2021年1月22日金曜日

(説教)6. 教会の本質、「集まる」④ 背景としての『会堂』(「一から出直す」シリーズ完)

 「集まる」④ 背景としての『会堂』

 二人または三人がわたしの名によって 集まる ところ には、わたしもその中にいるのである。(マタイ18:20、新共同訳)

 この箇所を理解する上で『神殿』が重要な背景としてあることを、「わたしの名」について学んだ時既に指摘しました。即ち「ヤハウェである神の御名を置く場所、臨在・栄光を顕す場所」としての神殿です。
 今回はもう一つの重要な(歴史的)背景と考えられる『会堂』について指摘します。

 イエスの宣教とユダヤ人からの迫害
 イエスがガリラヤの町々を巡って「神の国」を宣教し、会堂で教えたことが述べられています(マタイ4:23,9:35)。しかし、同時に『山上の垂訓』には「弟子たちがイエスのみ名を宣教する時に迫害があること」(マタイ5:11,12、比10:16-25)、そしてそのような状況下でも「イエスのみ名を告白すること」が言われています(マタイ10:22,23)。

 研究者たちはこれらのイエス語録が、イエスの宣教当時の時代状況よりも、マタイ福音書読者たちの時代状況により関連があると見ています(例えばG・N・スタントン、 The Gospels And Jesus)。

 著者がそのような迫害状況を特に意識して福音書を編集したとするならば、読者の背景としてパレスチナのユダヤ人キリスト者と会堂との関係を想定することが出来るでしょう。仮に「会堂追放(比、ヨハネ9:22)」まで行かなかったとしても、次第に会堂を中心とするユダヤ人コミュニティーから圧迫を受けていたとしたら…。そう考えると、この箇所は「会堂から離れて集会を守る」のを余儀なくされたユダヤ人キリスト者たちへの励ましと約束の言葉として響いたはずです。「たとえ会堂での集会ができなくなっても、どこであれ二人でも三人でも、わたしの名を告白する兄弟姉妹たちが集まるところには、私も共にいるのだよ。」と。

(シリーズ完)

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