「わたしの名」・・・背景としての『神殿』
二人または三人が わたしの名 によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(マタイ18:20、新共同訳)
クリスチャンが日曜日に教会に集まって礼拝する。ごく当たり前のことです。しかし、「わたしの名」によって集まっているかどうか、と改めて問われるとどうでしょう・・・。「ごく自然に」、「余り意識しないで」、「信者の務めだから」、「もう習慣なので」、色んな答えが返ってきそうです。
この機会に「わたしの名によって集まる」、と言う時の「わたしの名」にはどんな意義が込められているのか考えてみたいと思います。
私は普段ギリシャ語聖書から《釈義》しているわけではありませんが、「わたしの名」の“後にある”《前置詞》「によって」に少し注意を払う必要がありそうなので、以下にこの部分がギリシャ語本文でどうなっているのか示します。
エイス(によって…into, for the sake of)
タ・エモン(わたしの)
オノマ(名)
この《エイス》をどう訳すかが当面の課題なのですが、私は注解書には余り見られないのですが、旧約聖書において神がご自身の臨在を約束された場所「神殿」が重要な背景としてあるのではないかと考えています。特に「神の名を置く場所として指定された神殿」について言及されている箇所を(沢山あるうちから)幾つか紹介してみます。
「・・・あなたたちの神、主がその名を置くために選ばれる場所に、・・・献げ物を携えて行き、・・・」(申命記12:11、新共同訳)
「・・・あなたの神、主の御前で、すなわち主がその名を置くために選ばれる場所で、・・・」(申命記14:23、新共同訳)
「・・・主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖とともに眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、・・・」(サムエル記下7:11-13、新共同訳)
「・・・ご存じのとおり、父ダビデは、主が周囲の敵を彼の足の下に置かれるまで戦いに明け暮れ、その神なる主の御名のために神殿を建てることが出来ませんでした。・・・ここに至ってわたしは、わたしの神、主の御名のために神殿を建てようと考えています。主が父ダビデに、『わたしがあなたに代えて王座につかせるあなたの子が、わたしの名のために家を建てる』と言われたからです。・・・」(列王記上5:17-20、新共同訳)
「・・・神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、夜も昼もこの神殿に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。・・・」(申命記8:27-29、新共同訳)
これらの引用から分かるように、本来は天にいます神が、(地上で)イスラエルの中にその臨在を示すために選ばれた場所が神殿です。ヤハウェはその名を「神殿」に置かれました。
しかしこの福音書の記者が「エクレシヤ」と言う語を用いているように、新約の神の民「教会」に置いては、もはや神殿ではなく、主イエス・キリストの名の下に集う会衆が神殿なのです。二人でも三人でも、主の御名によって「集う」と言う行為において、神の栄光と臨在が顕されるのです。
以下、古い契約下での神殿が、新しい契約下において最早必要なくなったことを示唆する箇所を福音書とパウロ書簡から引用します。
イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、ご自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
(ヨハネ福音書2:19-22)女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。私どもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でも エルサレムでもない所で、 父を礼拝する時が来る。・・・しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。
(ヨハネ福音書4:19-24)わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。 イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。・・・あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。
(Ⅰコリント3:10-17)このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており、モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。
ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
(Ⅱコリント3:12,16-18、※「栄光」とは即ち神の臨在のしるしです。)
(※ギリシャ語『エイス』は英語で、into とも、for the sake of とも訳されますが、「キリストの体を構成するとして集い」として理解する時はintoが、主イエス・キリストの名を置かれる場所として理解する時はfor the sake of が適当な訳だと思います。)
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