ラベル 終末論 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 終末論 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019年8月15日木曜日

(4) 2019「終末論」ノート③

今年6月10日の日本福音主義神学会・東部部会研究会に端を発したフェイスブック上の意見交換が「終末論の勉強会」に発展した経緯を書いてきた。(2019「終末論」ノート①(4) 2019「終末論」ノート②)


勉強会に参加したのは筆者も含め3人。7月25日(木)の午前中、約2時間をかけてなかなか中身の濃い学びができた。
焦点は「千年王国」であったが、それだけにこだわらずなるべく広く浅く「終末」に関わる疑問や関心を話し合った。
(※ちなみにこの三人はもともと同じ教会グルーブに属し、かつては何回か神学の勉強会をした仲である。)

さて今回の勉強会では「千年王国」に多大な関心を寄せるK氏にメインの発表をしてもらい(と言っても20分ほどの短いプレゼン)、筆者が応答するという形をとった。

この記事には内容の詳述も紹介もしない。

と言うのもK氏はもともと「携挙」やそれに伴う「レフト・ビハインド」のイメージにかなり影響を受けてきたのが、前述したとおり大きく改変中の最中である。
「罪から救われて後は天国行き」のような「あの世」的キリスト教のパラダイムで生きてきたのが、ライトのような「この世」で積極的に生きるキリスト教のパラダイムに転換しつつあり、その文脈の中で「千年王国」の重要性に気づいたという経緯がある。

しかし筆者の方はと言うと、前述したように(本末転倒したようなと思える)終末論諸説を忌避し距離を取ってきた。

つまり、両者とも終末論に関しての聖書知識にしても、神学的把握にしても浅薄な段階ではまともな議論は無理だと思うのである。
(終末論に関して)知るべきことのせいぜい2~3割程度の者たちが勉強会でできることと言えば、幾らかでも大胆に自分の無知さ加減や疑問を披歴し、有益な著作や情報源を交換し、そのようにして今後の研鑽を相互に促すことだろうと思う。

K氏に関しては現時点での「千年王国」に力点を置いた「終末論」を自身のブログに掲載しているのでそれを参照されたい。

筆者の方でここに提供しておきたい資料としては、
 ①G.B.ケアード、Jesus and the Jewish Nation.
 割合短い論文だが、イエスの神の国宣教がイスラエルという民族国家を対象にした迫りくる国難回避の一大キャンペーンの性格のものであったことを論証している。

Oskar Skarsaune, “Jewish Christian Sources Used by Justin Martyr and Some Other Greek and Latin Fathers.” P. 412. Ch. 13 of Oskar Skarsaune and Reidar Hvalvik, eds. Jewish Believers in Jesus. Hendrickson, 2007
 近年、初期キリスト教史における「ユダヤ人キリスト者の影響」研究が盛んになってきた。オスカー・スカルサウネは以下の様に「メシア王国」への期待がオリゲネスの時代以降にも生き残っていたことを例証している。
           Having surveyed the material in Justin and Irenaeus in this brief fashion, it remains to add some words on the development of the millennial tradition more generally. I use “millennial” here in a rather loose sense, and should perhaps talk about “literal fulfillment of the messianic prophecies on this earth” as the topic of primary interest in our context. Whether this fulfillment is conceived to take place according to a one-step eschatological model (life eternal taking place on earth, and being inaugurated at Christ’s return), or a two-step model (a millennial period on earth prior to life eternal) is of less importance. According to both models, fulfillment of messianic prophecies is taken to be both literal and earthly, with a renewed (earthly) Jerusalem in its center.
          From Origen onwards, this way of thinking about the realization of the biblical prophecies was branded “Jewish.” Such was the influence of Origen that most of the Fathers followed him in his denunciation of “Jewish” eschatology. “Millennialism” was gradually marginalized. It did not disappear, however, and may have been stronger “on the ground” than our rather selective sources will make us believe. ……In the latter half of the fourth century, Jerome quoted and combatted a strikingly Jewish interpretation of messianic prophecies that amounted to a remarkable millenarian scenario in which the millennium would be the messianic reign of Christ among a restored Jewish people in Jerusalem. Jerome’s unnamed source for this is probably Apollinaris of Syrian Laodicaea.

以上でひとまず終了することとする。

2019年8月13日火曜日

(4) 2019「終末論」ノート②

今年6月10日の日本福音主義神学会・東部部会研究会がきっかけとなり、「終末論」についての意見交換がフェイスブック上で始まったことについて書いた。(2019「終末論」ノート①)

既にライトの『驚くべき希望』も読み、最近「終末」や「福音」についての理解が大きく変化してきたと言うK氏(フェイスブック友達でもある)。
「ではライトは『千年王国』についてはどういう位置づけなのか」、と言う問いを出された。

なるほどライトは(前回書いた「終末論の整理」でいうと)、(1)個人的終末論、と(3)宇宙的終末論の正しい関係については関心を示すが、(2)民族的終末論に関係する千年王国については『驚くべき希望』ではほとんど何も言及していない。
(※「千年王国/黙示録の解釈問題」は『神の子の復活(The Resurrection of the Son of God)』で多少扱われているのは確認した。)

最初はスルーしようかとも思ったのだが、改めて考えてみて「これは学びの良い機会」「終末論の整理の良い機会」になるのではと思い「『終末論』の勉強会」を企画することにした。


筆者は(日本の福音派の中で)ホーリネスと言う流れに属するが、実は「千年王国」に関しては殆ど関心を持たずに来てしまった。(そのことはフェイスブックにはコメントしておいた。)
だから「再臨」が「千年期」の前・後・無のどれになるのかの諸説については殆ど知ろうともしなかったし、ましてや「携挙」があるなし云々など考えるだに忌避していた。
ところが筆者の周りでは案外これらの諸説に関して熱っぽい関心を持っている方がいて「やれやれ」と思うことも多く、筆者が本末転倒と考えるこれらの終末論諸説のせいで終末論自体に長い間距離を取ってきたと言える。

1 「神の国」とメシア、福音書の意味の地平
忌避し距離を取ってきた「終末論」だが、礼拝の学びで「共観福音書」を講解するようになりそうも行かなくなった。(もうだいぶ前の話)

「神の国」とは何か。
初歩的なワードスタディでもがいているときにたまたま友人から寄贈されたG・B・ケアードの『新約聖書神学』が開眼を与えてくれ、さらにケアードの指導のもと博士論文を書いたN・T・ライトの特に『イエスと神の勝利(Jesus and the Victory of God)』が明確なアプローチを示してくれた。
(※このあたりの経緯については、自伝的「新約聖書学」最近研究状況レポート、 N・T・ライトを中心に、に書いた。)

さて質問をくれたK氏はかなり変わってきた自身の福音理解を現時点でパッケージにすると以下のようになるという。
今では、私の理解する福音は、1十字架での罪の赦し、2朽ちない体への蘇り、3キリストの来臨と悪の清算、4キリストのこの地上での千年間の統治、そして5新天新地の永遠の秩序、というパッケージです。
これに対してまず筆者が思ったことは、(終末に起こるとされる様々な出来事を整合的に順序づけることよりも)いかにしてナザレのイエスによる「神の国」の福音が使徒たちの宣教に継続・展開していったかを知ることの方が大事ではないかということ。
イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイの福音書28章18-20節、新共同訳)
それは神学的にも歴史的にも「イエスの宣教」「使徒たちの宣教」を理解することであり、イエスのガリラヤ宣教から、使徒たちのユダヤ人伝道・異邦人伝道へと展開していく内在的論理を把握するということである。

すなわち「千年王国」というような「メシアの統治による王国」が、イエスの宣教においても、使徒たちの宣教においても、少なくとも表面上はバイパスされてユダヤ人伝道そして異邦人伝道へと継続・展開していったか、を理解することであった。

(このバイパス展開を示唆するものとして以下の箇所を掲げておく。)
さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒の働き1章6-8節、新共同訳)
ご存知のようにメシアと期待したイエスがローマによって十字架刑死させられ、一旦は崩壊したと見えたイエスの神の国運動であった。イエス運動支持者たちの心中が端的にルカ24章のエマオ途上の弟子の一人によって表白されている。
わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。(ルカの福音書24章21節、新共同訳) 
すなわち、イースター後の弟子たちは依然として「イスラエル復興」への期待を保持しており、復活前にイエスによって予告されていた「旧約預言者たちが語っていた『神の国』の(隠された)ストーリー・ラインは、キリストの(十字架の)死と復活によって成就する」ことをまだ十分に理解していなかったのであった。
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。 (ルカの福音書24章44-48節、新共同訳)
K氏の疑問である『千年王国』の「終末の歴史的位置付け」の問題は、単にライトによって回避されているだけでなく、「メシア王国の現世的・政治的実現」がイエスの宣教においても、また使徒たちへの宣教命令においても、表面上は一旦脇に置かれていることを確認する必要があるだろう。

(共観)福音書が描く、一世紀当時顕在的・支配的であった『神の国』シナリオは、「メシア」がもたらす「イスラエルの民族的・国家的回復」として国際政治的文脈上に実現するはずのものであった。具体的にはローマによる支配からの脱却・解放であった。
おそらくイエスの弟子たちもこのシナリオの延長線上でイエスの「神の国」宣教を理解しようとしていたのであった。

しかしイエスはこのような顕在的支配的神の国のシナリオではなく、十字架復活聖霊と(ユダヤ人と異邦人による一つの)教会、という神の国の隠れた(アポカリプティックな)展開を聖書から読み取っていた、と筆者はそのように思うのである。


さて本論に入り始めたがとてもとても一回では書ききれなかった。次回に続けることにする。

2019年8月11日日曜日

(4) 2019「終末論」ノート①

今年になって数カ月に一回くらいの「(新)コンテンツ」掲載ペースだが、今回は最近の学びのことを取り上げてみたい。

学びのテーマは「終末論」。
※何回かに分けて連載することになるみたいだ。

1 「終末論」とは何か
「終末論」をまず簡単に説明してみよう。

「創造論」や「キリスト論」「救済論」「教会論」などがある《キリスト教(組織)神学》の一項目だ。

英語では"eschatology"「The Last Things(終わりの事柄)」についてのことだ。

トピックとしては「永遠のいのち」「最後のさばき」「天国と地獄」などが標準的であるが、「世の終り」や「ハルマゲドン」「携挙」「千年王国」など人によって関心の高いトピックも含む。


2 きっかけ
もう2か月前になるが、日本福音主義神学会・東部部会の研究会があった。その時のテーマが「キリスト者の希望」であった。

キリスト教神学で言う「終末論」に整理されるテーマであるが、新約聖書の表現でもあり又より平たい表現として「キリスト者の希望」と言うテーマで案内がされた。

この講演会が終わってから、今回の学びの背景ともなっているN・T・ライト『驚くべき希望』を出版したあめんどうのオブチさんがフェイスブックに小さなレポートを投稿した。
そのレポートを筆者が「シェア」して「コメント」したのがきっかけと言えばきっかけだ。

3 「終末論」の勉強会に発展
フェイスブックに載せた筆者のコメントでその後の勉強会に発展する元となったのが「終末論の整理」として掲げた、(1)個人的終末論、(2)民族的終末論、(3)宇宙的終末論であった。

6月10日の研究会ではライトの『驚くべき希望』が背景にあったにも関わらず、聴衆の関心は「個人的終末論」に終始していた感があった。(その要因は多少は論者の方にもあったように思う。)

つまり最初に「終末論の主要な範囲」として「個人的終末論」以外のものも視野に入れておかないと、長年の思考習慣でどうしても個人的終末論に終始してしまうようになることは予測しておかなければならなかったと思っている。

4 ライトの『驚くべき希望』のアプローチ
ライトが描く終末論は上に紹介した「終末論の主要な範囲」でいうと何よりも「(3)宇宙的終末論」の強調にあると言っていいだろう。

「キリスト者の(将来の)希望」である復活(使徒信条の「からだのよみがえり」)は個人的な救いの完成として完結するのではなく、あくまで宇宙的終末論である「新しい創造」のピースとして重要なのである。

『驚くべき希望』の《第Ⅱ部 神の将来の計画》5章「宇宙の将来・進歩、それとも絶望?」の導入でライトは以下の様に断っている。
このトピック【将来の希望・刷新】について議論する上で、私が切だと思う順番で話を進めていく。
個人への約束を最初に取り上げ、そこから被造物の刷新へと進むのでなく、聖書的な将来の世界像、すなわち現在の宇宙が、創造主であり贖い主である神によって上から下まですべて刷新されるというヴィジョンから始めたい。イエスの「再臨」や、その後の体を伴う復活については、その文脈の中でこそ適切に語ることができるのだ。(152-3)
ライトが「適切だと思う順番」とは、「(3)宇宙的終末論」の視野を確立し、そしてその視野の中で「(1)個人的終末論」を論ずること、と言えるだろう。

ライトの終末論のチャレンジは、キリストの復活の意義を論ずるにあたって「救済論」の次元で終始してしまい、なかなか「認識論的・世界観的」意義にまで掘り下げていない状況へのチャレンジでもある。
(以下は4章「2.イースターと歴史」の「(2)認識論的・世界観的挑戦」における『新しい創造の挑戦』からの引用。)
イエスの復活は、キリスト者や神学者にだけでなく、歴史を学ぶ者にも科学を学ぶ者にも、いまのこの世界で起こった非常に奇妙な出来事としてではなく、そこから始まった世界の特徴を現す、じつに典型的で基本的な事柄として差し出されているということだ。それは古い世界で起こった不合理な出来事ではなく、新しい世界の象徴であり出発点なのである。キリスト教内で推進された主張、すなわちナザレのイエスがもたらしたものは、単なる新しい宗教の可能性や新しい倫理や新しい救いの方法ではなく、新しい創造であるという主張は、それくらい重要なことだった。(134)
ライトが主張する「聖書全体のナラティブ/ストーリー」の強調は、「キリスト者の希望」にしても、その根拠となる「イエスの復活」にしても、「創造から新創造」の宇宙論的文脈に位置付けることにあると言えるだろう。

さて前置きはそこまでにして、次回実際にどんな「『終末論』の勉強会」になったかレポートしてみたい。

2019年7月27日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2019年7月28日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ルカ福音書
 24:44-49、 
     使徒の働き 1:3-11
説 教 題 「目をさまし、すべてを見分け」   
説 教 者 小嶋崇 牧師


「終末論」の学び

2017年5月18日木曜日

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、9

また前回から大分間が空いてしまいました。

遅々として進まず・・・ですが、継続を力として何とかまた一歩。


さて、2回に分けた後半になるわけですが、

 6章 「ファンダメンタリズム」(88-108)
  A 「英米ー明らかに異なる二つの流れ」(88-94)

で、
聖書批評学に対してキリスト教保守(ファンダメンタリズム)は、英では積極的な対応、米では消極的な対応、と異なる二つの流れが生じた
ことを見たわけでした。



6章 「ファンダメンタリズム」(88-108)
 B「ファンダメンタリズムによる聖書信仰の伏流ー前千年期王国論と創造科学」(95-108)


ざっくりしたポイントは、
(1) 無誤論的聖書信仰が教派や他の背景の違いを越えて、広くキリスト教保守派に広まって(浸透して)20世紀初頭のファンダメンタリズムを形成した。
(2) その背景には、「ディスペンセーション主義神学」と「創造科学」が「字義通りの聖書解釈」を実践したが、その理論的根拠を(最初からではないらしいが)ウォーフィールド型の無誤論に求めた・依存した。
というところでしょうか・・・。プリンストン神学と、ディスペンセーション主義神学、通常であれば余り隣近所になりにくそうな二つが繋がったであろう背景を指摘していますね(100ページ)。


筆者は「ファンダメンタリスト連合」に含まれている「ホーリネス諸教派」(95)の系譜にある教会で育ったのですが、実は「ディスペンセーション神学」や「創造科学」の影響は殆ど受けていません。

「千年王国」という用語はもしかしたらどこかから耳に入っていたかも分かりませんが、その諸説に関しては全くといっていいほど無知でした。(現在もさほど変わりませんが。)
 ※そんな程度の経験知ですから「この記事」や「この記事」で書いたことで尽きてしまいます。


「創造科学」はどこかの時点で「ヘンリー・モリス」とその著書くらいは目にしたことがあるかもしれませんが、それでも関心を持ったことは一度もありませんでしたし、その影響を自分の周囲に感じたことはほんのわずかしかありません。

そう「ほんのわずか」、論争の断片を記憶しているくらいです。

父(牧師)が昔「日本福音主義神学会」に少し関係していた頃かと思いますが、創世記の「創造」の記述の「日」を文字通り24時間の一日と取るか否かが「聖書信仰」の試金石・・・みたいな話をしていたのを耳にした程度です。

父は青年期(19歳)にキリスト教に回心していますが、それからまもなくのことと思いますが、信仰的に「疑い」の悩み・問題を抱えた時「聖書と心中する覚悟というか境地に立った」と語ったことを何度か聞いたことがあります。

筆者のように何世代目かのキリスト者となると、そのような「追い込まれた状況での信仰の飛躍」体験はほとんどありません。

神への信頼を通奏低音(丸山真男が日本思想の特徴を描写する時に用いた表現バッソ・コンティヌオの訳語とか)として生きてきた感じで、いちいち(神学)論争の度ごとに自らの信仰態度を決定し・表明する・・・ということには馴染んでいませんしむしろ忌避する傾向があります。

そんな筆者の偏見から見ると、「一日」の解釈を巡って聖書信仰の真贋をテストする・・・ような極端な論争にヒートアップするようなことはもはや「忠誠テスト」であって、解釈の客観的妥当性を巡る論争には思われません。


と、今回は「書評ノート」とは名ばかりの回顧録になってしまいました。

(次回へ続く???あるいはまだ続くかもしれません。)

2017年2月9日木曜日

今日のツイート 2017/2/9

映画『沈黙』が引き金となったのかもしれないツイート。




残念ながら、最初に入信した『集団』での体験が、『福音派』で括られて次ぎの警告ツイートとなっている。

2016年3月13日日曜日

(4)あれから5年が経って

率直に言って、なぜ5年目だとこんなにメディアが取り上げるのだろう、と感じている。

もちろん東日本大震災のことである。

3年目、4年目と何か段々メディアが取り上げる量が減っていたように感じていたので、急に5年目でまた注目されるようになったように感じているのは筆者だけだろうか。

まあーそれはそれで置いておいて、本題に入る。

5年目の区切りとして何を書いておいたらいいか、東日本大震災からどんなレッスン・訓戒を5年目の時点としては覚えておくべきか、・・・と考えていた。

そんな時見た動画がこれだ。

『吉田調書の意味するもの』~2014年10月18日講演会の補足説明~


5年前、福島第一関連でしばしばお世話になったのが、小出裕章助教(昨年退職)とこの後藤政志さんだ。

(炉心溶融に関して)正確な情報が足りなかった事故直後からのしばらくの間、「苛酷事故」というそれまで聞いたことのなかった言葉を使って炉心格納容器の安全性や破綻のシナリオをいろいろ推理して説明してくれたことを覚えている。

この動画は一昨年のものだが、事故当時のことを(久し振りで)思い出しながら、見させていただいた。

発表された「吉田調書」とつき合わせながら、苛酷事故の核心は何かを熱心に究明している。一聴の価値ありと思う。

格納容器設計に携わったエンジニアとしての専門的な観点からの意見だが、やはり核心を突いていると思う。

中心となるのは「東日本壊滅のシナリオは現実的にあった。そうならなかったのは偶然。」(22分過ぎ辺り)という認識だ。

そのような性格の(スケールの)苛酷事故でありながら、
 (1)幾つもの設計ミスがあった。(今回のような苛酷事故に対する対応が取れていなかった。)
 (2)事故後の対応に関し、所員・作業員の勇気や犠牲的精神等の「美談で済まされるような話ではない。」
 (3)電源、(1万人規模の)人員確保、等事故対策に関するロジスティックスができていなかった。(第二次大戦のときの日本軍の失敗と同じ。)

といったところがポイントとして挙げられている。

要するに炉心溶融事故が起こった格納容器は「ワースト・シナリオ・ケース」の想定では設計されておらず、今回の苛酷事故を教訓にする場合、それらの設計上の弱点をどのようにするかの算段をしっかり建てていなければならないが・・・果たして日本の他の原発はどうなっているのか。という問題だ。

原発の安全対策は基本的に「人的介入を要しない設計」を二重三重にして安全確保するのが大事であり、万が一のとき「決死隊を組織して防ぐ」ような対策は間違っている。

そして最後に、今回のような苛酷事故で、コントロールを失いプラント破壊、東日本壊滅に繋がりかねなかった事態が「偶然に左右されるようなシステム」を果たして存続させるべきだろうか、それは許せるだろうか、と疑問を提出している。

やはり肝心なポイントは「東日本壊滅に繋がりかねなかった事態」という点だろう。


後藤さんの分析は格納容器の設計に関わることでの指摘であったと思うが、つい二三日前のNEWS23(TBS)であったか、NHKの番組であったかが指摘していたように、吉田所長、菅総理が「東日本壊滅のワースト・シナリオ」を現実のものと認識し、「決死の防御」を巡ってやりとりがあったということ。

そしてその番組で指摘されていたが、複数プラントの炉心溶融に時差があったため、一つ一つ個別に対応する余裕が与えられたが、それは全く偶然のなせるわざで、仮にもし三つのプラントの炉心溶融がほぼ同時に起こっていたら対応は出来なかっただろう、ということ。


以上、5年目にしての東日本大震災から最も深刻な教訓を得るとすると、そのひとつは間違いなく実際の事故の結果ではなく、偶然に免れたが、ワースト・シナリオの場合「東日本壊滅の事態に至った」であろう、ということ。
 
このワースト・シナリオで推定されえた結果を更に吟味し、どれだけ真剣に可能現実として今後に活かすか、ではないだろうか。
 

※この朝日報道による、元米兵士が証言した「核爆発は免れたものの危機一髪だった」事象とも重なる。

 
事後的にだが、このような形で認識する「あの時もし・・・だったら、○○は壊滅的打撃を受けていたかもしれなかった」は、原発事故でも水素爆弾処理でも、そのスケールに見合った検証と対応を必要とするだろう。

2015年11月2日月曜日

今日のツイート 2015/11/02

トラウマとは、
【意味】 トラウマとは、個人にとって心理的に大きな打撃を与え、その影響が長く残るような体験。精神的外傷。外傷体験。
【トラウマの語源・由来】 トラウマは、単に「傷」を意味するギリシャ語であった。 1917年、心理学者フロイトが、物理的な外傷が後遺症となると同様に、過去の強い心理的な傷がその後も精神的障害をもたらすことを「精神分析入門」において発表した。 その際、精神的外傷を意味する用語として「trauma(トラウマ)」が用いられたため、現在のような意味として使われるようになった。 (語源由来辞典
で、いま、ツイッターの「トレンド」に《子ども時代のトラウマ》があるのでつらつら見ていたところ。

そしたら、これが見つかったので選びました。

子どもにとっての「地球終わり」イメージとはそんな感じか。ふむふむ。


ちなみにTRAUMAについての大きなサイト。 

2015年8月20日木曜日

(4)タカ牧師のセブンー5

残暑お見舞い申し上げます。


さて今回の「セブン」は『アメリカと宗教』といった感じのものを多く集めてみました。

1. Americans and God(ニュー・ヨーク・タイムズ、2011年12月11日)
  『アメリカ人と神』

 キリスト教国アメリカは、キリスト教の退潮著しい西洋において「例外」といわれてきましたが、ここ数年数的な減少が露になり、ついにアメリカも脱キリスト教か、と取りざたされるようになりました。
 この記事ではそのような表面的「アメリカ人のキリスト教退潮現象」は一時的なもので、余りにも「政治と宗教が絡んでしまった」ことに対する嫌悪感情から来ているのではないか、と指摘しています。

2. Evangelicals' Claims of Conservative Supremacy Are Overstated(ハッフィントンポスト、2015年5月14日)
  『保守派隆盛との福音派の主張は言い過ぎ』

 つい最近まで、北米キリスト教諸教派の動向は、主流派の衰退と福音派の伸張の対比で理解されてきましたが、最近のピュー宗教調査で、その構図は崩れた、と指摘します。今や主流派も福音派も殆ど関係なく退潮傾向にあると。

3. Book Review: American Apocalypse: A History of Modern Evangelicalism by Matthew Avery Sutton
  『書評、マシュー・エイブリー・サットン「アメリカ黙示録ー近代福音主義の歴史」』

 詳細についてはコメントできませんが、アメリカ宗教(キリスト教、特に福音主義)史の指導的研究家であったジョージ・マースデン以降の若手研究家が次々輩出しているようです。サットンもその一人で、最近100年くらいの福音主義運動を、前千年期再臨説に立つ終末論によって特徴付けられる、という解釈を提示しているようです。

4. Waning of Apocalyptic Thinking among Evangelicals?
  『福音派の中で黙示的終末思考は衰退しているのか』

 これもサットンの本の書評ですが、お馴染みスコット・マクナイトのブログ記事です。歴史家の大局的解釈に対して「ちょっと違うんでないの」と批判しています。確かに影響は大きかったが福音派をひっくるめてのものではない、と指摘しています。

5. Interview with Matthew Avery Sutton
  『インタヴュー:マシュー・エイブリー・サットン』

 このインタヴューで、サットン自身が、本に著したようなアポカリプティックなキリスト教の環境で育ったこと、それが後の歴史研究に繋がっていると答えています。

6. オープンダイアローグって何だ?

 去年から「カウンセリング」の機会が増えました。いわゆるセラピーと名のつくものは少なくとも大体名前を知っていたりはしますが、カウンセリングの実際でそれら様々な理論や説の実効性や妥当性を考える機会はありませんでした。現在実地研修中ですが、この新著はかなり革新的なアプローチを取っているもので興味深いです。

7. 「こころ教」のガラパゴス

 イスラム地域研究者、東大の池内教授のブログです。「こころ教」とは「浄土真宗の僧侶で仏教学者でもある佐々木閑氏」 の説で、現代仏教の分析に用いられているキーワードですが、佐々木氏がそれを現代イスラム教にも応用しようとしている点に鋭く批判しています。


 以上でした。

 実は上記3、4、5で取り上げた、マシュー・エイブリー・サットン「アメリカ黙示録ー近代福音主義の歴史」については独立したブログ記事を書きたかったのですが、今のところできていません。

 関心のある人にはよだれが出るような研究機運が「ジョージ・マースデン以降の福音主義の歴史研究」でみられます。

 その代表的な歴史家とその著作を紹介している記事を以下に挙げておきます。

 Nathan A. Finn, Evangelical History after George Marsden: A Review Essay (リンク)

2015年5月29日金曜日

(5)『アポカリプス(黙示)』と『終末』

今年2回目のライト読書会(案内ガイド1ガイド2)のテーマがアポカリプス、と言うことで少しランダムにあれこれ書いてみます。


課題論文は"Apocalypse Now?"(1999年)となっていますが、アポカリプスはご存知ヨハネの『黙示録』のギリシャ語名ですね。

フランシス・コッポラ監督の『地獄の黙示録』(1979年)の原題 Apocalypse Nowにかけているわけでしょうね。


課題論文"Apocalypse Now?"は「千年紀末」を迎えて「世の終わり」っぽい言説に溢れてきたところで書かれたものです。

何しろ元はと言えば聖書が出展となっていることですから、聖書学者としては放置できない、と言うことでしょう。


Apocalypse Now?からピックアップすべき点を二つほど挙げてみます。

(1)『リタラル(文字通りな)』と『メタフォリカル(比喩的な)』の区別
※カタカナ表記では『リテラル』とするらしいが

 一応の説明はガイド1を見ていただくとして、「what is literal and what is metaphorical」と言うことなのですが、これがなかなか説明するのがやっかいなのです。

 アポカリプティックに関する例で言えば、「空中で主と会う」(第一テサロニケ4章17節)や、黙示録の「千年王国」が挙げられます。

 リタラル/メタフォリカルの区別はあくまで解釈における第一段階で、実際はもっと複雑な考察が必要とされると思いますが。

 ビブリシズムの問題とも絡みますが、単に文学的表現としてのリタラル/メタフォリカルの区別の問題を越えた「大きな聖書解釈枠」の影響があると思います。

 神の啓示の書としての聖書は、その「普遍的真理性」の前提から、リタラルで常識的な解釈が優先される傾向があること。

 このある意味「決め付け」傾向は、聖書と言う複雑な言語・文学表象を持つリアリティーを「平板に」(そして一律に)解釈する方向に行きやすい。

 換言すれば聖書の文学的複雑性、言語表現の多様性を犠牲にしても、信じ従うべき(命題的)真理形式に置き換えられやすい、と言う問題を生む。

 この「決め付け」傾向の問題に一層拍車をかけたと思われるのが、啓蒙主義以降の「合理主義」との対決。

 人間の「理性」に対抗して「聖書の権威」を強調することによって、必要以上に「科学」に対する聖書の「エピステモロジカル」な優位性を主張することになった。(「特別啓示と一般啓示」の立場から、「信仰対科学」に変わって行った。)

 「創造論」対「進化論」における「六日創造」説は、文学的表現としてのリタラル/メタフォリカルの区別と言うよりも、科学説に対抗するために押し付け(結果歪め)られた「解釈枠」と見ることも可能と思われる。 
 
(2)『黙示(表現・文学)』と『終末論』との混同

 先ず認識に挙げておくべきは「黙示」と「終末」は同じことではない、と言うことではないかと思います。

 黙示(英語はrevelation)とは、端的には、「今まで隠されていたものが明らかにされる」ことです。

 簡単に言えば、新約聖書は旧約聖書が「終わりの日」に起こるであろうと預言していた事柄が、イエス・キリストにおいて実現したことを主張(宣言)するものです。

 その意味で最も中核的な「黙示」的出来事は、イエスの十字架の死と復活、昇天・占座、聖霊降臨、と言えるでしょう。

 しかし、これら一連の出来事は(旧約)聖書の視点からはみな「終末」に属するものでありながら、ナザレのイエスに特定した歴史的出来事としてはその終末性が多くのユダヤ人には明らかではなかった。

 「メシヤの死」がある意味逆理的に「神の義」を啓示した、と主張するのがロマ書であり、その他のパウロ書簡も含め、使徒書簡は「イエス・キリストの出来事」の終末性を噛み砕いて明らかにするもの、と言うことが出来るでしょう。

 しかし、「新天新地」「万物の更新」、つまり「終末」の事柄のうち、「未だ(Not Yet)」に属する事柄、まだ将来に残されている「終末」の事柄があります。

 ここに所謂「キリストの再臨」とそれに伴う事柄が関わってきます。

 上掲、(1)『リタラル』と『メタフォリカル』の区別、の例で挙げた「携挙」や「千年王国」です。

 ところが、再臨、携挙、千年王国、は既に成就した終末の出来事である「イエス・キリスト」の死と復活に「碇を繋」いで展望すべき事柄なのに、どうも「預言/予言の成就」式に「世界史の動向(特にイスラエル国家)」と絡めて追尾し、一喜一憂する傾向が後を立たないようなのです。

 (と、これはかなり個人的な見解かもしれませんが。)

 例えばヨハネの黙示録の破滅的なシナリオを「世の終わり」の出来事として(一方的に)強調する傾向は、ライトが指摘するように、新約聖書を出展としますが、新約聖書の世界観とは異なるものです。

 いわゆる「アポカリプティシズム」は、多分に悲観主義、二元論的思考に影響された逃避主義に特徴付けられ、一つの世界観として整理されうるものです。



《附記ー個人的な回想と感想》

 筆者の属する教会は中田重治が牽引した「日本ホーリネス運動」の流れにあるが、その神学的遺産である『再臨(四重の福音)』や前期千年王国説的歴史的展望や関心(イスラエル国家)とは余り関わりがなかった。

 しかし間接的に「再臨近し」的な言説は聞かれたこともあった。

 昨年ある会話で、「最近、教会内で再臨のことが取りざたされることが殆ど無くなった印象を受けるのだが、どうだろう」と持ちかけたことがあった。

 知人の中にはディスペンセーショナリズムの影響下にあった者たちも結構多い。

 と言うことは日本の教会では、アポカリプティシズムがもたらす影響は現象的には表舞台から姿を消しているように見えるが、そのような「世界観」の要素が消えたわけではない。

 世間では依然として「アポカリプティック・サウンド」とか「世の終わり」とかの「世紀末」を匂わせたり、煽ったりするようなものがサブカル的にも流通しているようである。

※[追記・・・2015/5/30] 適当にサブカルと書いたが殆ど詳しいことは分からないのだが、今日たまたまこんな記事をヒットした。ここまで来るともう何と言ってよいのやら・・・唖然。これだと牧師自らが仕掛け人になっている。これこそもう「世の○○り」みたいなものではないか。

 つまり、「終末」に関する整理されたクリアーな思考との取り組みが始まったわけでも無さそうである。

 今度のライト読書会は、そう言う意味で、「健全な神学(終末論)」を目指す藪漕ぎのようなものではないかと思っている。

2015年5月3日日曜日

(3)オウム真理教ノート 2015/5/3

前回、オウム真理教ノート 2015/3/3からちょうど二ヶ月となる。

『地下鉄サリン事件から20年』も過ぎた。

前回の記事で出さなかったが、この間テレビとかネット雑誌のようなものとか、とにかくオウム真理教関係はよく目にするので、なるべく視る/読むようにしている。


先ずは、伊東乾の『サイレント・ネイビー:地下鉄に乗った同級生』

 さすがに内容の殆どは忘れてしまったが、貴重なポイントとしてオウムと第二次大戦との並行・関連が幾つか挙げられていた。

 例えば、オウムはイニシエーションにドラッグを使用していたと言うことだが、第二次大戦の特攻戦士に(死の恐怖を緩和するための)ドラッグが用いられていた、というようなこと。

 マインド・コントロールや総動員態勢、のような点も「オウムと第二次大戦」の並行として挙げられていたと思う。

 その他、クンダリニーに関してだったか、
オウム(麻原)は「身体性」と「霊性」の繋がりを巧みに用いてマインド・コントロールしたが、ちょっとでも「神経系統」から来る「身体性現象」への科学的知見や検証姿勢があれば、そうやすやすとは引っかからなかったのではないか
の様なことを書いていて、以前書いたが、加藤周一のオウム真理教への視点として《科学/理性》対《宗教体験》、と対置していたことを思い出した。

 ※ところで、この本を著作する動機として、サリン実行犯の一人豊田亨が伊東の友人であったことは覚えておかなければならない。そして、タイトルが暗示する「事件に関する黙秘」が卑怯なものではなく、豊田自身の鋭い自覚から来る責任の取り方ではあっても、真相が明らかにされないことで、結局は歴史の間違いが繰り返されてしまうのならば、残念なことである、と指摘していた。 


 次は、宗形真紀子『二十歳からの20年間:“オウムの青春”の魔境を越えて』

 元オウム信者の手記、という事で既に書いた《高橋》や《野田》の本と共通する。

 宗形の回顧で一番面白く読んだのは、オウム真理教に引き込まれる宗教性として挙げていた「霊的感覚」と、それに対する答えを提供してくれない「青年時までの生育環境」とのギャップについて。

 宗教に関する教育環境は個人差が激しい、とは言えるが、やはり日本における「宗教教育環境の不足」は戦後の反動という面があるのではないだろうか。

 自民党政権下、「道徳教育」や「愛国心」的教育の導入を推進しようとするが、なかなか難しい。オウム真理教の問題は、そのような「霊性的空白」を衝くカルト問題とも関わっているであろう。

 もう一つ宗形の手記の面白いところは、教団内での修行による階層上昇と自己肯定(感)との関わりを、割合丹念に叙述していることだろうか。

 それによって「マインド・コントロールの被害者」として自己把握するだけでなく、宗教による自己肯定という能動的な側面にも光を当てている。


以上は「2015/3/3」以前に読んでいた本。

これ以降は「3.20」近辺のこともあり、テレビ番組の特集などを視た。

 『オウム20年目の真実~暴走の原点と幻の核武装計画』(テレビ朝日、ここ

 多少期待感を持って見たのだが、残念な内容。

 一応頑張って追跡し続けていますよ、とアッピールしたいのだろうが、それはどちらかと言うと「清田記者」個人、という感じが強い。

 synodos】高橋克也被告裁判・証言草稿──地下鉄サリン事件20年に際して/大田俊寛

 「オウム真理教ノート」には度々登場いただく、今やオウムに関する宗教学者としては代表的コメンテーターの大田先生の文章だ。

 一貫して「思想史」的アプローチからのまとめ、と宗教学者としての反省、という二本柱になっている。

 オウムの全体像を概観するには一番入りやすいし説得力がある。

 しかし、サリン事件は「なぜ」、そして「どのように」起こったのか、という問いに答えるには何か迫力に欠ける観は否めないだろう。

 鎌田東二『「呪い」を解く』は思いの外面白かった。

 その一端は鎌田氏自身の宗教実践者としての洞察によっていると思う。

 普通「客観性」とは「宗教的体験」と言う主観の外側にいることによって確保されると思われるわけだが、しかしそれは「門外漢」という面も負わされることになる。

 「宗教的実践」経験のない観察者に対して、それを持つ観察者は自己の経験からある程度類推する視点を持っている、ということは鎌田氏に関して言うと有利と思われる。

 さらに「呪い」の考察や、鈴木大拙の「日本の霊性」との比較、など筆者が今までお目にかからなかった論考を盛り込んでいて色々参考になることが多かった。



・・・と、今回はここまでといたしましょう。

  

2015年3月3日火曜日

(4)オウム真理教ノート 2015/3/3

まもなくオウム真理教幹部たちが起こした「地下鉄サリン事件」から20年を迎える。

3月20日のNHKスペシャルでは、「未解決事件File.04 オウム真理教終わりなき闇(仮)」と題する番組を放送するとのこと。
2012年放送の未解決事件File.02では、オウム真理教の暴走の原点に迫り、大きな反響を得た。今回は、オウムの「終着点」となった地下鉄サリン事件にいたる過程を徹底検証。堅く口を閉ざしてきた元捜査員や、死刑囚たちの新たな証言から、これまで知られていなかった事件の舞台裏が次々と明らかになっ てきた。事件に至るまでの警察とオウムの水面下の攻防、独自に入手した被害の全貌を示すデータや、サリン拡散のシミュレーションなどをもとに、20年前の 「3・20」を立体的に再現しながら、未曾有の事件が今に突き付ける課題を見つめていく。
と言う触れ込みである。

しかし森達也も度々指摘するように、一体「動機の解明」なくして、その「暴走の原点」はどうやって定めるのか。
地下鉄サリン事件、一通の手紙が裁判を覆すかもしれない
地下鉄サリン事件がテロだった誰が断言できるのか?


今回これが「オウム真理教ノート」として投稿する10本目の記事になると思うが、書き始めはこの「2012年放送の未解決事件File.02」だったかと思うので、丸3年が経とうとしていることになるのだろうか。

前回オウム真理教ノート 2014/4/13では、教団中枢ではないがオウム真理教に関する情報を手記の形で表した、《野田成人》と《高橋勝利》の教団への「距離の取れ方」、つまり教団内にいた時どの程度「客観的な観察と批判」が出来たのだろうか、と言うことを二人のオウム入信前の「精神世界の形成や構成」からヒントを得ようとしてみた。

借りた本の返却期限、と言う事情もあり、最後の部分が十分書けないまま終わってしまった。

少なくとも《高橋勝利》の方がより具体的にオウムの内情を在団中も批判できていたのは、高橋が少年期に「世界観」レベルでの「根底的揺らぎ」を体験していたからではないか、と言う見方を提供しようとしたのだった。

その点で《野田成人》の精神世界が宗教と言うか世界観レベルでの体験が少なく幼稚だったため、オウムの教理への疑問や、「グルイズム」による縛りからなかなか取れなかった理由ではないか、と言うことを比較しようとしてみたかったのだが・・・。


さて、以下の文章は「不足した文」を補おうとして書いたもので、日付としては「2014/4/15」ということになる。

既に少し分析視点として書いたこともある「『リアリティー』はどのように構成されているか」、についての一社会学的視点ついてだ。

*  *  *  *  *  *  *

《社会学的リフレクション》
 アルフレッド・シュッツという「現象学的社会学」を理論的に構築した人がいる。

 読者の中にはルター派の宗教社会学者ピーター・バーガーをご存知の方もいるかもしれないが、彼の「現実の社会的構成(旧タイトルは日常世界の構成)」の理論的な部分は殆どシュッツに拠っているところが大きいと思う。
彼の理論で重要なものは、『リアリティー』を複眼的に分類・構想し、『日常世界』というプライマリーな「現実」をアンカーとする一方(シュッツはこれを「パラマウント・リアリティー」と表現している)、「科学」のような他の諸「現実」を二次的なものとして関連付けたことである。(かなり昔に読んだのでシュッツ理論の大雑把な印象的要約に過ぎないのだが・・・。)

一応この「日常世界」、と言う基底的な「現実」認識を念頭に以下を読んでいただきたい。

 野田はサリン事件の後、幹部が抜けたオウム教団の責任ある立場に立たされる。

 しかし実際の教団指導は拘置された麻原や麻原の家族から来た指示をその通りやるだけであったようだ。
 「グルイズム」は依然強力で、とても事件の重大性を自覚し反省するような環境には至っていなかった。

 最終的に野田がグルイズムを振り切り、教団を脱会する一番のきっかけとなったのは、「ハルマゲドン予言(1999年)」が外れたことによる幻滅であった。(それまでは終末の実現→革命のシナリオを否定することは出来なかった。そのことに意識が吸い付けられていた。)

 それに対し高橋は入信後一旦脱会し、また入会する、と言うジグザクをやっている。
 またオウム教団を客観的に観察したり、批判したりするだけの「自己」を保持していた。

 『キリストのイニシエーション』についての部分で高橋はこう述懐している。
三時間続いたこの儀式は、このように噴飯もののきわめて幼稚なものだった。それにしても、この「幼稚さ」はオウムの大きな特徴の一つであると思う。発想もその実行の仕方も管理の仕方も、すべてがあまりにも子供っぽい。だが、子供とは残酷で凶暴な一面ももっている。オウムの怖さは子供の犯罪の怖さに似ている。
高橋はどこまで客観的に、批判的にオウム真理教の行状を観察できていたか、と言うと(このような回想録の性格からしてなかなか難しいところではあるが)、少なくとも「おかしい」と気が付くことは十分出来ていたことは伝わってくる。

彼がある程度“普通に”オウムのおかしさを、それとして認識し批判できていたのは、少年期における『世界観の揺れ』を体験していたからではないか。

高橋はそれを基に「普通の世界」とそれとは「異なる世界」があり得るかもしれないことを感じ取っていたからではないか。

高橋がオウムにいながら、そして疑問を感じながらもワークを継続し、しかし簡単には取り込まれないだけの、オウムの宗教性を判定するだけの精神があったのは、彼にはオウムのような宗教性を比較する《原体験》が幼少期にあったことが大きいのではないか。

(ここから現在に戻る)
つまり高橋には「日常世界のリアリティー」と「宗教と言う、少し日常とは異なる面を持つリアリティー」とを区別し、観察する『目』が育っていたのではないか、とヨタヨタ考えている次第である。

2014年6月4日水曜日

(5)粉河哲夫とFUKUSHIMA-DAIICHI

今日、たまたま、「粉河哲夫」の名前を思い出した。

何でか分からない。ただふっと思い出した。
夕食後にネット検索でもするか、と思っていた。

(これから書くことはまだネット検索前のこと。)

大学生の頃だったか(1970年代後半)、それとも遊学終わって帰国直後の頃だったか(1990年辺り)、 その位はっきりしない記憶。

ただ本を1-2冊買って読んだことは覚えているような。
少し左翼がかった思想から「メディア」の問題を捉えていたような、そんな前衛的言論人だった。

(ここからはネット検索後。)

何と!
あれほど一時期にせよメディアに持ち上げられた
(と自分には少なくとも見えていた)論客が・・・。

検索で引っかかったのは僅か2ページ、10件余りに過ぎない。

文京区の図書館にも、豊島区の図書館にも、蔵書されていない。

一体どうなってるのか。
(陰謀論の誘惑を断ち切って、そのことについては何も書かない。)

とにかく、一つだけ

粉河哲夫の「シネマトーク」


だけは存続している。

どちらにしても「ネットに何かあった」のを発見して、不思議なような懐かしいような、ちょっと言いにくい。


映画評が主のウェッブサイトなのだろうが、こちらは余り関心がないので、最近タイトルだけは何とか気になったくらいのハンガーゲームの映画評を読む。

それからトップページを見渡して気になった

福島原発事故関連

を読む。

3.11以前の1本も含め、3.11からほぼ毎日更新されたブログ記事だ。
3月31日まで更新された後中断された。

改めて事故を時系列的に読むとマスメディア情報ダダ漏れに抗して独自な視点や批判を展開しているのを面白く読んだ。

昔読んだ「粉河哲夫」がまだいるのだな、と感じた。

それに暫く時間がかかったが、もう一本映画評を読んでみようと思った。

で、ハンナ・アーレントにした。

なるほどそこまで評するか、という薀蓄も垣間見ることが出来たので収穫だ。

日中ふと思い出した人物について、こんなに時間をかけてネットで調べてていのか・・・。
時間の無駄!、と思わないこともないが、でも一応調べてみて「余りにも無い」ことを知ることが出来、何かしら理由があるのだろうな、と推理したりする遊び時間が持てて、良かったことにしよう。

※図書館でハンナ・アーレント関連本を予約した。

2014年4月13日日曜日

(5)オウム真理教ノート 2014/4/13

先日書いたものの続きになります。

《高橋のケース》
 前回取上げた「野田成人の入信パターン」がどちらかと言うと平凡なタイプであるのに対し、高橋のケースはそれなりに独特なものがあると思う。

 高橋の高橋英利『オウムからの帰還』によると、高橋は1967年東京立川市に生まれ、公団住宅で育った。

 まだ小学校にあがる前、彼は「自分が住む世界」の拡がりを確認すべくある冒険を試みる。

 それは彼の住む団地内に建てられた「同じように建てられた公団の建物」についているナンバーを「1~24、25、」と一つずつ確かめて行く、というものだった。

 19棟まで確認が進んだ時、そこで建物の棟数表示は順番通りではなくなった。ナンバー19棟の後がスポっと抜けてしまっていることを発見した。

 ここで高橋少年は意を決して同じ団地を出て、その外に「第20棟」を探しに行く冒険を試みた。

 自転車で数キロも走ったらしいが、そこに「忽然と自分の団地と同じ建物があらわれた」。

 最初は「これで続きの建物が探せる」と思った高橋少年だったが、目にするのは既に数え終った「7」「8」・・・だ。

 どうして同じ番号の建物があらわれるのか・・・。
 自分はもうかなりの距離を来た筈だ。
 じゃあれだけ走って結局自分の住む団地に逆戻りしたのか・・・。

 辺りは暗くなりかけていた。
 高橋少年はパニックに襲われていた。
 少し観察すると幾つか自分の団地とは異なるところがあった。

 しかし高橋少年は既にかなり心細くなっていたので、「この団地は自分の団地だ」、と信じたくて仕方がなくなっていた。

 そうして自分の団地の番号と同じ階の同じ番号の部屋まできた。
 ドアを開ければそこには見慣れたお母さんの顔が待っているはずだ。
 ドアをノックして出てきたのは・・・(残念ながら、やはり)違う人だった。

 と言うエピソードを紹介している。

 この《原体験(と、筆者が呼ぶ)》とオウムでの体験とを照合して分析しているわけではないが、自分のオウム体験を検証する為に書かれた手記の冒頭に掲げられたこの体験は、高橋にとってかなり大きな意味を持つものであったに違いない。

 この辺が野田とは大きく異なる点だと思う。

 どう言うことかと言うと、(宗教社会学をかじった者のざっくりした感想で恐縮だが)、野田の場合オウム入信のきっかけとなった「大学入学後の挫折体験」まで、自己の世界観をかなり根底から揺さぶられるような体験がなかったように見えることだ。

 彼は人並みに「良い学校、良い成績」路線を破綻なくなぞっていたのだろう、と想像する。

 それが東大に入って「『ガロア理論』を自分よりはるかに若い年齢で打ちたてた頭のいいやつがいる」ことを発見して打ちのめされ「自分の限界」を思い知らされる。

 しかしここまでは、従来の価値観に従って、「世間」での(相対的優劣で判定する)「自分の立ち位置」を確認しただけでしかない。

 ただこれをきっかけに「何か別の価値観、意味」を探す方向にさ迷い始める。
 「人生の揺らぎ」の局面に入り込んで、自分を支える何かを「精神的な世界」方面で物色し始めたわけだ。

(※最早一記事としては長くなってしまった。野田、高橋の本は今日中に図書館に返却しなければならない。残念ながら一旦ここで文章を止め、結論めいたことは次回に延期することと相成ります。失礼!


2013年6月28日金曜日

終末論の意義

英語でimplication(インプリケーション)と言う語がある。通常「含蓄」とか「言外の意」と訳されるらしいが、筆者は大抵「含意」と訳す。
なかなか含みのある語である。(それって洒落か・・・。)

いきなりキリスト教信仰の中核的使信である「十字架」と「復活」を持ち出して説明するのもなんだが、「十字架」にしても「復活」にしても、その出来事を叙述する場合には、Ⅰコリント15章にあるように、「キリストが・・・死んだこと」「また三日目に復活したこと」(新共同訳)と至って簡潔な形もある。
(もっともキリストの死には「私たちの罪のために」と言う意味が付加されているが・・・。)

この使徒的使信(福音)が指示する「ナザレのイエスにおける出来事」のクライマックスである「十字架」と「復活」は新約聖書の中で(様々な文脈の中で)多様なイメージや言語表現を通して提示されている。
つまり出来事としての「単純な意味」の他に、そこから様々なインプリケーション(解釈とも言える)が湧き出ているのである。

例えば、当教会では、毎月1回、ジョン・ストット『キリストの十字架』を用いて学びをしている。
キリスト教神学的には『贖罪論』(救済論のうちキリストの死の意味を考察する分野)と言われる。
ストットはアングリカンの神学的伝統を意識しながら(保守的な態度で)、教会史の中で展開された幾つかの重要な『贖罪論』を紹介する。

(読者の中で、「あれっ、タイトルは『終末論』なのになんで『贖罪論』の話になるの」と訝っている方に説明しておくと、依然として導入となるインプリケーションの話をしているのであって、『贖罪論』はその一例なのだ、と言うことを申し上げておこう。)

『犠牲』やら『血』やら『小羊』やら旧約聖書の祭儀や出エジプトなどを背景としたイメージが、『贖罪』がそれらのイメージが指し示すのは、第一義的には『神の怒りを宥める』のか、それとも『罪を取り除く』、あるいは同時に両方なのか、・・・と議論されるわけである。

さて話は変わって、現在筆者がお世話を手伝っている「N.T.ライトFB読書会」では、Surprised By Hopeと言う本を読んでいる。
まさに終末論に関わる本である。

イエスの復活が、キリスト者の将来の「身体(からだ)の甦(よみがえ)り」の希望を保証するわけである。
しかしキリスト者は地上にある間、ただその時をぼーっと待っているだけなのか。
あるいはその間はひたすら多くの人を出来るだけ天国に入れる伝道することに意義を見出すのか。

それとももっと何か他の役割やら目標があるのか。

そうやって「将来」的視点から「現在」を見つめて、「今、ここで」の意義を見出そうと言うのがSurprised By Hopeの趣旨である。だから「終末」の「現在」へのインプリケーションを探るわけだ。

ところでなぜこんなことを考えているかと言うと、時々遊びで当ブログ名「大和郷にある教会」でググってみるのだが、たまたま今回は「伊那谷牧師の雑考」の『終末を日常のように生きる』 がヒットした。

その記事を書くためのヒントの一つになったのが拙ブログ記事だったと言うわけだ。
確か「大和郷にある教会」だったと記憶しているのですが、終末論について伊坂幸太郎の『終末のフール』を引き合いに出しながら終末を生きる意味についてブログ主の小嶋牧師が小論を投稿しておりました(注:ございました。「終末」を想像して現在を捉える)。その内容に深く教えられ共感し、僕も『終末のフール』を急いで買って読んだことを思い出しました。
何と筆者はネットで入手した書評でこと済ませていたのに対し、O牧師は買って読んだという。
その辺の姿勢が筆者のようなぐうたら牧師と違うんだな。

(筆者はせいぜい図書館で借りて読むくらいで、最近FB友となったK牧師などとは真逆である。K牧師の書斎は平積みされた小説などがあちらこちら山積みされているそうな・・・。)

ライトは「終末」への希望から、かなり積極的な現在への関わりを提案するが、O牧師は「たんたんとした日常」と言うインプリケーションを引き出している。

思えば、「来るべき世」に生きていると言うことをエクスタティックに(羽目を外したようなライフスタイル)現したキリスト者たちがいたことをパウロは書簡(Ⅰコリント)で示唆している。

一方では将来のクライマックスまで待つ間を、まるで伸びたゴムのようにのんべんだらりと暮らしていたキリスト者たちもいたようだ。
彼らへのパウロの指示は、
ところが、聞くところによると、あなた方の中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいると言うことです。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。(Ⅱテサロニケ3:11-12、新共同訳)
さて私たちはどんな将来像を描き、そこから現在へとどんなインプリケーションを引き出すのだろうか。毎日が正念場だ。






2011年3月30日水曜日

「終末」を想像して現在を捉える

キリスト教の終末論(「世の終わり」)には大きく分けると二つの異なる解釈がある。
一つは地球(宇宙)・人類の絶滅と取る聖書のより字義通りの解釈(よく参照されるのがⅡペテロ3章10節)。
もう一つは、質的な変革を通るが、今ある地球(宇宙)・人類が「新しい天と新しい地」に再生されると言う解釈。
勿論大衆的キリスト教でどちらの解釈が支配的イメージかと言えば前者の方である。

前者は基本的に神の被造世界を霊肉二元論的な世界観で捉え、物質的存在には終わりがあり、永続性を持つのは霊的世界(天)だけと考える。
後者は「世の終わり」は物質的被造世界は「世の終わり」を通して変革されるのであり、消滅させられるのではない、と考える。その根拠となるのは神の被造世界に対するコミットメント(契約に基づく慈愛)である。(個人主義的救済観の十八番のような聖書箇所であるヨハネ福音書3章16節は、むしろこのような理解を補強するものだと思われる。)

今回の東日本大震災にあたって、大惨事を目の当たりにして、脳裏に「世の終わり」がイメージされたキリスト者は少なくないと思われる。
大衆福音派の一般的受け取り方は「緊急祈祷課題」の最後に「霊的覚醒」や「伝道の機会」が付け足されることが多いように、「キリストの再臨」が先ず念頭にあるようだ。

しかし非キリスト教的、ポストモダン的日本における「終末」に関する言説は、このような大衆福音派のイメージとはかなりかけ離れている。

2011年3月8日のNHK「視点・論点」で、社会学者の大澤真幸は『"正義"を考える―裏返しの終末論』(リンク)で、
 しかし、私は、物語の機能障害、人生が物語化できないということ、物語の中で人生を意味づけられないこと、これが現代社会に特徴的な困難であると考えて います。物語の中で意味づけるということは、自分が、あるいは自分たち共同体が、最終的にはよい、価値のある目的へと向かっていると解釈できるということ です。現在は、いろいろな不幸や失敗や困難があるけれども、最終的にはよい結果に至ると見なせるとき、人は、自分たちの人生を物語として想像できるので す。しかしながら、現代社会を生きる多くの人が、自分の人生をこうした物語の一部として解釈できずにいます。何かよい結果へと向かう過程であると見なすこ とで、自分の今の不幸を、克服できずにいるのです。
と指摘する。そういう中で大澤は「物語の困難そのものを逆手に取る、人生や社会に対する立ち向かい方」を提唱する。
物語が働かないということは、よい終末、よいゴールは想像できないけれども、悪い終末、つまり破局であれば、思い描くことができる、ということです。そこで、まず、未来において、その破局は起きてしまっている、と仮定してみるのです。ということは、その未来の方を「現在」とする時点において、その破局までの過程が、必然であり、不可避の宿命だったと感じられているということです。その「破局までの過程」、つまり未来にとっての過去に、私たちの実際の現在が 含まれていることが大事です。
ここで、今述べたばかりの、偶然の選択が必然性を産み出すという原理が効いてきます。つまり、未来に想定された破 局の位置からは、その破局に至る宿命自体が、未来の破局にとっての過去--つまり私たちの実際の現在--の自由な選択の産物である、と見えているというこ とです。ちょうど、中東での政権崩壊という必然的な政治のブロセスが、ある自殺をネットでとりあげるという自由な選択の所産であるように、です。
ところで、「自由な選択」であるということは、現在、私たちは別のようにも選択できる、ということです。それは、「『破局』を帰結するような宿命」とは別の選択肢です。私たちは、その「別の選択肢」の方を採るべきです。
つまり、わざと破局的な終末が到来してしまったと想定し、逆に、その終末を回避するような選択肢への想像力を回復する。私は、これを「裏返しの終末論」と呼んでいます。物語が困難な時代の「正義」への第一歩は、この裏返しの終末論にあります。
果たしてこの「裏返しの終末論」とやらがどれだけの力を持ちうるのか、その説得力は未知数だが、実はキリスト教にとってポストモダン時代のライバル的福音に聞こえなくもない。
現在の大衆的キリスト教が「個人的終末(死んだら天国に行ける・・・という救いの提示の仕方)」に焦点を絞るのであれば、終末イメージは異なるけれども「裏返しの終末論」の方が現在をどう生きるかという課題に対してはより説得力を持つのは否めない。

筆者は未読だが伊坂幸太郎のSF小説「終末のフール」もやはり「終末」を逆手に取った現在の生き方、人生の意義付けを提案しているようである。(「カウンセリングルーム:Es Discovery」さんの書評 を参照させて頂いた。)
その意味では、『終末のフール』は小惑星の衝突という『非日常的な事態・近未来の破滅』を呈示しながらも、逆説的に、小惑星が衝突することが分かった途端に『生きる価値を失うような人生・日常』を送っている“今現在の生き方”に警鐘を鳴らしているようにも読める。
未来のどこかに自分の幸福や安らぎがあるはずと想像するだけではなく、現時点において繰り返される日常や家族関係、人間関係の中に、最大限の幸福や価値を見出す努力をしたほうが良いという話である。小惑星が衝突しないとしても、人間の生命というものは『明日をも知れない側面』があるのだから、『繰り返される日常』を無為のままに何も楽しみや意義を感じずに過ごすことは好ましくない。
現在原発事故による危機が進行中だが、「安全神話」が虚構であり、現に起きている「想定外」の破綻が初めから想定すべき「破局」的状況であった、との認識が人々の間に浸透しつつある。

現実が「終末」的様相を帯びてきているこの時代に、キリスト教の福音を如何に提示するか。
従来の「死んだら天国(あの世)に行ける救い」的伝道メッセージで現代人のハートを掴めるのか。

少なくとも、逆説的に終末を想像して充実した“いまを生きる福音”、終末を逆手に取った“破局のシナリオを回避する正義の努力”の方が、現実に対する“しなやかさ”という点で勝っている、と筆者は見るが、このブログの読者の方々は如何であろう。
教会にとってなかなかチャレンジングな時代だと思いませんか。

2011年2月11日金曜日

キリスト者のゴール

しばらく続いた「のらくら者の日記」さんとの対話も、
「私の方は昨日書いた文章でほぼネタ切れなので、どうかこれ以上振らないようお願いいたします!」と言うことなので、一先ずこのシリーズはおしまいです。残念!

さて、教会のブログ、牧師のブログ、と言うと「説教」が掲載されていることが多い。
筆者の場合はこのブログ上で「説教」を掲載することはないと思う。
あるとしたら「ネット、ブログ読者」に対するメッセージになるだろう。
その場合やはり教会の中でなされる「説教」とは大分趣が違うであろう。

そんなことを言ってはいるが、ネット上にある他の牧師の説教を読まないわけではない。
その場合余り鑑賞する意図ではなく、どんな説教をしているか、どんな内容か、どんな釈義をしているか等、分析・検証するためであることが多い。

今回標題のようなものを検索してみた。

検索してみると「キリスト者人生にはゴールがある」と語りつつ、そのゴールは何なのか具体的に言及しないものも結構ありました。

具体的に言及したものを、その部分だけ抜粋して以下に紹介しますと、
① キリスト者のゴールは、再臨のキリストにお出会いすることです。それが最高最大の希望です。
② キリスト者のゴールは、この世にあるのではなく、天の御国です。この世に望みがあるのではなく、天の御国にこそ、キリスト者の目標があります。
③ (2)栄化の恵み
 ではそのような私たちの聖化の歩みはいつまで続き、どこが到達点、ゴールなのでしょうか。聖書は私たちの聖化の歩みのゴールはこの地上ではなく、天の御国であり、そこで到達する完成の姿は、実に、イエス・キリストと同じ栄光の姿に変えられることであると教えます。これを教理の言葉で「栄化」、「グローリフィケイション」と言うのです。
①は、終末論の一モメントである「キリストの再臨(パルーシア)」 に言及しますが、ポイントは「キリストと会う」あるいは「キリスト共にある」と言うことかもしれません。
②は、いわゆる天国です。この場合の「天の御国」は「神の国」のマタイ福音書表現のことではないようです。このような簡単な表現から推し量るのもなんですが、「この世にあるのではなく」と限定していますので霊肉二元論的な背景があると言っていいでしょう。
③は、三つの中では一番教理的な表現となっていますが、救済論的伝統表現である。いわゆる「救いの順序(オルド・サリューティス)」に基づくものと言って差し支えないでしょう。

三つに共通するのは、終末論にしても、救済論にしても、個人的な側面しか視野に入っていないこと、そして「この世」を否定的に取ること、ではないかと思います。

恐らく一般的説教としてこのような二つの特徴的視点で終始する説教は未だに多いと思われます。
改革派の神学的伝統では「契約の神学」があり、また新・カルヴィニズムの影響によって「被造世界の救済」と言う視点は残っていますが・・・。

「キリスト者のゴール」の問題は、「個人的」か「被造世界全体」か、と言う二者択一ではなく、どう関連付けるかの問題だと思います。

つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。(ローマの信徒への手紙 / 8章21-23節)
パウロの救済観では「栄化」は「身体のよみがえり」であり、被造物全体が「滅びへの隷属」から解放されること結び合わさっています。

その意味で非身体的栄化、非物質的被造世界の回復はパウロにとっては神学的論理矛盾となるでしょう。個人的終末論・救済論が「この世のものではない」「地上のものではない」と主張する時は、この点に注意する必要があります。意図せずにパウロの終末観・救済観を否定することに繋がるでしょう。

長い間大衆的なキリスト教に埋め込まれてきた「霊肉二元論的」に解釈されたキリスト者のゴールが、個人の魂の問題や、個人の死後の問題に極小化されていないかどうか点検する必要があるでしょう。

「神の救済のグランド・デザイン」をエペソ書1章やコロサイ書に見られる「宇宙論的キリスト論」の視点から今一度検証してみるよう同労の牧師、説教者たちにお奨めします。