2021年1月24日日曜日

(論考)「地球環境保護問題」

 世紀末のキーワードの一つは地球環境保護のようだ。一昨年末は東欧の変革が世界史上の大きな転換期と位置付けられた。その意義は民主化であり、東西冷戦構造の終焉であり、社会主義に対する自由主義の勝利だとか言われた。しかしその自由主義の経済部分、つまり資本主義体制がいま地球環境保護の立場から見直されている。

  「神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。
   『生めよ。ふえよ。 地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』
   ・・・そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それ は非常によかった。」(創1:28,31)

 人間も含めた生き物すべての環境が地球全体にまで拡大されて問題にされ始めたのはつい最近のことである。工場や車の排気ガスによる大気汚染、工場排水や排棄物による地・水質汚染、そしてチェルノブイリに代表される核汚染。そして最近はフロンガスなどによるオゾン層の破壊による地球温暖化や排気ガスによる酸性雨の被害など、地域的に限られてきた環境破壊が地球大になってきたことを物語っている。いったいどこからこの今日的な状況が出現したのか。 

 今世紀の始め、マックス・ヴェーバー(ドイツの社会学者)は『プロテスタント倫理と資本主義の精神』の中で、資本主義経済の良質部分が宗教的信念に基づいていることを指摘して、後期資本主義の文明病である人間疎外を究明しようとした。彼はマルクスの「人間疎外は資本主義経済の必然的なもの」との説の対抗を試みた。しかしマルクスもヴェーパーも基本的には「人間疎外」の分析を人本主義的な視点から、つまり人間の労働の意義づけから出発したところに彼らの資本主義批判の時代的制約があった。そこには人の必要を満たす「神の恵み」という視点はなく、その恵みを間接的にもたらす自然の恵みという視点も弱かった。ましてや資本主義経済の弊害が地球環境破壊にまで及ぶとは彼らは予想だにしなかっただろう。

 この地球環境破壊という現代的状況がすべて資本主義経済の弊害とすることはできないにしても、現にその中で生きている私たちの役割を考えるところから何かが始まらなければならないのは当然であろう。環境破壊の元凶を企業に求めるのは簡単だ。(実際企業は企業としての倫理と責任が今後もより厳しく追求されるだろう。)しかし私たちがより身近に考えなければならないのは私たち消費者としての役割ではないか。 

 そこでまず考えられるのが私たちの購買態度である。はるか昔の小さな共同体単位での自給自足経済と違い、私たちは生活に必要な物資や道具をもっぱら購買によって充たしている。そればかりでなく資本の肥大した経済先進国においては、必要に応じて物が買われるよりも、その購買力に従って物が買われる傾同にある。(実際は上手に買わされている。)狭い部屋に使わないものがあふれ、しかたなくまた使えるものを捨て、ひたすらより新しい、より流行の、より便利な商品に買い替えるのである。 

 このような基本的必要の充足を越えたレベルの商品購買力が「生活の質の向上」といとも簡単にこれまで考えられてきた。しかしこの消費社会の裏側では「金力(マモン)」「所有欲」「虚栄心」が暗躍しているのである。私たちはその中で生活者の顔を持った消費者になる必要がある。豊かさという青い鳥を追いかけ、身を粉にして働く「生倒錯者」ではなく、平和で落ち着いた生活、絶えず満ち足りることを学ぶ生活を今考えてみようではないか。


※機関誌「聖泉」(1991年2月号掲載)

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