2021年1月24日日曜日

(論考)「地(球)的視点と聖書―④ パウロから見る『地球市民倫理』」

 地球大の問題、特に地球環境問題を解くどんなヒントが聖書の中から見つかるだろうか、と言うテーマで考えてきました。今回シリーズ最終回、使徒パウロの福音理解において人間と被造物全体がどこへ向かっているのかを見、そしてそこから地球市民倫理へのヒントを考えてみたいと思います。

ロマ8・18-23

今の時のいろいろな苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意思ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

一体全体パウロがここで描いている終末の展望をどう理解したらいいのでしょうか。私たちは二重三重の意味でパウロのこのような展望を理解する事が困難になっています。一つにはこの箇所の主題である復活の理解がかなり歪んで弱くなっています。もう一つは私たちが理解する救いのゴール、死後のいのちが天(国)に向いていて、この地(球)に向いていません。つまり私たちの関心において天(国)と地が分断しています。さらに私たちの救い理解が極めて個人的な関心の範囲に留まっているため、この箇所でパウロが解き明かそうとしている「被造物全体の贖い」と言う巨視的救いの全体像に連絡し統合されて行くことが困難になっていること、等が挙げられます。

パウロはこの箇所で「現在」苦難を受けているキリスト者を「将来」受ける栄光に目を向ける事によって乗り越えるよう励ましています。そして現在の受苦は無意味なものではなく、いのちの誕生に伴う痛み(産みの苦しみ)になぞらえています。当然パウロがここで示唆する新しいいのちは回心を通して起こる「新生」のことではなく、将来いただく復活の体のことを指しています。それが「神の子供たちが栄光の姿で出現する時」を指します。では現在はまだ古いいのちのままかと言うとそうではなく、既に新しいいのちの「先取り分(初穂)」として聖霊が与えられていると指摘します。この聖霊がキリスト者の内に将来受ける栄光のからだを保証し、その聖霊によって「早くそのからだを着たい」と言う渇望を生じさせているのだ、と言います。

ところがその渇望はキリスト者だけのものではなく、被造物全体がその誕生の時を今か今かと心待ちにしているのだ、と言います。なぜ被造物全体がこの誕生に関連付けられているのでしょう。それは新しいいのちつまり死者からの復活はキリスト者個体の復活だけでなく、それを含んだ万物の更新(イザヤや黙示録では新天新地)の時だからです。つまり新創造。その中心に(新しい)人が位置します。旧創造において堕落した人が新創造において栄光の姿に回復される時被造物全体もあるべき秩序に回復されるからです。

このような展望から具体的に地球市民倫理をすぐ導き出す事は難しい。しかし「キリストにある新人」が被造世界に対して持つべき関心と働きかけの足がかりにはなると思います。(「地(球)的視点と聖書」シリーズ完)

 

※機関誌「聖泉」(2006年2月号掲載)

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