2021年1月24日日曜日

(論考)「近代の原理③『自由』」

自由の原則

聖泉誌の一面でここ2回ほど書いてきたこと(「人を導くということ」と「フェミニズムという視点」)は、実は近・現代社会変革の中核理念となってきた『個人』及び『平等』ということに関連している。今回はもう一つの中核理念である『自由』ということについて書いてみようと思う。

 『自由』という言葉が使われている場面・状況は実に多種多様にわたっていて、これにそれぞれが「自分の思うままに(自由に)」使用する局面まで含めるとほとんど収拾がつかないほどに思えてくるほど自由は私たちの生活に浸透している。一見無秩序に見えるこの自由の領域の氾濫は私たち現代人に警鐘を鳴らし、もう一度自由の原則の評価を要請しているように思う。

 さて今「自由の原則」といったがある方にはこれが矛盾に聞こえたかもしれない。すなわち自由と無原則はほぼ同義と考えている人である。専門学校でキリスト教倫理を教えながら、その中で「自由」についてのレポートを書いてもらったりするが、依然として自由を「自分勝手・やりたい放題」すなわち非道徳的な、無軌道なものと受け取る考え方が根強い。

 柳田国男によれば明治期に自由民権思想とともに「フリーダム」の訳語として定着したこの言葉は、まさにそれ以前には「自由勝手」という意味で用いられていた言葉だと言う。(谷川徹三『自由について』)そのような背景を持っている言葉だから余計ややこしくな るわけである。

 さて自由の原則というとき私たちの社会生活でまず大切なのは、思想・表現・出版の自由、集会・結社の自由といった一連の民主主義的政治参加を支える政治的自由の制度である。次に宗教者として大切なことは自己の良心の帰属する宗教的権威を自分で選択する権利を保証する信教の自由、あるいは内心の自由である。このような個人の人格を尊重し、その精神的能力のゆえに、それまで国家や家父長に帰属していた決定権を個々人に委譲してきたのが近代の自由の歴史であったと言える。

 私たちプロテスタントの流れに信仰を受けた者たちとしては特に自由の原則は大事である。教皇の前で破門も恐れず自己の良心の帰属する究極的権威を神と神の言葉である聖書のみに限定したルター。聖書に照らした教会形成を実現すべくイギリス国教会の下を離れ、新天地アメリカに移住したピューリタンの群れ。さらに聖泉の歴史を語るときにも自由の原則は中心的なものであったと思う。その経緯を初期の聖泉誌に見るかぎり、出エジプトにしばしばたとえられたようにやはり聖書に照らした自己決定の試みであったように思う。

 個人であれ、グループであれ、それぞれ信ずるところによって自己決定をしていくあり方を自由の原則と呼ぶとすれば、それは自己決定の根拠・権威づけを、神と神が示す真理とに限定・究極化していく試みであり、それは当然あらゆる人間的権威に対する検証を要請するものとなる。

 自由の原則を評価しその下に歩む者は絶えず真理に対し謙虚に究明することが肝要である。初歩的なことを言えば、寛容をもってあらゆる人の意見に耳を傾け(少数意見の尊重=力の劣る者の意見を封殺しないこと)、それを正しく評価・批判し(主観や感情のみで評価せず、常に客観的評価基準を提示するよう努力する)、自己の確信に対してはその根拠を示すことを厭わず(確信や意見の表明において知的努力を怠らない)、また自己の確信を超えた範囲のことに対しては断定を避ける。

 教会内外を問わず、一致・秩序・協力等「公共の善」を追求するときにもやはり真理という基準を抜きにして機構的・制度的処理(総会を通ればよい、議長一任、多数決、などなど単なる手続きだけによる処理)に甘んじていては、それは真の建設に耐えるものではない。真理の御霊のたもう一致を目指す私たちとすればなおのこと、真理の追求のプロセスの尊重は必須と思う。

 

※機関誌「聖泉」(1994年4月号掲載)

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