2011年12月18日日曜日

トラウマ、って言ってしまったけど

今日クリスマス礼拝の後のこと、ある方とお話をしていてたまたま筆者の小学生時代の体験を語ることになった。
そのことを「トラウマ」と表現してしまったのだが、今になってトラウマという表現を軽く使い過ぎてしまったと今思い直している。

その体験とはこう言うものである。
(予め注意しておくが自慢話をしようというのではない。ただそういう流れの話ということで聞いてもらいたい。)

小学一年生の時の事であった。
学芸会の出し物で「さるかに合戦」の劇をやることになった。
最初に(幕が開く前に)劇の紹介をする生徒を選ぶことになったのだが、そのためにオーディションが持たれた。
用意された文章を先生の前で読み上げるのだが、どう言う訳か筆者が選ばれた。
恐らく声の大きさや、恥ずかしがらないで出来る度胸の良さとか、そんなことが要素になったのだと思う。

こう言うのもなんだが筆者は天真爛漫な方で、人前で一人で何かをやる、と言うことに殆んど自意識とか恥ずかしさとか(当時は)持ち合わせていなかったようだ。
練習でも、本番でもあがったり心配になったりと言うことが微塵も感じられなかった。

まっ大事なのは本番でのことなのだが、学芸会当日体育館一杯の生徒と親たちの前で「堂々と」「朗々と」、つまり余りにも見事にやってのけたようなのである。
本人はそのことを殆んど自覚していない。
自分が何かを見事にやったと言う自覚はなかったのである。

大分後になって親や姉妹から「あの時の劇の紹介が如何に聴衆の度肝を抜くほどのものであったか」を話してもらっても、いかんせん自分の中では「ふーん」と言う記憶しかないわけである。

ところで問題はその余りの自分の無自覚さである。
学芸会が終わって間もなくのことであったと思うが、たまたまお便所で用を足していると、自分の横で用を足していた身も知らない上級生(多分五六年生位であったろう)から、「あー、お前、あのサルと蟹は・・・やっただろう」と声をかけられた。
このことで筆者ははたと自分は「他人にインパクトを与えるようなことをやってしまった」と言う、何と言うか「しまった」と言うネガティブな印象を持つことになったわけである。
「へえー、上級生が一年坊主の俺のことを覚えていて声をかけてくるほど俺は大したことをやったのか・・・。えへん。」とは真逆の感情的反応を持ってしまったのである。
これが筆者の心にぐさりと刺さり、「もう二度とこのようなことはやるまい」みたいな覚悟を持ってしまったのである。

実際その後は劇とか人前で何かをやることには拒否反応を持つようになった。
多分大学生になる頃まで続いたのではないかと思う。

さて長いイントロになってしまったが、この体験を「苦い思い出」くらいに言っとけばよかったものを、咄嗟に「トラウマになっていて」と言ってしまった。
普段ことあるごとに教会員(筆者より少し年齢が上の方々)とは、「最近の子どもたちはいじめや何やらで傷つき易くなっているのじゃないかねー。
昔(自分たち)はもうちょっと喧嘩やいじめがあっても年長者が諌めたり仲を取り繕ったりして、心に傷がつくなんてことにならなかったように思うんだけどねー・・・。と話していた。
そんな時「トラウマ」なんて言葉でなんでもかんでも子供たちの心の傷の体験を表現するのはちょっとどうかねー。ちょっと過保護すぎやしないかなー。などと話していたのだった。

トラウマとは「心的外傷」とも呼ばれ、簡単に克服できない体験のことを指す、と説明されている。
かなり重症なケースに使われるべき言葉ではないかと思う。
筆者の体験など「トラウマ」などと言うにはおこがましい、誰にでも一つや二つあるような身近なものであった。それなのに今日の会話で、つい「トラウマ」と言う語を使ってしまったことは不用意だった。

今年は東日本大震災があった。
まさに「トラウマ」のような体験をした子どもたちや大人たちが多くいるに違いない。
そのような方々の体験を表す言葉を自らが軽々しく使ってしまったことを恥ずかしく思う。

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