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2016年7月16日土曜日

(3)「イチオシ!」の入れ替え、2016

大体年一回のペースで更新しているイチオシ!です。

 2014年・・・水村美苗『日本語が亡びるとき』
 2015年・・・金鎮虎『市民K、教会を出る』

毎回ジャンルが変わると言われそうですが、今年はこれです!!

エリック・ブリニョルフソン『ザ・セカンド・マシン・エイジ』(2015年7月)


どこで評判を聞いたかはもう覚えていない。

昨年7月の発刊だからもう1年経つわけである。

毎度のことながら自分で本書を購入して読んだわけではない。

図書館で借りて読んだ。(『日本語が亡びるとき』はその後古本を購入したが。)

予約者が多く確か2ヶ月くらいは待ったと思う。

そして、一回では読み終えられず、その後2回借りた。(その2回とも again 予約待ちだった。)

そして明日返却となった。まだ10-20ページくらい残っている。

でも大体内容は掴めたと思うので、記事にしてもいいだろう。


デジタル技術によって「人間の労働」が肉体労働だけでなく、知能労働もどんどん取って替わられる近未来社会をいろいろな角度から検討している。

まずコンピューターのもたらす「革新」が人類が経験してきたものとしては「産業革命」に続く広範なものであり、そのスピードもある時点を越すとナントカ数的ものになるそうだ。

一昔前コンピューターがチェスの世界チャンピオン破った事件があったが(今年だったかチェスと比較するとはるかに複雑で暫くはまだ人間を負かせないだろうといわれていた囲碁でもついに何勝かしたのが今年だった、かな・・・。)AI(人口知能)の進歩が加速度的に進むだろう、そして労働市場その他の経済の様相を大きく変えそうだ、という予測にかなり焦点を当てている。

個人的にはこのような「技術革新」がもたらす文明的問題については、過去に何冊か興味深く読んだことがある。

大雑把な印象だが、それらの「未来予想」本が現実をどの程度予測したかと言われると(その途上のものが殆どだが)それほど目を見張るようには実現していないような・・・。

だからといって、この『ザ・セカンド・マシン・エイジ』も眉唾で読んだらいいとは思わないのだ。

人間に取って替わる「自動化」技術はデジタルの前からあり、長い歴史の延長線にある技術の問題であり、ただデジタル技術というほぼ無限にコピーすることができる、量的制限を撤廃する技術がもたらす革新的変化の予測がかなり大きいとはいえ見通せないところが難しいポイントのようだ。


教会の牧師として一番関心が向く問題が、「人間の尊厳」である。

以前どこかで書いたかもしれないが、大学は経済学部だったが、原論で「マルクス経済学」の基礎を叩き込まれた。

労働者の「労働」が生んだ商品価値が資本家によって搾取される構造を理論化したのがマルクス経済だ。

つまりそこでは「労働」とは人間の価値を端的に表すものだった。

しかし未来社会では「疎外」は「労働者と商品」ではなく、自動機械が人間の労働機会をどんどん奪っていくという構図なのだ。

人間の価値は、人間の尊厳は「働く」ことにあるとすると、これはやはり大きな危機となりうるわけだ。

その辺の展望や対策についても本書はいろいろ書いているのだが、基本的に経済学畑の人なのだろう、このような問題の「精神性」の側面はそれほど深められていない、と云う印象だ。

広範な(事務・頭脳労働も含む)単純労働者の仕事が取って替わられたり、所得格差が大きくなったりと自動化社会への移行過程でも難しい問題が出てくるし、既に出てきている。


まっ、そういった事柄に関心のある方にお薦めしたい。

2016年1月11日月曜日

今日のツイート 2016/1/11

今日はいわゆる「連ツイ」というのを。

で(最初の以外は)「埋め込み」ではなく引用で。

私は1990年からドイツに住んでいるが、過去25年間に日本で今ほど欧州が注目されたことは、一度もなかった。これらの事件の余韻はまださめておらず、2016年にも長い影を落とす。

*イスラム・テロとの戦い
  最も大きな影は、イスラム過激派の脅威が欧州の街角に到達したことだ。残念だが新春の欧州は、テロと戦争の暗雲に覆われている。

2015年3月30日月曜日

(4)「若手論客」とか「新世代」について②

①で予告していたが、そのままになっていた。

『坂口恭平』とはどういう人物か、とは余り良い質問ではない。

『坂口恭平』はちょっとしたフェノメノン、と言う感じなのだ。私見では。

だから多分に評価は情況的だし、過度的だ。

『坂口恭平』が最初に筆者の視界に入ったのは1年以上前ではなかったか。


『坂口恭平躁鬱日記』が出て、その本の評判が筆者のツイッターTLにたまたま出たのを目にして、
坂口恭平@zhtsssをフォロー開始したのではなかったか。
 
最初の印象は、「がんばってんなー、この人」くらいなものであった。

気にはなっていたが別にそれ以上の関心は持たなかったが、つい最近になって『モバイルハウスの作り方』(0yenhouseウェブサイト参照)を読んで俄然面白く思った。

彼はやはり一種の「天才」なのだと思う。

でも躁鬱を抱えてちょっとアブナカしい、綱渡り的人生を送っている。

発言のあちこちにそのことは出てくる。

先日ジャーマンウィングス機の事故があったが、副操縦士の自殺の巻き添えにされたと言うことらしい。

言わばその逆をこの人は果敢にやろうとしているように映る。

革命だの、いのちの電話だの、総理大臣だの、・・・普通の人がやるとちょっと過激すぎることも、この人がやると何か分かるような気がする。

個人的にはこの人の「ラディカル」さが面白い。

思想がラジカルとか、そう言う話ではない。

もっと原始的な感性みたいなものだ。

例えば「土」に対する近さとか(「ダンゴ虫」に対するシンパシー)・・・

視野とか(建築家のパースペクティブを越えて、アボリジニの脳を想像させるような)・・・

いわゆる常識で納まらない思考と言うか、行動的知の探求というか・・・


まっそんなところです。

だから「論客」みたいなメディアに好都合な枠に入れてない方がいいと思います。


2015年3月11日水曜日

(4)「若手論客」とか「新世代」について①

先日、日本を変える若手論客20の提言という本を図書館から借りてきた。

「20人」の中の一人である「坂口恭平」に興味があったわけだが・・・。
 
まっ坂口さんについてはまた続編②で取り上げることにして、今回は「若手論客」とか「新世代」とかとメディアが称揚して何をしたいのか、を考えてみることにいたします。

実はこの後書くことは2014年の年頭に『新春放談』として準備していた記事だったのだが、まとまらないうちに時機を逸してお蔵入りになっていた。

その記事はNHKが元旦放送予定の
新世代が解く!ニッポンのジレンマ 僕らが描くこの国のカタチ2014
の(後から分かったことだが)番組録画後に出演者にインタヴューしたものを読んでの感想だった。

そのお蔵入りにしていた記事の冒頭はこんな風に始まる。

新年明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

最近更新が滞っています。
今一つ書くことが見つかりません。

って言うかまたまた波なのでしょう、集中力が湧きません。

そんな中、ツイッターでは結構呟いているのですが、たまたまこれが筆者のツイートとしては珍しく沢山(と言っても数字は一桁ですが)RTや「お気に入り」に登録されました。


なぜでしょう。

勿論10人の論者のうち何人かが自分の名前を見つけてRTするのは分かるのですが、筆者は単にヤフー記事を殆んど加工もせずにツイートしただけなのです。

今読んでも当時の(何とか記事にしようとしている)カッタルサが伝わってくる。
その記事はその後こう続く。
と言うわけで、少しこの記事を改めて読みながら「放談」することで、2014年最初の投稿にしたいと思います。

この国のカタチと言うとすぐ連想するのは、(筆者は読んでませんけど)司馬遼太郎の「この国のかたち」でしょうね。

1970年以降生まれの10人の『論客』が、「日本の新たな未来地図」を描く・・・と言う触れ込みだったので少し期待して読んだのですが・・・。

今再見すると、
※このページで紹介した論客が討論する「僕らが描く この国のカタチ2014」は、NHK Eテレで2014年1月1日(水)夜11時~(150分)放送。
となっているので、ヤフーの方に掲載された文章は、この番組のための前宣伝だったのでしょうね。
だとすればこの文章だけで論評するのも野暮と言うものかもしれません。

とにかく数日前読んだ時には余りぴんと来るものがなかった。

さて再読して気がつきました。

この短い文章群は番組収録後の「インタヴュー」に答えたものなのですね。
宴の後の・・・と言うことでしたか。
うっかりしてました。

読み直して感じるのは(NHK番組と分かったからの偏見なのでしょうが)、問題設定がお行儀がよろしい。
また『論客』たちもお行儀がよろしい。
と言うことでしょうか。
この時の筆者の反応は、
  若手に、
  マジメに、
  「天下国家」を
  論じさせるメディアのお膳立て
に対する居心地の悪さ、とでも言いましょうか。

また、先ほどの「インタヴュー」での
  「ホンネ」にしては
  中途半端で
  生煮え、
  歯切れの悪さを感じさせる内容
だったのではないかと思います。

さてこのNHKの番組では「10人の論客」だったのですが、冒頭に挙げた日本を変える若手論客20の提言と何人か名前が重なっていました。(家入一真、白井聡、與那覇潤、それにMCを務めた古市憲寿)

で、「20人」の方は
本書は『潮』2012年5月号から2013年12月号まで20回連載された「若手論客に問う『日本のカタチ』」を再構成のうえ加筆・修正したものです。
とある。

あれーこれってNHKが殆どアイデアを真似しているのでは・・・。

 
と、やっとここで「20人」の方に話題を移すのだが、はっきり言って面白かったのは「坂口恭平」だけであった。

もちろん何が面白いかは人それぞれなので、その面白さを語るまでは単なる独断に過ぎないが、次回まで待っていただくとして、その他から一つ拾ってみた。

提言13 外交下手のツケを「九条」に回すな 木村草太

主に質問する田原総一朗と「憲法との衝撃的な出会いの思い出」「『押し付け憲法論』をどう見るか?」について話してきた後、「憲法九条改正の波にどう抗うか?」に話題が移る。

田原は「憲法九条」を絶対に変えてはいけない、と自らの戦争体験から語るのだが、それは九条によって日本が戦争に踏み出すのを阻止できる、と考えているからだ。

しかし、木村は田原の勢いを削ぐように、九条は別に日本の武装を制限するわけではない、と主張する。
木村 たしかに憲法上、日本に許されているのは専守防衛のみで、自衛のための必要最小限度を越えると考えられる武器は持っていません。しかし、「自衛のための必要最小限度」というのはあいまいな概念です。「これからの日本は、核武装をしなければ自衛はできない」という説明がもし国民に支持されて通ってしまえば、憲法九条を持ったままでも核兵器保有は可能なのです。ただ、核不拡散条約に違反するので、国際法では禁じられますが。
 田原さんがおっしゃっているのは、九条の法技術的側面ではなく、「外交宣言」としての側面だと思います。九条は、「日本は非核三原則などの諸原則を、これからも守りますよ」という宣言として機能していて、おそらく田原さんはそちらの機能に注目されているのでしょう。
田原 まあ、そう言ってもいいですね。安倍首相にインタヴューしたときに、安倍さんは国連軍に参加したいと言う意向を明言していました。時間がなくて「集団的自衛権」(他国が武力攻撃を受けたとき、第三国が共同で防衛を行う国際法上の権利)のことまで聞けなかったのですが、たぶん自民党は集団的自衛権を行使可能にする方向で改憲するつもりですよ。具体的に言うと、北朝鮮がアメリカに向けてミサイルを発射したとき、日本の自衛隊がそれを撃ち落すべきだという話になる。それを可能にする九条改正を狙っている。
木村 まさにそういう行為を禁じているのが九条一項です。 (162ページ)
とまあこんな調子の対談であった。

若い木村が老獪な(?)田原相手に憲法学者としての条文の厳密な解釈とその適用を解説していて面白く感じた。

この部分だけで何か言うのもなんだが、木村の意見には「(憲法の)コトバと政治的現実とがどのように折衝するのか」ということに関する冷静な態度が垣間見られるように思われた。より柔軟な現実への対処ができそうな感覚というか・・・。

あと二三面白いな、と思われる意見や見方はあったが、総じて「論客」としてコトバを使って対論者との「間を測り」「太刀を斬り交わす」丁々発止の面白さを見せてくれるようなものは少なかったように思う。

余談だが、米国遊学時三大テレビ局の一つABCのテッド・コッペル「ナイトライン」を良く観ていたので、ウィットやユーモアを交えながら、遠慮なく相手を追い詰める質問のコトバの鋭さを懐かしく思うとともに、日本の政治家や責任ある立場の者たちの「応答責任」を引き出すような言論追及を観たいものだと思うのである。

では次回は「坂口恭平」についてになると思う。



2014年5月11日日曜日

(5)トマス・C・レーマー教授講演会・補遺

先日の記事「トマス・C・レーマー教授講演会」を途中退席して何をしたのか・・・。

早い話がもうお昼だったので昼食です。

が、ICUの千葉眞教授と一緒。

千葉さんとはプリンストン神学校で一年一緒だった。

今回はついでではないのだが「久しぶりの再会」 とあいなった。

かつて千葉さんからはジョージ・B・ケアード「新約聖書神学」(ここ参照)を贈られて痛く開眼したのだが、久しぶりに会うのを良い機会に、「なぜこの本をくれたのか」聞きたかったのだ。

「いやー、ケアードは僕がオックスフォードいた時のメンターだったんだよ。ゼミや祈り会や色々お世話になって・・・」
「えー、そうだったの!」

故ケアード教授はN.T.ライト教授の博士論文指導教官(途中で亡くなったのだが)、そのライトは千葉さんと年もそう違わないのでもしやと思って聞いてみたが、ライトとはぜんぜんクロスしなかったそうだ。

多分数年開きがあったのだろう。


許された時間は約90分。瞬く間に過ぎた。

最後はオフィスへ。

しばらくぶりに見るオフィスは「本の山」。

早速レッドカードを出させていただいた。

帰りはお土産の本や最近千葉さんが書いた論文のコピーなど沢山いただいた。


下の本「未完の革命としての平和憲法」は会う前に地慣らしということで図書館で借りた本です。

「ルカによる福音書」はオックスフォード時代からの千葉さんの親友、故藤崎修氏翻訳になるもの(教文館、2001年)。

「二十一世紀と福音信仰」は論文集。千葉さんの「救いの証」から始まる主に神学的な著作。

暫く会わない間に色々あったらしいが、そこはお互い様。

今後はもっと会う機会を増やそう。

2014年2月11日火曜日

(3)神学遍歴⑪

さてGTU時代のことを話し始めたのだ。

ところでGTUと言う余り名前を聞かない学校のことを紹介しているブログがあったので紹介しておこう。
アメリカ神学校留学ガイドブログ・GTU編

筆者の指導教官となった方を敢えて名前を出さずに書き進めよう。
(別に恨みはないのだが、多少不満は感じていたし、今でも余り良い思い出とは言えない。)

彼はカリフォルニア大学バークリー校の社会学で、(多分ロバート・ベラーの指導で)博士を取った。
インド地域研究と「宗教と暴力」をテーマに業績を上げて今はかなり有名になっている。
9.11以降、メディアでコメンテーターとしてもよく出てくる人だ。

今ははっきり覚えていないのだが、その頃(1982年)はGTUのオフィスはまだ小さな建物の中にあり、彼のオフィスはその屋根裏のような階にあったように思う。

とにかく忙しい人で、盛んに動き回っていた。
GTUの先生と言うより、バークリー校で教えている方が多かったかもしれない。
何しろリベラルな大学だから、彼はなかなか生徒たちに人気があった。

そんなことでこちらはなかなか遠慮してコースワークへの指導や相談などを持ち出すのが段々億劫になった。

彼がGTUで教えていたコースで記憶に残るのは、「比較宗教倫理学」と「ガンジー」のクラスだった。
前者は教科書はプリントアウトで、今は手元に残っていない。

後者のクラスで使った教科書(しかしちゃんと読めなかった)で、ジョアン・ボンデュラントのガンジーの政治哲学(権力との対立に関する実践理論)を扱った、Conquest of Violence: The Gandhian Philosophy of Conflict がある。

邦訳はされていないようだが、所謂ガンジーの取った「非暴力抵抗」をサッチャグラハ(真理把握)の視点から分析したものである。

その中で「犠牲の要素」がサチャグラハの実践として指摘されている。
理性的な議論では相手に通じない時、コンフロンテーションにおいて受苦を選択することになる。
それ(一種のショック)によって相手の視点を変え、抗議する側の道義に気づかせる役割を果たす、と分析されている。

昨年国会議事堂周辺を「特定秘密保護法」成立反対をするデモ隊を「テロリスト」呼ばわりした方がいるが、この辺の「抗議活動」における「暴力」あるいは「犠牲」の解釈は結構近いものがあるのかもしれない。

もちろん物理的な暴力を行使するのは主に権力側だが、自爆テロのようなケースや、チベット僧侶の焼死自殺による抗議は、犠牲と(自分の肉体への)暴力との二面があるのではないかと思う。

都知事選が低投票率に終わり、議会制民主主義の停滞を感ずる中、ガンジーのような非暴力抵抗によるコンフロンテーションによって「真理」を把握する、と言う実践は示唆があるだろうか、少し思いを寄せる機会になった。


2014年2月9日日曜日

(4)スラヴォイ・ジジェク

最近少しずつ耳にするようになったスラヴォイ・ジジェク。

今日は図書館で彼の「ポストモダンの共産主義」を借りてきて読み出した。

初めて彼の名前を耳にしたのは数年前だろうか。
一応「面白そうだな」と思ったがそのままにしておいた。

先日アップした政治神学を書いている時にも何度もジジェクの名前に出くわした。
そろそろ読み時か、と思い借りてきたわけだ。

そんな流れでユーチューブを探していたら、こんなのがあった。



面白かったので思わず2本とも見てしまった。

一緒にいるのは、ウィキリークスのジュリアン・アサンジ、司会しているのはエイミー・グッドマン。

昨年特定秘密保護法が通過した背景にはデジタル社会における情報漏洩があるわけだが、情報公開を巡る政治権力、企業、マスメディアとの駆け引きが紹介されていてそれも面白い。

中でジジェクはユダヤ・キリスト教の遺産としての私的空間における思索の自由(神学すること)、みたいなことに言及していたが、あるいは佐藤優の同志社大学神学部で「・・・虚学であるが故に、危機的な状況で人間の役に立つ神学という不思議な知・・・」と説明していることと通底するところがあるかもしれない。

その他、京都大学の芦名教授のキリスト教学(特殊講義)でも取上げられている。

ジジェクの神学思想の特徴については、ベン・マイヤースの「信仰と神学」ブログで少し紹介されている。(リンク)




2013年12月20日金曜日

(5)特秘法 落ち穂拾い

久々の「難易度5」です。

断って置きますが、今回の場合は筆者が『特定秘密保護法(以下「特秘法」と省略)』(特秘法全文)について余りよく知らないために、ここで書くことは中途半端な感想でしかないために、読者にとっては筆者の意図とか内容とかを把握するのが難しいだろうなー、と言う意味で「難易度5」です。

そもそもあちこちで「法案反対」ののろしがあがり、国会前でのデモがニュース映像で流れるようになるまで、筆者はこの法案に対してほぼ無関心、無頓着でした。

国家安全保障体制(NSS)整備の一環として、特に同盟国アメリカからの「インテリジェンス供与」を受けるための法整備として、現行の国家公務員法を上回る厳罰を伴うもの、が目指されているらしいことを、今頃ニュー・ヨーク・タイムズ(10/30記事や11/29記事)で読んでいる体たらくであります。

そんな具合ですから、特定秘密保護法案に反対する牧師の会の賛同署名活動の案内が回ってきても、反対理由の文面を読んでも、そもそも「特秘法」自体の内容を知らないわけですから、賛同署名には躊躇を覚えて現在に至っているしだいです。

かと言って何も発信しないでいたわけではなく、ちらほら「反対」っぽいことをツイートはしていましたが・・・。

この法案に対しては様々の分野の識者の方々が「言論の自由」を制限したり、政府の権力濫用に道を開くものとの懸念や危惧を表明していますが、その「感じ」は法案の内容そのものからだけではなく、法案成立を急ぐ与党の国会審議の様子からも、与えるものです。

これに石破幹事長の「デモはテロ」発言が追い討ちをかけましたね。


さて、特定秘密保護法案に反対する牧師の会には筆者の知人も多く署名しています。

また逆にこのような抗議行動に対しての疑念や批判も数人の牧師から提出されています。

こちらの方が圧倒的少数ですから敢えて紹介すれば、
のらくら者の日記
羽村の風

両者とも共通点は議会制民主主義の観点から、急に「法案に反対する」活動を、政治決定のプロセスに対して無責任な態度ではないか、と言う批判をしていることだと思います。(法案の是非についてではなく。)

特に前者の方は「小選挙区制度下で二大政党が競り合う」形の議会制民主主義のあり方の観点から述べているので、その批判はより的を射ているように思います。

ただ二者に対して思うことは、確かに議会制民主主義の下で市民が与えられている政治決定の基本的行動である「投票」にもっと顧慮すべきである、と言う主張は分かるのですが、市民的政治活動としてデモや声明や署名活動という日常的なものも無視すべきではないだろう、と言うことです。

(もちろん二者がそれらを否定しているとは思いませんが。但し、これは蛇足だが、国民主権の立場からは、不断に国民が政府のしていることを監視しているようでなければ、急な反対声明や抗議行動はなかなか説得力のあるものにはなりにくいだろう。)

今回の「騒動」で筆者が一番感じたことは、「国会審議」の質がやはり肝心ではないかな、と。

この法案の「秘密指定」に関する第三者機関の設置が、審議の途中から取って付けた様に出てきたところをみても、特秘法が国民の知る自由に対しては概ね無頓着な「不備」なものであることが露呈されたように思います。

また「国家の機密保持」に一定の理解を示した上で特秘法を論ずるかどうかも、自衛権の問題を含めて、キリスト者の国家観が問われる問題であったように思います。
今後も継続する課題なのでしょうが。

と言うわけで、ドラマの後の落ち穂拾いのような記事でした。

2013年10月16日水曜日

世界食料デー

今日は世界食料デー。

UNEPの Food Waste Factsによると、
①世界中で生産される食料の約1/3が消費されずに消失するか捨てられている。
②豊かな国々で捨てられる食料と、サハラ砂漠以南のアフリカの国々で生産される食料はほぼ同じ。
③食料の消失・廃棄は、水・農地・エネルギー・資本など資源の浪費になるだけでなく、温室効果ガス発生にも寄与している。

などの報告がなされている。

食料の無駄は大問題だと言うことはよく分かるが、なかなかこれを是正するのは大変だろうな、とよく思っている。

自分としてできることは・・・とにかく食べ物を「残さない」ようにしている。

時に外食でこれが大変なことがある。

ある時早稲田の学生街で安いランチの店に入って「メンチカツ定食」を頼んだ。
ところがご飯が丼飯でしかも山盛りなのだ。

もう見ただけで圧倒され、どうやってこんな量食べきれるのだろうとしばらく食べる前に考え込んでしまった。
その時はちょうどある会合に出かける時でそんなにゆっくり食べてもいられなかった。

と言うわけでその食事の目的は「腹ごなし」ではなく、如何に食べきるか・・・であった。


2枚あるメンチカツを食べながら、ご飯の量はそれでも半分強位にしか減らなかった。
味噌汁もなくなり、後は2枚のたくあんで何とかしなければならない。

たくあんもなくなった。
でもご飯はまだなくならない。
時間も経ってきた。

段々あきらめの気持ちがわいてきた。
しかし何とかゴールを達成したい。

その気持ちだけで最後は「ガンバッテ」完食した。

しかしこれは考えてみればおかしな図である。

世界には食べものが足らなくて栄養失調の子供たちが多くいる。
飢餓に苦しむ人々がたくさんいるのに、なんで筆者のような「苦しみ」をしなければならないのか。

経済が下降線で余裕がなくなってきている状況では、「食べ放題」や「山盛り無料」みたいなものに惹かれるのも分からないでもない。

しかし何枚もの皿に沢山盛って、食べきれないで平気で残す人も結構いるのではないかと思う。
こう言うの何とかならんのか・・・。
衣食足りて礼節を知る

と言うが、こと食に関しては「残さないように、無駄にしないように食べる」ことそれ自体が最早富める国に住む者の最低限の礼節にしなければ・・・と思うのは考えすぎであろうか。

てなことを「世界食料デー」にかこつけて思いました。

2013年8月7日水曜日

また少し本を買ってしまった

読書の秋はまだ程遠いのに、
そして暑い夏なのに、
また少し本を買ってしまった。

書棚はほぼ一杯。
机の上や床の上に、積読状態が始まっているのに。

一つには、第2回N.T.ライト・セミナーで、
基調講演 「神殿(仮題)」のリスポンデントをすることになっているので、
そのために「神殿」関係の本を購入した。

①ジョン・ウォルトン、The Lost World of Genesis One: Ancient Cosmology and the Origins Debate



創世記1章を「古代テキスト」として、古代文明における創造神話を参照しながら、解明する本だ。
「物質的宇宙の創生」と言うフレームではなく、「被造物が一つの大きな秩序の中にどのようにその働きを定義されているか」、と言うフレームで理解すべきだと言っている。

②(基調講演者の鎌野直人氏によるとこのウォルトンの本はイントロにすぎないと言うことで)、
Jon D. Levenson, Sinai and Zion、を購入。
 
(これはウォルトンが終わってから読む。)
 
 
③Jack Levison, Fresh Air: The Holy Spirit for an Inspired Life
は前々から買いたいと思っていた本。
N.T.ライトとスコット・マクナイトの推薦もある。
 
④Lloyd Pietersen, Reading the Bible After Christendom
は
⑤Ryan K. Bolger(編), Gospel after Christendom, The: New Voices, New Cultures, New Expressions
とともにAfter Christendomと言うところに共通の関心がある。

最近連載している「福音派のパラダイム・シフト」より大きな文明史的転換を自覚したものかどうか、まー試しに読んでみよう・・・と言うことで購入した。
 
⑥Ulrich Beck, World at Risk
は大分前から「ウィッシュ・リスト」にあったのをやっと購入した、と言う感じ。
最近は殆んど聖書学・神学関係しか買わないが、時々社会学系などにも目配りはしている。
 
⑦トーマス・C・レーマー「申命記史書―旧約聖書の歴史書の成立」
 
 
これはたまたまツイッターから入手した情報から調べてみて面白そうだったので購入した。
フランス語の原書は英語に訳されているが、アマゾンでは法外な値段。
 
それで邦訳書にしたのだが、鎌野先生の情報で見た(オンライン)本屋では30ドル以下。
注文した後だったので、残念。 

2013年8月1日木曜日

ロバート・N・ベラー(1927-2013)

突然だが、ベラーさんがご逝去されたと言う報がツィッターTLから入り込んだ。

ロバート・N・ベラーは、筆者がGraduate Theological Union (Berkeley, CA)時代に少しお世話になったカリフォルニア大学バークレー校の社会学教授で、アメリカを代表する社会学者と言ってもいい人だろう。

とにかく今は纏まったことを書くことは出来ない。
突然の報に少し驚いている。

一応先ずはそのツイッターがリンクしているこの記事から読んでいただければよろしいかと。

筆者はGTUでは「社会倫理/宗教社会学」領域で博士課程の学びをした。

博士論文(完成しなかった)はベラーの『市民宗教』概念を用いた日本の天皇制分析、また『アメリカ市民宗教』との比較研究になるはずのものだった。
それでベラー教授に博士論文コミッティーに入っていただいた経緯がある。


このビデオでも女性のインタヴュアーが『大統領のレトリック』と言って質問している概念(12分過ぎ辺り)が『市民宗教(civil religion)』のことだが、それにベラーが懐かしそうに答えている。

後はThe Immanent Frameのこのページが参考になるだろう。

ネットで読めるベラーの論文が集められているのがこのサイトだ。

今はこんなところだ。

R.I.P. Dr. Bellah!

2012年6月6日水曜日

オウム真理教への一視点

オウム真理教が教団として起こした一連の事件でもやはり1995年3月の「地下鉄サリン事件」は一番社会に与えた衝撃が大きかったのではないかと思う。
しかしそんな事件でも15年も経ってしまうといつの間にかその意義を考えたり、オウム真理教というカルト的宗教テロ集団の問題性をその背景とともに改めて見直したりする機会がないまま来てしまったのではないかと思う。

最近太田俊寛と言う方が

オウム真理教の精神史ーロマン主義・全体主義・原理主義

という本を著して、どのようにしてオウム真理教のようなカルト集団が出現したのか、その思想史的背景を「近代」の視角から分析・総括しようと試みている。

筆者はまだ入手していないのだが機会があれば近くの図書館に(無ければ)購入でもしてもらって読みたいと思っている。

さてそんなことを思っていた時に、たまたまNHKでオウム真理教を扱ったドキュメンタリー・リポートの番組を見た。

未解決事件2:オウム真理教 

番組を全部見たわけではなく、特に注意して見たわけでもないので、その感想を書くにして内容的に少々心もとないのだが、しかし一点どうしても気になったことがある。改めてショックを受けたと言うか戦慄を覚えたことである。

それは麻原彰晃と言う常識的にはおよそまともな宗教の指導者となるような器ではない人間の下に「エリート」と呼ばれるような教育的背景を持った者達が集められ、誇大妄想、荒唐無稽な宗教的言語に操られて、「終末的シナリオを持つ」弱小集団にはとても分不相応に巨大な反社会的テロ活動を構想しそしてそれを実行に移した、と言うことである。

番組中に明かされた事件の内容で特にセンセーショナルに響いたのは、オウム真理教の化学兵器工場で実に70トンのサリンを製造しようとした、と言うことである。その量は世界の総人口を上回る70億人殺せる量だと言う。
麻原と言う如何にも「小物」な人物が着手するには、余りにもアンバランスな巨大化学殺戮兵器製造計画ではないか。
その余りのアンバランスさと、小規模だったとは言え、そのような構想の下に首都直下の地下鉄駅でサリンがまかれた事実とは、何かシュールな感覚を覚えた。

翻って自らの所属する「宗教集団」であるキリスト教を遡って見ると、まだユダヤ教との区別が外側からは判明していない時、「道」と呼ばれ、「ナゾレアン」とか「クリスチャン」とか呼ばれていた原始キリスト教の時代、つまりペテロやパウロら最初の使徒たちが活動していた時代、彼らは外部者からは、「皇帝の勅令に背いて、『イエスと言う別の王がいる』」と 「世界中を騒がせてきた連中」と見られていた、とルカは述べている(使徒言行録17章6節、新共同訳)。

オウム真理教は事実「反社会的テロ活動」を実践したわけであるが、キリスト教はそのような負のベクトルに多大なエネルギーを注いだわけではないが、強いて共通点を言えばオウム真理教と同じように社会的に見て「弱小宗教集団」であった、ということである。

日本ではよくキリスト教は日本人口1%に満たないマイノリティーと言うが、原始キリスト教集団はもっともっとマイノリティーだったが、その孕んでいた「宗教的エネルギー」は「世界をひっくり返すような」と形容されたほど濃縮したものであったのだ。

日本のキリスト教の問題は「数の少なさ」ではなかろう。反面教師としての意味だがオウム真理教が引き起こした問題から考えれば、社会的インパクトは数の問題ではなく、世界に何を引き起こそうとしているか、その目的の明瞭さとその目的遂行のために全エネルギーを注入できる一徹さではなかろうか。
その観点から見る限り「数を問題にしている日本のキリスト教」は殆んど社会から相手にされる存在ではない。そんなキリスト教が多少人数が増えたとしても到底社会にインパクトを与えることはないであろう。

社会を根底から変革し人々の「生死を意義付ける」ほどの深い宗教性を持った宗教が欠落している時代にオウム真理教のような宗教団体が出てくるのが現代と言う状況だとすると、キリスト教が課せられている課題は並大抵ではないであろう。

2012年3月2日金曜日

対談ー日本の将来

このブログを暫く読み続けてきた読者は既にお気づきになったことと思うが、牧師である筆者が教会やその他のことを書く時にその知的根拠が殆んど(聖書は除いて)英語圏の知的産物に依拠しているのではないか、と言う疑念をお持ちではないか。
自分でもそのことは自覚しているつもりなのだが、キリスト教、特にプロテスタントが欧米の宣教の結果であり、その中でも北米や英国など英語圏の影響下にあることは否めないことは同意してくれるだろうと思う。

プロテスタントの牧師が訓練される場である神学校でも、日本でもあるいは留学でも、殆んど英語で書かれたテキストを基にして学んできたわけで、牧師になった後の学び(しばしば独学)でも英語の著書あるいはその邦訳書のお世話になっていることも今までのところ致し方ないところではなかろうか。

しかし、である。
このままでいいのか。

特に筆者のように買って読む本が洋書偏重と言うのは、伝道牧会の現場である「日本」に適用するには何とも足りないところがある、と感じている。
だからと言って新聞をよく読めといわれても最近の記事はなかなかすーっと目を通すだけで、じっくり読むまでには至らない。

そんな中ネットに接しブログをやっているおかげで、ネット上の「言論メディア」には少しずつ目を配るようになってきた。
洋書偏重の学びをいくらかでも補完してくれるのではないか、と淡い期待を持ち始めている。

今日たまたまある人のツイートで紹介されて読んだのが
平日開店ミシマガジン

平川克美と中島岳志の対談
「小商いの時代がやってきた」前編 
「小商いの時代がやってきた」後編
だ。

前編と後編に分かれているが、何やらあまり肩肘はらない、時にブレインストーミング的で、殆んど予定調和的な結論に落ち着かない(ここがいい)自由闊達なおしゃべりを繰り広げている。
滑り出しはちょっと「枠」を気にしている風だが、滑り出したあとはどこかカフェでの(周りで聞いている人に気兼ねなく)二人の談論風発調で面白く読めた。

ここに談論の内容はまとめないが、二人が日本の今の現実(人口減少、高齢化社会の政治経済の問題)をどのようにイメージし、将来に向けてどのようにこれと取り組んだらいいのか、リニアで近代合理的ではない、それでもある種の「モデル」を提示しようとしている、その様子が面白いと思った。


最近の記事で、カトリック教会の英神父や晴佐久神父の講演のビデオ・クリップから「色々学ばされた」ことを書いたが、キリスト教界人とはやはり大分違う言論姿勢が印象に残った。
言ってみればより「複雑系の思考」を大事にしている、肩から力が抜けた知的アウトプット、見たいな感じとでも表現しようか。

平川氏は内田樹氏とも大分対論しているらしいが、二人に共通しているのは日本語を何段レベルかで操る能力、と見た。
アカデミックな言語だけ使えるのではなく、もっと柔らかな言葉遣い、複雑系のことを平易な表現で伝達する能力とでも言おうか・・・。

まっ、何にせよ、ネット上でも有益な情報や言論に接することができるのはあり難い事だ。

2012年2月16日木曜日

混乱期を迎えるキリスト教への挑戦

右側のサイドバーにある「マイ・ブログ・リスト」には日本語のブログサイトが一つも入っていないが、いつも読ませていただいているブログに久保木牧師のきらきら探訪~ゆるりと生きる~
がある。
年齢は多分筆者より二回りくらい若いと思われるが、漫画などポップ・カルチャーに通じ、ソフトな切り口の読みやすい記事が多い。
しかし時に至極“お堅い”記事も書く、硬軟両方カバーするブログとお見受けしている。

さて一番最近記事「これからの経済、政治、宗教」に、
英隆一朗神父の「危機の時代におけるキリスト教の霊性のありかた」
を紹介している。
そして久保木牧師は、特に英神父が「現下の混乱期はファシズムを招来する」、との予測に反応して《橋下現象》や《ナショナリズム台頭》に繋げてご自身の感想を書いている。

最後にこういう風に結んでいる。 
ファシズムや原理主義を超えた確かな生き方、アイデンティティを伝えていく…
そんな時代からの挑戦に
わくわくしながら、向かっていきたいと思わされています。

まあ、ともかく、上記の動画をご覧いただければと思います。
いろんなブログ上で、
活発な議論がなされていく内容の深さがあると思います。
最後の「いろんなブログ上で、活発な議論がなされていく内容の深さがあると思います。」と言う提言に触発されてこの記事を書いているのだが、確かに現状分析、特に「危機面」「大混乱期」であることを色々具体的な事例を通して解説していて面白い。

久保木牧師も反応した動画の最後20分位のところを筆者なりにかいつまんでまとめると以下のようになる。
 実体経済が退潮し金融経済(マネーゲーム)に移行している。2008年のリーマンショックで資本主義経済の親玉であるアメリカの没落がはっきりしてきた。過去の帝国の衰亡論から見ても(マクロ社会的)危機的状況は明らか。(資本主義経済は親玉がいて成り立つ。)

資本主義によって無縁(地縁・血縁・社縁)社会が促進された。(良い面でもある)自由の代償。
自殺者も年3万人超だが、無縁仏も3万人超。

自然災害も世界的に見て増加している。

社会的混乱が深刻化し、民主主義が崩壊してファシズム国家が出現することが危惧される。そうなると宗教原理主義が出てくる。日本の場合は国家神道。
ワーキングプアが増えて仕事が低賃金外国人に奪われ、自己承認の根拠となる「学歴」も「仕事」も無くなれば、「国籍」が残るだけ。ナショナリズム台頭の温床となる。

こういう危機の時代に「伝統」の復活も起こる。「宗教の時代」が来る。キリスト教も仏教も神道も脚光を浴びる時代が来る。しかし今凋落傾向にあるキリスト教がこの時代にどんな備えが出来ているだろうか、が問題。
最近の二つの「キリスト教ブーム」(明治維新、第二次大戦後)を見ても、社会の混乱期はキリスト教のチャンスだ。
高山右近やキリシタン殉教者の姿勢から学ぶことが多い。
英神父の分析と予測はそれなりのバッグ・グラウンド・リーディングがあってのことだろうが、筆者の率直な印象は「ちょっと単純化された構図かな」である。
確かに人々は混乱期に「安心立命」を願って宗教を求める傾向はあるだろう。
しかしその宗教が「既成宗教」かと言うとそうとも言えないのではないかと思う。

英神父は同動画で「スピリチュアリティ・ブームはもう過ぎた」と言っているが、ポストモダン状況での「スピリチュアリティ」志向は一過的なものではなく、ポストモダンの宗教性の側面なのではないかと思う。
キリスト教を含めた伝統的な宗教はこのポストモダン霊性と並立して生き延びるのではないかと思うが、伝統宗教のどんな要素が混乱期の人々の求めるところとなるかは宗教団体側の考えていることと一致するとは限らないと思う。
多分に自分たちが再発見される側になる可能性もあるのではないか。
自分たちの気が付いていない、あるいはそれほど重要視ししていない側面に人々が「自分たちの必要な宗教性」を発見するかもしれないのではないか。

仮に英神父の予測が当たって「宗教の時代が到来し」、「キリスト教会が再発見される時代が来た」時、キリスト教会はどんな風にこの「混乱期のキリスト教への期待」を受け止めればいいのか。

これは多分に筆者の直感的印象だが、例えば多くの福音派教会を支配していると思われる「プラグマティック」なキリスト教は余り魅力的に映らないのではないか。

やはりある種の「トランセンデンス(超越)」を希求する「祈りの宗教」が人々の心の支えになっていくのではないか、と思う。
ポストモダン的な嗜好からすると「オーセンティシティー(真心から発している、心底掛け値なしの姿や内実)」が一枚絡んでくるのではないか、と思う。

カトリックや聖公会などのハイチャーチ的立派な祈祷文が「伝統」を反映して心の拠り所となるだけではなく、新しい祈祷文や賛美が必要になってくると思う。
それらの祈祷文や賛美歌は「軽いノリ」のものでは務まらず、人々の心の深さを探って証しするような、つまり人間の霊的部分を掘り下げるようなインパクトを持つ必要があるのではないかと思う。


筆者は久保木牧師のように「わくわくしながら」この時代の挑戦を受ける余裕はない。
「キリスト教ブーム」に果敢にチャレンヂするような宣教姿勢を持つ積極性もない。
ただ時代がどう動いても「ぶれない」キリスト教を模索していきたいと思っている。

さて誰か久保木牧師の提言を受け止めて、このテーマを別のブログで掘り下げて頂ければ楽しいのだが・・・。

2011年12月15日木曜日

権威と服従

最近「ガバーナンス」とか「コンプライアンス」と言う語がよく使われている。

目立った事件としては巨人の球団代表兼GMだった清武氏と読売トップの渡辺氏の人事を巡る対立が訴訟合戦に発展している。
またオリンパスの巨額損失隠しのために取った違法行為。

前者の場合は組織防衛のための脱法行為と言うより人事権を巡る確執と越権行為の面が強そうだが・・・。

オリンパスの問題は大手メディアのおかげで最近一般大衆に認知されるようになった教会の不祥事問題とその隠蔽体質が相通ずるような観がある。
筆者のこれらの問題に関する知識は至って初歩的なものだが、いかなる組織も権威と統治の問題は避けて通れないと思っているので、会社であれ教会であれ「組織の権威と統治をいかに運用するか」に関して注意深く思慮深くなければならないと思っている。

オリンパスの巨額損失隠蔽は歴代の社長が関与していたらしいから、企業倫理に対するコンプライアンスより自社の組織防衛が優先された、と言うことになる。

最近の教会不祥事事件として(悪)名高い「卞在昌(ビュン・ジェーチャン)」事件は刑事事件としては無罪で終わってしまったが、ネットで情報を収集する限り、司法の問題としては別に教会も一組織として牧師と言う教会組織トップの不祥事に対して組織防衛的隠蔽体質が浮上していた問題のように思う。

オリンパスの場合よりも(一般的)牧師不祥事事件により共通するのは大王製紙会長のケースだろう。
社内的に創業家会長一族には「何も言えない」雰囲気があったと言う。
ナベツネさんもそうらしいが権威を帯びると「威圧的な物言い」で周りの人を有無を言わせず服従させる雰囲気を作ってしまうようだ。

牧師の場合は自己の権威を「王権神授説」ではないが神からの直接の権威と勘違いする傾向があるらしい。
普通の牧師ならなかなかここまで図々しくなれないだろうが、教会を大きくしたり、多くの教会員を獲得して「成功した」と自認・自慢するようになると、このような勘違いからはそう遠くない危険水域に達するようだ。
そして一旦そのような威圧的言動や行動に対して周りが黙認するようになるとますます抑制が効かなくなり、その組織内で力関係が下の者に対し自己の役職を越えた要求をしたり服従を求めたりするようになる。
パワハラやセクハラはそう言った「役職外れの権力の濫用」として現れる。

イスラエルの民は周囲の国から度々脅威に晒されることによって、彼らと同じように王を立てることを欲した。
預言者サムエルは本意ではなかったが彼らに王政を敷くことを許した。
しかし王がどのように強権を発動するのかを予め示し、更に王が従うべきルールを与えた。

パウロは「すべての権威は上からのもの」であるとローマ書13章で言っている。

すべからく人の上に立つ者は上から与えられた権威の範囲とその権威の為すべき役割とを知り、自制の徳を持たなければならない。

言うのは簡単だが「適正な権威の範囲」を超えたかどうかを判断するのは実は非常に難しい。
それは「権威と服従」は個々の文化でかなりな程度固定されていたのが社会の変化によってその線が流動的になっているからである。

参考までに最近読んだブログ記事でその辺のことを取り扱っているものを紹介しよう。

①女性と男性と言うジェンダー間での「権威と服従」の線引きが変化している。
「足蹴にされている/踏みつけられている」
「踏みつけられている妻について」(以上、上沼昌雄先生のブログ)
"...your daughters will prophesy" (レイチェル・ヘルド・エバンスのブログ、右コラムにもリストされています)

②もう一つセクハラ関係では、(恐らく)温厚で慎重な物言いのラリー・フルタド氏が、つい先だって開かれたSBL(聖書学会)の間、二人の女性教員から、別々の機会に、学生時代著名な聖書学の教授たちからセクハラを受けたとの告白を聞いた、と述懐し、非常に遺憾であり、同僚(同業者)としてこのようなことがあってはならない、と強い口調で発言している。
Disturbing Reports and Troubling Questions

少々雑駁な文章になってしまった。また機会があったら考えてみたい。

2011年11月17日木曜日

繋ぐ

「ボストン便り」と言うブログがある。
ハーバード公衆衛生大学院研究員という肩書きを持つ細田満和子さんという方が書いているブログで、専門である「医療社会学、生命倫理、患者運動、医療政策、国際保健」などについて時々レポートをされている。

以前「健康への権利・健康への義務(1)」と言う記事を読んでコメントを書いて以来ツイッターでフォローしている。
もともとはツィッターでフォローしていた東大教授の山脇直司氏のツイートに細田氏のことが書かれていたのに関心を持ったのが始まりだが。


先日大野更紗さんの「困ってるひと」について記事を書いたが、難病を抱えた人が必要な医療や介護補助を受けるために、それこそ死に物狂いで資料を揃えて提出しなければならない、と言う苛酷な状況を大野さんはリポートしていた(右コラムの「マイ・ブログ・リスト」参照)。

制度の狭間に落ち込んで苦しんでいる人は様々いるに違いない。

細田さんはここ数ヶ月の活動を一気に5つの記事にまとめている。

制度と現場のコンフリクトを越えて―さまざまな立場を繋ぐ役割(1)

制度と現場のコンフリクトを越えて―さまざまな立場を繋ぐ役割(2)

医療者と患者の協働で医療を変える ~慢性疲労症候群/筋痛性脳脊髄炎(CFS/ME)~

ポリオの世界の今

筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群(ME/CFS)への挑戦

標題の「繋ぐ」はこれらのレポートから垣間見れる細田さんのような働き、あるいは細田さんが提案している、実際に疾病を抱えた人、医療従事者、それをサポートする行政や同じ病に苦しむ人たちのサポートグループが連携して「救済」を構築する必要から考えさせられたことである。

10月23日(日)に東大駒場キャンパスで開催された、「ともに挑もう!慢性疲労症候群(CFS)」と題する上映会とシンポジウムも、この病にかかり一人で苦しんでいた篠原さんと言う方が、一念発起して患者の自助グループを立ち上げ、働きかけてきた努力の結果であることが指摘されている。

病を抱えながら泣き寝入りに終わらず、アクションを起こす勇気と粘りに頭が下がります。

また細田さんがその篠原さんの言葉を以下にまとめているように、社会の側が障壁を作っていること自体が「障害の本質」に関わるとは、大野さんのケースにも通じることのように感じられます。

篠原氏は壇上で、終始ストレッチャーに横たわったままでしたが、シンポジウムを締めくくる言葉として、患者一人一人がチャレンジして変化を起こそう、と 強い志の感じられる宣言をしました。機能障害や疾病を有する人々の障害の本質とは、様々な社会への参加を妨げている社会的障壁にほかならず、機能障害や疾病を持つ人々を排除しないようにする義務が社会、公共にあることが確認される必要があります。病気を持つ人々の社会参加を排除して、適切な支援を実施しな い社会の側が障害の原因であるという障害把握の転換を明確化する必要があります。篠原氏はこのことを、身を持って証明してくれているのです。だからこそ、 応援したいと思う人が周りに集まり、メディアも高い関心を寄せているのでしょう。

 この「繋ぐ」と言う働きを患者自身の自助努力に任せているだけで良いのか、と言うことを考えさせられます。
社会の中に「共に痛む」と言う心がなければならないと思わせられます。
また「繋ぐ」働きをするファシリテーターのような専門的人材も高度高齢者社会に向けてますます必要になってくるでしょう。
でも肝心なのはやはり様々な痛みや困難を抱える人たちに繋がろうとする普通の人々の心ではないかと思うのです。

2011年11月3日木曜日

70億人

2011年10月31日に世界の人口が70億人を越えた、と話題になっている。

テレビのニュースではこの日に生まれた子は70億人目として認定されるそうだ。

一応「お祝い」の雰囲気のニュースとして流れているが、このような人口「爆発」は様々な問題を呼び起こすことは大分前から考えられていた。例えば1972年に出されたThe Limits to Growth。

経済成長を支える資源問題、食糧問題、それから最近とみに注目されているのが「水」資源の問題だ。

日本はと言うと人口減少から経済縮小が予想され、別なセットの問題が予測されているが。

創世記には「産めよ、増えよ、地を満たせ」とあるが、現在の人口問題から見るとその限度は既に大分前に越えているから、21世紀の文脈では「世界を管理する」方が大きな意味を持っている。

3.11以降「地球温暖化」のようなグローバル問題は一時視界から外れている感じがあるが、とにかく今の時代グローバルな問題は増えるばかりのような気がする。

そんなこんなを考えていたら、7 Billion Actionsと言うサイトがあった。国連関係組織ということらしいが、この「危機」に対して二つの目標を立てている。
  • Building global awareness around the opportunities and challenges associated with a world of seven billion people.
  • Inspiring governments, NGOs, private sector, media, academia and individuals to take actions that will have a socially positive impact.
二つ目のところに「個々人」もとあるように、政府や関連組織だけでなく普通の人もこの課題に関心を持って行動するよう働きかける、と言うことなのだろう。つまり世界の人々がこの問題を共有することが目指されている。
「70億人行動」と言うキャンペーンは特に7つの問題に焦点を絞っている。
  • Poverty and inequality;
  • Women and girls empowerment;
  • Reproductive health and rights;
  • Young people;
  • Aging population;
  • Environment;
  • Urbanization.
先進諸国での人口増加はほぼ頭打ちだと思うが、発展途上国での人口増加に伴うニーズは上に掲げた問題だけでも大変なものになるだろう。
教育による人材育成も少しはこのような問題を意識して為される必要があるだろう。

などと書いてみたが、やはり問題が大き過ぎて何をどう考えたらいいのやら・・・。

2011年7月18日月曜日

スポーツの意義

女子ワールドカップ・サッカーで日本チームが快進撃し、ついに優勝した。

先ずは選手たちに「おめでとう」と言いたい。

粘り強く自分たちの力を信じて最後まで走った。
延長でも勝負は決まらずPK戦に。
もうどっちが勝っても両チームとも称えられるべきだと思うが・・・。
そこはやはり優勝戦。勝負を決しなければならない。

(牧師が言うのもなんだが)勝負の女神は日本に微笑んだ。
試合前半あれほど圧倒していた米国が負けるなんて、勝負って分からないもんだね。

ところで日本の選手たちも言っていたが、大震災に遭った日本国民を励まそうと言う気持ちが試合に出ていたのかもしれない。
試合後の感想にも日本選手のメンタルの強さを言っている論評があったが、そのことと関連しているのだろう。
敗れた米国チームも、敗れるんだったら日本チーム、と思っていたそうな。

ところでスポーツと言うと、個人の戦いにしろ、チームの戦いにしろ、ワールドカップやオリンピックでは「国を背負う」と言うことが出てくる。
選手たちもそうだろうが、国家の方が国威発揚や政治的な目的でスポーツ強化に乗り出す場合がある。
スポーツに「国」を持ち込むのはある面「本当の戦さ」をしない平和な姿を現す、と言えるかもしれない。

だが近代オリンピックが国家的な枠組みで発展してきたのに比べると、その発祥である古代ギリシャではスポーツはどんな意義を持っていたのか。
本来は競技者自身が互いに競うことによってその競技の技術と力を優れたものにする、高めあう意義があったはずである。

その近代オリンピックも国威発揚だけでなく、お金を稼ぐためとか、有名になるとか、自己実現的意義もおびるようになった。そのためならドーピングも厭わない風潮も出てきたわけである。

今回の「なでしこジャパン」の快進撃には、精神的に国民を励ます、と言う意味で違った意義を帯びていた。それを他国の人々も理解して日本チームを応援したのだろう。

ところで例によってまた石原都知事が「なでしこジャパン」の快進撃に引っ掛けて「如何なものか」発言をしたと伝えられている。
18日の朝日新聞の「都知事発言」コラムに、石原氏が15日の定例記者会見でこんな発言をしていたらしい。
「(中略)とにかく最後に、アメちゃん(米国)にだけは勝ってもらいたいな。そうしたら、やっぱり日本人は溜飲下げるよ。
(中略)俺なんか古い人間だから、65年の遺恨って言うのがあるわけだよ、戦(いくさ)に敗れてからの。君ら、全然痛痒を感じてないだろうけどさ」
こんな風に見られるのはスポーツをする側にとって迷惑な話だろう。確かに「なでしこジャパン」は自分たちのためにも戦ったが日本国民のためにも戦った。
だけどそれは過去の戦争の遺恨などとは全く関係のない「国を思う思い」であったはずだ。
サッカーボールを挟んでフェアプレーした両国の選手たちにとってもそれは代理戦争などではない。勝負が終わってお互いの健闘を称え合うのが選手たちにとっての意義深い交流ではないか。

そんな選手たちの気持ちを考えると、やはりこの都知事発言はまたもや失言と言わざるを得ない。

世界一になったことは確かに素晴らしいが、その戦い振りがスポーツの持つ爽やかさと解放感と勇気を多くの人々にもたらしたことを賞賛したい。

2011年4月6日水曜日

安全の構築

先ポスト「原発問題とどう向きあうのか」の続きのようなものです。

その文章で「使用済み核燃料の管理の問題」が一番引っかかる、と書きました。
もともと科学的知識が足りないので、今回の東京電力福島第一原発事故に端を発した「放射能汚染危機」が時間を追ってどの程度深刻になっているかの客観的な判断も出来ません。
ただ原発の「安全」というものが実際にどのように担保されていたのか、という事の脆弱性は自然災害(地震、津波)と人為的対応(危機の深刻さの把握、初動対応の遅れ、地域住民に対する安全確保、など)の両面で十分目の当たりにしたように思います。

それで改めて「安全の構築」と言うことを考えてみました。
文部科学省による「『安全・安心な社会の構築に資する科学技術政策に関する懇談会』報告書」と言うものがあります。
この報告書は、社会を脅かす様々な危険・災害・リスクに対して科学技術的見地からどう言う施策ができるかを分析検討しています。
一応目を通してみましたが、十分常識的で包括的な視野で検討されていると思いました。

原発事故はどのような位置づけになっているかと言うと、『大分類』中の『事故』に分類され、『中分類』 中の一つとして「原子力発電所の事故」となっています。(分類表)
ちなみに同列に置かれている「事故」には、「交通事故」「公共交通機関の事故」「火災」「化学プラント等の工場事故」などがあります。

『報告書』の第一章「検討の背景と目的」では以下のようなことが述べられている。
(2)安全・安心に関する我が国のこれまでの状況
安全・安心に関して、我が国がこれまでどういった状況であったかについて考えてみたい。
まず、総論として、我が国では社会生活一般において、安全について深く考えなくとも、一定レベルの安全・安心が得られてきたことが挙げられる。これは、 同質性、相互扶助の精神といった日本社会の特性、戦後獲得した高い経済力や比較的小さな所得格差、国際的協調の枠組み等の恩恵であろう。
次に、安全・安心に対する国民の受け止め方については、ある程度の安全が得られてきたことを背景に、安全は自ら努力せずとも与えられるという受動的な態度と、災害や事故に遭遇してもそれは運命もしくは宿命であり、やり過ごせば自然と復旧するといった「宿命論」ともいうべき考え方が歴史的に存在する。この ような安全への受動的な態度と危機に対する「宿命論」的な考え方が妨げとなって、訪れた危機への対応を経験として蓄積し防止策を見直す、危機に対して2 重・3重に防御策を講じる、といった危機管理体制が我が国には根付きにくくなっている。
この観察が現在の危機をどれだけ正確に描写しているだろうか。
放射能汚染の拡散が報じられた時、在日外国人が急遽国外退去したり、遠隔地に退避したりしたのに対して、日本人の多くは不安を持ちながらも極めて受動的だった、と言えるのではないか。そういう点では結構当たっている様に思う。

この『報告書』に関し、牧師と言う「一宗教家」として興味を持ったのは「安全」「安心」がどう定義されているか、であった。
1 安全とは 
安全とは、人とその共同体への損傷、ならびに人、組織、公共の所有物に損害がないと客観的に判断されることである。ここでいう所有物には無形のものも含む。
1安心について 
安心については、個人の主観的な判断に大きく依存するものである。当懇談会では安心について、人が知識・経験を通じて予測している状況と大きく異なる状況にならないと信じていること、自分が予想していないことは起きないと信じ何かあったとしても受容できると信じていること、といった見方が挙げられた。
さて今回の東京電力福島第一原発事故の場合この定義から言うとどうなるだろう。

①『安全』の破られ方
原発は発電所設備の損壊は勿論、人的、環境的、また東京電力という大会社の信用と言った無形のものも含む。しかし最も大きな損傷は「原子力発電によるエネルギー政策に対する根本的疑義」と言う政治社会システムへの損傷だろう。
現在の危機がいつ収束するか不明だが、「原発はクリーンで安全なエネルギー」と言う社会的信頼は大きく揺らいだ。今後根本的な見直しは必至だろう。

②『安心』の破られ方
放射線漏れによる「大気汚染」「水道水汚染」「野菜・魚など食品汚染」に対する安心の度合いは人によって幅があるみたいだ。過剰に(?)に反応する人もいれば、普段使われない数値で「安全」範囲を言われてもよく理解できないので、一応(?)政府や専門機関の指導・指示を信じている人も多い。ただ異なる様々な「安全」「危険」情報に対する反応を見ていると非常に揺れていて、不安が拡大・拡散する可能性はあるように思う。
ツイッターと言う限られた社会空間での観察だが、これだけの大災害が及ぼした心理的動揺はかなり長い期間収束しないと推測される。

他人事のようなポストになってしまったが、「安心立命」を担うべき宗教者の連携・ネットワークはかなり限定的に見える。
キリスト者として被災者の痛みを幾分かでも分かち合いつつ、先ずなすべきことは祈りとみことばの宣教と思う。たとえそれが内向きで無力な行為に見えても。



、

2011年4月4日月曜日

原発問題とどう向き合うのか

現在進行中の危機、東京電力福島第一原発の問題は、原子力発電が一旦「想定外」の事故を起こした時、どこまで深刻化するかを見せつけている。

筆者は原発推進論者でも原発反対論者でもない。
ただ直観的に「原発はもう要らない、安全ではない」と思ってきた。
たまたま遺産として譲り受けた東京電力株の株主総会で、マイノリティーの「原発反対グループ」の対案に賛成票を投じてきたことくらいがせめてもの意思表示であった。

現在深刻化する問題の中で多くの国民は「原発」に対しこれまでにない恐れと不安を抱いていると思う。
近年報道された原子炉事故は幾つかあるが、人々の危惧は一過性でしばらくすると関心から消えて行ったように思う。
しかし今回は未曾有の自然災害と同時並行で深刻な事態となったため、国民の原発に向ける厳しい目は一気に沸騰した観がある。当然といえば当然だが。

東日本大震災以来毎日目を通すツイート(ツイッターのメッセージ)は日増しに原発に関するものに集中してきているような感じがしている。(筆者がフォーローしている数はほんの少しなのでその印象は限られたものだが。)

毎日これを読め、あれを読め、新たな放射線測定値だ、東電の会見の様子だ、などなど。
なるべく目を通すようにしているが、改めて「原発問題とどう向き合うのか」を考えさせられている。
直感的には「ノーモア原発」なのだが、政治的選択としてはどうなのか。今回の事故による政権及び東京電力の不始末、対応のまずさ、処理能力のなさだけで決めてしまっていいのだろうか。

既に結論ありきとしても冷静に考えて検証しておくべきことが沢山あるのではないか。
そういうものを一つ一つ拾いながら「改めて考えていく」ことが求められているのではないだろうか。

①「安全」という“ことば”を具体的に担保するものは何か
原子力の平和利用としてその危険を認識しながら構築されたとする二重三重の安全対策はどうだったのか。
「東京電力福島第一原発の何が問題だったのか」
「福島原発は欠陥工事だらけ」
「原発がどんなものか知ってほしい」
「(動画)原子力保安院の大ウソ暴露(関東エリア未放送)
これらの文書やビデオが総じて指摘するのは、安全を保障し監視する側の「ことば」「設計」「手続き」「約束事」が机上のものであるということ。
実際は高レベルに複雑な施設を施工管理し運営するにあたって人為的なミスが当然の如く起こるが、それを修正したり改善したりするシステムが脆弱らしいということ。

②原発は民主政治の政治的選択の対象なのか
例えばツイートの中にこんな提言があった。
「現下東京電力の株価は449円。100株買って株主総会で原発推進をストップさせることも夢じゃない」
「原発を国民投票に」

ドイツでは原発推進反対デモに25万人が参加したという。(ウイキ)
日本の現状を考えると、今回の事故で情報開示が不十分と感じられる背景には、原発が国家と電力会社の専権事項的な意識が強いのではないか。
民主的な統治の対象として構想されていないことがあるのではないか。

③最も気になること
今回の事故で改めて思い知らされる事となった事実の中で最も気になったのは多量の使用済み核燃料の管理の問題。
これは国債を発行して赤字財政を継続し、結果として多額の債務を後々の世代に負わせることと似ている。
東京で賄う電力を他県の過疎地で調達し、原発の危険をひとまかせにすること自体問題だが、使用済み核燃料処理がちゃんとできるかどうかの確認は現在電力の恩恵を受けている私たち世代では検証できないほど先のことである、という問題。これが最も引っかかる。
原発をたとえ今安全に運転できたとしても、その後始末まで自分たちで保障できないエネルギー技術は持続可能(サスティナブル)なのか・・・。

原子力の科学技術と真摯に取り組んでおられる方々は多いと思う。
今回の事故でも独自に大気中の放射能測定して発表してくれた研究機関の方々がおられた。
だから今回の問題の根幹は国のエネルギー政策という事になるのだろう。
国民一人ひとりが原子力に対する正しい科学的知識を持ち、果たしてその平和利用の範囲はどこまでか、と叡智を集めるときではないか。

以上科学的知識に乏しい一市民の戸惑いつつ感じたことをまとめてみた。