2013年8月31日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

9月1日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネの福音書 14:15-31
説 教 題 「起こる前に話しました」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

2013年8月29日木曜日

(4)若松英輔『イエス伝』

最近のアクセスを見るとちょっと意外に感じるのだが、佐藤優「キリスト教概論」へのページ・ヴューが依然として多い。

これは「ふしぎなキリスト教」などに対する関心と通底するような、「教養としてのキリスト教」を求めている兆候なのだろうか。

ところでこのブログでも何回か紹介したリチャード・ボウカム「イエス入門」出版と時期的に相前後して、最近よく名前を聞くようになった「批評家・若松英輔」の『イエス伝』が中央公論から連載開始した。

一応連載①「一章」(中央公論、2013年5月号掲載)から読んでいるのだが、今回はその④を取上げたい。

第四章 洗礼ーーイエスは洗礼を授けたのか

先ず全体的な印象から。

これは連載全体に通じるのだが、若松氏の考究(瞑想?も含む想像を活かした読み・・・のような取り組み)は、新約聖書学(主に福音書に限定されるが)の最近の研究や動向にも目を配りながら、しかしその枠組みには縛られない、むしろその殻を破ろうとする試論のように思う。

若松氏は「史的イエス」にも関心があるが、むしろ「内村鑑三」に言及したり、また背景には「井筒俊彦」もあり(若松英輔ウィキ)、「宗教間対話」のような狙いがあるのではなかろうか、と筆者には感じられるのだ。

「霊性」の次元で時代や文化の異なる「宗教家・宗教運動」を横断的に捉える視野を探っているような雰囲気と言おうか・・・。

今回の文章は「イエスの幼年期」について書いているが、福音書資料は大変限られており、ルカ福音書の「幼児期物語(infant narrative)」についての解説が主になっている。

かなり内容を省略するが、「イエスが12歳」の時のエルサレム行エピソードでの少年イエスの「父の家」発言に対する両親の驚愕の背後にルドルフ・オットーが用いた「ヌミノーゼ」体験のようなものがあるのではないかと若松氏は指摘する。
 このとき、マリアとヨセフを、名状し難い、しかし烈しい戦慄が貫いたのではなかったか。日々、子供が育っていくのは悦ばしい。だが、その一方で、幼き魂がかいまみせた叡智と霊性の次元が、自分たちとはほとんど隔絶されていることを認識せざるをえない。
 彼らは恐れと畏れが入り混じった、霊的な慄きとも言うべき経験に投げ込まれている。福音書で何もふれられないことによって現出するコトバには、宗教学者ルドルフ・オットーが、超越的体験の原型として論じた「ヌミノーゼ」の事実を見る思いがする。(下線は筆者)
若松氏の関心はここでも新約聖書学者が通常『釈義』と呼ぶ、「著者(福音書記者)の意図した意味」を文脈から取り出してくることよりも、その背後にある「霊性」に繋がる「何か」へ意識を向け、その「何か」を浮き立たせることに関心があるようだ。

さて福音書記述ではこの「イエス12歳のエピソード」より前に来るのだが、「洗礼者ヨハネ」の母エリサベツと、「イエス」の母マリヤの邂逅場面で、エリサベツが「最初」にイエスを「主」と認めたことの経験が、「福音書は具体的には伝えていない」が、洗礼者ヨハネを形成する重要な要素となったであろうと若松氏は想像している。

さて標題の「洗礼」に関し、洗礼者ヨハネの「洗礼」と、イエスの「洗礼」とを福音書の記述に照らして比較するところでも、若松氏は何の前触れもなく「内村鑑三」を登場させる。
 キリスト教に入信するときには洗礼を受けなければならない、とされている。だが、その根拠は必ずしも明確ではない。仮に、イエスを神の子キリストであると信じる者、と「キリスト者」を定義するなら、すべてのキリスト者が洗礼を受けているわけではないからだ。
 たとえば近代日本を見るだけでも、内村鑑三によって始められた無教会に連なった人々のように、洗礼だけではなく、宗教的儀礼を信仰上の必須の条件であるとは考えなかった一群の人々がいる。新約聖書を読む限り、彼らの信仰を誤りと断ずることはできない。
と前置きのようにしながら、「洗礼」が「キリスト者」の条件とはならないことを見ていくことになる。(若松氏は、特にヨハネ福音書4章2節の挿入的解説に注目する)。

この辺りでも若松氏の考究は一定の問題意識によってテキストを選択していくことになる。

洗礼者ヨハネの「水の洗礼」に対し、イエスの「聖霊と火の洗礼」の意味を明らかにしようとする時も、若松氏は依然として「儀礼的・外形的」洗礼に対して、「目に見えないところで成就する出来事」であるところに、『聖霊』による洗礼の意義を見ようとする。

そしていよいよパウロ書簡に進んで行く。
 洗礼が無意味だといったのではないにしろ、イエスは、洗礼を救いの条件にはしなかった。原始キリスト教団が信じたイエス像も同様ではなかったろうか。パウロがユダヤ教の割礼の儀式にふれて言った言葉は、キリスト者の洗礼を考えるときにも見過ごすことはできない。
 あなた方は古い人とその行いを脱ぎ捨て、深い知識へ進むようにと、創造主の姿にかたどって絶えず新しくされる新しい人を身にまとっているのです。そこにはもはやギリシア人もユダヤ人も、割礼を受けた者も受けていない者もなく、未開人とスキタイ人、奴隷と自由の身の区別もありません。キリストこそがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。(「コロサイの人々への手紙」)
洗礼に意味がないのではない。パウロも回心のあと、アナニアという人物から洗礼を受けている。洗礼は、今日も秘蹟であり続けている。しかし、パウロが割礼において明言しているように、洗礼の有無は、救済とは関係がない。もし、ここに固執するならば、大多数の洗礼を受けていない人々が救われないことをよしとすることになる。自分は救われ、ほかの人々が業火にさらされているのをだまってみていることが、果たしてイエスの生涯に続く者がとるべき態度だと言えるだろうか。
若松氏の問題意識は明確である。

ただ下線で指摘した部分で、若松氏は「割礼」と「洗礼」とを混同し、パウロにとって「洗礼」と「割礼」とはあたかも区別がなく、ともに宗教儀礼上のことのように扱ってしまった。

これはかなり大きなミスである。

パウロの真正の手紙と認められている『ガラテヤの信徒への手紙』では、
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。(ガラテヤ3章26-27節、新共同訳)
と言明しているように、洗礼とは「キリスト者」となる体験が、「キリストと一体化」される体験であることを示唆しているものです。

若松氏が嘆く「洗礼」を巡る問題はさておき、パウロに関して言えば、「洗礼」は単なる宗教儀礼上のものではなく、そのエッセンスは「キリストに結ばれる」ことをあらわすものであり、「キリストの死と復活に与る」(ローマの信徒への手紙6章4節)決定的意味を持ったものであることは明白です。


故に原始キリスト教団において、洗礼とは「イエス・キリストの名によって」「古い人・古い世」から切り離され、「終末の神の民」の一員となる(聖霊はその確たる証し)ことをあらわすものとして実践され(使徒言行録2章38節)、「ヨハネの洗礼」を受けただけの「弟子たち」も「聖霊の有無」を確認されて「主イエスの名による洗礼」を受けたわけです(使徒言行録19章1-7節)。

ただ若松氏の「洗礼」に対する問題意識は根拠がないか、と言うと決してそうではない。
ご指摘のように「洗礼」が多分に宗教儀礼上のものに過ぎないような扱いをされている現状は様々あると思われる。

しかし「洗礼」が持っている意味を新約聖書にさかのぼって見る時には、その意義は甚だ大であることは認めざるを得ないのではないか。
そしてむしろ新約聖書から、現在の「洗礼」を巡る混乱に対するアプローチを考えるのも有効なのではないか、と筆者は思う。

2013年8月27日火曜日

(4)主に神学ブログ⑤

このシリーズ前回④、「のらくら者の日記」を紹介したのが4月8日だから大分経ってしまった。

これは今後は更に難しくなって行くことを予感している。

かてて加えて、他にも幾つかブログを抱えていたり、第2回N.T.ライト・セミナーの準備等で、このブログの更新がままならなくなってきている。

それに加えて2、3ヶ月前、午前3-4時頃に目が覚めていたのが(それで大分ブログ記事を書いたりする時間が出来ていたのだが)、ここに来て起床時間が遅くなり、具合悪いことに(主に)午前中であったり、午後であったり何の気なしに少し目をつぶっていたりすると、そのまま「一眠り」って言うことが増えてきた。

まっ言い訳はそれ位にして本題に入る。

今回取上げるブログは自然神学・環境・経済と言う大変視野の広いものです。

当然筆者の今回の主な関心は『自然神学』にあるわけですが、今回このブログを取上げようと思った直接の記事は、パネンベルグからクレイトンへです。

最近は余り読んでいないのですが、神学の中での筆者の関心領域の一つは「自然神学」です。
殆んどエントリーはありませんが、このブログを始めた頃、有神論的世界観と『被造世界』の科学的解明、などと言う大それたタイトルの記事を書きました。

その頃はこの記事が「人気の投稿」のトップを独走していました。(あーあ懐かしい。)

この記事では筆者はパネンバーグと英語読みしていますが、「自然神学・環境・経済」ではパネンベルクと多分ドイツ語読みなのでしょうね。
20世紀、特に1970年代以降は、自然神学再考の動向が顕著になった時代であり、それは現在から未来への広がりを予感させている(本ブログもこの動向の 一端を担っているわけであるが)。その動向の一つの中心を形成しているのが、バルトやブルトマン世代以降のドイツ語圏のプロテスタント神学を牽引した神学者の一人であるパネンベルクである。
と紹介されていますが、確かに自然神学が近代の実証科学の飛躍的進歩に対して後れを取ってきていたのを少しでも取り戻そうとしている一人がパネンバーグなのだと思います。

興味深いのは、筆者にとっては少し古い方との印象のあるパネンバーグの他に、ナンシー・マーフィーの名が挙がっています。

彼女についてはまだブログで取り上げたことはありませんが、
Nancey Murphy, Beyond Liberalism & Fundamentalism
は自然神学の領域ではありませんが、「リベラリズムと根本主義の二項対立の図式」を科学哲学的素養から分析している好著ではないかと思っています。(書評のレベルにも至らない多分に印象的なコメントであることをお断りしておきます。)

そしてフィリップ・クレイトン。
個人的には彼の著作は一つも読んだことはないが、METANEXUSを購読してきた者には聞きなれた名前だ。プロフィール

さて「自然神学・環境・経済」ブログだが、欧米の研究動向を知る一つのアンテナとして有用なサイトかと思う。(何て偉そうに聞こえる言い方は慎むべきだろうが・・・。)

このエントリーを書いたおかげで、筆者がこの方面も関心があることを再確認し、いつの日かまた「自然神学」分野の本にチャレンジしよう・・・と言う動機付けになったらいいなー。

《追記》
どうやらミーちゃんはーちゃんと知り合いになったのはこの有神論的世界観と『被造世界』の科学的解明という記事からであることを再度確認(コメント・セクション)。 

2013年8月24日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

8月25日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ピレモンへの手紙 1-25
説 教 題 「福音の視点から」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(112)
コロサイ・ピレモン(15)

※午後2-4時、福音の再発見ファン感謝デー・東京編

2013年8月21日水曜日

真実と平和を愛しなさい

2013年8月18日(日)の主日礼拝にゲスト・スピーカーとして山口希生兄弟(プロフィール)を招きました。

山口さんのご両親とお姉さまも礼拝に参加され、また聖泉連合・荒川教会のA夫妻も参加され、プラスN.T.ライト読書会関係のMさんも加わり、いつもと大分雰囲気の違った礼拝となりました。



聖書朗読は、ゼカリヤ書7:1-14、8:16-19を司会をする筆者が朗読する。
その後奨励をする山口兄を簡単に紹介して、バトンタッチ。



以下は「真実と平和を愛しなさい」のアウトライン。




1.本日の聖句の歴史的背景について
①紀元前587年5月9日・・・『ソロモン神殿』がバビロンの攻撃により破壊され、消失。

  
②バビロンに捕虜として連行されたユダヤ人たちは、この神殿の消失を嘆き悲しんで、それから70年もの間、毎年5月に断食を行った。

③バビロン捕囚から帰還したユダヤ人たちは、ソロモン神殿に代わる新たな神殿の建設に着手した。その完成が間近に迫った紀元前518年が、本日の聖句の語られた時である。

2.ゼカリヤを通じて、主のイスラエルへの戒め

①神殿の完成が近づいたので、ユダヤの人々に一つの疑問が浮かんだ。
「今まで神殿の喪失を悲しんで断食を行ってきたが、新しい神殿もそろそろ完成するので、こんどはお祝いをすべきではないのか?」

②人々の問いに対する、ゼカリヤを通じての主の言葉は意外なものだった。
「あなたがたは、一体何のために断食をしてきたのか?断食を始めた、そもそもの原因が分かっているのか?」
  
③主によるイスラエルへの叱責
「あなたがたは、貧しい者、弱い者を顧みなかった。だから、あなたがたが苦難にある時、私もあなたを助けなかった。あなたがたが嘆き悲しむべきなのは、先祖たちが正義と憐れみを怠ったことではないのか?」

④将来のビジョン
「断食を祝宴に変えるために必要なことはこれである。真実と平和を愛しなさい。そうすれば、あなたがたの断食は祝宴の時となる」

3.断食を祝宴に変えた主イエス

①しかし、ゼカリヤを通じて語られた主の輝かしい将来のビジョンは、その後のイスラエルの500年間の歴史を通じて実現しなかった。ユダヤの地は次々と襲いかかる諸外国の植民地となり、民は苦しめられた。そして断食はずっと続けられた。

②しかし、ゼカリヤの時代から550年の後、主イエスはバプテスマのヨハネの時代まで続けられた断食をやめて、祝宴を始められた。そして「真実と平和を愛すること」を教えられた。

③だが、多くのユダヤ人たちは主イエスの平和の教えに従うことを拒んだ。「敵、つまりユダヤの地を支配する外国の帝国であるローマを愛しなさい」という教えを受け入れることができなかった。かえって敵への憎しみから、ローマとの絶望的な戦争に突入し、再び国と神殿とを失ってしまった。

4.わたしたちへの教訓

①主イエスの示された平和への道は、決して安易なものではない。かえって多くの困難や犠牲さえ伴うものである。

②ローマへの戦争に参加することを拒んだユダヤ人のクリスチャンたちは、同国人のユダヤ人から憎まれ、排斥されていった。私たち日本人クリスチャンにも、あるいは同様のことが起きるかもしれない。

③しかし主は、ご自分に忠実に歩まれる民を見捨てることはない。ここに信仰が必要とされる。

ちょっと難しいかな???、と思いましたが、礼拝後の感想としては「断食」のこととか「バビロン捕囚」と言う歴史的背景のこととかをまとまって聞くことが出来てよかった。
などという感想でした。

2013年8月20日火曜日

神戸・小豆島・高松旅行④(完)

今回の旅行もこの日が最後。

2013年8月13日(火)

先ずは旭屋旅館の朝食。
純和風。


取り立てて言うほどの内容ではないが、一応家庭的な味付けで、普通に朝ごはん食べている感覚に近い。
調子に乗ってご飯は三杯、味噌汁もお代わりしました。たくあん以外は完食。
(とにかくこの日は色々足で稼ぐ移動を考えていたのでエネルギー溜め込んでおこうと・・・。)

チェックアウトの時、ありがたいことに凍らせたペットポトル緑茶をタオルに巻いて持たせてくれました。(これが大いに助かりました。)

旅館のすぐ近くのフェリー乗り場から、高松へ(小豆島急行フェリー) 


1時間ほどで高松港に到着。

先ずは観光資料をゲットするためにマリンタワーにある観光センターへ。
地図と高松空港行きリムジンの時刻表。



マリンタワー29階から見る高松市。 

今回の旅行の目標は「うどんを食す」ことなので時間を見計らって「うどんバカ一代」を目指す。


琴電と呼ばれるかなりローカル風な電車に乗る。始発駅は高松築港(ちっこう)、下車駅は花園。
築港駅に行く途中に高松城跡の玉藻公園を通過。) 



花園は無人駅でしょうがないので近くの(開店前の)八百屋のおばあさんに「うどんバカ一代」までの道順を聞くが、かなりアバウトな説明に「まっ適当に行きゃ分かる」って感じで歩き出したのだが・・・。



結局何回も途中で聞き直して30分くらいかけて要約12時少し前に到着する。
案の定行列だ。
炎天下30分くらい待つ。



とにかく待っている人が多いので、お客は殆んどベルトコンベヤーに乗せられた「順番」並み。
「次の方ーご注文はー」に、余り考える暇もなく、「釜揚げ中」、そして鰯のてんぷら。

グラスと湯のみ二つ取ったが、自動のサーバーはどれがどれだか良く分からず、氷を入れて熱いお茶を注ぐちぐはぐ。
しかしこれがないと大変な位「汁が醤油辛い」のであった。

店を出て近くの公園で一休み。
食べて安心したので、地図とスマホを使って現在位置を確かめようとするが、何か分かりにくい。
次に目指すのは「うどんバカ一代の近くだ」と聞いていた、日本キリスト改革派高松教会。




松田基教(もとのり)牧師とは、ツイッター(@moto_matsu)で何度か行き来があったくらいだが、ご挨拶して行こうかと立ち寄った。




アポなしの突撃訪問だったが、教会の内部(屋上まで)も色々案内してくれた。
こちらが何の脈絡もなくあれこれ質問するのに文句も言わず、1時間ほど相手をしてくれて、松田牧師は次に行く栗東(りっとう)公園の道順を教えてくださり送り出された。

この日の前高松は連日38度越え、と言うことだったらしいが、この日も日中はかなり暑く、歩き回る身に段々疲れが・・・。
それを癒してくれたのがあの凍った緑茶。冷たい緑茶の上手さ、格別。




栗東公園に入って先ず目指したのは休憩所。
誰もいない館内の奥まったところでほぼ1時間、何もせずじっと休憩。

やっと元気が戻ったところで公園の1/4くらいをさーっと周遊してリムジン発着所のあるJR高松駅を徒歩で目指す。

途中で軽い夕食をと思い、名物と聞いていた鳥のモモ焼きを食べようと地元の人に尋ねて見ると、ご親切に有名店の「一鶴」をスマホで色々検索してくれて教えてくれたのだが・・・。
5時前と言うのに既に順番待ち。

バスの時間から逆算すると無理かな、と言うことで方針転換。
とにかく軽い夕食を食べられる場所を探すが結構見つからない。


ジュース屋さんのお兄さんにまたまた親切に教えていただいた喫茶店「皇帝」で焼きサバ定食を。ようやく汗が少し引いて店を出ると、同じビルの1階にうどん屋さんがあるではないか。


軽く、のつもりがお腹一杯になってしまった。
(注文はざる小なのに麺の量たっぷり。一応完食しましたけど。) 

この旅行の「うどんを食す」方はこれで完了、と言うことで安心したのか、この後がいけなかった。
店を出て右に行くべきところを勘違いして左に行ってしまった。
行けども行けども駅付近の場所の様子は現れず、むしろ寂れた住宅街の雰囲気が増してきた。

高松は道を聞くと親切な人ばかり・・・と言うことで早めに近くにいた人に聞いたら、案外駅までは遠くなかった。
それでも早歩きで20分位、汗かきかき何とか発着所についてまもなくバスが。
ぎりぎりセーフでした。




バスの車窓からは雲間に落日が。

後はスムース。10時前には帰宅できました。


さて「うどんを食す」の講評を最後に。
①丸亀製麺(神戸・三ノ宮付近?)
②三太郎(小豆島・草壁港)
③うどんバカ一代(高松・多賀町)
④こんぴらや兵庫町店(高松)
と食したわけだが、②がダントツでうまい。
あとはそれぞれよいところもあるが、麺が固すぎたり、ツユが辛すぎたり、店員の応対や、いろいろマイナス点がある。

三太郎は行列待ちだったが、一旦店内に入れば、応対はのんびり、注文を急かされるわけでもなく、お店側もマイペースでおいしいうどんを作り、出そうとしていたようだった。

東京(江戸)だと日本そばの名店に行けば、出汁(蕎麦の汁)の味がこくがあって旨い、と言うか深い。
三太郎の出汁の味はそこまでではないが、十分飲み干すほどの味だった。
うどんはと言うと、やはり適当な弾力(固すぎない)とツルンとした麺の表面、食感のコンビネーションがよろしかった。

以上4回に渡った旅行記、完。

2013年8月18日日曜日

(4)カトリックと聖書⑤

少し間が開いてしまいました。

『信仰年』ーー聖書を取り戻した公会議  (2013年6月)「聖書を敬遠していた教会」部分の引用が終わったところです。
次の最後の部分は2回に分けたいと思います。

では先ずは引用から。
神との出会いの場
 このような状況に対する危機感は、すでに公会議前からあり、新しい聖書解釈の方法が徐々に取り入れられるなどしていましたが、公会議はもっと明確に、また本格的に、ミサや神学を含む教会の生活や、また信徒一人ひとりの生活の中に聖書を取り戻すことを決めたのです。
 公会議は、まさに『神のことば』(邦題『啓示憲章』)と題された文書の中で、聖書が(聖体とともに)神と私たちの出会いの中で中心的な役割を果たしてい ることを確認しています。聖ヒエロニムスを引用して「聖書を知らないことは、キリストを知らないこと」(25項)だとする公会議は、信徒が聖書に近づきやすくなるよう、またそれによって養われるよう、聖書の研究、翻訳、朗読、また祈りとともに読むことなどを奨励しています。
先ず言及されている『啓示憲章』ですが、ちょっと調べてみました。

和田幹男神父による、第2ヴァティカン公会議 概説、に憲章(Constitutio)として出されたものが四つあるそうですが、そのうちの一つが、
2) 神の啓示に関する教義憲章(Constitutio Dogmatica de Divina Revelatione Dei Verbum):DV、『デイ・ヴェルブム』、または啓示憲章と略す。
だそうです。
和田氏の文章は以下のように続いています。
 第2ヴァティカン公会議で、教会は現代の世界の中で何を、 いかに行動すべきかを総合的に見直して、それに適応した体制をとろうとした。 その現代化にこそ、その目標があった。
「現代化」と言うことはプロテスタントの筆者もこの会議の持つ意義としては一応弁えているつもりでしたが、次の部分は少し驚きを覚えました。
当時よく用いられたアッジョルナメント (aggiornamento)という言葉がそれを的確に表現している。この現代化は、 その後も常に行われなければならないもので、同公会議は教会をこの現代化の動きの中に送り込んだのだった。 当時よく言われたもうひとつの言葉、「教会はたえず改革されなければならない」 (Ecclesia semper reformanda)が、このことをまた的確に表現している。実際に、これは現在のわれわれの耳にも新鮮に響くではないか。同公会議は、そのためにまず教会とは何なのか、その本質をその源泉に戻って問うた。 その源泉とは教会の創始者イエス・キリストであり、その心にあったものを証しする聖書である。
Ecclesia semper reformandaってプロテスタントの原則と同じこと言ってるじゃない。

このように教会が自己を見直して、まとめたのが教会憲章である。この教会の内省を前提として、 教会がその外に向かって、現代の世界に何を、いかに行動すべきかをまとめたのが現代世界憲章である。 ここに示された教会の行動原理は世界各地で実行に移されたが、目標としたものからはほど遠い。 それに当時予測できなかった新しい諸問題が世界のいたるところで起こり、 これとの取り組みが新たな課題となっている。遺伝子操作、臓器移植、 人口の移動と諸民族、諸宗教の共存、兵器と通信手段の革新、 いわゆるグローバル化に伴う経済的、社会的悪弊、それに環境破壊と問題は多様化し、深刻化している。 同公会議は、教会の自己反省と行動のすべてが聖書に基づいているので、あらためてその聖書とは何なのかを問うた。 その聖書は広く神の啓示の中に位置づけられるので、この啓示とは何なのかをあらためて問い直し、 こうしてまとめられたのが啓示憲章である。
どこまでプロテスタントの神学的取り組みと並行しているのか、注意深く見る必要はあるが、もし誰が書いた文書か言わずに読まされたら、殆んどプロテスタントでも違和感なく受け入れられるものではないだろうか・・・。

もちろんプロテスタントの聖書観の方が、「聖書主義(ビブリシズム)」に傾く傾向はある。
聖書解釈の実践においても「理性」や「教理的伝統(信仰告白文書)」の影響に対して概して無自覚である・・・と言えるだろう。

そういう点は留保しても、これだけ「聖書」を教会の自己把握と実践の中心に据える「取り戻し」は画期的との印象を覚える。

(※[続]ウサギの日記、と言うカトリックの谷口神父と言う方が「急速にプロテスタント化するカトリック教会」を1~5で連載記事を書いておられる。筆者が注目した「聖書」を回復する動きとは別な視点からのカトリック教会の「プロテスタント化」を書いておられる。筆者の連載とは直接繋がらないが、合わせて読んでも「現在のカトリック教会の置かれた歴史的位置」を知るのに参考になるかもしれない。)

神戸・小豆島・高松旅行③

まだ1週間前のことなのに・・・。

記憶はどんどん薄れて行く。
時間との競争だ。

2013年8月12日(月)

先ずは朝ごはん。
セルフサーブ式の結構狭いスペース。


お結びが二つ。昆布佃煮とツナマヨ。
いつもと違うのは牛乳がないこと。

姫路駅前からバスに乗って姫路港へ。
小豆島へは1時間40分の船旅。



お盆休みで田舎に帰る人が多いのか、とにかく何種類かの関西弁らしい言葉が行き来する。
余り聞いても分からない感じなので、本を読んでいても気にならない。
BGMですな。

小豆島・福田港に着くと、次に目指すのは草壁港。
ここにある三太郎うどんは教会のメンバーに教えていただいたお店。


炎天下待つこと約30分。
暑いのでざるうどん・・・となるところだが、一考して熱いかけうどんに。


きつねうどん大を注文して程なくやってきました。
油揚げは結構甘め。それからどう言うわけか卵焼きが乗っている。

既にトッピングされているカイワレとは別に、小皿の上には青ねぎとおろした生姜。

結局スープも何も全部食べました。完食。

この後が時間潰しの時。
バスがない。

フェリーの待合所でスマホやったり、トイレ行ったり、テレビ見たり・・・
陳列されているお土産品の中からB級グルメ程度のあげせんを200円でゲット。

ぽりぽりかじりながら待つことさらにうん十分。
ようやくバスの時間が来たのでバス停へ。

やはり本数の少ないバスを待つ観光客があっちこっちから集まってきていた。
小豆島オリーブバスの中は結構な人数。


途中こんなものが見えました。
多分瀬戸内国際アートなんたらかんたらの作品だと思います。

今夜のお宿、旭屋旅館には4時過ぎ到着。
早速お風呂で一汗流しました。独占。


右側から説明すると、そうめん、真ん中手前の小鉢が蛸わさ、左の小鉢がもずく、お造りは甘エビ、イカ、かんぱち、など。煮物はめばる。その他茶碗蒸しや蛸飯、白いご飯。
これもほぼ完食。


こんな部屋で夜はまたまたテレビを見ながらグダグダやっていました。
(これは朝撮った写真です。)

トイレも洗面も共同という少し古くさい宿でしたが、食事の時のお給仕や声かけは細やかで親しみやすく、気兼ねなく過ごせる、筆者のような一人旅にはぴったりでした。

(次回に続く)

2013年8月17日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

8月18日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ゼカリヤ書7:1-14、8:16-19
奨 励  題 「真実と平和を愛しなさい」
奨 励  者 山口希生 兄弟

奨励者のプロフィール

2013年8月16日金曜日

神戸・小豆島・高松旅行②

2013年8月11日(日)

K氏宅に泊めていただき、ゆっくり休んで起きました。

朝食は定番のベーグルサンド。ちょっとBLT(ベーコン・レタス・トマト)風。
久し振りにヨーグルトを頂き、朝も例のイチジクを食す。

9時過ぎにはK氏夫妻とK氏のお母様と、車で芦屋恵キリスト集会へ。
(ご子息は全国模試とやらで朝から晩まで外出。)

芦屋恵キリスト集会は(プリマス)ブレザレンの流れを汲む群れで、牧師はいない。
教会とは呼ばず、集会と言う。
会衆に選ばれた長老がリードする。

小さなビルの1階と2階合わせて170㎡(?)を占有するので、大分余裕を感じる。
入ると既に集まっていた方々が迎えてくれる。
あちこちで元気な声の会話が飛び交っていて、これが「関西」か・・・と言う印象。

今朝の集会をリードするT長老が早速挨拶をしてくれる。
名詞を頂き、それとなく講師(筆者)の関心・趣味などについててきぱき質問。
趣味では「木工」が特に興味を惹いた模様。

まず聖餐式が始まる。
式文はないが、毎週のことなので淡々と進む。

パンとぶどう液に与る時、それぞれ別な信徒が祈り(自由祈祷)をささげる。
(祈るのはいずれも男性。女性は集会をリードするようなことはせず、頭に被り物をしている人も何人か・・・。)

少しの休憩の後、「聖書のお話」に。

筆者の用意した題は「いま キリストに従う」。
同じプロテスタントといえども、かなり背景の異なることを念頭に、「共有」するテーマとして選んだ。

最初は皆さんに質問してみる。
皆さんは自分を言い表す時、次のうちのどれを用いますか。
 ①クリスチャン
 ②キリスト者
 ③イエス/キリストの弟子
やはり①が大多数。

この後は巣鴨教会HPのスローガン「わたしたちは、聖書からじっくり学ぶ、キリストの弟子たちの群れを目指しています」と、芦屋恵キリスト集会パンフレット掲載文とを比較しながら、「いま キリストに従う」に繋げていく。

40分近く話させて頂いたが、やはり盛り込みすぎた観が強い。

「キリストに従う」ことの、①個人的な側面(主に使徒パウロの生き様が、キリストの苦難を模範としたことを例に挙げて)と、②共同体的な側面(教会として建て上げられる)、とを聖書箇所を読み上げながら進めていった。

「キリストに従う」ことの具体的目標を「聖化」(聖徒として召され、完成される)と言うテーマに見ながら、二つの側面の普段の実践を、「神への献身と、神の御心を絶えず探り求める」(ローマ12章1、2節)から説き起こしてみた。

最後は「聖化」が自分の達成目標と言うよりも、「神の作品」として御霊によって完成されると言う風に見ることの重要性、さらには「主の祈り」にある「御国がなりますように、御心がなりますように」と言う祈りの姿勢・追求が「キリストに従う」ことを持続していく鍵となるものであることを強調させて頂いた。

多分3回くらいに分けて話すべき主題であったろう・・・。

終わると、この後控える「福音の再発見」感謝デーイベント会場へと急ぐ。

昼食は会場近くの丸亀製麺へ。

かなり混んでいた。
すだちおろし大と鳥の天麩羅。
この旅行初のうどんを食す。
(講評は旅行記最後の巻で)

イベント(福音の再発見ファンサイトで後日報告予定)も終わり、ようやく今回の旅行の公式部分が終了。

K氏夫妻と夕食のため少し山の手方向にあるパン屋が経営するレストランへ。


ここもなかなかリーズナブルであった。
とにかくスペース的にゆったりしていて、その辺がかなり東京と違うところかな。

ゆっくり食事をした後で近くの駅まで送ってもらい、そこでお別れ。
(ほぼ2日間、色々お世話になりました。)

新快速で姫路まで。
その日の宿はヴィアイン姫路

駅からすぐとは言え夜なのでちょっと探した。
ぐだぐだ半沢直樹を見たりして時間を過ごす。

(次回に続く)








2013年8月14日水曜日

神戸・小豆島・高松旅行①

教会関係のキャンプなどに行くのを除いて、本当に久し振りの個人的な旅行についての備忘録。

と言ってもきっかけは全然個人的なものではない。
要はスコット・マクナイトの福音の再発見ファン感謝デー・関西編で神戸に出かけることになったからである。

先に、キリスト新聞社によって、御茶ノ水CLC書店で出版記念インストアー・トークライブ企画実施されました。
6月23日、発売から1ヶ月ちょっとのイベントでした。

その第二弾をこじんまりでもいいからやろうと、この本の出版を企画した「三人組」の発案ではなく、筆者が勝手に自分の奉仕教会の休みを利用して持ちかけたアイデアでした。

時期がお盆休みと言うことで、しかも日曜日の午後と言うことで、参加しにくい時期設定ではありましたが・・・。

そんなところが今回の旅行のきっかけと言えばきっかけです。

最初はこのイベントだけしか考えていなかったのですが、段々欲が出てきて、ついでだから個人の旅行も絡めちゃえ、となりました。

と言うのも、今年の個人的年頭目標の一つに「メリハリをつける」と言う事があり、生活全体が大人しい「静」のパターンに終始しているので、少しオン・オフを付けよう・・・と掲げたはいいがここまでのところ殆んど何もして来れませんでした。

それも合わせての多分に自分都合の企画でありました。

(以上長い前置き。)

2013年8月10日(土)
ANA411便、羽田発、06:20、神戸着07:30

なるたけ安いのを探していたら、こんな「朝一」みたいな便になってしまいました。
逆算するとJR山手線・巣鴨04:31に乗らないと間に合わないみたい。

ここ2ヶ月くらいは3-4時だいに起きていたとはいえ、念のため3時きっかり起きの予行演習を二日前から決行。

当日はしばらくぶりの旅行の緊張もあったか、2時には目が覚めた。
ゆっくり支度して、ゆうゆうと羽田へ到着。

朝ごはんは前日に買って置いたパンと牛乳を待合ロビーでいただきました。
(それにしても自動化された搭乗券発行のシステムはやや??)

もうそろそろ荷物検査のゲートに・・・と言うところで小さなハプニング。
何と持参したミニチュアのスイス・アーミーナイフも機内持込禁止とのこと。
これは予想していなかった。(この程度は構わないものだと勝手に解釈していた。)

聞くと、手荷物扱いにするか、宅配便にして現地で受け取るかの何れかを選ばないと廃棄処分されてしまうのだと。

引き返して手荷物預かりの列に入ったが、とてもこれでは搭乗に間に合わないのであきらめ、宅配便の手続きも面倒くさいのでこれまで20年位連れ添ったナイフにさよならしました。

乗客ほぼ満員の機内では、ジョン・ウォルトンThe Lost World of Genesis Oneを読み進めた。

予想外に読みやすい本で(1/3位まで読了時点での感想)、まるっきり大学レベルの教科書的論述ペース。キーコンセプトの繰り返しや要約の多さも目立つ。

神戸空港では到着ロビーに迎えに来てくださったK氏が。

(軽い朝食はとっていたのだが)先ずは腹ごしらえと空港近くのRoyal Hostへ。
まだ朝も早かったので観光に出るまでの間いろいろおしゃべり。
つい先日までK氏が奉仕していた軽井沢にあるキャンプ場の施設のことなど・・・。

市内をドライブしながら色々と説明してくれるのだが、やはり1995年の大震災の復興がどの辺まで来ているか、が話の端々に出てきて、「あーまだ途上なんだな」と言うことを再確認させられる。

最初の観光スポットは、竹中大工道具館
この手のミュージアムは全国でもここだけらしい。

ゆっくり館内を見回した。


自分でもかなり大工道具・古道具を蒐集しているが、千代鶴是秀のものを、鉋だけでなく鑿も見るのは初めてなので、久し振りに日本の刃物の「鋼と地鉄」の合わせ目や、渋い輝き加減などを細かく観察した。

昼食は、神戸酒心館蔵の料亭さかばやしで。

K氏も筆者も、「明石の昼網膳、2,100円」を頂いた。
 

とにかく前菜も、おつくりも、茶碗蒸し、味噌汁まで、丁寧な仕事。
デザートまで付いてこの値段は、東京ではちょっと考えられない。


建物の雰囲気といい、料理と値段の満足度といい、神戸でお食事する時にはイチオシの場所だ。

その後は市内の教会やキリスト教書店をあちこち巡ってもらったり、塩屋の関西聖書神学校を巡ったりした。
(昔話として、父が入信翌日に献身し、最初に入ろうとした学校であることや、学監を勤めるK氏のおじいさんとの浅からぬ因縁などを少しご披露した。)

その後は地元の人でないと結構知らないと言う、五色塚古墳に案内された。
なんでこんな古墳がこんな海の近くに・・・と言うパワースポット風の印象の不思議な光景だった。
ここも是非神戸に行ったら足を運びたい隠れた観光スポットではないだろうか。

その後はさらに明石まで足を伸ばし、昔はかなりの賑わいだったと言う商店街を散策した。
名物の蛸があちこちでたこ焼き、干物、生、で売っていた。

観光も終わり、夕方5時にはK氏宅に。
一休みした後、K氏夫婦とご長男のY君(奥さんと息子さんは顔を合わせるのは初めて)と豪勢な夕食の歓待を受けた。とても食べきれないほどでした。

夕食には必ず何か麺類が出されるのがK氏家の夕食の習慣なのだとか。
うらやましい。
この日はそうめんだった。

丹波の黒豆の枝豆が珍しかったが、何よりデザートに出た地元のイチジクの大きさも味も立派なこと。
写真に収めなかったが、なるほど名物だわい、と思った。

食後は持参した巣鴨教会の創立当初のDVD変換された(音声なし)動画を見ながら、その他のことも色々お話して楽しい時を持った。

知人のご家庭に客人となるのは本当に久し振りだったので、奥さんの細かな心遣いに心から感謝の初日であった。
 

2013年8月10日土曜日

明日の礼拝お休みのご案内

巣鴨聖泉キリスト教会での
8月11日(日)
の主日礼拝はお休みです。

次は、
8月18日(日)午前10時30分、
となります。

奨励者に
山口希生兄弟
を招いての少し特別な夏礼拝です。

どうぞよろしく。

奨励者プロフィール 

2013年8月8日木曜日

リチャード・ボウカム「イエス入門」読書会

暑いさなかですが、秋から始める読書会のご案内です。

教会はちょっと敷居が高い。
キリスト教はちょっと難しそう。
でもイエスには興味がある。

そんな方に取って置きの新刊が、リチャード・ボウカム「イエス入門」(新教出版社、2013年6月)ではないかと思います。



筆者が読んで気に入ったと言うこともありますが、是非この本をより多くの一般の方に読んで頂ければな、と思っております。

このブログの読書の方々は、既に筆者の「紹介・書評」をお読みになったかもしれません。
これこれ

この小さな読書会は、2013年9月~2014年3月まで、全12回で「イエス入門」読み終える予定です。
(詳細は末尾にリンクしました「クラス案内と予定」をご覧ください。)

場所は、巣鴨聖泉キリスト教会(アクセス)のとなりにあります活水工房のティールームです。



ここまで読んでくださった方の中で、もし少しでもご関心を持たれた方がありましたら、以下の文書で詳細をご覧ください。

問合せもお待ちしています。
sugamo_seisen(アットマーク)yahoo.co.jp ・・・小嶋まで。
(※8月10日~8月13日までは不在にしています。ご了承ください。)

クラス案内と予定
申込書 

2013年8月7日水曜日

また少し本を買ってしまった

読書の秋はまだ程遠いのに、
そして暑い夏なのに、
また少し本を買ってしまった。

書棚はほぼ一杯。
机の上や床の上に、積読状態が始まっているのに。

一つには、第2回N.T.ライト・セミナーで、
基調講演 「神殿(仮題)」のリスポンデントをすることになっているので、
そのために「神殿」関係の本を購入した。

①ジョン・ウォルトン、The Lost World of Genesis One: Ancient Cosmology and the Origins Debate



創世記1章を「古代テキスト」として、古代文明における創造神話を参照しながら、解明する本だ。
物質的宇宙の創生」と言うフレームではなく、「被造物が一つの大きな秩序の中にどのようにその働きを定義されているか」、と言うフレームで理解すべきだと言っている。

(基調講演者の鎌野直人氏によるとこのウォルトンの本はイントロにすぎないと言うことで
Jon D. Levenson, Sinai and Zion、を購入。
 
(これはウォルトンが終わってから読む。)
 
 
Jack Levison, Fresh Air: The Holy Spirit for an Inspired Life
は前々から買いたいと思っていた本。
N.T.ライトとスコット・マクナイトの推薦もある。
 
Lloyd Pietersen, Reading the Bible After Christendom
Ryan K. Bolger(編), Gospel after Christendom, The: New Voices, New Cultures, New Expressions
とともにAfter Christendomと言うところに共通の関心がある。

最近連載している「福音派のパラダイム・シフト」より大きな文明史的転換を自覚したものかどうか、まー試しに読んでみよう・・・と言うことで購入した。
 
Ulrich Beck, World at Risk
は大分前から「ウィッシュ・リスト」にあったのをやっと購入した、と言う感じ。
最近は殆んど聖書学・神学関係しか買わないが、時々社会学系などにも目配りはしている。
 
⑦トーマス・C・レーマー「申命記史書―旧約聖書の歴史書の成立」
 
 
これはたまたまツイッターから入手した情報から調べてみて面白そうだったので購入した。
フランス語の原書は英語に訳されているが、アマゾンでは法外な値段。
 
それで邦訳書にしたのだが、鎌野先生の情報で見た(オンライン)本屋では30ドル以下。
注文した後だったので、残念。 

2013年8月4日日曜日

8月18日(日)礼拝 奨励者プロフィール

二週間後になりました。

巣鴨聖泉キリスト教会の礼拝で、久し振りにゲスト・スピーカーを招き奨励して頂きます。

山口希生(のりお)兄弟です。

2013年8月18日(日)、午前10時30分~
主日礼拝、巣鴨聖泉キリスト教会(アクセス

山口さんは現在、英国(ゴルフ全英オープンで有名な)スコットランドにある、セント・アンドリュース大学で、世界的新約聖書学者のN.T.ライト教授の下で博士論文を書いておられる、大変ラッキーな方です。

少し簡単な「プロフィール」をと言うことで、インタヴューしてみました。

「どんな子供時代から青年時代を過ごされましたか。」
両親ともクリスチャン・ホームという家庭で育ちましたが、日曜学校は嫌いで(日曜は友達と普通に遊びたかったので)、 なかなか信仰を持つには至りませんでした。キリスト教主義の高校に通って、その時に洗礼を受けましたが、その時も、奇跡などは全く信じられませんでした。 本当の意味で信仰に入ったのは、やっと30歳を過ぎてからです。

「どんな学生時代を過ごしましたか。社会人としてどんなお仕事をなされましたか。」
大学は、現在在籍しているセントアンドリュース大学を含めると三校に通いました。日本の大学では法学、修士では経済(金融)を学びました。サラリーマン時代は、日米四つの大手金融機関に勤務しました。

「現在はどのような立場ですか。」
現在はセントアンドリュース大学で、新約学の博士課程に在籍しています。

「自分の人柄を一言でどうぞ。」
基本的に楽天的な性格で、なんとかなる、という感じでいままで生きてきました(信仰のお陰でしょうか)。ものごとをなんでもはっきり言う性格ですが、不思議とそれで嫌われた、という経験はあまりありません。

「何か趣味や特技をお持ちですか。」
毎日健康のためにジョギングをしています。趣味はいろいろあったのですが、最近は勉強で忙しく、聖書関連の本を読むのが趣味になってしまいました。

以上です。ご回答ありがとうございました。

山口さんと言えば、忘れてならないのは、つい6月に出版されたリチャード・ボウカム「イエス入門」の訳者の一人、と言うことです。

筆者も当ブログで二回に渡って書評を書きました。(これこれ

(ご関心ある方、ご自由に礼拝へおいでください。)

2013年8月3日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

8月4日(日) 午前10時30分

朗読箇所 マルコの福音書8:31-38
説 教 題 「イエスに従う」
説 教 者 小嶋崇 牧師

それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、
自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
(マルコの福音書8章34節、新共同訳)
※次週、8月11日(日)の礼拝はお休みとなります。
※小嶋崇牧師は、8月11日(日)は芦屋恵キリスト集会で奉仕します。
※小嶋崇牧師は、その日の午後は、「福音の再発見」ファン感謝デーに出ます。

2013年8月1日木曜日

ロバート・N・ベラー(1927-2013)

突然だが、ベラーさんがご逝去されたと言う報がツィッターTLから入り込んだ。

ロバート・N・ベラーは、筆者がGraduate Theological Union (Berkeley, CA)時代に少しお世話になったカリフォルニア大学バークレー校の社会学教授で、アメリカを代表する社会学者と言ってもいい人だろう。

とにかく今は纏まったことを書くことは出来ない。
突然の報に少し驚いている。

一応先ずはそのツイッターがリンクしているこの記事から読んでいただければよろしいかと。

筆者はGTUでは「社会倫理/宗教社会学」領域で博士課程の学びをした。

博士論文(完成しなかった)はベラーの『市民宗教』概念を用いた日本の天皇制分析、また『アメリカ市民宗教』との比較研究になるはずのものだった。
それでベラー教授に博士論文コミッティーに入っていただいた経緯がある。


このビデオでも女性のインタヴュアーが『大統領のレトリック』と言って質問している概念(12分過ぎ辺り)が『市民宗教(civil religion)』のことだが、それにベラーが懐かしそうに答えている。

後はThe Immanent Frameのこのページが参考になるだろう。

ネットで読めるベラーの論文が集められているのがこのサイトだ。

今はこんなところだ。

R.I.P. Dr. Bellah!