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2018年8月31日金曜日

今日のツイート 2018/8/31

ちょっと内容的には一般的ではないが・・・


ちょうど「「次世代教会」を展望して、5」で教会史の学びの重要性、必要を訴えたところなのでドンピシャリという感じ。

「次世代教会」を展望して、6
で少し膨らまして見たいと思う。

2018年8月14日火曜日

(3)パウロと“ユダヤ教”

2017年に新改訳聖書の新しい訳が出版された。
筆者が購入したのはそれより大分遅れて今年の7月だった。
それ以降「聖書通読」の時にはこの新改訳2017を使っている。

訳文にはかなり大幅な改訂がほどこされた(ような)ことを聞いていたので(かえって)期待して読んでいるのだが、「これは!」と思う箇所は(残念ながら)あまりない。

さて今朝の通読箇所でガラテヤ1章を読んだ。
新鮮に目に入ったのは13、14節だった。
1:13 ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。
1:14 また私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした。(新改訳2017)
1:13 以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。
1:14 また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。(新改訳)
何が新鮮だったか、と云うと引用で強調したように「ユダヤ教」という語が用いられていることだった。
それで旧を見てみると「ユダヤ教徒」とはあるが基本的には変わっていない。

つまり自分の方の受け取り方に従来とは違うものがあったことに気がついた。

端的に言えば、「えっ当時『ユダヤ教』という呼び名が通用するほど一つの宗教としてのまとまり・個別の輪郭を持っていたっけ・・・」という疑問であった。

つまり、使徒パウロの「回心前」と「回心後」の違いを、「パウロとユダヤ教」の関係で表すとどうなるか、と云う問題でもある。

図式化すると大体3通りになる。
(1)回心前=ユダヤ教、回心後=キリスト教
(2)回心前=ユダヤ教、回心後=キリスト教、とユダヤ教
(3)回心前=ユダヤ教、回心後=ユダヤ教、とキリスト教

これでは細かなニュアンスが表せないが、要するに回心後のパウロにとってユダヤ教はどうなっていたのか、という問いである。

「キリストにある」素晴らしさのゆえに、ユダヤ教を誇りに思っていたことはすべて無価値となり、律法も含めて否定したのか・・・。

キリスト者となった後も、自身はユダヤ人として行動したが、異邦人キリスト者にはユダヤ教は必要ないと教えたのか・・・。

そんなパウロ自身の「アイデンティティ」にも関わる問題であり、当然ガラテヤ書やロマ書の理解に大きな影響を及ぼす問いでもある。

英語では、最近 Paul Within Judaism という視点が大分取り上げられるようになってきた。簡単に言うと、パウロは回心後もユダヤ教から出ていない、という見方だ。

興味深いので新改訳2017だけでなく、N.T.ライトの個人訳新約聖書であるKNT(Kingdom New Testament)の訳文を引用しておこう。
13 You heard, didn’t you, the way I behaved when I was still within ‘Judaism’. I persecuted the church of God violently, and ravaged it. 14 I advanced in Judaism beyond many of my own age and people; I was extremely zealous for my ancestral traditions.
[2018/8/14 追加]
※N.T.ライト読書会ブログに「Paul within Judaism」をアップしました。
この記事で書いたことのアカデミック版のようなものです。ほぼすべて英語ですが、ネットで読める関連記事を色々紹介しています。

《関連記事》

(4)宗教改革を越えて 最近の読書に見る流れ(続き2)


2018年1月10日水曜日

(3)新年近況報告

当ブログも、漸減というかなんというか、最近更新回数が減っています。

シリーズものの記事も幾つかあるのですが、ストップしたまま2018年を迎えました。

雑多な内容が入り乱れますが、新年挨拶がてらまずは近況報告です。

(1)巣鴨聖泉キリスト教会の2018年標語聖句
従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。(エペソ2:19-22、新共同訳)
の特にオレンジ色部分が標語聖句となります。

取られたのはエペソ書ですから自ずからテーマは「教会」ということになるわけですが、
21世紀のグローバル化して行く世界でどのように「教会」を捉えて行くか考えて行きたいと思っています。

(2)イスラエルの問題、民族の問題

 昨年後半に4回に分けて書いた 宗教改革を越えて 最近の読書に見る流れ というのがありました。(1234)そこで触れたように、今浮上している一つの意義深い神学の問題は「教会」の問題であり、それは歴史的に言うと宗教改革の起こった16世紀ではなく、(まだ「キリスト教」とか「ユダヤ教」というような用語も認識もなかった)1世紀が焦点だ、ということです。

 キリストの教会が誕生した1世紀からコンスタンチヌス帝のミラノ勅令の4世紀まで、ユダヤ教シナゴグとキリスト教エクレシアはある種ある程度共生関係にあったのではないか・・・。言い換えれば、「parting of the ways」はまだ明確に確立したものではなかった(のではないか)。

 そういう展望からあらためて1世紀の(あえて使うと)“キリスト教”というものを見直す必要があるだろうと思い始めています。

 そうするとパウロが手紙を書いた教会における「ユダヤ人」と「異邦人」の関係の問題がより一層活き活きしたもの(live issue)に捉えられるように思います。

 キリストの教会が、ローマ帝国下にあって、キリストを主とするグローバルなヴィジョンを内包する信仰共同体として息づいていたことをより具体的に想像できるし、その際、一世紀ローマ帝国の多民族社会の統合原理・方法論に(かなり意識的に)対抗しながら、民族・性別・社会経済階層等の壁を乗り越えようとしていたのではないかと思えてきます。
洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、
 ユダヤ人もギリシア人もなく、
 奴隷も自由な身分の者もなく、
 男も女もありません。
あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
   (ガラテヤ2:27-8、新共同訳)
そこには、もはや、
 ギリシア人とユダヤ人、
 割礼を受けた者と受けていない者、
 未開人、スキタイ人、
 奴隷、自由な身分の者の区別はありません。
キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。
   (コロサイ3:11、新共同訳)
小アジア「エペソにあった教会」(コロサイ教会と地理的に近い)について言えば、
標語聖句のある2章11-22節がピンポイントに取り上げている「民族間の壁」はユダヤ人と異邦人です。

 そしてこの構図、イスラエル対諸民族の関係、は「福音」が初めから視野に入れていた問題です。
聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。   (ガラテヤ3:8、新共同訳)
それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。 (ガラテヤ3:14、新共同訳)
しかし、問題は二十一世紀のキリストの教会がこのような「福音」をどのようにグローバル化している多民族社会で実現して行くのか。その辺りのことも視野に入れて学んで行きたいと思っています。

今年もよろしくお願いします。

2017年9月3日日曜日

(4)宗教改革を越えて 最近の読書に見る流れ(続き3)

さて、できればこの回で終わりにしたいのだがはたしてうまく行くだろうか・・・。

(6) Peter Ochs, Another Reformation: Postliberal Christianity and the Jews (Grand Rapids, MI: Baker Academic, 2011)


去年の6月に購入して多分1ヶ月くらいかけて読了した。

実は「ディスカウント・プライス」で選んだわけで、手に届くまでは内容は殆ど分からなかった。

タイトルが『アナザー・リフォメーション』とあるので宗教改革500周年も控えているし・・・と思ったのもある。

さて読んでみるとかなりエンゲージング(力が入っている)なものでした。

 Contents
 1. Introduction: Christian Postliberalism and the Jews
Part 1: American Protestant Postliberalism
 2. George Lindbeck and the Church as Israel
 3. Robert Jenson: The God of Israel and the Fruits of Trinitarian Theology
 4. Arguing for Christ: Stanley Hauerwas's Theopractic Reasoning
 5. The Limits of Postliberalism: John Howard Yoder's American Mennonite Church
Part 2: British Postliberalism
 6. Finding Christ in World and Polity: Daniel Hardy's Ecclesiological Postliberalism
 7. Wisdom's Cry: David Ford's Reparative Pneumatology
 8. John Milbank: Supersessionist or Christian Theo-semiotician and Pragmatist?
 9. Conclusion: Christian Postliberalism and Christian Nonsupersessionism Are Correlative

(購入した時点では認識に入っていませんでしたが)著者はユダヤ人の方で哲学者です。プラグマティズムという米国の哲学の学統(スクール)がありますが、そのうちの一人チャールズ・サンダース・パースの論理学を特に研究したようです。


ユダヤ人の哲学者がなぜ何人ものキリスト教神学者の著作と取り組むのか。しかも単に概観するのではなく彼らの神学のロジックみたいなものを丹念に分析するわけです。

分析のポイントとしているのは(こちらは今度は自然なことですが)「置換神学(supersessionism)」をこれらの神学者たちがどのように意識し、どの程度「彼らの神学のロジック」で乗り越えているかということです。

しばしば「リペアー(修復)」と云うことが出てきます。「置換神学(supersessionism)」を乗り越えるとは、神学をどのように修復的にやっているかと言う事でもあるようです。

サブタイトルに「ポストリベラキリスト教」とありますが、著者はイェールで博士号を取得したのでそのことも関係あるみたいです。(ポストリベラリズム神学自体が特別に対象とされているわけでもないようです。)


筆者はこれまでそれほど「置換神学」を意識していませんでした。(この辺のことに敏感なのはリフォームド系やディスペン系だと思いますが。)

しかし一番印象に残ったのは「置換神学」が神学的に大きな比重を持っているみたいだ、ということです。

それは単に「キリスト教とユダヤ教関係改善」のために重要と言うだけでなく、「分裂(schism)」と云う問題に痛みを感じその痛みの出所を見極め修復する意思を持つ。そのために対話するという姿勢のゆえに重要だ、ということのようです。



(7)R. Kendall Soulen, The God of Israel and Christian Theology



こちらも「置換神学(supersessionism)」を問題にしています。

というかキリスト教の神学者として深くこの問題を掘り下げています。

200ページに満たない著作ですが、よく議論が練り上げられ、俎上に乗せる神学者も選びぬかれ、論点がはっきりするように書かれています。

最初にソウレンの名前を耳にしたのは、ロバート・ジェンソンのこの動画だったと思います。


しばらくウィッシュ・リストに置いたままにしていましたが、「読書の流れ」が段々とこちらの方向に来るようになったところで購入しました。(今年です。)

個人的に重要だと思った論点は(この本をちゃんと読めていればですが)・・・
「置換神学(supersessionism)」に影響を与えたのは、単に個々の神学者の教理的構築作業にあるのではなく、2世紀の教父たち、殉教者ユスチノスとエイレナイオスの正典聖書観が「標準的」になったことにある
というものです。

つまり、旧約聖書と新約聖書との繋がり方の捉え方が問題の基底にあるということです。

かなり啓発的な本でしたが、まだ把握し切れてない点も多く、再読が必要かと思います。


(8)David Rudolph & Joel Willitts, eds., Introduction to Messianic Judaism


ついにここまで来たか、という感じです。

なんのこっちゃと言われるでしょうが「メシアニック・ジュー」に関してはもう何年も前にジョゼフ・シュラムの「シオンとの架け橋」や、つい最近でもフルクテンバウム等、○○タイムで活躍する○川○一牧師らの「ヘブル的(ユダヤ的)○○」の連発を耳にして「どんなもんかなー」と思っていました。

これまで「面白そうな内容を持っていそうだぞ」という好奇心と、「なんか怪しそうだ、あぶなかしそうだ」との警戒意識と両方あったのですが、後者の方が優っていました。

しかしそんな見方を大きく変えたのがメシアニック・ユダヤ教(Messianic Judaism)の指導的神学者、マーク・S・キンザー(Mark S. Kinzer)でした。まだつい最近のことです。

「メシアニック・ジューとは何か」、今ここでしっかり取り組む必要がある・・・と思って適当な入門書を探していたのですが、これにしました。(キンザーの論文も入っています。)

まだ半分までしか読んでいませんが、勘は当たっていると思います。(置換神学の問題を含めて、キリスト教・ユダヤ教関係と云う大きな問題を理解する鍵を握るのがメシアニック・ジューではないかということ。)

「今後何らかのグループなり読書会なりを立ち上げて勉強したいテーマ」になるのではないか・・・と思っています。


2017年8月30日水曜日

(4)宗教改革を越えて 最近の読書に見る流れ(続き2)

宗教改革を越えて、ぼんやりと意識していた地平は「古代教父時代」だったわけですが、その地平はあまり深堀せず次に向かったのが「第二神殿期ユダヤ教」の地平でした。

第二神殿期ユダヤ教については筆者の見えている範囲でちょこちょこと書いたことはあるが、一番まとまっては第二神殿期ユダヤ教 ということになるみたいだ。

前回はこの中で最近(と言っても日本で、しかも保守的なキリスト者の中でということになるが)話題となってきたNew Perspective on Paulについて書いた。

「最近の読書に見る流れ」というタイトルで書いているので、具体的に本を取り上げていこう。

(3) Oskar Skarsaune, Reidar Hvalvik 編著、JEWISH BELIEVERS IN JESUS: THE EARLY CENTURIES (2007)
(4)ダニエル・ボヤーリン『ユダヤ教の福音書: ユダヤ教の枠内のキリストの物語 (2013)
(5)Amy Jill-Levine and Marc Z. Brettler eds., The Jewish Annotated New Testament (2011)



(3)についてはこの記事この記事で少し紹介した。

今回紹介するにあたっての関心事は、初期「キリスト教」と「ユダヤ教」との関係、そして「ユダヤ人キリスト者(民族的にはユダヤ人だがイエスをメシアと信じた者たち)」の歴史だ。

新約聖書時代はキリスト者、特に指導者は総じてユダヤ人であり、パウロの伝道を見ても地中海都市にあったユダヤ人会堂が舞台となっていた。

ざっくり言えばキリスト教はユダヤ教の一派であり、数世紀かかって二つは「分離(the parting of the ways)」したのだ。

原始キリスト教会の「ユダヤ教とキリスト教の関係」そしてある時から「二つが袂を分かった(the parting of the ways)」ことについては、最初にそれとして関心を持ったのは、Graham N. Stanton, A Gospel for a New People: Studies in Matthew を読んだ時だった。

スタントンはこの本の「パート2」でマタイ福音書(マタイ教団)の背景としてユダヤ人会堂からの分離問題を取り上げているのだが、この「分離」がほぼ一世紀中には終了している風な印象を抱いた。

しかしスカルサウネ編論文集を読むと場所にもよるが、その後数世紀に渡って関係が続いたと言うことを知った。

それまでキリスト教会は異邦人世界に浸透するに従い、ユダヤ人信者の存在もユダヤ教の影響も急速に衰退した・・・というイメージだったので、大幅にではないが、二つのグループの相互交渉・影響が数世紀続いたと言うことを知って何かほっとした感じだった。

(4)とボヤーリンについては既に紹介している。(この本は購入してではなく図書館で借りて読んだ。)

そしてその本の中の議論が使われている動画を「マルコ7章16節」問題として数回にわたって連載した。


ある意味この辺から「キリスト教」と「ユダヤ教」の境目が段々と微妙に映るようになって来た気がする。そしてユダヤ人(学者)が福音書に接する時の距離感の近さに対して、(現代の)異邦人学者の距離感の遠さに対する自覚のなさ、みたいなことを思ったりした。


(5)は前々から気になっていてずーっと「ウィッシュ・リスト」に入ったままだったが、「この流れ」が強まってきてついに最近購入した。

編著者の一人、エイミー-ジル・レヴィンについてはここで簡単に紹介している。(発音はレヴァインではなくレヴィンが近い。)

新約聖書についてユダヤ人の学者たちが多数集って「註解」や「関連論文」を執筆すると言うことは(本人たちの弁によれば)画期的なことだという。本当に最近になってから可能になったプロジェクトで、30年くらい前だったら想像も出来なかった、とこのポッドキャストで述懐している。

エイミー-ジル自身、メソジスト系のヴァンダービルト大神学部の教授を務めていて、「時代の変化」を表しているのだが、近年の「史的イエス」研究や「パウロ研究」でのユダヤ人学者たちの貢献はどんどん増えてきており、(いい意味で)刺激を与えているように思う。


いまの所は「へーそんなもんか」でやり過ごしているが、これらのユダヤ人学者たちが「新約聖書文書は(ある意味)ユダヤ教文書でもある」として研究を積み上げてくると、ちょっと意外な展開が将来起こってくるのではないか、とも感じている。


《次回予告》
いよいよ昨年から今年に入って読んできた3冊を紹介する(うち1冊はまだ読んでいる)。
これを書いておかないと「義認論ノート」の終わりの方に書くことがピンボケになるかも知れないので、それでこう言う形で書いて置くことになったわけだ。

2017年8月17日木曜日

今日のツイート 2017/8/17

カトリックの学者の方らしいが・・・恐らく悪意は殆どないと思われるが・・・何かしら「対立的で、少し挑発的な響き」を感じたので・・・取り上げさせていただきましょう。

プロテスタント側には「30、000の教派」がある。
「(それだけ多いと)一括りにできるようなものではない」。
「カトリックではない」という定義がプロテスタントの「最大公約数的なアイデンティティ」。

ですか・・・。

真っ先に思うのは(筆者がプロテスタントだからですが)、「ルターがカトリック教会から破門された」ことが引き金となってプロテスタント(教会)が生まれたということでは、カトリック教会は(3万のプロテスタント諸派の)今日的状況と無関係ではない、ということ。

やはりその辺りの当事者意識が余り感じられないような物言いは注意が必要だろう。

次に「30、000の教派」だが、これはカトリック側が(主に?)プロテスタント教会の信頼性を損ねる目的でしばしば使われるポイントだと言う。

つまり「カトリックvsプロテスタント」という対立的な構図での「数字による攻撃」で、プロテスタント側も「数字で反撃」している。(余り建徳的だと思わないので引用紹介は控える。)

次にカトリック教会の「本家意識」は無理もないと思う。「キリスト教の正統を護ってきた」自負はそれなりに認められてしかるべきだと思う。

しかしその場合でも「本家から分岐したグループ」をそれなりに把握する歴史意識は大切だと思う。


次に正教会側の「本家意識」をどう考えるのだろうか。
Due to a variety of complex circumstances, the Western church, known today as the “Roman Catholic Church,” split from the Eastern Orthodox Patriarchates of Constantinople, Jerusalem, Alexandria, and Antioch in the 11th century. Roman Catholics, however, see it from the opposite perspective, namely that the Orthodox Church broke communion with the Roman Catholic Church.
カトリック教会は正教会側が分離したと考えているが、カトリック教会が正統である東方正教会から「分岐」したのではないか・・・。

と、このサイトではそのあたりの歴史事情をさらに資料に当たって調べるように奨めている。


その中の一冊として、ティモシ・ウェアー『正教会入門』(新教出版、2017年)があがっているのでオススメだろう。

さらにユダヤ教/イスラエルとの関係ではどうなるだろう。


もともとがユダヤ人ではなかったキリスト者(の教会)は総じて「接ぎ木された野生のオリーブ」の意識でいる方が健全ではなかろうか。(ローマ人への手紙11章17節)


と、そんなことを思わされた午後であった。

2016年2月9日火曜日

(5)ロバート・オルターと聖書翻訳 or バークリーとユダヤ教コミュニティー

※フェイスブックに「カリフォルニアとヘブル語聖書」と題して投稿した記事を加筆して転載

米国遊学で最後に滞在した加州バークリー。

中西部から、東海岸を経てたどり着いた西海岸は「夢のカリフォルニア」とまでは行かなかったが、東海岸の「エスタブリッシュメント」の空気が気に入らなかった私には気持ちのいい場所だった。

それから遡ること17年、バークリーでは『レビ記』註解(アンカー)のジェイコブ・ミルグロム/Jacob Milgrom夫妻(奥さんの方はGTU)を中心にユダヤ教文化センター建設が始まっていた。



ロバート・オルター(Robert Alter)はその2年後、東海岸からバークリーにやってきて彼の「新しい」歴史のページが始まった。


英文学専攻のオルターにとって師となるミルグロム(名前は伏せて少し皮肉っている)のセミナーでの印象や、その後オルター自身が聖書翻と取り組むようになった経緯を綴っている
なかなか興味深い。

※ミルグロムの訃報・追悼記事と合わせて読むとバークリーとユダヤ教コミュニティーの背景がより分かる。
※ミルグロム教授の講義を受講したシェルドン・グリーヴズの回想記事を紹介しているブログ記事
このアラン・ジェイコブスの記事(First Tings、2005年8月号)では、聖書翻訳において「意味を置き換える様な翻訳が結果的に“説明的”になってしまう」翻訳の勘違いを紹介している。 
In criticizing the various “dynamic equivalence” models of translation, I lament what Robert Alter calls “the heresy of explanation””“the use of translation as a vehicle for explaining the Bible rather than representing it in another language, [which] in the most egregious instances . . . amounts to explaining away the Bible.”
このオルターへのインタヴュー記事
では、(旧約)聖書の英語翻訳で「プロテスタント神学概念」で“上塗りされた”テキストの意味を、よりユダヤ的(個物的、詩的等々)な表現を回復することを目指した、と述べている。
But I guess I am, as a translator, what in constitutional law would be called an “originalist.” That is, I want to try to convey in English what I think were the actual values and mind-sets of the ancient Hebrew writers, which is also, in the poetry, inseparable from the concreteness of their language and the compactness and rhythmic force of the poetry they wrote.

Jews as well as Christians have imposed very postbiblical theologies and concepts on the Bible, but these have often been articulated in commentary far more often than in translation, because through the centuries most (not all) communities of Jews were not dependent on translations of the Hebrew. In the English-speaking world, the versions of the Bible we have had have certainly been suffused with Protestant theology, and, as an originalist, I have tried to scrape all that away.
 
この動画はオマケということで・・・。余裕あったらどうぞ。



2015年2月23日月曜日

(5)マルコ7章16節はなぜ「抜けている」のか、④

前回、マルコ7章16節はなぜ「抜けている」のか、③では、図書館から借りてきたダニエル・ボヤーリンの『ユダヤ教の福音書』3章から、動画では分かりにくかった議論のポイント、特に、『コシェル』な食物規定『浄・不浄』規定、を何箇所か引用しながら多少説明することができたのではないかと思う。

残念ながら、この本は貸出期限が来たので既に返却してしまった。

今回はメモしてあった引用部分を使って、ボヤーリンの議論の筋を大掴みに提示してみようと思う。


(1)パリサイ派は「汚染された適正な食物」に関する規定を拡大し、さらにそのような食物で「汚されないために」儀礼的洗手の慣習を設けた。

 聖書の枠組み(・・・)は、この二組の規則を厳密に区別している。ユダヤ人は適正(コシェル)でない食物を食べなかったが、汚染された適正な食物に関する規則はそれを食べる人の様々な状況に応じて定められており、それを食べる人の身体を直ちに不浄にするわけではなかった。パリサイ派の伝統は汚染された適正食物を食べることの禁令の範囲を広げ、それを食べる者を汚れた者とみなしていたようである。・・・こうして彼らは、手がパンをけがさないために、パンを食べる前に手に水を注ぐ儀礼的な洗手の慣習を設けたのである。(126ページ、強調は筆者)

(2)イエスはパリサイ派のトーラー拡大解釈に対して抗議している。
イエスは人間の身体(腹)の中に入る食物はその身体をけがさないと主張することによって、これに[エルサレムからやってきたパリサイ派が自分たちの拡大解釈したトーラー規定を受け容れさせようとするのに]抗議しているのである。身体から外へ出るもののみが汚染する力を持っている。従って福音書が描いているのは実は、清浄に関する法を、その元来の聖書に固有な基盤を離れそれを超える形でパリサイ派が拡張することに対して、抗議してそれを拒絶しているイエスである。イエスはトーラーの規定やそれに基づく慣習を拒んでいるのではなく、それらを支持し擁護しているのである。(126-7ページ、強調と[]内のコメントは筆者)

既に①で紹介した動画で、ボヤーリンは、マルコ7章1-23節を「一繋がりの文脈」として捉え、パリサイ派とイエスがトーラー解釈とその適用を巡って対立する構図を浮き彫りにして、「イエスは基本的にトーラーを否定していない」ことを論証しようとする。
(これがで整理しようとした「大きな文脈」のことで、まだ解説には至っていなかった。)

ボヤーリンは『ユダヤ教の福音書』3章ではマルコ福音書記者が、当時のユダヤ人の宗教的慣行について詳細な知識を持っていると指摘している。

(※7章3-4節の挿入的説明や、特にその中に出てくる「念入りに手を洗う」と新共同訳ではなっている「念入りに」のギリシャ語プグメイは、意味不明のためRSV=アメリカ標準訳では訳出されなかったほど。ボヤーリンはこの語が、「片方の手を拳に丸め、もう片方の手で洗う」姿を描写したものであり、同語源で「拳を振り上げて怒鳴る」を表す言葉に受け継がれている、と説明している。つまりマルコ福音書記者はユダヤ人の習慣描写に関して信憑性が高く、それ故1-23節のうち一部を後代の挿入であると取るような説明のしかたは不自然であると見ているようだ。)

当然『コシェル』な食物規定『浄・不浄』規定の違いについても弁えている、と見ている様だ。

動画では『コルバン』については果たしてそのような習慣が当時あったかどうかについてその信憑性については保留しているが、「イエスとパリサイ派の対立の構図」を左右するほどものではないと見ているようだ。


さてここまでの説明ではまだまだ不十分だが、長くなったのでまとめることにしよう。

問い:「マルコ7章16節はなぜ『抜けている』のか?」

この問いを立てて動画の内容を理解しようとし、それではなかなか理解できなかったので、『ユダヤ教の福音書』の関連部分を読んでみたのだが、ボヤーリンの答えは、初代異邦人クリスチャンが16節を消し去った、となる。

つまり、異邦人キリスト者は、自分たちがユダヤ人たちの食物規定(コシェル)に縛られず、これまで通り自由に何でも食べられるようにその根拠・権威を「イエスの言葉・教え」に求めたが、15節「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」のイエスの言葉に注目し、それを文字通り、「人の身体に入るもの」を「(すべての)食物」と理解し、それを根拠に、イエスは「すべての食物はきよい」とし、最早コシェル、さらに言えばトーラーは拘束しない、と解釈した・・・と言うのだ。

そうすると、15節はイエスが出した言わば「トーラーからの解放令」のような位置づけとなるが、16節が指示する「たとえ」は15節の明示的な意味を曖昧にしてしまうため「消し去った」、つまり「陰謀」によるもの、ということ。


ボヤーリンの反論は、外堀から埋めるもので、
(1)イエスはトーラーを否定しなかったし、当然コシェルも守っていた。

 もし「すべての食物をきよいとした」(19節が異邦人クリスチャンたちの意図に合致するように訳された場合の意味)が、「最早トーラーは無効になった。(これからは)何を食べても良い。(『コシェル』な食物規定の撤廃)」と言うのがイエスの意図であったなら、なぜ7章前半でイエスは「祖先たちの言い伝え」に対して「トーラー」の権威を主張することが出来ただろうか。(それではイエスは論理矛盾を起こすことになり、パリサイ派に対する論難は意味をなさない。 )

(2)15節は「文字通り」コシェル規定を守ることによって初めて「比喩的」な意味・適用が成立する。

 イエスはコシェルを破るように教えたのではなく、コシェルを遵守するよう教えたからこそ、トーラーの適用範囲を拡大解釈して、トーラーに対して祖先たちの「言い伝え」を優先させる者たちの「心」が「悪い教え」を出すのだ、と言う「比喩的」な意味がなりたつ。

と、短くつづめるとボヤーリンの議論は大体こんな風になる。


さて16節は本文批評的問題から言えば、「16節が本文から除去されたのは、異邦人クリスチャンたちの陰謀による」とは必ずしも言えないように思う。

7章は解釈上難しい問題が様々あり、それらの諸問題を解決するのはなかなか難しい。

一方7章全体の文脈的意味は、「トーラー」対「先祖たちの言い伝え」の構図を捉えればそれほど難しいとも言えない。

15節と19節は、取り方によってはコシェルを否定している(最早食べ物にきよい/きよくないの区別はない)とも受け取れるが、異邦人クリスチャンが仮に「イエスはコシェルを無効にした」と断定するほどには明示的ではないのではないか。

結論としては、ボヤーリンが提示した解釈はマルコ7章におけるイエスのトーラーに対する態度と、特にコシェルに対する態度を考える場合の「可能な解釈の幅」に入るものとして検討に値すると思う。

※長くなりました。ここまでのお付き合いありがとうございました。


2015年2月2日月曜日

(5)マルコ7章16節はなぜ「抜けている」のか、③

さて、ここまで

マルコ7章16節はなぜ「抜けている」のか①
マルコ7章16節はなぜ「抜けている」のか②
とダニエル・ボヤーリンの動画を紹介してきた。

しばらく前、図書館からダニエル・ボヤーリンの『ユダヤ教の福音書』を借りてきた。


既にこの本についてはこの記事で紹介していました。
ようやく手中にしたわけです。

(実はある人との会話で、この本を凄く推薦されたので、購入しようと思っていました。ところがそんな時この動画に出会い、そして購入しようかどうか迷っているうち図書館にこの本を見つけたので先ず借りて読んでみようと思ったのです。)

結論から言うと、「早くこの本を読んでおけば、こんなに悩まなくてよかったのに・・・。」

かと言ってすべての疑問が解けたわけではないのですが。


この動画で解説されていることは、この「ユダヤ教福音書」の(第3章)『イエスは(コシェルを守って)法規定に照らして適正な食物を食べていた』、でより十分に取り扱われているので、その分「なるほど」は増えたましたが・・・。

では先ず肝心な「『コシェル』な食物規定と、それとは別に『浄・不浄』規定がある」と言う指摘の箇所を引用しておきましょう。
 ある食物をコシェル(適正、清浄)と呼ぶことは、(旧約)聖書と後代のラビ文献に照らしてユダヤ人がそれを食べてもよいこと(あるいは食べてはいけないこと)を意味する。・・・ある食材の処理法とそれが他のどのようなものと接触した可能性があるかによって、コシェルであるか否かにかかわらず、どのような場合に食物が清浄であるか否かに関して、別個の一連の規定がある。(123-4ページ、強調は筆者)
引用は長いので、一息つくために中断します。
お読みのように「コシェルを実践しているユダヤ人でないと混乱するような箇所がマルコ7章だ」と言う指摘のようです。

マルコの7章を理解するには、
 『コシェル』な食物規定と、
 『浄・不浄』規定の、
 二つの関連するが異なる規定がある
ことを認識するのが肝心だ、と言うわけです。

筆者ももちろん大してよく分かっていないので混乱したままになっているわけですが・・・。


と言うわけで認識のために、二つの規定のうち、先ず「コシェルとは何か」について記述しているところを引用しましょう。
 一方でトーラーは、決して食べてはいけない様々な種類の鳥や魚や海洋生物や陸上動物の名前を列挙している。
 トーラーはまた坐骨神経を食べること、他の点ではコシェル(適正)な動物のある種の脂肪分の摂取、血を飲むこと、子ヤギをその母の乳で煮ることをも禁止している。
 これらの規制をまとめたものがユダヤ教の食物規定(コシェルの規則)を構成している。
 前記のようにそれらはどこでもいつでもすべてのユダヤ人にあてはまる。(125ページ、強調は筆者)
今引用した部分は、理解のためにわざと改行したのですが、『コシェル』な食物規定
 ①動物の種類、
 ②動物の部位、
 ③処理(調理)法、
の少なくとも3段階で考えられている、と言うことですね。

次に『浄・不浄』規定について説明している部分を引用します。
 浄と不浄ないし汚染[ヘブル語省略] は、これとは異なる生活領域に関わる規則と規制からなる全く別個のシステムで、人間の死体や、人間の死体に触れた後で適切な仕方で身を清めていない人間と接触した様々な物に関する法規と、皮膚病や経血と精液(糞尿は除外)といった体液の流出のような不浄をもたらすその他の原因(これらはトーラーによれば人を「不浄」な状態にするが、道徳的倫理的な非難は招かない)に関する法規からなる。(125ページ、強調は筆者)

さて、この後いよいよマルコ7章、イエスとパリサイ派の論争の「文化・時代的背景」を説明するわけですが、長くなったので次回に譲ることにします。

※またまた終わらなくてすみません。 

2015年1月13日火曜日

(5)マルコ7章16節はなぜ「抜けている」のか、②

さてマルコ7章16節はなぜ「抜けている」のか①から一週間が経ってしまった。

今回は動画でのボヤーリンの解説を紹介することになっている。
まだ十分咀嚼出来たとは言えないが、「まあこんなもんだろう」的なものに結局なるであろう。


United Bible Societies編のギリシャ語新約聖書では16節を本文から削除しているわけであるが、ボヤーリンは明らかに「16節はもともと本文に含まれていた」との見地から(『陰謀説』を含めた)議論を展開している。

そのことを先ず肝に銘じておく必要があるだろう。

議論・解説は大ざっぱに言うと、2つの部分からなっている。

一つは7章全体(実際は1-23節の部分と思われるが)の受け取り方について。
もう一つは15節と17節を繋ぐべき16節の意義について。

※ボヤーリンは戦略的に「大きな文脈」から自説を展開するが、ここでは「小さな文脈(15-17節)」から見てみよう。

①小さな文脈(7章15節から、17節辺りにかけて)
外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。(新共同訳7章15節)
そして「消えた16節」が続き、17節
イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。
では、とボヤーリンは問いかける。
一体「たとえ」はどこにあるのか、と。

ここで16節を見てみようではないか、とボヤーリンは提案する。
聞く耳のある者は聞きなさい。
ボヤーリンは、これが「たとえ」を導入する時の定型句であることを強調する。
それ故ボヤーリンは結論する。「15節はたとえだ。たとえに違いない。」

※さてこれに続く説明が理解に苦しむものとなるので、果たして読者の皆さんを納得させられるか甚だ自信がないが、とにかくやってみよう。

以下先ずはその部分を逐語筆記したたものを提示する。
The literal sense is exactly what it says in the book of Leviticus and the book of Deuteronomy.
A person does not become impure by putting things into the body but by the things that come out from the body.
And then he says, "Let him who has ears to hear hear," which means this is a parable and has a figurative meaning.
 「その後イエスは弟子たちに『まだこのたとえが分からないのか』(と言い)
and he explains, the things that go into the body don't make us impure but the only things that come out to TEACH US SOMETHINGS, namely, to teach us the MORAL and RELIGIOUS POINTS that when we think evil thoughts...when we do evil things, when we speak evil things, that we are behaving in a wrong way.
となっている。

ボヤーリンが言わんとしているのを推理してみると・・・、
(1)(15節の言は)レビ記と申命記にある通りの意味だ。
(しかしイエスのポイントはそこで終わらず、それを梃子にして・・・)
(2)イエスが指摘しようとした比喩的な意味は、(人の中に入るものではなく)人から出るもの・・・人を教える道徳的や宗教的教え・・・が「悪い思い・行い・言葉」となって出る時、それらは間違ったものとなる。

と言う風になっているようだ。

この辺でもうこんがらかってきたので、次回に譲るが、(1)の「レビ記と申命記にある通り」は何を指すのかがちょっと疑問だ。

恐らくレビ記11章、申命記14章の「汚れた動物」とそれに関連する「食物規定(カシュルート)」のことだと思うのだが、その場合
「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
という言はこれらの二つの箇所に「そのままある」のではなく、「字義通りの意味」として、レビ記11章、申命記14章に見られる「食物規定」が指すとおりのものである、と言うことではないかと思う。

補足すれば、・・・おっとこれでは歯止めがかからないのでヤメ。

次回に。





2015年1月6日火曜日

(5)マルコ7章16節はなぜ「抜けている」のか、①

いやー、あらためて指摘される見てみると本当だね。
今まで殆ど気にも留めなかった。

先ず「マルコ福音書7章16節が抜けている」ことにどうして改めて気づいたのかを説明しよう。


先日マイケル・バードが以下のツイートをした。
で、リンクを辿ってみると(当たり前だが)バード/ウィリッツのユーアンゲリオン・ブログの記事であったが、ただ単に「ダニエル・ボヤーリンのモスクワでの講演動画」が置いてあるだけだった。

で、15分足らずの動画を見た。(面白かったが、腑に落ちない部分がかなり残った。)


と、長い話を短くすると、その後この動画を何度か繰り返し見たのだが、(ボヤーリンの「マルコ福音書7章16節が抜けているのは陰謀だ」説は置いておいて)、彼の解説はある程度説得的だが、イマイチ飲み込めないのである。(全体の流れを理解できないでいる、と言った方が正確だが。)


ここでボヤーリンの動画は一先ずおいて問題箇所を見てみよう。

(1)新共同訳聖書
7:15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
7:16 (†底本に節が欠落 異本訳) 聞く耳のある者は聞きなさい。
7:17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。

(2)新改訳
新改訳では15節の脚注に「後代の写本に16節として、『聞く耳のある者は聞きなさい』を加える」とある。

新共同訳で「底本」、「異本」辺りのことについて追加すれば、
(3)United Bible Societies編のギリシャ語新約聖書
では、16節の欠落については「B」判定となっていて、(この判定を解説する)メッツガー編のA Textual Commentary on the New Testament、では
This verse, though present in the majority of witnesses, is absent from important Alexandrian witnesses... It appears to be a scribal gloss (derived perhaps from 4.9 or 4.23), introduced as an appropriate sequel to ver. 14.
と解説している。

つまり大多数の写本では「16節は欠落していない」が、「重要なアレクサンドリア写本で欠落している」ため、アレクサンドリア写本の信頼性を取った、と言うことである。

また欠落の説明として「写本筆者士による注記ではないか」とある。
写本筆者士が4章9節や23節のように、(本文では15節で無造作に終わって17節へと繋がっていくのを)、15節の後「聞く耳のある者は聞きなさい。」と(16節を)挿入して体裁を整えようとしたのではないか、との推察である。


※次回はボヤーリンの解説を取り上げてみよう。

2014年6月17日火曜日

(4)「パウロ研究」の新しい視点、研究会

 6月16日にもたれた日本福音主義神学会の東部部会、2014年春季研究会、
パウロ研究に関する新しい視点」から「福音」を問い直す
に出席した。

 ほぼ一年前、「福音主義とは何か」をテーマにした同神学会研究会について辛口批評を書いたので、「あー、あれからまだ一年なのか・・・」と言う感慨が先ずある。

 去年はその後目白でのリチャード・ボウカム講演会に出席したわけで、個人的にはなかなか充実した時間をすごしたわけだった。

 今回のテーマは「『パウロ研究』の新しい視点」。

 このブログでも何度か取り上げてきたが、「ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ」、略してNPPと呼ばれるつい最近まで盛んに議論されたテーマである。

 たまたま研究発表をなさったのは、フェイスブックの方の「N.T.ライト読書会」にも加わっておられる方々だったので、予め同読書会内では少しアドバルーンを揚げたり、予備的議論などをしていた。

 昨年も会場が満杯になったことを、そして驚いたことをレポートしたが、今回はさらに賑わった。

 事前に会場を大きなホールに変更したが、それでもほぼ一杯の様子であった。(当日の発表では120名を越えていたようだ。)

《第1発表》
「『パウロ研究』を巡る新しい視点:サンダースとダンを中心に」
伊藤明生、東京基督教大学教授


 雑駁な感想で済ませてしまうのは失礼なのだが、なるべく早く書き留めておかないと忘れてしまうので、ご寛容のほどを・・・。

 先ず時間的には新しいダン(NPPの名付け親)の学術的(特にWCCロマ書注解の出版状況)を巡る話題から入った。どちらかと言うとダンは『露払い』役かな。

 講演の本論はE.P.サンダースによる画期的な「Paul and Palestinian Judaism」の紹介だった。『目次』を眺めるだけでも、彼がパウロ研究にもたらした視点の広さが窺い知れる、と言うようなニュアンスだったかもしれない。

 それにしてもこの書物の影響を考えると、依然として邦訳されていない状況では「最早NPPはちっとも新しくない」とは言っていられないのではないか。

 レジュメには「1世紀のユダヤ教は、パウロの福音を理解する文化脈に他ならない。」とあるが、言ってみればサンダースのような「新しい視点」が、「初期ラビ文献」と言うパウロの背景となる一次資料を丹念に読み込んで形作った故に、「パウロ像」をユダヤ教との連続性と非連続性で比較検討する議論が説得的になるのであろう。

 と言うことはやはり一次資料を読まないと話にならないわけだ。 

《第2発表》
ローマ人への手紙3:20-22の解釈とパウロ研究に関する新しい視点
岩上敬人(インマヌエル狭山キリスト教会牧師)

 これは個別の箇所を釈義することで、「新しい視点」の有効性をある意味弁証しようとした、と言えなくもない。無論「新しい視点」の有益性を主張する。

 参加者にとっては「実際にNPPがどう言う違いをもたらすのか」、と言うことに関心があるだろう。その釈義の実際を詳細に紹介するのは無理なので敢えて賛否両論激しく分かれる「信仰義認」に関わるパッセージを選んだのであろう。

 (岩上氏は使わなかったが、「古い」と冠される視点で支配的な)『法廷的な枠組み』に対置して、『契約』的な枠組みがパウロの義認理解に対して有効なのではないか、との論旨ではないか、と見た。(当日のレジュメは完全原稿で渡されたが、まだ熟読できていないので「こんな印象」でとどめる。)

 該当箇所を「イエス・キリストに対する信仰(目的格属格)」と取るのか、「イエス・キリストの真実(主格属格)」もまた関連する議論として興味深いテーマであるが、個人的な希望としては、広げられた風呂敷をゆっくり展開していきながら、「聖書研究」の裾野をより「分厚く」していきたいものだ。


※以上の2論文は、N.T.ライトFB読書会(非公開グループ)にて提供されています。


補記(1) 、「一世紀ユダヤ教」の文献で重要なものを整理してイントロする仕事が必要だな。

補記(2)、「正典聖書」を超える「一世紀ユダヤ教」を理解するための文献をどう位置づけたらよいのか、もイントロが必要だろうな。特にプロテスタントの方々には「旧約聖書外典偽典」をどのように導入するか、と言う問題。

補記(3)、 パウロを理解するにしても、「文化脈」が重要であることを、解釈学的に理解することを「どう説明するか」と言う問題があるだろうな。

以上、補記(1)、(2)、(3)は特に専門研究するわけではない「一般信徒」も含めた方々を念頭に挙げたものです。





2014年1月15日水曜日

(4)ユダヤ教とキリスト教

本の紹介、と言ってもたんに目がついたと言うだけでここにはそのメモ程度のことを記すのみ。


ダニエル・ボヤーリン
と言うカリフォルニア大学バークリー校の中近東学教授がいる。(リンク


最近、「ユダヤ教の福音書」(教文館)ここ

と言う本を出したそうだ。

原著は
ここ

本の紹介ページでは
Daniel Boyarin, Taubman Professor of Talmudic Culture and rhetoric at the University of California, Berkeley, is the recipient of numerous awards and fellowships. His books include A Radical Jew, Border Lines, and Socrates and the Fat Rabbis. He lives in Berkeley, California.
となっている。

このブログでも度々取上げる、ラリー・フルタド教授も紹介している。

書評フルタド

この記事で登場するピーター・シェイファー教授(プリンストン大学)は、ご自身The Jewish Jesusと言う本を出されている。(ここ


どうやらお二人はライバル同士らしく、それで結構厳しい書評を書いたらしい。

どちらにしても「ユダヤ教」と「キリスト教」は学問の世界ではキリスト教発展史の初期(数世紀)においては、きびすを接する簡単に区別できない、分かち難い繫がりを持った同士である、との認識が前提のようである。

ちなみに我がN.T.ライト教授はダニエル・ボヤーリンの、Two Radical Jewsについてかなり高い評価をしている。ここ






2012年9月13日木曜日

神学遍歴⑤

久し振りとなる「神学遍歴」シリーズである。

今のところアズベリー神学校時代のことを書いているが、今回も。
前回は神学者、H. Richard Niebuhrについて書いたが、今回はアズベリー神学校で受講した中でやや異色で、個人的に興味深かったクラスを三つほど紹介しておこうと思う。

①中間時代の神学
今では「第二神殿期ユダヤ教」等と言われるが、旧約聖書と新約聖書の「間」の(諸説はあるだろうが)約400年間の間のユダヤ教文学についての学びである。

教授は「聖書神学」と言って、その頃はまだ神学校の受講科目ではメジャーになっていなかった部門を担当していた。
と言うことで(確か)先ず紹介されたのは、クリスター・ステンダールの「聖書神学」と言う論文(The Interpreter's Dictionary of the Bible所収)だったかと思う。

クラスは講義の他に課題として聖書学関係の専門雑誌から教授が指定した論文の中から幾つか選び出して、そのアブストラクト(要約)を書く、というものだった。
多分4つ5つ読んだと思う。

記憶が確かなら、James Muilenburgを知るようになったのもこの課題の故だった。

講義で紹介された学者の名前は、
D・S・ラッセル(八田正光訳『聖書の中間時代:後期ユダヤ教の歴史・文学・思想』ヨルダン社、一九六八年。)
Joseph Bonsirven
などであった。

②Supervised Ministry
意訳すると「臨床神学入門」とでも言えばいいか、教授がスーパーバイザーとなって学生たちの小グループを指導するのだが、 神学的作業(リフレクション)は神学書を読むことから始まるのではなく、様々な「ミニストリーの現場」から得た経験を元に行なうものであった。

筆者が行った「ミニストリーの現場」は、総合病院、ミニマム・セキュリティー刑務所でのチャプレン見習いのようなものや、大学キャンパスでの個人伝道のようなものであった。

例えば病室で死期の近い患者さんと何とか会話をして、それから帰ってきて、それを一つの「ケース・スタディー」としてまとめるのだが、状況描写と、会話の中から「神学的テーマ」を見つけ出して、ミニストリーの体験を振り返る、というような神学作業を行なう。
グループの学生たちが一堂に会して、それぞれのケース・スタディーをもとにディスカッションする、そして教授が気付いたことを提案したりする、と言うのが Supervised Ministryの一連の作業であった。

実地を通して神学する、と言うプロセスを教えるものであった。

③説教学上級クラス
上級と言っても説教そのものの学びではなく、説教の中で取り扱われるテーマを如何に現代や社会や等広い視野で掘り下げるか、と言うクラスであった。

このクラスを通して筆者は初めて「ホロコースト」に触れることになった。
ノーベル平和を受賞した、エリー・ウィーゼルのアウシュビッツの体験を下にした自伝的小説「夜」を読んだ衝撃は大きかった。

その他にもこのクラスでは、「普通の説教」ではカバーしない事柄をクリスチャン、説教者としてどう捉えていくかを考えさせてくれた。
 

2012年2月8日水曜日

創世記1-3章

創世記1-3章と言えばこのブログでも取り上げたことがあるように様々な「論争の宝庫」みたいな箇所でもある。

「科学」対「信仰」
「アダムの史実性」
(これはまだ取り上げていないが、最近ジョン・パイパー牧師の『マスキュリン・クリスチャニティー』論争の背景ともなる)「性差(ジェンダー)」
などなど。

その昔リン・ホワイトが「キリスト教は環境問題の元凶」としたのも創世記1章の人間観を「被造物支配」と単純に解釈したからだ。

さてかように論争の宝庫でもある創世記1-3章だが、だからこそと言うか現代の問題を読み解き、解決を示唆するインスピレーショナルな箇所であることも間違いないだろう。

福音派と環境問題

今でこそプロテスタント福音派も環境問題に正面から取り組むようになったとは言え、その歴史はまだまだ浅い。
つい数年前でも北米福音同盟の副理事長だったリチャード・シズィックの環境保護問題の取り組みは福音派の中から結構な批判を浴びていた。

筆者の見るところ福音派自身の中から環境問題に初めてスポットライトを当てたのはフランシス・シェーファーではなかろうか。
彼の、Pollution and the Death of Man. A Christian response to issues concerning ecology.(1970年)にはアペンディックスとして例のリン・ホワイトの論文も収録されている。

さて今日の投稿はこのような歴史についての感想ではなくて、今日ユダヤ教ラビの一人としてその言論が注目されている、サー・ジョナサン・サックス師の短い文章である。

A Steward Paradigm

さーっと読んでみた印象だが、まるで違和感を感じなかった。
つまり環境問題に関し、それだけキリスト教はユダヤ教と視点を共有しているからだ。
それもそのはずその視点に大きな影響を及ぼしているのはキリスト教独自の神学ではなく創世記の人間観とそれに基づく(旧約)聖書の解釈だからである。

例えば、
The honour and glory that crowns the human race is possession of the earth, which is granted as the culmination of God's creative work: "Be fruitful and multiply, fill the earth and subdue it." This notion is fortified in Psalm 115: "The heavens are the Lord's heavens, but the earth God has given to humanity." While the creation narrative clearly establishes God as Master of the Universe, it is the human being who is appointed master of the earth.
しかしサックス師はこの「支配」の解釈のニュアンスを「管理者、ケアーする者」の方向に導いていく。
Genesis chapter 1 is only one side of the complex biblical equation. It is balanced by the narrative of Genesis chapter 2, which features a second Creation narrative that focuses on humans and their place in the Garden of Eden. The first person is set in the Garden "to work it and take care of it."
この創世記1章と2章のバランスから導き出される人間観は、
We do not own nature - "The earth is the Lord's and the fullness thereof." (Psalm 24:1) We are its stewards on behalf of God, who created and owns everything. As guardians of the earth, we are duty-bound to respect its integrity.
さらにこの「統治命令」は技術的なものではなく、道徳的なものであることを創世記3章までを視野に入れて指摘する。

更にこの「統治命令」に「七日目の安息」を対置させ、過剰な労働・使役を抑制する意義を指摘する。
そして後世にこの環境を譲り渡す道徳的責務を負っていることを説いて文章を締めくくっている。
The choice is ours. If we continue to live as though God had only commanded us to subdue the earth, we must be prepared for our children to inherit a seriously degraded planet, with the future of human civilisation put into question. If we see our role as masters of the earth as a unique opportunity to truly serve and care for the planet, its creatures, and its resources, then we can reclaim our status as stewards of the world, and raise our new generations in an environment much closer to that of Eden.
もしキリスト教独自の視点を環境保護問題に持ち込むとすれば、それはイエス・キリストの十字架の死と復活による終末論的な視点からの貢献であろう。
「新しい人」、「新しい創造」、キリストにおいて被造物全体の回復への道が切り拓かれた、と言う確信に基づく環境問題との取り組みである。

2011年2月18日金曜日

第二神殿期ユダヤ教

先日キリスト教世界観ネットワーク
ポストでご案内した会合が来週に迫りました。
「N.T.ライトの歴史的アプローチ―歴史の原点に戻って見直すキリスト教信仰」
と言う題で講演することになっていますが、なかなかまとまった話をするのは大変そう。
それと言うのも「聖書を理解する」と言う作業を一般のクリスチャンは「聖書を読んで理解する」と了解しているから。

まあそんなの当たり前じゃないの、と怒られてしまいそうですが、そうでもないのです。

宗教改革の聖書解釈の原則の一つに、確か「聖書は聖書で解釈する」と言うのがありました。
聖書箇所の意味はその周辺の文脈から始まって最終的には聖書全体の文脈で解釈可能と言う前提があるようです。
確かに基本的にはそうなのですが、現在の新約学ではそのような「範囲内」で研究している方はおられないでしょう。

新約聖書一つ取っても、27文書が書かれた年代は大体一世紀後半の50年くらいの間と想定されます。歴史的な文脈から言うとこの時代のパレスチナ、ギリシャ・ローマ世界が新約聖書の歴史的舞台となるわけですが、新約聖書が書かれた時代には新約聖書の解釈に光を投げかける様々な文学作品があります。
研究者たちはこれらの文学作品との思想的関連性、内容比較など様々な研究を通して、新約聖書本文の意味を斟酌しているわけです。
その中でも「第二神殿期ユダヤ教」に関わる文学作品研究が大分進みました。
・旧約聖書外典・偽典研究
・死海文書研究
・ヨセフス研究
・アレキサンドリアのフィロ研究
・ラビ文書の研究
これらの研究によって聖書本文以外の資料でイエスやパウロの時代のユダヤ教がどんなものであったかかなり分かってきたのです。

つまり何が難しいかと言うと、聖書だけを読んでいるそしてその範囲内で「イエス」や「パウロ」を理解している方々に、聖書外の「第二神殿期ユダヤ教」文書も合わせた理解を説明することなのです。
ある程度までは「新約聖書表現」は新約聖書の中だけでも理解できるのですが、以下に説明する特徴的な表現に関しては、「第二神殿期ユダヤ教」も合わせて比較検討してより輪郭のはっきりした理解が出てくる、と言えるのです。

例えば今度の講演内容にも重要な「復活」に関するユダヤ教理解は旧約聖書ではエゼキエル書(隠喩表現として)、イザヤ書、ダニエル書の言及にほぼ限られます。
しかし旧約聖書外典の「第二マカベヤ書」や「ソロモンの知恵」にはより具体的な表現として出てきます。

またイエスやパウロのユダヤ教の背景となる歴史観を表す表現として、「この世」と「後の世」(ルカ18:30)「今の悪の世」(ガラテヤ1:4)等がありますが、このような二段階的歴史観についても注意しないとギリシャ的な思想背景で解釈してしまう危険があります。
イエスと金持ちの役人の会話に出てくる「永遠の命」は無限に続くと言うようなギリシャ的な時間概念ではなく、預言者が証ししていた「来るべき世でのいのち」、つまり「この今の世」が終焉して現れるあくまでも歴史的に連続性(大変革を通過しますが)のある「世」なのです。

と言うわけで聖書だけを読んでいるであろう聴衆に「第二神殿期ユダヤ教研究」の成果を土台にした解釈を補完する時のギャップを予想して「難しいだろうなー」と予想しているわけです。

言葉だけの説明では難しいだろうから何かチャートと言うか図表のようなものでも用意しなければならないか・・・などと考えている次第です。

ああー、もう来週だ。