「集まる」③ 「場・建物」としての教会
二人または三人がわたしの名によって 集まる ところ には、わたしもその中にいるのである。(マタイ18:20、新共同訳)
多くの人は教会と言う時「建物」を先ずイメージするのではないでしょうか。2001年、巣鴨聖泉キリスト教会は普通家屋を改造したものから、会堂新築へと「集会の場」を変化させました。そのことによって教会に何か質的変化をもたらしたでしょうか…。確かに空間の質は変わりました。でも「集まってやっていること」は変わっていません(集回数は減りましたが)。私たちはこの場でそれまでと同じように《祈り》《学び》《賛美》《協議》《交わり》《食事》その他のことを必要に応じてしています。
結論から言えば「建物としての教会」は重要な要素ではあっても教会の本質を左右するほど決定的なものではないということです。ですから「公民館の一室」であろうが、「大聖堂」であろうが、《集まる場》として様々な違い・優劣はあったとしても、「教会として集まる」ことに変わりはないと言えるのです。
旧約の時代、礼拝の場としての中心は《神殿》でした。しかしその神殿でさえ「神の臨在」が自動的に保障されていたわけではありません。実際ソロモンが神殿奉献した時のような濃密な神の臨在(Ⅰ列王8:10-11)が継続的にあったわけではないし、最後にはその神殿が破壊されもしたのです(Ⅱ歴代36:17-19)。
ではこの箇所が問題にしている「集まるところ」とは何でしょう。2人でも3人でも人が集まるにはそれだけのスペースが必要です。では「人の集まりが少なくても、集まるスペースが狭くても、教会は教会だ」、と言うようなことを言っているのでしょうか。もちろんそうではありません。鍵となるのは「わたしの名によって集まるところ」です。①イエスの御名がすべてのものの主として崇められ、②すべてのことが主のみ名によって行われる、そのような『場』のことです。たとえそれが「二人または三人」でも
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