2018年8月28日火曜日

(3)「次世代教会」を展望して、5

さて今回は「教会史」の学びをどう取り入れるか、について書いてみる。

小グループの信徒伝道者の神学教育で恐らく最も重点がかかるのは「聖書」ではないかと思う。

しかしその次に実際的に必要になるのは(神学ではなく)「教会史」ではないか。そして教会史の学びの中に「神学」、つまり様々なキリスト教グループが存在するようになった理由の一つとして「教理」や「神学」の違いを理解する必要に迫られるのではないかと思う。

ざっくり言って「プロテスタント諸派(教派、デノミネーション)」宣教師団体が、第二次大戦後日本で伝道を展開し(いわゆるキリスト教ブーム)、その後の「高度経済成長期」に合わせて順調に「教勢」を伸ばし、特に1960年代終わりから1970年代にかけて「福音派」が 新改訳聖書や日本福音同盟(JEA)、日本福音主義神学会などを立ち上げて「成長」していた時期(せいぜい1980年代までか・・・?)を過ぎると、全体に停滞から徐々に退潮へ向かって行き、そして21世紀に入ってしばらくするとシリーズ1でも指摘されたように明確な「頭打ち」傾向、「閉塞状況」が意識されるようになった。

ざっくりと書いたが、要するに「今の文脈」を捉えるとき、一つの傾向として「教派」の比重が軽くなったことを指摘したい。

教派間の競合が減っただけではなく、「自由派対福音派」の対立さえも先行き困難な諸教団にとってはかなり意味合いが変わってきた印象がある。

 「困難な日本の伝道をどうするか」、
 「どうやって教会が生き延びるのか」、
という大きな課題の前には優先順位が低くなってきた観がある。

この流動的状況が、今後小グループの信徒伝道者・指導者に及ぼす影響を考えるとメリットとデメリットがそれぞれあると思う。

《メリット》
 教派主義が相対的になり、自由派対福音派の対立を余り意識しなくなることによって神学教育のための「教材選択」がかなり自由になる。つまりテキストの著者の教派的・教理的背景に左右されて選択肢が狭くなる状況は減るだろう。内容が良いテキストを幅広く選べるようになる。
《デメリット》
 反対に「教派的違い」や「教理的特色」に対する、つまり「歴史的キリスト教」に対する意識がなくなり、神学教育のテキスト選択、教材選択の基準がはっきりしなくなる可能性が強まる。

フラットでネット空間のコンタクトから小グループが形成されるようなシナリオを想定すると、集ったキリスト者の相互理解がどのようになされるのか、極めて興味深い状況となるのではないか。

なるべくシンプルな「キリスト教信仰」を志向する機会が増えると同時に、「歴史的キリスト教」の無知無関心の故、かなり偏った聖書解釈や信仰理解に引っ張られていく可能性もある。(ネット情報にはその辺のことを解決してくれる信頼できるリソースがどれくらいあるか。日本語の場合はそもそもキリスト教情報が少なすぎるのでかなり限られているように思う。)

以上の理由で、小グループの信徒伝道者の神学教育で「聖書」の次に重要になるのは「教会史」ではないかと思う。

しかしこの学びをどのように進めるかに関しては工夫が必要だろう。
よく「歴史」を学ぶのに「現代史」から始める意義が言われるが、教会史の場合もそれで良いように思う。
つまり上にざっくり書いた「第二次大戦後の日本のキリスト教、特にプロテスタント史」を軸にして進めて行くのでいいのではないか。

その時さらに強調点として加えると、(教派色が後退しつつある)現代のキリスト者として、(1)「自分のルーツを掘り下げる」方向の学びと、(2)「(分裂・分離を繰り返して)キリスト信者のグループが拡散したのを追跡する」方向の学びと、両睨みの関心を維持することが大事ではないか。

両方とも「少しずつ」深めていけばよい。避けたいのは「タコツボ」にいることに無知な状態てはなかろうか。


(1)ルーツ掘り下げ型
 簡単に言えば、自らがキリスト者になった《経緯・経路》を特定したり、自分の信仰的理解や神学的理解がどのようなキリスト教の歴史的影響のもとにあるのかを見て行く学びである。
 実際は様々な要素が複雑に絡んだことではあるだろうが、たとえば戦後のキリスト教の代表的人物や関心ある著作家の伝記などを通して目ぼしい「運動」「出来事」「人物」など《指標/マーカー》を増やしていけばよいのではないか。そのプロセスで自分に絡んだ事柄が一つや二つ出てくるだろう。




(2)拡散追跡型
 ※本当は「エキュメニカル」を使いたいところだが、「リベラル対エヴァンジェリカル」対立の名残がまだ尾を引いていると思うので、ここでは使わないことにする。

 歴史を学びながら、自らの信仰生活で使用する「言語」や「習慣」にいくらかでも自覚的になり、そのうちの幾つかは「キリスト者に広く用いられている」ものと、そのうちの幾つかは「キリスト者の特定のグループに特徴的である」もの、というふうに「共通点と相違点」にどれだけ敏感になれるかが大事だと思う。
 ただものによってはニュアンスの違いが微妙すぎて「なぜそんな違いに拘泥したのか」みたいなこともあるだろう。つまり「カトリックとプロテスタントの違い」も良く知らない人のレベルからスタートすることになるわけで、「違い」を面白がり知りたがることが大事ではないか。(分散した状態であることをよしとする意味ではないことはもちろんである。)
 これは小グループで集ったキリスト者間での「相互理解」という面で実際的な知識になるだろう。 

以上、次回に続く。

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