2021年1月30日土曜日

自宅礼拝ガイド

主日礼拝

2021年1月31日(日)

賛  美  あまつ真しみず  154番(※)
※YouTube動画を利用できる方は、以下のリンクで「あまつ真しみず(歌詞表示あり)」の演奏をご利用ください。
https://www.youtube.com/watch?v=0M4CssklNS

聖書交読  詩篇53:1-6
使徒信条
聖書朗読  ヨハネの福音書 7:37-39
  祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。
  「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
  わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、
  その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
  イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。
  イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。
    (ヨハネ 7:37-39、新共同訳)
黙  想  「生ける水の川」
静思祷告
主の祈り

【解説】
 ヨハネ7章にはイエスが家族の者たちとは別行動で、エルサレムでの「仮庵の祭り」に出かけたことが書かれています。仮庵の祭りはイスラエル民族がエジプトを脱出して荒野を彷徨したことを記念するお祭りです。荒野で水に飢え渇いたイスラエルの民のために、神は「岩から水をほとばしり出させ」たことを回想する儀礼シーンが、祭りの中にはあったそうです。 その儀礼シーンを背景に、イザヤ書55章1節「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。」と関連付けてイエスはことばを発せられたようです。ヨハネはその意を「聖霊」のことだと解釈しています。
 私たちは神によって「霊的な存在」として造られたことをもっと知る必要があるのではないでしょうか。イエスを信ずる者の「内から生きた水が川となって流れ出る」とは、まさにそのような霊的存在であることを私たちが知ることを指しているのではないでしょうか。「主イエスよ」と呼びかけましょう。

2021年1月24日日曜日

(論考)「近代の原理③『自由』」

自由の原則

聖泉誌の一面でここ2回ほど書いてきたこと(「人を導くということ」と「フェミニズムという視点」)は、実は近・現代社会変革の中核理念となってきた『個人』及び『平等』ということに関連している。今回はもう一つの中核理念である『自由』ということについて書いてみようと思う。

 『自由』という言葉が使われている場面・状況は実に多種多様にわたっていて、これにそれぞれが「自分の思うままに(自由に)」使用する局面まで含めるとほとんど収拾がつかないほどに思えてくるほど自由は私たちの生活に浸透している。一見無秩序に見えるこの自由の領域の氾濫は私たち現代人に警鐘を鳴らし、もう一度自由の原則の評価を要請しているように思う。

 さて今「自由の原則」といったがある方にはこれが矛盾に聞こえたかもしれない。すなわち自由と無原則はほぼ同義と考えている人である。専門学校でキリスト教倫理を教えながら、その中で「自由」についてのレポートを書いてもらったりするが、依然として自由を「自分勝手・やりたい放題」すなわち非道徳的な、無軌道なものと受け取る考え方が根強い。

 柳田国男によれば明治期に自由民権思想とともに「フリーダム」の訳語として定着したこの言葉は、まさにそれ以前には「自由勝手」という意味で用いられていた言葉だと言う。(谷川徹三『自由について』)そのような背景を持っている言葉だから余計ややこしくな るわけである。

 さて自由の原則というとき私たちの社会生活でまず大切なのは、思想・表現・出版の自由、集会・結社の自由といった一連の民主主義的政治参加を支える政治的自由の制度である。次に宗教者として大切なことは自己の良心の帰属する宗教的権威を自分で選択する権利を保証する信教の自由、あるいは内心の自由である。このような個人の人格を尊重し、その精神的能力のゆえに、それまで国家や家父長に帰属していた決定権を個々人に委譲してきたのが近代の自由の歴史であったと言える。

 私たちプロテスタントの流れに信仰を受けた者たちとしては特に自由の原則は大事である。教皇の前で破門も恐れず自己の良心の帰属する究極的権威を神と神の言葉である聖書のみに限定したルター。聖書に照らした教会形成を実現すべくイギリス国教会の下を離れ、新天地アメリカに移住したピューリタンの群れ。さらに聖泉の歴史を語るときにも自由の原則は中心的なものであったと思う。その経緯を初期の聖泉誌に見るかぎり、出エジプトにしばしばたとえられたようにやはり聖書に照らした自己決定の試みであったように思う。

 個人であれ、グループであれ、それぞれ信ずるところによって自己決定をしていくあり方を自由の原則と呼ぶとすれば、それは自己決定の根拠・権威づけを、神と神が示す真理とに限定・究極化していく試みであり、それは当然あらゆる人間的権威に対する検証を要請するものとなる。

 自由の原則を評価しその下に歩む者は絶えず真理に対し謙虚に究明することが肝要である。初歩的なことを言えば、寛容をもってあらゆる人の意見に耳を傾け(少数意見の尊重=力の劣る者の意見を封殺しないこと)、それを正しく評価・批判し(主観や感情のみで評価せず、常に客観的評価基準を提示するよう努力する)、自己の確信に対してはその根拠を示すことを厭わず(確信や意見の表明において知的努力を怠らない)、また自己の確信を超えた範囲のことに対しては断定を避ける。

 教会内外を問わず、一致・秩序・協力等「公共の善」を追求するときにもやはり真理という基準を抜きにして機構的・制度的処理(総会を通ればよい、議長一任、多数決、などなど単なる手続きだけによる処理)に甘んじていては、それは真の建設に耐えるものではない。真理の御霊のたもう一致を目指す私たちとすればなおのこと、真理の追求のプロセスの尊重は必須と思う。

 

※機関誌「聖泉」(1994年4月号掲載)

(論考)「近代の原理②『平等』」

フェミニズムという視点

 バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。
(ガラテヤ3:27-28)

1.フェミニズムとは

フェミニズムというとまだ耳慣れない人も多いかもしれない。しかし今は余り口に上る数も減ったかもしれないが、ウーマンリブと言えばうなづかれるかたも結構いると思う。ウーマンリブとはウイミンズ・リバレーションつまり女性解放運動のことである。フェミニズムのほうはフェミニン(女性的な)に語源を持つことばで訳せば「男女同権論」になるだろう。

 ウーマンリブあるいはフェミニズムの主張・運動は一面的には「父権制社会」「男性上位社会」 に対する異議申立であることによってどうしても「女性」対「男性」という構図でとらえられがち である。しかしそれは単に会社の上司が殆ど男性であるとか、政治家の殆どが男性であるとか、つまり社会の実権を握るのが男性ばかりである、ということに対する抗議であるだけでなく、つまりそのような支配が「男性的な」原理、特徴を中心に構成された、ゆえに「女性的な」原理、特徴が軽視され排除されたものである、というなかなか奥の深い抗議でもある。

2.パウロとフェミニズム

さて冒頭のパウロのことばであるが、ここで彼が言っているのは、キリストの体という視点から言えば、その中にバプテスマによって一体とされた者たちにとっては、人種・民族的区別(ユダヤ人、ギリシャ人、等々)、社会階級的区別(奴隷、自由人等々)、性別(男子と女子)という人間社会の構成原理となる諸々の区別が教会社会においてはもはや無効となった、という宣言ととれる。なぜそうなるのか。パウロによれば「キリストの体」という共同体を構成するメンバーの加入(バプテスマによって)はユダヤ人とか奴隷とか男子であるとかと言ったあらゆる人間的・生来的な資格・性質によるのではなく、ただ各々に賦与される(言ってみれば)キリスト格によるからである。

 パウロはいわゆる現代のフェミニストではない。むしろ彼の新約聖書中に残されている手紙の内容を見ると女性蔑視ととられる部分も持っている。(例えば、Iコリント14:34-5、エペソ5:22-24、Iテモテ2:12)一方でフェミニズムを超越するような思想と、もう一方で当時のユダヤ的(ラビ的?)思考に基づいた階層的男女観を併せ持つように見えるパウロをどう理解すればよいのだろうか。

3.福音派とフェミニズム

 近代社会において女性の地位向上・社会進出が紆余曲折があったにせよ少しずつ実現され、また現代においては男女平等を積極的に社会制度に反映させようという流れのなかにあって、福音派内部からのフェミニズムに対する発言はこれまでのところ非常に少なかったと言えるだろう。また発言しようとしてもそこには上記のようなパウロのフェミニズムに対する態度の不透明さという聖書解釈の問題があり、聖書を信仰と倫理の唯一の基準とする福音派のフェミニズムに対する態度の不明瞭さになっているように思える。

 フェミニズムの問題は、普遍的人間観に基づく自由と平等の精神に由来する近代社会の問題であり、将来に向かってもなお根本的な社会変革の中心に位置するだろうと思われる重要な問題の一つである。歴史の流れにまかせるだけでなく、立ち止まってよく考えてみたい問 題である。

 

※機関誌「聖泉」(1993年4月号掲載)

 

(論考)「近代の原理①『個人』」

人を導くということ

四月を迎え、年度の変わり目、さて次の一年をどう乗り越えたらよいか思案しつつ過ごしている。私は教会の先生の他に学校の先生をやっているのだが二つに共通しているのは、牧会にしても、教育にしても、人を導く、ということである。最近メディアでも「大学教育」が特集されるようになった。去年であったか某大学で大量留年騒ぎがあった。それに端を発してか、しばらく新聞の投書欄に大学教育の問題が盛んに取り上げられていた。私の場合大学ではないが、専門学校で同年代の青年たちを相手しながら、実は私が授業の場で直面していることが例外的なことではなく、非常に広範にあるらしいということがこれらの記事や投書を目にするにつけ思うようになった。端的に言うと、私語が多くて殆ど授業が成立しないのである。少しでもそれらしくなったときは「おや今日は皆どうしたんだろう」と逆に思ってしまうのである。私語といってもヒソヒソではなく今は堂々とやっている。クラスルームは殆ど喫茶店のなかと変わりないぐらい多方向のおしゃべりが行き交う場となっている。 

 一体これはどうしたことか。教育(狭い意味では授業)の前段階のシツケの問題か。しかしおよそ小手先のシツケ教育ではどうにもならない。「おい静かにしろ!」とどなってみても静かになるのはほんの一時。そのうちおしゃべりのボリュームはあがってくる。またシツケというのもそれ自身問題である。彼らは多かれ少なかれ校則やなにやらでやたらに管理的教育を通ってきた人達である。先日早稲田大学の学長が入学式で「これからは君達を大人として、ジェントルマンとして扱う」と言っていたが、今まで管理的に指導されてきた人を18になったからといって急に大人扱いしても両方戸惑うばかりであるのは事実だ。現に生徒たちは自分たちがうるさいのは分かっていても、自分たちではどうしようもないので先生にもっと厳しく叱ってくれという始末である。

少し極端な言い方かもしれないが、実は日本社会は大方人を大人として扱わないのではないか、と思う。「大人として扱う」という意味は人を一個の人格として尊重し、そのように接する。そういうふうに私は理解している。急に18になってから大人扱いしてもだめなのだ。子どものときからきちんと彼らを一個の人格として尊重していかなければならないのだ。

管理が行き過ぎると個人は抑えられ、個性の自由な発揮も当然抑えられる。日本社会は集団の繁栄を第一目標として、画一的・均質的に揃えられた人々の総合力で今日の繁栄を築いた。しかし今その繁栄の意味も、そのために取った管理的な方法も両方が問われている。豊かな個性を持った人材が育たなくなってしまったことに今気付いている状態なのだ。

個人や個性を重視するようになったことはたいへん結構だ。人格を尊重するありかたはこの個人という考え方を抜きにしては考えられない。しかし、この個人という考え方が日本にあってはあたかも、これまでの集団的なやり方の一つの軌道修正としか考えていないのではないか。そんな気がしてならない。集団的な考え方をしてきたものにとって、個人という考え方はどうしても「自分勝手、てんでんばらばら」の結末を予想しやすい。集団の目標を維持するためにも管理や命令に依存しやすい。集団の目標が物質的な繁栄だと管理や命令も勢いせっかちになる。教会建設においても目標の設定の仕方によってはこのような誘惑に簡単に陥ってしまう。やがて個人が「集団の目標」の名のもとに忘れられ、埋没してしまわないために、今個人という考え方を十分深める必要を痛感する。

 

※機関誌「聖泉」(1992年5月号掲載)

(論考)「地(球)的視点と聖書―④ パウロから見る『地球市民倫理』」

 地球大の問題、特に地球環境問題を解くどんなヒントが聖書の中から見つかるだろうか、と言うテーマで考えてきました。今回シリーズ最終回、使徒パウロの福音理解において人間と被造物全体がどこへ向かっているのかを見、そしてそこから地球市民倫理へのヒントを考えてみたいと思います。

ロマ8・18-23

今の時のいろいろな苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意思ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

一体全体パウロがここで描いている終末の展望をどう理解したらいいのでしょうか。私たちは二重三重の意味でパウロのこのような展望を理解する事が困難になっています。一つにはこの箇所の主題である復活の理解がかなり歪んで弱くなっています。もう一つは私たちが理解する救いのゴール、死後のいのちが天(国)に向いていて、この地(球)に向いていません。つまり私たちの関心において天(国)と地が分断しています。さらに私たちの救い理解が極めて個人的な関心の範囲に留まっているため、この箇所でパウロが解き明かそうとしている「被造物全体の贖い」と言う巨視的救いの全体像に連絡し統合されて行くことが困難になっていること、等が挙げられます。

パウロはこの箇所で「現在」苦難を受けているキリスト者を「将来」受ける栄光に目を向ける事によって乗り越えるよう励ましています。そして現在の受苦は無意味なものではなく、いのちの誕生に伴う痛み(産みの苦しみ)になぞらえています。当然パウロがここで示唆する新しいいのちは回心を通して起こる「新生」のことではなく、将来いただく復活の体のことを指しています。それが「神の子供たちが栄光の姿で出現する時」を指します。では現在はまだ古いいのちのままかと言うとそうではなく、既に新しいいのちの「先取り分(初穂)」として聖霊が与えられていると指摘します。この聖霊がキリスト者の内に将来受ける栄光のからだを保証し、その聖霊によって「早くそのからだを着たい」と言う渇望を生じさせているのだ、と言います。

ところがその渇望はキリスト者だけのものではなく、被造物全体がその誕生の時を今か今かと心待ちにしているのだ、と言います。なぜ被造物全体がこの誕生に関連付けられているのでしょう。それは新しいいのちつまり死者からの復活はキリスト者個体の復活だけでなく、それを含んだ万物の更新(イザヤや黙示録では新天新地)の時だからです。つまり新創造。その中心に(新しい)人が位置します。旧創造において堕落した人が新創造において栄光の姿に回復される時被造物全体もあるべき秩序に回復されるからです。

このような展望から具体的に地球市民倫理をすぐ導き出す事は難しい。しかし「キリストにある新人」が被造世界に対して持つべき関心と働きかけの足がかりにはなると思います。(「地(球)的視点と聖書」シリーズ完)

 

※機関誌「聖泉」(2006年2月号掲載)

(論考)「地(球)的視点と聖書―③ 聖書の終末観から見る『地球市民倫理』の方向性」

 前々回は旧約聖書の創造物語から地球と人間との関係を考え、前回はさらにこの聖書の人間観が地球環境問題の淵源であるとする説を考察しました。そして結論として野放図な経済発展の結果と位置付けられるべき地球環境問題の淵源は経済活動に対する倫理的規制が鋭く盛られた律法を中核とする旧約聖書思想に求めることは妥当ではないことを見ました。 

 今回は「創造」の対極である「終末」の視点を紹介して、この角度から人間の置かれている立場、責任、可能性を考えてみたいと思います。 

聖書の視点:終末

 私たちの聖書全巻には創造から終末へ、「どのように神が働かれ完成させようとしておられるのか」に関するそれぞれの時代の聖書記者たちによる神の御心、御業の理解が示されている、と言えると思います。

 終末を敢えて単純化して言えば、「被造物全体が向かっている究極的ゴールに関する事柄」と言えるでしょう。さらに少し肉付きを加えれば、「神の創造のみ業が堕落による脱線の後どのようにして最初に意図された姿を回復し、更に完成されて行くのか」に関する事柄とも言えるのではないでしょうか。

キリスト教の終末観

 聖書の終末観をさらにキリスト教の終末観と言い替えて話を進めます。それは聖書の終末観には先ず土台となる私たちにとっては旧約聖書と呼ぶ聖書の終末観があり、その上にキリスト教の終末観があるからです。 

 旧約聖書は創造と堕落の後ノアを経由して始まるアブラハムの選びとイスラエルの形成の歴史を中心に構成されています。神の民の選びと形成は、人類と被造物を回復しようとする神の業の一環でした。しかしこの民は契約に背き捕囚の民となってしまいます。しかし預言者たちは、イスラエルがもう一度神の契約の民、選びの器として諸国民への「祭司・預言者・王」の国民として回復されると言う展望を示します。イスラエルの民は捕囚から帰還し、神殿を再建します。しかし回復は始まりましたが依然としてその十分な回復を見る事が無いまま旧約聖書は幕を閉じます。

 その後イエスが誕生するローマの支配の時まで約四百年の間に、ユダヤ人の期待は預言者たちの描いた約束が実現する「来るべき世」とそれを導くメシヤに集中していきます。このやがて来る「神の訪れの時」「終わりの日」に実現するだろう事柄がユダヤ人の終末観を構成していきます。
と、ここまでが一応旧約聖書の終末観及びイエスの時代のユダヤ人たちの終末観の大枠と言うことが出来ると思います。

 キリスト教の終末観はこのユダヤ人が終末に期待していた事柄がイエスにあって根本的に成就された、と言う理解の上に展開します。即ちナザレのイエスが来るべきイスラエルのメシヤであり、さらに一切のものの主である事が十字架の死からの復活によって公に示された、と言うことです。 

 次回は十字架と復活を中核に展開したパウロの福音理解の中に、どのように人間と被造物との関係が回復し、更に完成されて行くのかを見ることにしたいと思います。そこから地球市民倫理への方向性が見えてくるのではないかと思います。

 

※機関誌「聖泉」(2004年4月号掲載)

(論考)「地(球)的視点と聖書―② 地球環境問題とユダヤ・キリスト教人間観」

 二十一世紀を迎え私たちが抱える問題は個人や国家の枠組を越え、地球的視点から解決を探らなければどうにもならない、という問題意識からこのシリーズを始めました。そして前回は聖書の中に地球的視点を探ろうと創世記の創造物語から人間と世界の位置付け、関係付けを考えてみました。その特徴を簡単に言えば、「人間が被造物の一部でありながら全被造物の頂点に位置し、さらに創造者に代わって全被造生物を支配する役割を与えられている」、となります。

 しかしここで一つの疑問にぶつかります。この人間が全被造生物(少し広げて自然)を支配すると言う考えはまさに現在の地球環境問題を引き起こしてきた考えではないのか。このような聖書の人間観・価値観が環境破壊を作り出してきた元凶ではないのか。このような疑問がユダヤ・キリスト教に対して突きつけられているのです。今回はこの疑問を検証しながら聖書に基づく「地球市民倫理」がどのように可能なのかその方向性を探ってみたいと思います。

 「キリスト教が環境問題の元凶である」との論争のきっかけとなった歴史家リン・ホワイトの論文「生態系危機の歴史的ルーツ」は1967年に発表されました。ホワイトはこの論文で、環境問題は科学技術で解決できるような問題ではなく、言ってみれば文明病のレベルの根が深い問題であること、そしてここまで自然を汚染・収奪・破壊できた背景には西欧の精神文明であるユダヤ・キリスト教の経典である聖書の人間観があることを指摘しました。その人間観とはまさに創世記の「人間が自然を支配する」との考えでした。

 果たして聖書のこの人間観は本当に今日の環境問題の背景にある経済社会構造の成立にまで影響を及ぼすようなものなのでしょうか。

 旧約聖書の社会を経済の面から見ますとご存知のように私たちの社会とは大分異なっています。人類の始祖アダムは園を耕す人として描かれていますし、その後のアブラハムから始まる契約の民は農耕牧畜社会でした。それに対し環境問題を直接引き起こしている私たちの社会は大量生産・大量消費・大量廃棄の経済システムです。

 このような違いを確認した上で聖書の「人間の自然支配」を見ますと、そこには一定の条件のもとでの支配であることを見つけます。エデンの園から始まり、人類が増え広がる経緯の中で絶えず罪の問題とまた罪からの贖いと神との契約のもとに社会を築く歴史が継がれていきます。その契約の媒介となる律法には土地所有に倫理的条件が付けられ、それが破られれば契約の民でも自分の土地から追い出される、そういう枠組です。

 一つ例をあげれば、「七年目の休耕年」は小作民・奴隷、家畜、耕地の休息を目的としますし、また共同体内部の貧しい者たちが収穫の分け前に与かれるように刈り取りの一部を残すような規定もあります。

 このように土地所有者の自由に対して一定の道徳的歯止めがかけられ、限度を越えた収奪を防止する配慮がされています。契約の民にとって無制限の自由な経済活動はありえません。家畜も含めた共同体の全成員が(全く平等ではないにしても)共存する社会を維持することを律法は目指しています。

 結論として言えることは、聖書の「人間の自然支配」を直接現在の地球環境問題の原因として結びつけることは、旧約聖書全体の文脈を度外視し、創世記の支配と言う言葉にのみ留意して解釈するのでなければ困難だということです。あらためて思わされるのは、私たちの経済システムがいかに効率や利益を優先させた収奪のシステムであり、またいかに自由な経済活動の名のもとに倫理的配慮が脇に押しやられているか、ということです。

 

※機関誌「聖泉」(2003年7月号掲載)

(論考)「地(球)的視点と聖書―① 科学と宗教―対立ではなくパートナー」

 先ず最初にこのテーマの「地(球)的視点と聖書」について少しお話ししましょう。

 かっこの中に「球」と入れてあるのは当然ながら聖書の中にいくら探しても私たちがイメージするような近代以降の科学的・物理的「地球」については書いてないからです。昔、荒川教会の人達と一緒に佐渡島の金北山に登ったことがありました。高さは確か千百メートルを越えるぐらいだったかと思いますが、何しろ島の周りは海ですから頂上から見えるのはずーっと水平線でした。そしてその水平線は少し丸くカーブを描いていたように見えました。もしかしたらすでに頭の中に「地球は丸い」と言う知識があったためそう見えたのかもしれませんが…。

 さて地球儀、世界地図、宇宙探索ロケットなどからの青い地球の映像などなど、私たちは昔の人が「果てしない地の広がり」と見えていたものを映像的に一つのもの、しかも宇宙空間と比較すればごくごく小さなものとして捉えることもできるようになりました。この視点のことを科学的・物理的視点と言っていいと思いますが、地球環境の問題を考える上でこの視点は不可欠です。

 では、聖書的な視点はどうでしょう。もちろん聖書をいくら詳しく勉強してもとても科学が教えることのできるような物理的地球についての知識は得られません。しかし全く無駄でもありません。その大きな理由の一つは、地球環境の問題は単なる物理的知識の問題ではないからです。もちろん地球環境についてのあらゆる問題、土壌や大気汚染、温暖化による気候変動のメカニズムは科学的な分析と検証を必要とします。しかしそれらの知識が正しく得られたとしても、そして相応しい対策が科学者によって講じられたとしても、地球環境の問題と取り組むのは最終的には現在この地球で生活している人間一人一人の態度と行動です。科学的に示された新しい知識や提案も人の意識と行動に十分働きかけることがなければ無力です。人の意識と行動、それは宗教が捉えてきた「人格としての人間」のことです。クリスチャンで言うと「心と行ない」と言った方がよりピッタリするでしょうか。

聖書の視点:創造

 地球環境の問題を聖書から考える時先ず創造物語から始めるのがいいのではないでしょうか。

  「神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』
 ・・・そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」(創1:28,31)

 六日間での天地創造物語は一つの流れを示しています。それは生き物が住むのに相応しく一つ一つのものが順に造られて行った、ということです。そしてそのクライマックスとして人類が造られた。さらに人類は「神の像」として造られた。このことと28節の「支配せよ」との命令は、人類が最高の被造物として造られただけでなく、この世界の生き物を「神に代わって」治める立場にいることを示唆しています。

 これは非常に高い権威と責任を人間に与える視点といえるでしょう。少々通俗的で短絡的な比較ですが、すべての生物が等しく尊重される仏教の教えや、あらゆるものに神の霊が宿ると見るアニミズムの見方とは「世界と人間」の関係の捉え方が大きく違います。

 次回は地球環境問題がこのようなユダヤ・キリスト教の人間観から出てくる、という見方について考えてみたいと思います。

 

※機関誌「聖泉」(2002年11月号掲載)

(論考)「地(球)的視点と聖書―序」

 二十一世紀を迎え、まだ今のうちなら「大きな時代的視野からの物言い(または大風呂敷)」もズレた発言に取られないだろうと思う。大体聖泉誌一面には年一回執筆の担当が回ってくるが何回まで出来るか分からないが「地(球)的視点と聖書」と言うテーマで書き続けようと思う。  

 一昨年のサマーキャンプの時「二十世紀の教会」と題した分科会を担当した。その時配布したプリントに二十一世紀の教会の課題を考えるために「価値目標『何が大切なのか』」として以下のような序列化を試みた。 

 ・個人の生活の安全や繁栄を超えた価値の追求(『愚かな金持ちのたとえ』ルカ12:16-21)
 ・国家(共同体)の安全や繁栄を越えた価値の追求(使徒1:6-8)
 ・人類の安全や繁栄を超えた価値の追求(ローマ8:18-25)
 ・神の国の追求(マタイ6:25-33)  

 これは序列化と言っても、個人・国家・人類と言う価値の間での優先関係を表わそうとするものではなく、「神の国」と言う視点から個人・国家・人類は等しく相対化される価値であることを示そうと意図したものであった。私たちの今度のテーマの一方である「地球的視点」とはある意味で個人・国家を超えた人類的規模の問題を捉える視点であると言えなくもないが、実はその人類をも超えた視点でもある。地球は人類の棲み家(すみか)であるとともにあらゆる生命体の環境であり、食物の問題一つを取り上げるだけでも自明なようにまさに「全体」の問題である。 

 筆者はすでに聖泉誌一面に「地球環境保護問題」と題した一文を書いた。近代西洋を源とする産業革命・資本主義と言う大きな文明的流れが二十世紀までに全世界を覆うまでに至った経緯を環境保護の視点に立って一考しようとしたものであった。その時用いた批判的視点は人間の労働に価値を置くものよりも、「消費者」の倫理観を土台とするものであった。 

 それから十年後、この原稿を書いている現在(2001年7月末)、地球温暖化を防ぐための二酸化炭素削減規制を内容とする国際会議の「京都議定書」批准を巡っての報道が続いている。殆どの国が批准に向けて一致しているのに対し、米国が批准を拒否している。ブッシュ大統領の批准回避の態度に見るまでもなく、「景気優先」を掲げる経済的「国家安全保障」戦略は依然として簡単には屈服しそうもない。「人類安全保障」のための環境優先主義はまだまだ理想主義に映っているのであろう。 

 このような「大きな時代的視野」からみた価値の対立が国内においても、国際政治の場においてもしのぎを削っている今日、クリスチャンとしてもう一度「聖書全体」から私たちの生き方を問わなければならないと思う。

 残念ながら私たち世にある(「神の子」たる)クリスチャンたちの多くは「資本主義体制」のもたらす経済優先主義にも殆ど有効な批判もなく順応して来たと思うし、環境保護対策に対しても覚醒的な開拓者とはなって来なかったのではないだろうか。

 地球環境保全と言う長期的目標は単なる「消費者」倫理の焼き直しや強化ではとても間に合わない、もっと根本的なメタノイア(「悔改め」のギリシャ語)を要請しているのではないか、という直観の下にこのシリーズを始めさせていただきたい。 

 「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全であるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12:2、新共同訳)


※機関誌「聖泉」(2001年9月号掲載)

(論考)「地球環境保護問題」

 世紀末のキーワードの一つは地球環境保護のようだ。一昨年末は東欧の変革が世界史上の大きな転換期と位置付けられた。その意義は民主化であり、東西冷戦構造の終焉であり、社会主義に対する自由主義の勝利だとか言われた。しかしその自由主義の経済部分、つまり資本主義体制がいま地球環境保護の立場から見直されている。

  「神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。
   『生めよ。ふえよ。 地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』
   ・・・そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それ は非常によかった。」(創1:28,31)

 人間も含めた生き物すべての環境が地球全体にまで拡大されて問題にされ始めたのはつい最近のことである。工場や車の排気ガスによる大気汚染、工場排水や排棄物による地・水質汚染、そしてチェルノブイリに代表される核汚染。そして最近はフロンガスなどによるオゾン層の破壊による地球温暖化や排気ガスによる酸性雨の被害など、地域的に限られてきた環境破壊が地球大になってきたことを物語っている。いったいどこからこの今日的な状況が出現したのか。 

 今世紀の始め、マックス・ヴェーバー(ドイツの社会学者)は『プロテスタント倫理と資本主義の精神』の中で、資本主義経済の良質部分が宗教的信念に基づいていることを指摘して、後期資本主義の文明病である人間疎外を究明しようとした。彼はマルクスの「人間疎外は資本主義経済の必然的なもの」との説の対抗を試みた。しかしマルクスもヴェーパーも基本的には「人間疎外」の分析を人本主義的な視点から、つまり人間の労働の意義づけから出発したところに彼らの資本主義批判の時代的制約があった。そこには人の必要を満たす「神の恵み」という視点はなく、その恵みを間接的にもたらす自然の恵みという視点も弱かった。ましてや資本主義経済の弊害が地球環境破壊にまで及ぶとは彼らは予想だにしなかっただろう。

 この地球環境破壊という現代的状況がすべて資本主義経済の弊害とすることはできないにしても、現にその中で生きている私たちの役割を考えるところから何かが始まらなければならないのは当然であろう。環境破壊の元凶を企業に求めるのは簡単だ。(実際企業は企業としての倫理と責任が今後もより厳しく追求されるだろう。)しかし私たちがより身近に考えなければならないのは私たち消費者としての役割ではないか。 

 そこでまず考えられるのが私たちの購買態度である。はるか昔の小さな共同体単位での自給自足経済と違い、私たちは生活に必要な物資や道具をもっぱら購買によって充たしている。そればかりでなく資本の肥大した経済先進国においては、必要に応じて物が買われるよりも、その購買力に従って物が買われる傾同にある。(実際は上手に買わされている。)狭い部屋に使わないものがあふれ、しかたなくまた使えるものを捨て、ひたすらより新しい、より流行の、より便利な商品に買い替えるのである。 

 このような基本的必要の充足を越えたレベルの商品購買力が「生活の質の向上」といとも簡単にこれまで考えられてきた。しかしこの消費社会の裏側では「金力(マモン)」「所有欲」「虚栄心」が暗躍しているのである。私たちはその中で生活者の顔を持った消費者になる必要がある。豊かさという青い鳥を追いかけ、身を粉にして働く「生倒錯者」ではなく、平和で落ち着いた生活、絶えず満ち足りることを学ぶ生活を今考えてみようではないか。


※機関誌「聖泉」(1991年2月号掲載)

(説教・論考)「使徒信仰の継承」

 イースターの朝、「私たちはどのぐらい使徒信仰を継承しているか」を検証してみたいと思います。

Ⅰ.「私たちの信仰」とは?

 先ず私個人の例を参考にして考えてみましょう。きっと皆さんと共通点が見つかると思います。
 私の信仰の原風景は、私が何か悪いことをして見つかった時、親の前でその罪を指摘され、罪を悔い改めて身代わりの十字架を受け入れて祈る、というものでした。
 大人になってから自覚的な信仰を持つようになった時もその信仰内容に変わりはありませんでした。違いがあるとしたら、罪人の自覚がより明確になったことと、「罪の特効薬」である救いのメッセージを処方するのがもはや親ではなく自分であったということです。

 私たちの信仰は、私たちを救いに導くこのメッセージに凝縮されるのではないかと思います。そのエッセンスは、
 ①罪とその結果である死を個人的に認める(認罪)、
 ②唯一の救いの方法としてのイエス・キリストの身代わりの十字架、
 ③イエス・キリストを救い主として個人的に受け入れる、
 の三点と言えるでしょう。

Ⅱ.「使徒信仰」とは?

 次に使徒信仰とはどういうものかを2箇所から見てみましょう。
 ①Ⅰコリント15:1-11  
 ここではパウロによって福音の最重要点が列挙されています。そしてそれらは彼自身が伝承(パレドウカ)されたものであると言っています。つまり継承された信仰です。ここで重要なことは伝承ポイントがキリストの死と復活とその顕現の「できごと・事実性」であり、それらの意味や意義の説明にあるのではない、ということです。

 ②ローマ10:9
 この箇所は最初期の信仰告白の形を示すものと言われています。口で、つまり公に告白する形式文「イエスは主」が、心で、つまり信仰の内容として「神はイエスを死者の中からよみがえらせた」を伴っていなければならない、という指摘です。

 この二つのテキストは使徒信仰を考える上でのエッセンスを表わしていると考えていいでしょう。どちらもイエス・キリストの復活が中心となっていることを覚えたいと思います。

 

 私が牧師になって説教をするようになり、改めて福音書を学ぶようになって感じるようになったことは、結構分かっていると思っていた、また自分の信仰内容と「地続き」だと思っていた福音書が何か違うな、距離感があるな、と言うことでした。ある時急にそれまで親友だと思って安心していた人が違う面をいくつも持っていることを発見し戸惑っているような感じ、とでも言ったらいいでしょうか。

 ある時福音書の受難物語を読んでいた時のことです。イエスが十字架にかかって死なれたその記述には、「ああ私たちの身代わりの十字架による贖いが完成した」と言う信仰表現はどこを探しても見当たらないことに気がつきました。状況はむしろ逆で、弟子たちは逃げてしまい、彼らの信仰は崩壊してしまったかに見えました。このことは弟子たちが「十字架による贖い」の信仰に至った過程が私たちが良く聞くような伝道メッセージほど単純なものではないことを物語っていないでしょうか。

Ⅲ.比較による検証

 私たちの信仰は教理的に言うと贖罪信仰が中核であり、その象徴の十字架を強調します。さらに個人の救いが伝道の焦点です。
 これに対し、使徒信仰はキリストの死と特に復活のおおやけ性・歴史的事実性を強調します。

 私たちの信仰は主にこの公的出来事の解釈(神学的意義)に集中しますが、残念ながら復活の事実性もその意義も、「私たちの救い・贖い」に十分に関連づけて理解していないのではないでしょうか。私たちはまだまだ「聖書の示す通りに」ということを聖書全体を関連付けながら学ばなければなりません(Ⅰコリント15:3、ルカ24:27,32,44-47)。

 

※機関誌「聖泉」(2002年6月号掲載)

2021年1月23日土曜日

自宅礼拝ガイド

主日礼拝
2021年1月24日(日) 

賛  美  疲れたる者よ  158番(※)
※YouTube動画を利用できる方は、以下のリンクで「疲れたる者よ(歌詞表示あり)」の演奏をご利用ください。
https://www.youtube.com/watch?v=XkwwOD6l_3M

聖書交読  詩篇52:5-9
使徒信条
聖書朗読  ヨハネの福音書 4:7-15
黙  想  「生ける水」
静思祷告
主の祈り

【解説】
 今日の黙想箇所は有名な「サマリアの女」のところです。
 旅の途中、井戸の傍らでイエスと女が会話を始めます。最初は「水を飲ませてください」と女に頼むイエスに対し、(わたしがあなたに)「生ける水(湧き出る水)」を与えるでしょう、と話の方向が逆転していきます。そして「水」はいつのまにか井戸から汲む水から霊的な意味での水に変わっていきます。女は最初それと気付かず「汲むものを持っていないのにどうやって深い井戸からその水を汲み出すのか」と質問します。
 それに答えてイエスは言います。

  「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
  しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。
  わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
    (ヨハネ 4:13-14、新共同訳)

 「人生の様々な疲れ」を癒すために、私たちは自然と触れたり、映画を見たり、音楽を聴いたりして「こころの感動」や「人生の潤い」を求めます。しかしそれも一時的だったり、不足感を感じたりします。私たちも心の中で湧き続ける泉の水を必要としているのではないでしょうか。

2021年1月22日金曜日

(説教)6. 教会の本質、「集まる」④ 背景としての『会堂』(「一から出直す」シリーズ完)

 「集まる」④ 背景としての『会堂』

 二人または三人がわたしの名によって 集まる ところ には、わたしもその中にいるのである。(マタイ18:20、新共同訳)

 この箇所を理解する上で『神殿』が重要な背景としてあることを、「わたしの名」について学んだ時既に指摘しました。即ち「ヤハウェである神の御名を置く場所、臨在・栄光を顕す場所」としての神殿です。
 今回はもう一つの重要な(歴史的)背景と考えられる『会堂』について指摘します。

 イエスの宣教とユダヤ人からの迫害
 イエスがガリラヤの町々を巡って「神の国」を宣教し、会堂で教えたことが述べられています(マタイ4:23,9:35)。しかし、同時に『山上の垂訓』には「弟子たちがイエスのみ名を宣教する時に迫害があること」(マタイ5:11,12、比10:16-25)、そしてそのような状況下でも「イエスのみ名を告白すること」が言われています(マタイ10:22,23)。

 研究者たちはこれらのイエス語録が、イエスの宣教当時の時代状況よりも、マタイ福音書読者たちの時代状況により関連があると見ています(例えばG・N・スタントン、 The Gospels And Jesus)。

 著者がそのような迫害状況を特に意識して福音書を編集したとするならば、読者の背景としてパレスチナのユダヤ人キリスト者と会堂との関係を想定することが出来るでしょう。仮に「会堂追放(比、ヨハネ9:22)」まで行かなかったとしても、次第に会堂を中心とするユダヤ人コミュニティーから圧迫を受けていたとしたら…。そう考えると、この箇所は「会堂から離れて集会を守る」のを余儀なくされたユダヤ人キリスト者たちへの励ましと約束の言葉として響いたはずです。「たとえ会堂での集会ができなくなっても、どこであれ二人でも三人でも、わたしの名を告白する兄弟姉妹たちが集まるところには、私も共にいるのだよ。」と。

(シリーズ完)

(説教)5. 教会の本質、「集まる」」③ 「場・建物」としての教会

 「集まる」③ 「場・建物」としての教会

 二人または三人がわたしの名によって 集まる ところ には、わたしもその中にいるのである。(マタイ18:20、新共同訳)

 多くの人は教会と言う時「建物」を先ずイメージするのではないでしょうか。2001年、巣鴨聖泉キリスト教会は普通家屋を改造したものから、会堂新築へと「集会の場」を変化させました。そのことによって教会に何か質的変化をもたらしたでしょうか…。確かに空間の質は変わりました。でも「集まってやっていること」は変わっていません(集回数は減りましたが)。私たちはこの場でそれまでと同じように《祈り》《学び》《賛美》《協議》《交わり》《食事》その他のことを必要に応じてしています。

 結論から言えば「建物としての教会」は重要な要素ではあっても教会の本質を左右するほど決定的なものではないということです。ですから「公民館の一室」であろうが、「大聖堂」であろうが、《集まる場》として様々な違い・優劣はあったとしても、「教会として集まる」ことに変わりはないと言えるのです。

 旧約の時代、礼拝の場としての中心は《神殿》でした。しかしその神殿でさえ「神の臨在」が自動的に保障されていたわけではありません。実際ソロモンが神殿奉献した時のような濃密な神の臨在(Ⅰ列王8:10-11)が継続的にあったわけではないし、最後にはその神殿が破壊されもしたのです(Ⅱ歴代36:17-19)。

 ではこの箇所が問題にしている「集まるところ」とは何でしょう。2人でも3人でも人が集まるにはそれだけのスペースが必要です。では「人の集まりが少なくても、集まるスペースが狭くても、教会は教会だ」、と言うようなことを言っているのでしょうか。もちろんそうではありません。鍵となるのは「わたしの名によって集まるところ」です。①イエスの御名がすべてのものの主として崇められ、②すべてのことが主のみ名によって行われる、そのような『場』のことです。たとえそれが「二人または三人」でも

(説教)4. 教会の本質、「集まる」② 「個の確立」と教会の集まり

 「集まる」② 「個の確立」と教会の集まり

 二人または三人がわたしの名によって 集まる ところには、わたしもその中にいるのである。(マタイ18:20、新共同訳)

 前回、「現代日本人」の自己には2つの要素―《西洋近代的自我》と、日本的《組織に深く組み込まれた個人》―があることを指摘しました。
 今回は現在の教会形成理念に関係の深い 《西洋近代的自我》の歴史的淵源を簡単に辿ってみます。
 (この内容は多分に、Charles Taylor, Sources Of The Self, Harvard University Press, 1989. に負っています。)

 

 《西洋近代的自我》の歴史的淵源

1. 教会史の視点から見ると
  (a)アウガスチヌス(354-430,A.D.)
 『告白録』…高名な神学者が回心までの心の軌跡を表した点に「内省する自我」を見ることができる。
  (b)マルティン・ルター
 …当時圧倒的権威の教皇・教会に対し、聖書を自己の「良心」が服従すべき権威とした。社会的権威の超越性に対して「自己」を対置させた点が歴史的ランドマークとなる。
  (c)バプテスト運動
 …宗教改革後も中世的な、社会と教会が重なるようなあり方をとっていたプロテスタント諸派の「国民教会」的あり方に対し、「キリスト者としての自覚を持った成人会員で構成される教会」を自由教会として国民教会から独立分離させる流れを作った(反面、分離派と悪称されるような教会分裂にも影響を与えた)。

2. 世界(思想)史の視点から見ると
  (a)デカルト
 『我思う、故に我在り』…中世までの世界観である、「世界(リアリティー)内の一部に過ぎない自己」にとって代わり、自己の理性・主観を「世界存在(リアリティー)」把握の基礎にする哲学的方法論を打ち立てた。近代的自我の超越性が明確に形をとって現れた。
  (b)啓蒙主義
 …反宗教(キリスト教)的権威な面である「理性中心の合理主義」とともに、キリスト教的価値観の世俗的表現として「個人の平等・権利・自由」を主張した。(アメリカ合衆国独立宣言は宗教的権威付けを排除しなかったが・・・。)

 以上、かなり断片的な歴史の羅列ではありますが、このような様々な流れが複雑に絡み合って「近代的自己」が形成されてきた、と言えるでしょう。

 さてこの歴史的変遷の上に、《近代的自我》が発展してきて現在私たちが営む法人格を持った教会が存在します。(巣鴨聖泉キリスト教会は実際には法人格を取得していませんが、法人に等しいあり方で運営しています。)つまりこの「宗教法人」の角度から見ると、教会は「近代的個人」による組織なのです。独立した個々人が任意で組織に参加し、民主的に運営する任意団体なのです。私たちがそれ程意識していなくても前提されているのは「近代的個人」なのです。

 巣鴨聖泉キリスト教会が所属する『日本聖泉キリスト教会連合』は、日本バプテスト教会連合に範を取り、「(目的)この日本聖泉基督教会連合は、キリストの体なる教会の完成のためホーリネスの信仰に基づいて協力し福音を宣べ伝え、聖徒の交わりを培い、参加各教会の発展をはかって神の栄光をあらわすことを目的とする。」と定義しています。「教会政治」的には「単立の教会の連合体」と言うバプテストの伝統を多分に受け継いでいるのです。

 このことをもう一度《西洋近代的自我》の歴史的淵源の流れで捉えてみると、私たちの教会形成理念は明らかに西洋近代的であり、日本的な組織と個人の枠組みでは捉えられません。しかし実際の教会運営・牧会指導面では、西洋近代的個人の理念ではなく、多分に「日本的な」ものの影響下にあります。この二面性を抱合しながら、私たちは教会形成の『理念』と『実際』の捩れの中で苦悩しているわけです。

 このような歴史的条件付けの中で私たちはどのように「教会としての集まり」の舵取りをして行けば良いのでしょう。私自身は「行き過ぎた個人主義」と言う否定面を一方で認めつつも、「個の発見」と「個の確立」を神の摂理として積極的に評価すべきではないかと考えています。課題はむしろこの複雑ではありますが発展してきた《近代的自我》の中から「自由な個」と言う価値を定着させ、人種・社会層・性別の区別を超えた「メシヤ共同体」(ガラテヤ3:28)を形成する積極的契機と捉えることではないかと考えます。そのような方向性を持った教会形成にこそ、真の自由・愛・忍耐・真理のことばの実践が問われるのではないでしょうか。

 この自由 を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身 にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。・・・
  兄弟たち、あなたがたは、自由 を得るために召し出されたのです。ただ、この自由 を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。
 (ガラテヤ5:1,13-15、新共同訳)

(説教)3. 教会の本質、「集まる」① 現代からその意義を問う

「集まる」① 現代からその意義を問う

 二人または三人がわたしの名によって 集まる ところには、わたしもその中にいるのである。(マタイ18:20、新共同訳)

 この聖書箇所の文脈において中心となる聖書的背景は、旧約聖書において神の臨在と栄光を顕すとされた「神殿」です。神殿は、また旧約聖書において「神の民=イスラエル」が礼拝をする場所として指定された場所でもあります。ところが、新約時代において、イエスの主権の下に形成され、更新された契約の「神の民=教会」は、最早神殿を必要とはしませんでした。それは教会の集まり自体が三一の神の臨在と栄光を顕す「神殿」だからです。
 前回そのようにこの箇所の聖書的背景を学びました。(パウロのコリント書簡Ⅰ、Ⅱはこのことをよく念頭において読む必要があります)。

 さて今回この箇所で注目するのは「集まる」と言うことです。この点について、パウロ書簡に限らず、聖書神学的に「集まる」ことの意義を明らかにすることはそれ自体大変重要なことです。しかしそのような聖書神学的理解とは別に、現に今わたしたちがどのような意識で「集まる」ことをしているか・・・、わたしたちはどんな風に「教会の集会に集まってきているのか」、と言う点についても思いを凝らして見なければなりません。そのような反省の上でこの箇所を学ぶのでなければ、聖書神学的にいくら深く正確に精査してみたところで、単に聖書の箇所を学んだだけで、また同じ「集まる」ことの繰り返しとなってしまいかねません。
 そのような反省の鍵となるのが「集まる」ことをしている私たち一人一人の意識・自覚、難しい言葉で表現すれば「行為主体である自己」への省察です。

 「わたし」たちとはどんな人間なのでしょうか。この場合日本語を話す日本文化に育まれた“日本人”を想定して話を進めています。“日本人”は古代からずーっと変わらず同じ意識で今に至っているのでしょうか。それとも時代の変化とともに「行為主体である自己」の内容や形式が変わって来ているのでしょうか。これは簡単に結論の付く問題ではありませんが、当面わたしたちがこの聖書箇所の「集まる」と言う行為を考えるのに相応しい部分だけ取り出して考えてみたいと思います。

 私は「現代日本人」の《自己》《意識》というものを、歴史的に言って二つの面の混在として捉えることができるのではないかと思います。一つの面(より新しい、変わってきた面)は、近代(明治)以降に発展してきた自己の捉え方で、西洋近代の所謂「近代的自己・自我」に深く影響された《自己》、と言うことが出来ると思います。特に《個人》と言う意識が強まったところにその影響が顕著に表されていると思います。もう一つの面(より古い、余り変わってない面)は、「ムラ社会」と呼ばれる地域共同体に深く取り込まれた《自己》で、所謂組織の義理やしがらみにがんじがらめになってしまいやすい《自己》であり、会社組織など“近代的組織”の中にあっても依然として「組織に深く組み込まれた個人」として続いている、と言うものです。つまり現代“日本人”は一方で、主体的に社会に関わる「自由な個人である自己」を前提して行動するとともに、場所や状況によっては「社会・人間関係の義理や人情のしがらみ」にからめとられ葛藤や軋轢を感じている「自己」、と見ることが出来るように思います。

 さてこのような視点からこの聖書箇所の「集まる」と言うことをどのように学べばよいでしょうか。それは「どちらの自己がより聖書的か」を論ずることではありません。非常に大雑把な分析ですが、実際にこのような二面性を持ったわたしたちが、どのような自己として「教会の集まり」を形成しているのか、あるいは形成されていくべきなのか・・・。それを課題としているのです。

 (次回は少し道草になりますが、ここで分析した「近代的自己」の歴史的淵源について触れ、それが「教会形成」にどう関わっているか、と言う点について考えてみたいと思います。)

(説教)2. 教会の本質、「わたしの名」・・・背景としての『神殿』

 「わたしの名」・・・背景としての『神殿』

 二人または三人が わたしの名 によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(マタイ18:20、新共同訳)

 クリスチャンが日曜日に教会に集まって礼拝する。ごく当たり前のことです。しかし、「わたしの名」によって集まっているかどうか、と改めて問われるとどうでしょう・・・。「ごく自然に」、「余り意識しないで」、「信者の務めだから」、「もう習慣なので」、色んな答えが返ってきそうです。
 この機会に「わたしの名によって集まる」、と言う時の「わたしの名」にはどんな意義が込められているのか考えてみたいと思います。

 私は普段ギリシャ語聖書から《釈義》しているわけではありませんが、「わたしの名」の“後にある”《前置詞》「によって」に少し注意を払う必要がありそうなので、以下にこの部分がギリシャ語本文でどうなっているのか示します。
 エイス(によって…into, for the sake of)
 タ・エモン(わたしの)
 オノマ(名)

 この《エイス》をどう訳すかが当面の課題なのですが、私は注解書には余り見られないのですが、旧約聖書において神がご自身の臨在を約束された場所「神殿」が重要な背景としてあるのではないかと考えています。特に「神の名を置く場所として指定された神殿」について言及されている箇所を(沢山あるうちから)幾つか紹介してみます。

 

「・・・あなたたちの神、主がその名を置くために選ばれる場所に、・・・献げ物を携えて行き、・・・」(申命記12:11、新共同訳)

「・・・あなたの神、主の御前で、すなわち主がその名を置くために選ばれる場所で、・・・」(申命記14:23、新共同訳)

「・・・主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖とともに眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、・・・」(サムエル記下7:11-13、新共同訳)

「・・・ご存じのとおり、父ダビデは、主が周囲の敵を彼の足の下に置かれるまで戦いに明け暮れ、その神なる主の御名のために神殿を建てることが出来ませんでした。・・・ここに至ってわたしは、わたしの神、主の御名のために神殿を建てようと考えています。主が父ダビデに、『わたしがあなたに代えて王座につかせるあなたの子が、わたしの名のために家を建てる』と言われたからです。・・・」(列王記上5:17-20、新共同訳)

「・・・神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、夜も昼もこの神殿に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。・・・」(申命記8:27-29、新共同訳)

 これらの引用から分かるように、本来は天にいます神が、(地上で)イスラエルの中にその臨在を示すために選ばれた場所が神殿です。ヤハウェはその名を「神殿」に置かれました。

 しかしこの福音書の記者が「エクレシヤ」と言う語を用いているように、新約の神の民「教会」に置いては、もはや神殿ではなく、主イエス・キリストの名の下に集う会衆が神殿なのです。二人でも三人でも、主の御名によって「集う」と言う行為において、神の栄光と臨在が顕されるのです。

 以下、古い契約下での神殿が、新しい契約下において最早必要なくなったことを示唆する箇所を福音書とパウロ書簡から引用します。

 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、ご自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
 (ヨハネ福音書2:19-22)

 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。私どもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でも エルサレムでもない所で、 父を礼拝する時が来る。・・・しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。
 (ヨハネ福音書4:19-24)

 わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。 イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。・・・あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。
 (Ⅰコリント3:10-17)

 このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており、モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。
 ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
 (Ⅱコリント3:12,16-18、※「栄光」とは即ち神の臨在のしるしです。)

 (※ギリシャ語『エイス』は英語で、into とも、for the sake of とも訳されますが、「キリストの体を構成するとして集い」として理解する時はintoが、主イエス・キリストの名を置かれる場所として理解する時はfor the sake of が適当な訳だと思います。)

(説教)1. 教会の本質、「二人または三人でも・・・人数の問題?」

 「教会の本質」1・・・人数の問題?

 二人または三人が わたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(マタイ18:20、新共同訳)

 「教会の本質」を考えるにあたって、しばらくこの有名な聖句から学んでいきたいと思います。
 新約聖書には頻繁に出てくる「教会(エクレシア)」は四福音書中にはマタイだけにしか出てきません。しかもたったの3回です。そのうち2回がこの18章に出てきます(マタイ18:17)。
 生前イエスが使徒と弟子たちの群れを「新しいイスラエル」と見なしていたことはかなり確実だと思いますが、はたして「エクレシア」と呼んでいたかどうかは議論の余地があります。むしろマタイが福音書を書いた時代背景として、当時「会堂(シナゴグ)」が果たしていた共同体的役割が考えられるのではないでしょうか。してみると、18章15~18節を、イエスの弟子たちの「共同体規範」と理解するのも頷けるのではないでしょうか。

 いずれにしても18章15~20節が「教会の本質」を考えるのに示唆的な箇所であることは明らかだと思います。

 この聖句を、〝人数の少ない教会〟を励ます聖書の言葉…そんな風にしばしば受け取って来たのではないでしょうか。「二人または三人」でも信者が集まるなら、その中に主は臨在してくださる、と言う風に・・・。ではこの箇所は、教会に(教会で)集まる人数の問題を言っているのでしょうか。

この箇所で注目するポイントは以下の四つです。

  • 「二人または三人」
  • 「わたしの名」
  • 「集まる(ところ)」
  • 「(わたしもその中に)いる」

 「二人または三人」はユダヤ人にとって「おおやけの人の集まりを構成する最低人数」と取ることができるのではないでしょうか。それは証言者の数であったり(マタイ18:16)、会堂での律法の学びであったり(ラビ文書)します。

 特にあるラビ文書には もし二人か三人が集まって座し、相互に律法の言葉を話すなら、神の臨在(シェキナ=神の栄光を顕す。筆者注)が彼らの上にある。 とあるそうですが、単なる人数のことよりも、二人でも三人でもおおやけになされることの重要性を指すように取るのが適当だと思います。

 平均的日本の教会の礼拝出席人数は14~15名、と何かの統計で聞いた覚えがあります。10名に満たないと伝道所に“格下げ”とか聞くこともあります。ましてや地方の教会では(首都圏でもないわけではないようですが)、小さな会衆の教会はいつ統廃合の対象になるか心配し、まさにこの聖句をそんな小さな教会の励ましにしているのではないでしょうか。(私が牧師を勤める教会もそんな小さな教会の仲間ですので、そんな心配の気持ちはよく分かります。)

 しかしこの聖句の「二人または三人」をそんな礼拝出席者数を気にするような文脈で理解して良いのでしょうか。マタイの文脈からはそれは的外れだと思います。むしろ「二人または三人」でも、集まった教会は、主イエス・キリストの権能を行使して、主の体に相応しい共同体の秩序を形成するよう、凛とした姿勢を求められている、と取るのが相応しいのではないでしょうか。

 「わたしは天と地の一切の 権能 を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと 共にいる。
 (マタイ28:20、新共同訳)

 わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。つまり、わたしたちの 主イエスの名 により、わたしたちの 主イエスの力 をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。
 (Ⅰコリント5:3-5、新共同訳)

 わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの 正しい秩序 と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます。
 (コロサイ2:5、新共同訳)

 (次回は「わたしの名」について講解します。)

(説教)序「一からの出直し」について(続)

 「ゼロ」ではなく「一」からの出直し・・・について」

 出直しは「ゼロから」ではなく「一から」だ、ということを少し説明します。
 遡って10年前 [1999年]、N.T.ライトを読み始める少し前、現代の「福音主義信仰」は最早「行き詰まり」に近づいているな、福音派である自分自身が語りかける福音のメッセージ、宣教手法が何か空回りしているな、との自覚がありました。

 しかしライトを読み始め、「使徒たちのキリストへの信仰は歴史的にどのように形成されて行ったのか」を問題意識として持つようになりました。振り返って見ると、現代福音派が「神の愛」「十字架のゆるし」を語る時、どこか選挙で声高に連呼されるキャッチフレーズのように聞こえました。「イエス・キリストの十字架がどういう意味で普遍的な救いになるのか」、その根拠がさっぱり提示できていないではないか…。

 そんな問題意識の中から芽生えたのが、日本聖泉キリスト教会連合、2002年春、総会聖会・合同礼拝での説教でした。『使徒信仰の継承』と題したその説教で、現代福音派の福音理解・伝道メッセージは、「復活」抜きの「十字架の福音」であることに大きな問題があることを指摘しました。(よろしければ注意深くこの説教をご一読ください。)

 私の福音理解の「ターニング・ポイント」はこの時を境にしています。この説教を「ゼロからの出直し」とすると、今回の「一からの出直し」とはどう言う意味なのか・・・。
 それは「キリスト教信仰の土台」である「イエス・キリストの福音-その歴史的性格と使徒的福音における十字架と復活の歴史的事実性」と言う岩盤(鉱脈と言っても良いか…)を掘り当て、「これだ!この鉱脈を掘り進めて行けばいいんだ!」との確信を得、それを持ち続けたまでは良かったのですが、礼拝に来て説教を聞いてくださる会衆一人一人に、その意味・意義を十分伝えることが出来なかった。その反省に立っての「一からの出直し」という意味です。

 (キリスト教歴史学の)学問的成果に立脚しながら(N.T.ライトはそう言う学者の最たる方の一人ですが・・・)、この土台を約30分間の説教の中で明証して行くことは、語る者にも、聞く者たちにも、大変困難な作業でした。
 この土台の上に教会が建てあがって行くはずだ、今は人数こそ小さいが、焦らずこつこつやって行けばよろしい、とそう考えていました。しかし、その間、礼拝出席者数は減少し、まばらな会衆席を見渡しながら、「本当に巣鴨教会は教会として生き延びられるのだろうか」としばしば心は揺れ動きました。
 土台から順に建築を進める作業に確信は持ちながら、「教会の将来を人数や教勢の変化で測り、懸念する」従来のメンタリティーは引きずったままだったのです。その反省に立っての「一からの出直し」ということも、またもう一つの意味です。

 病気になり、毎週会衆席の後ろに座り、“実ーに楽な気持ち”で礼拝を捧げている自分を発見しました。
  大事なことは主の平安だ。
  主の平安を頂いて新しい週を迎えることだ。
  主の臨在を信じていつもの場所に遣わされることだ。
  そう言う礼拝を捧げることなのだ。
 弱さ、無力さを覚え、信徒の立場から改めて礼拝に出席して感じた平安、それがまたもう一つの「一から出直し」と言う意味です。

 (次回からいよいよ本論である『教会の本質』について論を進めていきます。)

(説教)「一から出直す」序・信仰と弱さ・病気

 序・信仰と弱さ・病気

苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩篇119:71、新改訳)

It was good for me to be afflicted so that I might learn your decrees. (NIV)

 2009年3月に入って体の変調を覚えるようになりました。30日に医者に行って諸検査を受けましたが、「身体生理学上特段の異常はない」。簡単に言えば「心身のバランスを崩した」ことによる神経症的な変調(特に胃腸)、と言うことになりました。こんなこと、私の人生にとって全く初めてと言っていいことでした。数週間、当惑し、心配を重ね、食が細り、突然来る不安に戸惑い、…そんな日々が続きました。

 4月も下旬、心療内科受診に向かわせることがあり、ようやく「心因的」な方から治療をする、これも全く初めての体験をしました。『春の病(?)』受診者で混み合うクリニックでしたが、幸運にも無予約、「駆け込み」で受診できました。処方された薬が合ったのかその後生理的な変調の方も減少し、食べられるようになり、対ストレス力も向上してきました。
 症状の改善は医療的なものだけでなく、一切の仕事から解放され休養に専念することができるようにとの周囲の人たちの配慮も大きかったようです。

 今回、自分がこのような弱さを抱えることによって、様々な人から色々な形で励ましを頂き、牧師と言う職業的立場ではなかなか得られない経験をすることができました。(牧師は他の人のケアーをする方にばかり注意が行って、自分がケアーされる立場の人間でもあることを忘れがちです。)

 回復が実感できるようになった頃から、「この度の病気は学びのための本当に良い機会となった」、今回の病気の経験を通して「一から出直しだ」との思いを深くしました。

 健康管理の甘さ、運動不足を反省するとともに、自身の信仰の底の浅さも反省しました。一生懸命祈ったり、聖書に励ましの言葉を探したりと言ったような〝信仰〟のことではなく、「ただ神の前に静まる」ことが普段からどれほどできているか、そのような姿勢ができていなかったことを反省させられました。

 「一から出直す」、これはたまたま病気と言う弱さを抱えた私個人に当てはまることだけでなく、戦後右肩上がりに“成長”し、その後停滞・衰退してきている日本の(福音派)教会にも必要であることを感じています。
 今日本の(福音派)教会に問われている問題の根本は何か。『教会の本質を究める』ことでこの問いに対するささやかな処方箋を探って行きたいと思っています。

(説教)「一から出直す」シリーズについて

 2021年1月28日閉鎖となる「巣鴨聖泉キリスト教会」(My Site→にリストされています)に掲載されている説教をブログの方に転載しておきます。

 「一から出直す」シリーズについて

 『教勢』に目を奪われ、『メガチャーチ』に憧れ、『リヴァイヴァル』や『弟子訓練』の実利的効用に足を取られて悩んでいる牧師や、『教会成長』に滅私奉公してきて疲れてしまっている信徒の方々にも、このシリーズで探索している「教会の意味・意義」「教会の本質」「伝道・宣教の位置づけ」「教職と信徒」等について問い直す一助になればと思います。

 「主イエス・キリストの神の国の福音」に立ち戻り、その福音の宣教を託されている「現代の教会の使命」を再構築する作業にネット上で参加していただければ幸いです。
(ネット公表のため説教内容は少し編集することになりますが、説教の形・流れはなるべく原形を保つようにしたいと思いますのでご了承ください。)

 

2021年1月16日土曜日

自宅礼拝ガイド

主日礼拝
2021年1月17日(日)

賛  美  父の神よ夜は去りて  18番(※)
※YouTube動画を利用できる方は、以下のリンクで「父の神よ夜は去りて(歌詞表示あり)」の演奏をご利用ください。
https://www.youtube.com/watch?v=ZDMfKM-vZkI

聖書交読  詩篇52:1-4
使徒信条
聖書朗読  ヨハネの福音書 10:1-5
  「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、
  門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、
  盗人であり、強盗である。
  門から入る者が羊飼いである。
  門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。
  羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
  自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。
  羊はその声を知っているので、ついて行く。
  しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。
  ほかの者たちの声を知らないからである。」
    (ヨハネ 10:1-5、新共同訳)
黙  想  「声を聞き分ける」
静思祷告
主の祈り

【解説】
 何かに集中している人夢中になっている人に向かって何かしゃべっても全然聞こえないということがよくありますね。
 人間の耳はどんな音でも均等に聞くのではなく、「必要な情報(聞きたいこと)」と「雑音(聞きたくないこと)」とを(脳の方の働きで)聞き分けるそうです。

 ヨハネ福音書10章の「羊と羊飼い」のたとえ話から「声を聞き分ける」と言うことを考えてみたいと思います。
 羊飼いは羊を害獣から守り牧草の繁る場所に連れて行きます。その羊飼いの声を羊は聞き分けます。自分のいのちがかかっているからです。 

 私たちの社会ではさまざまなメディアがあり、さまざまな情報が提供されています。その中には私たちのいのちや生活に直結するような有益な情報もあれば、どうでもいいような情報や、時に誤情報やでまかせなど有害な情報など実に多種多様な情報で溢れています。私たちはいわばそれらの情報を「聞き分け」ながら社会生活を営んでいます。

 私たちはふだんから情報の「質」に気をつけていることが必要ではないでしょうか。簡単に情報に飛びつかず、まず落ち着いてその情報がどこから来ているのかを確かめ、怪しいと思ったら「遮断する」ことも必要です。
  
  羊はその声を知っているので、ついて行く。
  しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。

2021年1月9日土曜日

自宅礼拝ガイド

主日礼拝
2021年1月10日(日)


賛  美  かいぬしわが主よ  40番(※)
※YouTube動画を利用できる方は、以下のリンクで「かいぬしわが主よ(歌詞表示あり)」の演奏をご利用ください。
https://www.youtube.com/watch?v=fPgFWNqXW50.

聖書交読  詩篇51:14-19
使徒信条
聖書朗読  ヨハネの福音書 10:7-10
  イエスはまた言われた。
  「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。
  わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。
  しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
  わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。
  その人は、門を出入りして牧草を見つける。
  盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、
  滅ぼしたりするためにほかならない。
  わたしが来たのは、羊が命を受けるため、
  しかも豊かに受けるためである。
    (ヨハネ 10:7-10、新共同訳)
黙  想  「いのちを受ける」
静思祷告
主の祈り 

【解説】 

 ヨハネの福音書では、「羊飼い」はたとえになっています。

 羊飼いには「良い羊飼い」と「悪い羊飼い」がいて、後者は羊飼いのふりをしているが実質は「盗人であり、強盗」だと。逆に言えばそれはイエスご自身が「真の羊飼い」であることの表明でもあります。
 では真の羊飼いのエッセンスはなんでしょう。それは羊飼いが羊に「いのちを与える」、しかも「豊かに与える」という点です。

 自分のいのちを犠牲にしてまで羊にいのちを与えようとする、そこまでしてくれる羊飼いこそが真の羊飼いだ、とヨハネの福音書のイエスは語っているのです。

明日の礼拝、中止の案内

巣鴨聖泉キリスト教会からのお知らせ
 
ご承知のように、1月7日に、1都3県にコロナ感染拡大に伴う「緊急事態宣言」が出されました。
 
既に12月24日のイブ礼拝から会堂での礼拝を中止し、元旦礼拝も中止しました。
 
ただ、「1月予定」では1月10日の礼拝から再開するようになっていましたが、感染者激増中の現状では、「緊急事態宣言」に合わせ、会堂での礼拝中止を継続するのが賢明と考えました。
 
礼拝中止のまま新年をスタートすることは大変残念ですが、当面「緊急事態宣言」解除が予定される2月7日までお休みにしたいと思います。
ご理解のほどよろしくお願いします。
 
巣鴨聖泉キリスト教会
牧師 小嶋 崇