のイエス」ステインド・グラスについて話したかったのだが、バルメン宣言80周年と言うことでしゃべってくれと言う要請で(最初不本意であったが、そう言う事であれば既に勉強して知っていることでもあり、それほど準備に手間取ることもないか、と言うことで)今回の講演題になったのだ、と言うことでした。
 
用意された講演のアウトラインは、
1. ヴァイマル憲法からナチ憲法体制へ3.
2. ナチ宗教政策とドイツ教会闘争
3. バルメン宣言の神学的基本線
4. バルメン宣言の政治倫理
5. バルメン宣言と私たち
となっているように「現代的適用」は僅かに5で言及されただけであった。
 
時に涙声になりながらの「訴え」であったが、用意されたアウトラインにも『時代史的制約・・・』とあるように、「バルメン宣言の神学と(政治)倫理」をそのまま鍛え直して使っても、やはりかなり限界があるなーと思わされた。
 
今そのプリントに書き込んだメモを見ると、『4. バルメン宣言の政治倫理』 が一番書き込みが多い。
それで、以下はその書き込みを頼りにしながら二言、三言。

先ずプリントの方の「細かい点」まで紹介しておく。
4. バルメン宣言の政治倫理ーー第5テーゼの分析
巻頭引用聖句ーー国家の課題=機能的国家論ーー終末論的留保ーー拒絶命題=《全体国家》の拒否
配られた資料にある) 『第5テーゼ
 「神をおそれ、王を尊びなさい」(Ⅰペトロ2:17)
 国家は、教会もその中にあるいまだ救われないこの世にあって、人間的な洞察と人間的な能力の量りに従って、暴力の威嚇と行使をなしつつ、法と平和とのために配慮するという課題を、神の定めによって与えられているということを、聖書はわれわれに語る。教会は、このような神の定めの恩恵を、神にたいする感謝と畏敬の中に承認する。教会は、神の国を、また神の戒めと義とを想起せしめ、そのことによって統治者と被治者との責任を想起せしめる。教会は、神がそれによって一切のものを支えたもう御言葉の力に信頼し、服従する。
 [拒絶命題・・・筆者]国家がその特別の委託をこえて、人間生活の唯一にして全体的な秩序となり、したがって教会の使命をも果たすべきであるとか、そのようなことが可能であるとかいうような誤った教えを、われわれは退ける。
 教会がその特別な委託をこえて、国家的正確、国家的課題、国家的価値を獲得し、そのことによってみずから国家の一機関となるべきであるとか、そのようなことが可能であるとかいうような誤った教えを、われわれは退ける。
メモ①機能的国家論
この文章を書くにあたってバルトと神学的綱引きをしていた人物がいた、とのことである。(ルーテル派の神学者であった、と説明していたと記憶する。)
 
粘りに粘って相手が根負けした隙を突いて、バルトは表面上は論戦相手の論法を容認したように見せて、「実」を取ったのだと言う。
それが「秩序」とされるべきところをバルトは「定め」に書き換えたのだと言う。
また「国家」を聖書から説く時の基本聖句であるロマ書13章1節ではなく、Ⅰペトロが採用されたのも、国家に対する服従を幾分かでも弱める効果を狙ったものらしい。(つまり「機能的」国家論とは限定的という意義。)
 
メモ②人間的な洞察と人間的な能力の量り
タテマエ上ではなく実際の国家をリアリズムで具体的に検証すること、ドイツ語ではsachlichkeit。
 
と以上2点だが(「えっ、そんなに少ないの」と言われそうだが・・・。)、確かルーテル派の「二つの神の国」議論の伝統よりも、バルトのような改革派神学の方が「抵抗権」的思想的基盤があって・・・みたいなことも言っていたような。
 
この辺はかなり昔話を聞いているような感じであった。
現在「憲法論議」がまた盛んになっているが、国民主権の民主主義の枠組から見ても、また「権力を分権して権力の集中を規制する」ような権力規定をするのが憲法である、と言うような基本的理念に照らすと、バルメン宣言時の「教会と国家」の神学的議論の枠組みでは最早ずれている、と言う認識から始めなければならないのではないか。
 
さらに言えば、まだまだ細かいところは議論できないが、「ユダヤ人問題」が発覚した時点で、「教会論」の問題で危機的な状況を迎えていた(ボンヘッファーはいち早く自覚的だった)と言える。
 
また、「人間的な洞察と人間的な能力の量り」 ・・・具体的な政治過程の検証、と言う課題からも神学は現実から遊離してしまう、具体的な政治の問題のリアリティーを追跡するよりも、「啓示」のコトバに篭ろうとする傾向がないだろうか、と思うのだ。
 
ボンヘッファーの神学的営為は非常に状況的な面があるが、未完の「倫理」で特徴付けられている「悪の装い」などは、システムとしての神学よりも、時に即した「神学的見極め」の大事さを物語るのではないだろうか。

どちらにしても「全体主義」の20世紀を経て、国家、権力、悪の問題の複雑さ、曖昧さ(ハンナ・アーレント「全体主義の起源」「イェルサレムのアイヒマン」)を歴史的に検証する作業は幾つもなされたわけだから、それらから学んでいくことも神学の仕事であろう。 

 

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