イースターの朝、「私たちはどのぐらい使徒信仰を継承しているか」を検証してみたいと思います。
Ⅰ.「私たちの信仰」とは?
先ず私個人の例を参考にして考えてみましょう。きっと皆さんと共通点が見つかると思います。
私の信仰の原風景は、私が何か悪いことをして見つかった時、親の前でその罪を指摘され、罪を悔い改めて身代わりの十字架を受け入れて祈る、というものでした。
大人になってから自覚的な信仰を持つようになった時もその信仰内容に変わりはありませんでした。違いがあるとしたら、罪人の自覚がより明確になったことと、「罪の特効薬」である救いのメッセージを処方するのがもはや親ではなく自分であったということです。
私たちの信仰は、私たちを救いに導くこのメッセージに凝縮されるのではないかと思います。そのエッセンスは、
①罪とその結果である死を個人的に認める(認罪)、
②唯一の救いの方法としてのイエス・キリストの身代わりの十字架、
③イエス・キリストを救い主として個人的に受け入れる、
の三点と言えるでしょう。
Ⅱ.「使徒信仰」とは?
次に使徒信仰とはどういうものかを2箇所から見てみましょう。
①Ⅰコリント15:1-11
ここではパウロによって福音の最重要点が列挙されています。そしてそれらは彼自身が伝承(パレドウカ)されたものであると言っています。つまり継承された信仰です。ここで重要なことは伝承ポイントがキリストの死と復活とその顕現の「できごと・事実性」であり、それらの意味や意義の説明にあるのではない、ということです。
②ローマ10:9
この箇所は最初期の信仰告白の形を示すものと言われています。口で、つまり公に告白する形式文「イエスは主」が、心で、つまり信仰の内容として「神はイエスを死者の中からよみがえらせた」を伴っていなければならない、という指摘です。
この二つのテキストは使徒信仰を考える上でのエッセンスを表わしていると考えていいでしょう。どちらもイエス・キリストの復活が中心となっていることを覚えたいと思います。
私が牧師になって説教をするようになり、改めて福音書を学ぶようになって感じるようになったことは、結構分かっていると思っていた、また自分の信仰内容と「地続き」だと思っていた福音書が何か違うな、距離感があるな、と言うことでした。ある時急にそれまで親友だと思って安心していた人が違う面をいくつも持っていることを発見し戸惑っているような感じ、とでも言ったらいいでしょうか。
ある時福音書の受難物語を読んでいた時のことです。イエスが十字架にかかって死なれたその記述には、「ああ私たちの身代わりの十字架による贖いが完成した」と言う信仰表現はどこを探しても見当たらないことに気がつきました。状況はむしろ逆で、弟子たちは逃げてしまい、彼らの信仰は崩壊してしまったかに見えました。このことは弟子たちが「十字架による贖い」の信仰に至った過程が私たちが良く聞くような伝道メッセージほど単純なものではないことを物語っていないでしょうか。
Ⅲ.比較による検証
私たちの信仰は教理的に言うと贖罪信仰が中核であり、その象徴の十字架を強調します。さらに個人の救いが伝道の焦点です。
これに対し、使徒信仰はキリストの死と特に復活のおおやけ性・歴史的事実性を強調します。
私たちの信仰は主にこの公的出来事の解釈(神学的意義)に集中しますが、残念ながら復活の事実性もその意義も、「私たちの救い・贖い」に十分に関連づけて理解していないのではないでしょうか。私たちはまだまだ「聖書の示す通りに」ということを聖書全体を関連付けながら学ばなければなりません(Ⅰコリント15:3、ルカ24:27,32,44-47)。
※機関誌「聖泉」(2002年6月号掲載)
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