「ゼロ」ではなく「一」からの出直し・・・について」
出直しは「ゼロから」ではなく「一から」だ、ということを少し説明します。
遡って10年前 [1999年]、N.T.ライトを読み始める少し前、現代の「福音主義信仰」は最早「行き詰まり」に近づいているな、福音派である自分自身が語りかける福音のメッセージ、宣教手法が何か空回りしているな、との自覚がありました。
しかしライトを読み始め、「使徒たちのキリストへの信仰は歴史的にどのように形成されて行ったのか」を問題意識として持つようになりました。振り返って見ると、現代福音派が「神の愛」「十字架のゆるし」を語る時、どこか選挙で声高に連呼されるキャッチフレーズのように聞こえました。「イエス・キリストの十字架がどういう意味で普遍的な救いになるのか」、その根拠がさっぱり提示できていないではないか…。
そんな問題意識の中から芽生えたのが、日本聖泉キリスト教会連合、2002年春、総会聖会・合同礼拝での説教でした。『使徒信仰の継承』と題したその説教で、現代福音派の福音理解・伝道メッセージは、「復活」抜きの「十字架の福音」であることに大きな問題があることを指摘しました。(よろしければ注意深くこの説教をご一読ください。)
私の福音理解の「ターニング・ポイント」はこの時を境にしています。この説教を「ゼロからの出直し」とすると、今回の「一からの出直し」とはどう言う意味なのか・・・。
それは「キリスト教信仰の土台」である「イエス・キリストの福音-その歴史的性格と使徒的福音における十字架と復活の歴史的事実性」と言う岩盤(鉱脈と言っても良いか…)を掘り当て、「これだ!この鉱脈を掘り進めて行けばいいんだ!」との確信を得、それを持ち続けたまでは良かったのですが、礼拝に来て説教を聞いてくださる会衆一人一人に、その意味・意義を十分伝えることが出来なかった。その反省に立っての「一からの出直し」という意味です。
(キリスト教歴史学の)学問的成果に立脚しながら(N.T.ライトはそう言う学者の最たる方の一人ですが・・・)、この土台を約30分間の説教の中で明証して行くことは、語る者にも、聞く者たちにも、大変困難な作業でした。
この土台の上に教会が建てあがって行くはずだ、今は人数こそ小さいが、焦らずこつこつやって行けばよろしい、とそう考えていました。しかし、その間、礼拝出席者数は減少し、まばらな会衆席を見渡しながら、「本当に巣鴨教会は教会として生き延びられるのだろうか」としばしば心は揺れ動きました。
土台から順に建築を進める作業に確信は持ちながら、「教会の将来を人数や教勢の変化で測り、懸念する」従来のメンタリティーは引きずったままだったのです。その反省に立っての「一からの出直し」ということも、またもう一つの意味です。
病気になり、毎週会衆席の後ろに座り、“実ーに楽な気持ち”で礼拝を捧げている自分を発見しました。
大事なことは主の平安だ。
主の平安を頂いて新しい週を迎えることだ。
主の臨在を信じていつもの場所に遣わされることだ。
そう言う礼拝を捧げることなのだ。
弱さ、無力さを覚え、信徒の立場から改めて礼拝に出席して感じた平安、それがまたもう一つの「一から出直し」と言う意味です。
(次回からいよいよ本論である『教会の本質』について論を進めていきます。)
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