2011年12月15日木曜日

権威と服従

最近「ガバーナンス」とか「コンプライアンス」と言う語がよく使われている。

目立った事件としては巨人の球団代表兼GMだった清武氏と読売トップの渡辺氏の人事を巡る対立が訴訟合戦に発展している。
またオリンパスの巨額損失隠しのために取った違法行為。

前者の場合は組織防衛のための脱法行為と言うより人事権を巡る確執と越権行為の面が強そうだが・・・。

オリンパスの問題は大手メディアのおかげで最近一般大衆に認知されるようになった教会の不祥事問題とその隠蔽体質が相通ずるような観がある。
筆者のこれらの問題に関する知識は至って初歩的なものだが、いかなる組織も権威と統治の問題は避けて通れないと思っているので、会社であれ教会であれ「組織の権威と統治をいかに運用するか」に関して注意深く思慮深くなければならないと思っている。

オリンパスの巨額損失隠蔽は歴代の社長が関与していたらしいから、企業倫理に対するコンプライアンスより自社の組織防衛が優先された、と言うことになる。

最近の教会不祥事事件として(悪)名高い「卞在昌(ビュン・ジェーチャン)」事件は刑事事件としては無罪で終わってしまったが、ネットで情報を収集する限り、司法の問題としては別に教会も一組織として牧師と言う教会組織トップの不祥事に対して組織防衛的隠蔽体質が浮上していた問題のように思う。

オリンパスの場合よりも(一般的)牧師不祥事事件により共通するのは大王製紙会長のケースだろう。
社内的に創業家会長一族には「何も言えない」雰囲気があったと言う。
ナベツネさんもそうらしいが権威を帯びると「威圧的な物言い」で周りの人を有無を言わせず服従させる雰囲気を作ってしまうようだ。

牧師の場合は自己の権威を「王権神授説」ではないが神からの直接の権威と勘違いする傾向があるらしい。
普通の牧師ならなかなかここまで図々しくなれないだろうが、教会を大きくしたり、多くの教会員を獲得して「成功した」と自認・自慢するようになると、このような勘違いからはそう遠くない危険水域に達するようだ。
そして一旦そのような威圧的言動や行動に対して周りが黙認するようになるとますます抑制が効かなくなり、その組織内で力関係が下の者に対し自己の役職を越えた要求をしたり服従を求めたりするようになる。
パワハラやセクハラはそう言った「役職外れの権力の濫用」として現れる。

イスラエルの民は周囲の国から度々脅威に晒されることによって、彼らと同じように王を立てることを欲した。
預言者サムエルは本意ではなかったが彼らに王政を敷くことを許した。
しかし王がどのように強権を発動するのかを予め示し、更に王が従うべきルールを与えた。

パウロは「すべての権威は上からのもの」であるとローマ書13章で言っている。

すべからく人の上に立つ者は上から与えられた権威の範囲とその権威の為すべき役割とを知り、自制の徳を持たなければならない。

言うのは簡単だが「適正な権威の範囲」を超えたかどうかを判断するのは実は非常に難しい。
それは「権威と服従」は個々の文化でかなりな程度固定されていたのが社会の変化によってその線が流動的になっているからである。

参考までに最近読んだブログ記事でその辺のことを取り扱っているものを紹介しよう。

①女性と男性と言うジェンダー間での「権威と服従」の線引きが変化している。
足蹴にされている/踏みつけられている
踏みつけられている妻について」(以上、上沼昌雄先生のブログ)
"...your daughters will prophesy" (レイチェル・ヘルド・エバンスのブログ、右コラムにもリストされています)

②もう一つセクハラ関係では、(恐らく)温厚で慎重な物言いのラリー・フルタド氏が、つい先だって開かれたSBL(聖書学会)の間、二人の女性教員から、別々の機会に、学生時代著名な聖書学の教授たちからセクハラを受けたとの告白を聞いた、と述懐し、非常に遺憾であり、同僚(同業者)としてこのようなことがあってはならない、と強い口調で発言している。
Disturbing Reports and Troubling Questions

少々雑駁な文章になってしまった。また機会があったら考えてみたい。

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