2021年1月24日日曜日

(論考)「地(球)的視点と聖書―② 地球環境問題とユダヤ・キリスト教人間観」

 二十一世紀を迎え私たちが抱える問題は個人や国家の枠組を越え、地球的視点から解決を探らなければどうにもならない、という問題意識からこのシリーズを始めました。そして前回は聖書の中に地球的視点を探ろうと創世記の創造物語から人間と世界の位置付け、関係付けを考えてみました。その特徴を簡単に言えば、「人間が被造物の一部でありながら全被造物の頂点に位置し、さらに創造者に代わって全被造生物を支配する役割を与えられている」、となります。

 しかしここで一つの疑問にぶつかります。この人間が全被造生物(少し広げて自然)を支配すると言う考えはまさに現在の地球環境問題を引き起こしてきた考えではないのか。このような聖書の人間観・価値観が環境破壊を作り出してきた元凶ではないのか。このような疑問がユダヤ・キリスト教に対して突きつけられているのです。今回はこの疑問を検証しながら聖書に基づく「地球市民倫理」がどのように可能なのかその方向性を探ってみたいと思います。

 「キリスト教が環境問題の元凶である」との論争のきっかけとなった歴史家リン・ホワイトの論文「生態系危機の歴史的ルーツ」は1967年に発表されました。ホワイトはこの論文で、環境問題は科学技術で解決できるような問題ではなく、言ってみれば文明病のレベルの根が深い問題であること、そしてここまで自然を汚染・収奪・破壊できた背景には西欧の精神文明であるユダヤ・キリスト教の経典である聖書の人間観があることを指摘しました。その人間観とはまさに創世記の「人間が自然を支配する」との考えでした。

 果たして聖書のこの人間観は本当に今日の環境問題の背景にある経済社会構造の成立にまで影響を及ぼすようなものなのでしょうか。

 旧約聖書の社会を経済の面から見ますとご存知のように私たちの社会とは大分異なっています。人類の始祖アダムは園を耕す人として描かれていますし、その後のアブラハムから始まる契約の民は農耕牧畜社会でした。それに対し環境問題を直接引き起こしている私たちの社会は大量生産・大量消費・大量廃棄の経済システムです。

 このような違いを確認した上で聖書の「人間の自然支配」を見ますと、そこには一定の条件のもとでの支配であることを見つけます。エデンの園から始まり、人類が増え広がる経緯の中で絶えず罪の問題とまた罪からの贖いと神との契約のもとに社会を築く歴史が継がれていきます。その契約の媒介となる律法には土地所有に倫理的条件が付けられ、それが破られれば契約の民でも自分の土地から追い出される、そういう枠組です。

 一つ例をあげれば、「七年目の休耕年」は小作民・奴隷、家畜、耕地の休息を目的としますし、また共同体内部の貧しい者たちが収穫の分け前に与かれるように刈り取りの一部を残すような規定もあります。

 このように土地所有者の自由に対して一定の道徳的歯止めがかけられ、限度を越えた収奪を防止する配慮がされています。契約の民にとって無制限の自由な経済活動はありえません。家畜も含めた共同体の全成員が(全く平等ではないにしても)共存する社会を維持することを律法は目指しています。

 結論として言えることは、聖書の「人間の自然支配」を直接現在の地球環境問題の原因として結びつけることは、旧約聖書全体の文脈を度外視し、創世記の支配と言う言葉にのみ留意して解釈するのでなければ困難だということです。あらためて思わされるのは、私たちの経済システムがいかに効率や利益を優先させた収奪のシステムであり、またいかに自由な経済活動の名のもとに倫理的配慮が脇に押しやられているか、ということです。

 

※機関誌「聖泉」(2003年7月号掲載)

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