「集まる」② 「個の確立」と教会の集まり
二人または三人がわたしの名によって 集まる ところには、わたしもその中にいるのである。(マタイ18:20、新共同訳)
前回、「現代日本人」の自己には2つの要素―《西洋近代的自我》と、日本的《組織に深く組み込まれた個人》―があることを指摘しました。
今回は現在の教会形成理念に関係の深い 《西洋近代的自我》の歴史的淵源を簡単に辿ってみます。
(この内容は多分に、Charles Taylor, Sources Of The Self, Harvard University Press, 1989. に負っています。)
《西洋近代的自我》の歴史的淵源
1. 教会史の視点から見ると
(a)アウガスチヌス(354-430,A.D.)
『告白録』…高名な神学者が回心までの心の軌跡を表した点に「内省する自我」を見ることができる。
(b)マルティン・ルター
…当時圧倒的権威の教皇・教会に対し、聖書を自己の「良心」が服従すべき権威とした。社会的権威の超越性に対して「自己」を対置させた点が歴史的ランドマークとなる。
(c)バプテスト運動
…宗教改革後も中世的な、社会と教会が重なるようなあり方をとっていたプロテスタント諸派の「国民教会」的あり方に対し、「キリスト者としての自覚を持った成人会員で構成される教会」を自由教会として国民教会から独立分離させる流れを作った(反面、分離派と悪称されるような教会分裂にも影響を与えた)。
2. 世界(思想)史の視点から見ると
(a)デカルト
『我思う、故に我在り』…中世までの世界観である、「世界(リアリティー)内の一部に過ぎない自己」にとって代わり、自己の理性・主観を「世界存在(リアリティー)」把握の基礎にする哲学的方法論を打ち立てた。近代的自我の超越性が明確に形をとって現れた。
(b)啓蒙主義
…反宗教(キリスト教)的権威な面である「理性中心の合理主義」とともに、キリスト教的価値観の世俗的表現として「個人の平等・権利・自由」を主張した。(アメリカ合衆国独立宣言は宗教的権威付けを排除しなかったが・・・。)
以上、かなり断片的な歴史の羅列ではありますが、このような様々な流れが複雑に絡み合って「近代的自己」が形成されてきた、と言えるでしょう。
さてこの歴史的変遷の上に、《近代的自我》が発展してきて現在私たちが営む法人格を持った教会が存在します。(巣鴨聖泉キリスト教会は実際には法人格を取得していませんが、法人に等しいあり方で運営しています。)つまりこの「宗教法人」の角度から見ると、教会は「近代的個人」による組織なのです。独立した個々人が任意で組織に参加し、民主的に運営する任意団体なのです。私たちがそれ程意識していなくても前提されているのは「近代的個人」なのです。
巣鴨聖泉キリスト教会が所属する『日本聖泉キリスト教会連合』は、日本バプテスト教会連合に範を取り、「(目的)この日本聖泉基督教会連合は、キリストの体なる教会の完成のためホーリネスの信仰に基づいて協力し福音を宣べ伝え、聖徒の交わりを培い、参加各教会の発展をはかって神の栄光をあらわすことを目的とする。」と定義しています。「教会政治」的には「単立の教会の連合体」と言うバプテストの伝統を多分に受け継いでいるのです。
このことをもう一度《西洋近代的自我》の歴史的淵源の流れで捉えてみると、私たちの教会形成理念は明らかに西洋近代的であり、日本的な組織と個人の枠組みでは捉えられません。しかし実際の教会運営・牧会指導面では、西洋近代的個人の理念ではなく、多分に「日本的な」ものの影響下にあります。この二面性を抱合しながら、私たちは教会形成の『理念』と『実際』の捩れの中で苦悩しているわけです。
このような歴史的条件付けの中で私たちはどのように「教会としての集まり」の舵取りをして行けば良いのでしょう。私自身は「行き過ぎた個人主義」と言う否定面を一方で認めつつも、「個の発見」と「個の確立」を神の摂理として積極的に評価すべきではないかと考えています。課題はむしろこの複雑ではありますが発展してきた《近代的自我》の中から「自由な個」と言う価値を定着させ、人種・社会層・性別の区別を超えた「メシヤ共同体」(ガラテヤ3:28)を形成する積極的契機と捉えることではないかと考えます。そのような方向性を持った教会形成にこそ、真の自由・愛・忍耐・真理のことばの実践が問われるのではないでしょうか。
この自由 を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身 にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。・・・
兄弟たち、あなたがたは、自由 を得るために召し出されたのです。ただ、この自由 を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。 (ガラテヤ5:1,13-15、新共同訳)
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