2019年8月11日日曜日

(4) 2019「終末論」ノート①

今年になって数カ月に一回くらいの「(新)コンテンツ」掲載ペースだが、今回は最近の学びのことを取り上げてみたい。

学びのテーマは「終末論」。
※何回かに分けて連載することになるみたいだ。

1 「終末論」とは何か
「終末論」をまず簡単に説明してみよう。

「創造論」や「キリスト論」「救済論」「教会論」などがある《キリスト教(組織)神学》の一項目だ。

英語では"eschatology"「The Last Things(終わりの事柄)」についてのことだ。

トピックとしては「永遠のいのち」「最後のさばき」「天国と地獄」などが標準的であるが、「世の終り」や「ハルマゲドン」「携挙」「千年王国」など人によって関心の高いトピックも含む。


2 きっかけ
もう2か月前になるが、日本福音主義神学会・東部部会の研究会があった。その時のテーマが「キリスト者の希望」であった。

キリスト教神学で言う「終末論」に整理されるテーマであるが、新約聖書の表現でもあり又より平たい表現として「キリスト者の希望」と言うテーマで案内がされた。

この講演会が終わってから、今回の学びの背景ともなっているN・T・ライト『驚くべき希望』を出版したあめんどうのオブチさんがフェイスブックに小さなレポートを投稿した。
そのレポートを筆者が「シェア」して「コメント」したのがきっかけと言えばきっかけだ。

3 「終末論」の勉強会に発展
フェイスブックに載せた筆者のコメントでその後の勉強会に発展する元となったのが「終末論の整理」として掲げた、(1)個人的終末論、(2)民族的終末論、(3)宇宙的終末論であった。

6月10日の研究会ではライトの『驚くべき希望』が背景にあったにも関わらず、聴衆の関心は「個人的終末論」に終始していた感があった。(その要因は多少は論者の方にもあったように思う。)

つまり最初に「終末論の主要な範囲」として「個人的終末論」以外のものも視野に入れておかないと、長年の思考習慣でどうしても個人的終末論に終始してしまうようになることは予測しておかなければならなかったと思っている。

4 ライトの『驚くべき希望』のアプローチ
ライトが描く終末論は上に紹介した「終末論の主要な範囲」でいうと何よりも「(3)宇宙的終末論」の強調にあると言っていいだろう。

「キリスト者の(将来の)希望」である復活(使徒信条の「からだのよみがえり」)は個人的な救いの完成として完結するのではなく、あくまで宇宙的終末論である「新しい創造」のピースとして重要なのである。

『驚くべき希望』の《第Ⅱ部 神の将来の計画》5章「宇宙の将来・進歩、それとも絶望?」の導入でライトは以下の様に断っている。
このトピック【将来の希望・刷新】について議論する上で、私が切だと思う順番で話を進めていく。
個人への約束を最初に取り上げ、そこから被造物の刷新へと進むのでなく、聖書的な将来の世界像、すなわち現在の宇宙が、創造主であり贖い主である神によって上から下まですべて刷新されるというヴィジョンから始めたい。イエスの「再臨」や、その後の体を伴う復活については、その文脈の中でこそ適切に語ることができるのだ。(152-3)
ライトが「適切だと思う順番」とは、「(3)宇宙的終末論」の視野を確立し、そしてその視野の中で「(1)個人的終末論」を論ずること、と言えるだろう。

ライトの終末論のチャレンジは、キリストの復活の意義を論ずるにあたって「救済論」の次元で終始してしまい、なかなか「認識論的・世界観的」意義にまで掘り下げていない状況へのチャレンジでもある。
(以下は4章「2.イースターと歴史」の「(2)認識論的・世界観的挑戦」における『新しい創造の挑戦』からの引用。)
イエスの復活は、キリスト者や神学者にだけでなく、歴史を学ぶ者にも科学を学ぶ者にも、いまのこの世界で起こった非常に奇妙な出来事としてではなく、そこから始まった世界の特徴を現す、じつに典型的で基本的な事柄として差し出されているということだ。それは古い世界で起こった不合理な出来事ではなく、新しい世界の象徴であり出発点なのである。キリスト教内で推進された主張、すなわちナザレのイエスがもたらしたものは、単なる新しい宗教の可能性や新しい倫理や新しい救いの方法ではなく、新しい創造であるという主張は、それくらい重要なことだった。(134)
ライトが主張する「聖書全体のナラティブ/ストーリー」の強調は、「キリスト者の希望」にしても、その根拠となる「イエスの復活」にしても、「創造から新創造」の宇宙論的文脈に位置付けることにあると言えるだろう。

さて前置きはそこまでにして、次回実際にどんな「『終末論』の勉強会」になったかレポートしてみたい。

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