2021年1月24日日曜日

(論考)「地(球)的視点と聖書―① 科学と宗教―対立ではなくパートナー」

 先ず最初にこのテーマの「地(球)的視点と聖書」について少しお話ししましょう。

 かっこの中に「球」と入れてあるのは当然ながら聖書の中にいくら探しても私たちがイメージするような近代以降の科学的・物理的「地球」については書いてないからです。昔、荒川教会の人達と一緒に佐渡島の金北山に登ったことがありました。高さは確か千百メートルを越えるぐらいだったかと思いますが、何しろ島の周りは海ですから頂上から見えるのはずーっと水平線でした。そしてその水平線は少し丸くカーブを描いていたように見えました。もしかしたらすでに頭の中に「地球は丸い」と言う知識があったためそう見えたのかもしれませんが…。

 さて地球儀、世界地図、宇宙探索ロケットなどからの青い地球の映像などなど、私たちは昔の人が「果てしない地の広がり」と見えていたものを映像的に一つのもの、しかも宇宙空間と比較すればごくごく小さなものとして捉えることもできるようになりました。この視点のことを科学的・物理的視点と言っていいと思いますが、地球環境の問題を考える上でこの視点は不可欠です。

 では、聖書的な視点はどうでしょう。もちろん聖書をいくら詳しく勉強してもとても科学が教えることのできるような物理的地球についての知識は得られません。しかし全く無駄でもありません。その大きな理由の一つは、地球環境の問題は単なる物理的知識の問題ではないからです。もちろん地球環境についてのあらゆる問題、土壌や大気汚染、温暖化による気候変動のメカニズムは科学的な分析と検証を必要とします。しかしそれらの知識が正しく得られたとしても、そして相応しい対策が科学者によって講じられたとしても、地球環境の問題と取り組むのは最終的には現在この地球で生活している人間一人一人の態度と行動です。科学的に示された新しい知識や提案も人の意識と行動に十分働きかけることがなければ無力です。人の意識と行動、それは宗教が捉えてきた「人格としての人間」のことです。クリスチャンで言うと「心と行ない」と言った方がよりピッタリするでしょうか。

聖書の視点:創造

 地球環境の問題を聖書から考える時先ず創造物語から始めるのがいいのではないでしょうか。

  「神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』
 ・・・そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」(創1:28,31)

 六日間での天地創造物語は一つの流れを示しています。それは生き物が住むのに相応しく一つ一つのものが順に造られて行った、ということです。そしてそのクライマックスとして人類が造られた。さらに人類は「神の像」として造られた。このことと28節の「支配せよ」との命令は、人類が最高の被造物として造られただけでなく、この世界の生き物を「神に代わって」治める立場にいることを示唆しています。

 これは非常に高い権威と責任を人間に与える視点といえるでしょう。少々通俗的で短絡的な比較ですが、すべての生物が等しく尊重される仏教の教えや、あらゆるものに神の霊が宿ると見るアニミズムの見方とは「世界と人間」の関係の捉え方が大きく違います。

 次回は地球環境問題がこのようなユダヤ・キリスト教の人間観から出てくる、という見方について考えてみたいと思います。

 

※機関誌「聖泉」(2002年11月号掲載)

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