「教会の本質」1・・・人数の問題?
二人または三人が わたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(マタイ18:20、新共同訳)
「教会の本質」を考えるにあたって、しばらくこの有名な聖句から学んでいきたいと思います。
新約聖書には頻繁に出てくる「教会(エクレシア)」は四福音書中にはマタイだけにしか出てきません。しかもたったの3回です。そのうち2回がこの18章に出てきます(マタイ18:17)。
生前イエスが使徒と弟子たちの群れを「新しいイスラエル」と見なしていたことはかなり確実だと思いますが、はたして「エクレシア」と呼んでいたかどうかは議論の余地があります。むしろマタイが福音書を書いた時代背景として、当時「会堂(シナゴグ)」が果たしていた共同体的役割が考えられるのではないでしょうか。してみると、18章15~18節を、イエスの弟子たちの「共同体規範」と理解するのも頷けるのではないでしょうか。
いずれにしても18章15~20節が「教会の本質」を考えるのに示唆的な箇所であることは明らかだと思います。
この聖句を、〝人数の少ない教会〟を励ます聖書の言葉…そんな風にしばしば受け取って来たのではないでしょうか。「二人または三人」でも信者が集まるなら、その中に主は臨在してくださる、と言う風に・・・。ではこの箇所は、教会に(教会で)集まる人数の問題を言っているのでしょうか。
この箇所で注目するポイントは以下の四つです。
- 「二人または三人」
- 「わたしの名」
- 「集まる(ところ)」
- 「(わたしもその中に)いる」
「二人または三人」はユダヤ人にとって「おおやけの人の集まりを構成する最低人数」と取ることができるのではないでしょうか。それは証言者の数であったり(マタイ18:16)、会堂での律法の学びであったり(ラビ文書)します。
特にあるラビ文書には もし二人か三人が集まって座し、相互に律法の言葉を話すなら、神の臨在(シェキナ=神の栄光を顕す。筆者注)が彼らの上にある。 とあるそうですが、単なる人数のことよりも、二人でも三人でもおおやけになされることの重要性を指すように取るのが適当だと思います。
平均的日本の教会の礼拝出席人数は14~15名、と何かの統計で聞いた覚えがあります。10名に満たないと伝道所に“格下げ”とか聞くこともあります。ましてや地方の教会では(首都圏でもないわけではないようですが)、小さな会衆の教会はいつ統廃合の対象になるか心配し、まさにこの聖句をそんな小さな教会の励ましにしているのではないでしょうか。(私が牧師を勤める教会もそんな小さな教会の仲間ですので、そんな心配の気持ちはよく分かります。)
しかしこの聖句の「二人または三人」をそんな礼拝出席者数を気にするような文脈で理解して良いのでしょうか。マタイの文脈からはそれは的外れだと思います。むしろ「二人または三人」でも、集まった教会は、主イエス・キリストの権能を行使して、主の体に相応しい共同体の秩序を形成するよう、凛とした姿勢を求められている、と取るのが相応しいのではないでしょうか。
「わたしは天と地の一切の 権能 を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと 共にいる。」
(マタイ28:20、新共同訳)わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。つまり、わたしたちの 主イエスの名 により、わたしたちの 主イエスの力 をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。
(Ⅰコリント5:3-5、新共同訳)
わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの 正しい秩序 と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます。
(コロサイ2:5、新共同訳)
(次回は「わたしの名」について講解します。)
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