2015年11月29日日曜日

(4)タカ牧師のセブンー6

何と最後に「タカ牧師のセブン」を投稿したのは三ヶ月以上も前でした。

その間「候補記事リスト」はたまるばっかり。

でも少しずつ在庫整理するしかない。


1. The Problem of Irrational, Unteachable Christians
  『頑固でわからずやのクリスチャン、という問題』

 PATHEOSというブログを集めたサイトがあるのだが(右側コラムで言うとジーザス・クリードとかユーアンゲリオン)、同じ「福音派」カテゴリーにあるのがロジャー・オルソンのブログだ。カリスマ派の出自で、カルヴィニズムに対抗する論陣を張ることで知られる。
 日本では今年「反知性主義」が話題になったが、クリスチャンの中でオープンな議論を頑固に拒否して持論に居座り、馬鹿馬鹿しいと非難されても一向に構わないようなタイプの人たちのことを論じている記事。

2. Fundamentalists and Scholarship
  『根本主義者と学術研究』

 これも上と同じサイトにあるジェームズ・マグラスのブログ記事。
 熱心で敬虔なクリスチャンの中には「聖書の学術的研究など必要ない。自分はただ聖書を読むだけでいい。」などとうそぶく向きがあるが、その見識の浅はかさを「図」を用いて解説しているところが味噌。(誰か日本語に置き換えてくれないかな。)

 (『根本主義者がいかに学術研究に依存しているか』を示す図)

3. Chagall's Jewish Jesus
  『シャガールが描くユダヤ人イエス』

 ハシディック派ユダヤ人であるシャガールの絵画を解説している(動画)。
 ナチ政権下の1938年、シャガールはユダヤ人イエスを描くようになった。「ユダヤ人迫害は実のところクリスチャンの迫害に等しい。彼らのイエスはユダヤ人だから。」と絵画で訴えたのだ。

4. Are We Mormons a Cult?
  『モルモンってカルトなの?』
 モルモン教のライターは昔バプテストの信者との会話の中で「カルト」呼ばわりされたことがある。では、「カルト」とは何か・・・ポイントを挙げながら、該当する点、該当しない点、を整理してモルモン教がカルとではないことを弁明している。

5. 102-Year-Old Finally Awarded Ph.D. She Was Denied Under Nazis
  『102歳で、ナチ政権下で中断させられた博士号をついに取得』

   すごいです。もちろん視力等衰える中、仲間の助けもあり、オンライン情報を駆使して完成。取得の挨拶では「私のようなことをナチのために断念させられたりした方々のためにも」とその喜びを語っていたそうです。

6. 「相手の心に刺さる言葉はどう選ぶか

 心に刺さるコトバは、ツイッターでフォローする某キリスト教雑誌編集長が使っていた表現で気になった。で、グーグルしてこの記事に。

7. 「井上達夫『リベラルのことは嫌いでも・・・』を読んでしまった

 イスラーム研究がご専門の池内恵(さとし)東大教授のブログ記事。同じく東大教授の法学研究者井上教授へのオマージュを込めた著作紹介読書暦を綴っている。


2015年11月28日土曜日

明日の礼拝案内

待降節第一主日礼拝

2015年11月29日(日) 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 1:1-11
説 教 題 「父がお定めになった時」
説 教 者 小嶋崇 牧師

教会史遡行(10)
 迫害から国教へ(2世紀から4世紀のキリスト教会)

2015年11月26日木曜日

(4)『霊性』を神学する 1

昨今「霊性」とか、より一般的には「スピリチュアル」とか、すなわち人として生きるときの「内面的生活」の充実が宗教的な伝統から省みられる動向がある。

教会に通う信徒の場合はそれほど意識しなくても、なにがしかの自覚はあると思う。

さらに「熱心なキリスト者」の場合はこの取組みをより自覚的に追求する。聖書を読んだり、祈ったり、いろいろ霊想書を読んだり、いわゆる「デボーショナル」と呼ばれる「個人的敬虔」を訓練するわけである。

筆者はプロテスタントの中で「パイエティズム」と「リバイバリズム」の伝統の強い流れの中で信仰を育まれたのであるが、この年になってその「内面的生活」が様々変化してきたように思う。

どちらかといえば「変わらない」ことが望ましいのであろうが、変化についても積極的に評価できる場合があるのではないかと思う。

そんなことを反省するために、極めてランダム(そしていつもの如く気まぐれにであるが)随想的に「内面的生活」の神学的反省を綴ってみたいと思う。

名付けて「『霊性』を神学する」

別に参考とする本や人物もない。ただこれまでの体験的蓄積を基にして書きつけていこうと思う。(その中には多分に読書や人物観察からくるものがあるだろうと予想する。)

第一回目は「霊性」の定義について。

思いついたポイントは、二千年の教会史の、その時代・時代の異なる(模範的あるいは典型的)「キリスト者生活」をどのようにすれば概観できるか、という問いから出てくる「霊性定義」の問題、を取り扱おうと思う。

※以上のことから明らかなように、この「神学」的よれよれ文章は試論も試論、いや試論の序論程度のものであろう。恐らくその域を出ることは先ずない。

さて、霊性をどのように定義したら二千年の様々なスタイルのキリスト者の内面的生活を、一つの視点から眺めることができるだろうか。

念頭にあるのは4世紀、キリスト教が国教となり「殉教者」という「理想」が非現実的になったときに出てきた「砂漠の荒野への隠遁」による「修道生活」を一方の極に持ち、もう一つの極に宗教改革後の「万人祭司」神学による「世俗内召命」、すなわち「職業従事それ自体が神への奉仕である」という、二千年の歴史の中で二つの対極的なアプローチを眼下に納めるという課題である。

それで試みに、霊性を次のように定義してみることにする。
霊性とは、「生活の深みに達する実践的宗教の訓練(ディシプリン)」のことである。
これを用いて「教会史的発展」を順を追ってまとめると以下のような概略が得られる。
(1)垂直的(神への信仰)なものと、水平的(隣人への奉仕)なものとが「固く噛み合っている(分離していない)」あり方・・・モーセの十戒、トーラー・律法、預言者の社会正義観、山上の垂訓、「律法の要約」、などに現れているものと捉えることができる。
(2)修道的生活、瞑想、神との合一
(3)神秘主義、観想的生活
(4)奉仕と宣教の修道(フランシスコ)
(5)脱修道、宗教改革者ルター
(6)世俗内禁欲、職業の宗教化(カルヴィニズム)
※およそラフスケッチなので、これから論をどうするかまでは考えていない。そのうち展開が見えたら続きを書くことにしよう。

2015年11月21日土曜日

明日の礼拝案内

収穫感謝 主日礼拝

2015年11月22日(日) 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 14:8-18

説 教 題 「生長を祝福する神」
説 教 者  小嶋崇 牧師


※礼拝後、持ち寄り昼食会があります。

2015年11月19日木曜日

(4)牧師は神学者か 2

シリーズ2回目となります。
牧師について日頃いろいろ考えていることに触れてくる記事があったので、その記事を紹介しながら何本かまとめていこうと思う。
と(1)で書き始めました。まあ普段から「牧師」とはなんぞや、みたいなことはいろいろ考えてはいるのですが、大体堂々巡りな感じもしないでもない。

さて筆者の堂々巡りの思索は後回しにして主題に入ろう。ヴァンフーザーの『牧師は公衆神学者』テーゼはかの本では十箇条だったらしいが、その後50以上に増殖しているらしい。

その動きを受けてか、現在新約聖書学で博士課程のさなかにいる(このブログでも何度か登場した)アンドリュー・ウィルソンがクリスチャニティー誌上で反論を展開している。
But how feasible is it to be both a scholar and a pastor? 
と、牧師と学問の両立はかなり厳しい、と懐疑的です。


数年前『義認』についてそれぞれ本を著して討論した、ジョン・パイパー牧師と(当時)N.T.ライト主教という当代最も有名な「学者兼牧師」の例を挙げて、片や学術的発表の欠如、片や勝手口の牧会経験の欠如を指摘して、いかに両立が難しいかを主張しています。

不可能というわけではないが、牧師と研究家と二つの召命に応答することは時間的にいって無理ではないかと思っていた、ウィルソン氏。

が、ライト主教のように時間的制限はあってもあれだけ次から次と本を出し、さらに世界中講演旅行するような例があるからには、時間の問題は置いておいて、何が「両立困難」にしているのかを考究して、次の三つの理由にたどりついた。

(1)「専門化」と「一般職化」の間での葛藤
 もちろん研究者が専門化にさらされるわけであり、牧師は一般人のニーズに応えるためあらゆる話題について行かなければならない故狭い領域の専門家にとどまっていられない、というテンションがある。

(2)「実際(問題)」と「理論」の間でのテンション
 2年前、英国新約聖書学会で、ライトとゴーマンそしてバークレーが『パウロ書簡における平和』について大変興味深い討論を行った。しかし中近東での平和樹立という具体的問題が問われたとき、一転静寂が訪れた。とウィルソン氏は述懐する。

(3)(研究機関である)「大学」と「教会」の間でのテンション
 それぞれの環境において、「何をどう発言するか」の意味合いが異なってくる問題。 (片や知的主題・問題についての議論が主体であるのに対して、片や指導や・励ましや・様々な日常的会話のニュアンスを伴い、知的側面はしばしば二義的に過ぎない場合がある、というような問題。)

これらの理由を挙げながら、しかしウィルソン氏は「両立の問題」は解決するのではなく、テンションの中でなんとか「やりくりする(マネージ)」のだという。


この段階ではまだコメントは控えておくが、牧師といっても人それぞれ、得意や不得意など様々ある。

特に「牧師と神学者」のテンションとは繋がらないが、どちらかと言うと「説教が好きで」というタイプの牧師は、説教準備の勉強に結構平気で時間をかけられるのではないか。

でも逆に筆者の周りには「机に向かってお勉強」みたいなのが苦手な方が結構多い感じなのである。とても「神学者」云々のレベルには達していない、とみている。

しかし、そのことについては連載の後の方で。

今日のツイート 2015/9/17

もう2ヶ月前になるわけですが、アップしていなかったのを今頃・・・。

でも依然として「旬」であるとは・・・。悲しいことだが。



怪しい人物、テロリストは誰だ。


2015年11月15日日曜日

今日のツイート 2015/11/15

地はテロの暴力で満ちている(か)・・・

2015年が異常な年だった、ことになるのか分からないが、少なくともヨーロッパにいるとそう実感されるのかな、という想像力は働く。

フランス・パリ市で言えば2度の衝撃的なテロ事件だが、移民がもたらす政治・社会の構造的な問題が深まっている背景があるのだろう。

しかし、テロに代表される暴力の横行は、ボコ・ハラム等のアフリカ、そしてその他中近東、地中海年でも頻発していた。

(世界のどこかで)爆発で何人、何十人死亡・・・はツィッターのTLでは少しいい過ぎかもしれないが、日常的なつぶやきであったように思う。

この流れもあってか、ある方が今年4月に起こったケニアの大学でのテロ事件(147名死亡)をツイートした。(後「過去」のものであるのに気がつき削除した。)

パリのようにヨーロッパの主要都市で起これば耳目を集めるが、世界を見渡せば結構起こっているのに関心が浅いだけ、ということを指摘したかったのであろう。


2015年11月14日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年11月15日(日) 午前10時30分


朗読箇所 コロサイ人への手紙 1:24-2:5
説 教 題 「霊でともにいる」
説 教 者 小嶋崇 牧師

コロサイ(22)/パウロ書簡の学び(139)

2015年11月11日水曜日

(4)牧師は神学者か 1

牧師について日頃いろいろ考えていることに触れてくる記事があったので、その記事を紹介しながら何本かまとめていこうと思う。

先ず手っ取り早く見取り図を示すために、ツイートにしたものを掲げる。
もちろん「正・反・合」にまとめたのは筆者であるが、必ずしもこじつけではないだろう。

さて最初に「牧師は『公の神学者』である」ことを提唱している(らしい)、ケヴィン・ヴァンフーザー氏の著書を紹介しておこう(といっても買っても、読んでもいないのだが)。 

The Pastor as Public Theologian: Reclaiming a Lost Vision




(1) Many pastors today see themselves primarily as counselors, leaders, and motivators.
(2) Yet this often comes at the expense of the fundamental reality of the pastorate as a theological office. The most important role is to be a theologian mediating God to the people.
(3) The church needs pastors who can contextualize the Word of God to help their congregations think theologically about all aspects of their lives, such as work, end-of-life decisions, political involvement, and entertainment. 

本の趣旨が三点挙げられているが、時代的変化(恐らく100年とか200年のような長期間の中での変化と思われる)によって、いまや牧師職の主要な役割が、「カウンセリング」「(教会組織の)指導的立場」「(教会プログラムの)遂行役」から、本来の「神学者」の立場を回復すべきである、というもののようだ。

では「牧師の本来の役職は神学者」とはどういうことか。 しかも「公的な神学者」とは・・・。

この解説では「神(そして神の言葉である聖書)と会衆あいだに立って、会衆が自分たちの置かれている文脈で抱える問題・課題を聖書に基づいて神学的に考察するのを指導・補助する役割」とされている。

今後このシリーズを続けて行く中でポロポロと出して行くつもりだが、基本的にうなずける主張である。

しかし「待てよ」という面もある。

いきなり最初から「公的な神学者」というのは期待過剰ではないか、と。

そもそも日本の牧師たちを考えてみても、そもそも本を読んだり、思索したり、という時間がかなり限られているような話をよく聞くからだ。

だから、まず考えることは、少しでも「学究的な姿勢」を作る、ということだ。

まあ、ヴィジョンは最初から高くてもいい、とは言えなくも無いが・・・。

(次回に続く)

2015年11月8日日曜日

(4)英国の今時キリスト教事情

英国での「キリスト教」に関する調査(対象数4000余)の結果が先ごろ報告され、一般メディアでも報道されました。(解説は後ほど)

ところで、その中の一つの質問(の結果)についてみなさんに予想していただきたいのですが、
    英国において、「イエスを実在の人物とは思っていない」人は全体の何パーセントだと思いますか。
     ※要するに「架空」とか「伝説上に過ぎない」とかそんなところ。
        1. 10%
        2. 20%
        3. 30%
        4. 40%

結果をお知らせする前に、少し背景をお話しましょう。

元ダラム大聖堂主教、現セント・アンドリュース大学教授で世界的な新約聖書学者であるN.T.ライトの一般的啓蒙書『クリスチャンであるとは』(2006年、邦訳は2015年)は、英国も含む(かつては)キリスト教文明圏であった西欧諸国が脱・キリスト教化している事実を念頭に書かれています。

英国(そして西欧諸国はもっと進んでいる)の現状を
 ①「ポストモダン」、
 ②「ポストキリスト教」、
 ③「ポスト世俗主義」
というキーワードで捉え、現代西洋人のキリスト教との距離(隔たり)をどのように埋めるか、と言うことを『クリスチャンであるとは』の課題としています。

衰退する英国国教会だけでなく、他のキリスト教諸派(特にペンテコスト派を除く福音派)も英国の脱・キリスト教化の深刻さを問題としているのですが、その深刻度を知りたいということで、
 (1)イエスについての認識(perceptions)
 (2)キリスト者に対する認識
 (3)キリスト者による伝道に対する認識
についてのオンライン世論調査をバーナ・グループ等に依頼して実施しました。


そしてこれがその結果です。



この中にも出てくるように

10人中4人が、「イエスを実在の人物とは思っていない」という結果でした。

一体これが何を意味するかはさておいて、一般メディアにとってもこの結果は少しショックだったようです。

BBCニュースは、Jesus 'not a real person' many believe、と見出しを付けています。

この結果に関する、少し詳細な分析がこちらのブックレットに掲載されています。

やはり年齢が下がるほどイエスの史実性への認識は低くなる傾向にありますが、35歳以下でもアフリカ系やアジア系英国人は、逆に79%が「イエスは実在の人物」という認識を持っている結果が出ています。

と、筆者が報告できるのはここまでですが、今後この調査結果全体への時間をかけた分析が行われるでしょうから、その報告を待ちたいと思います。


筆者の「やぶにらみ」として一言添えれば、やはり「イエスを実在の人物とは思っていない」と思っている人が4割を占めるという結果は、「どのような伝道アプローチを取ればいいのか」ということに自ずと方向性を与えるように思います。

2015年11月7日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2015年11月8日(日) 午前10時30分


朗読箇所 Ⅱヨハネの手紙1-13

説 教 題 「歴史のイエスと信仰のキリスト」
説 教 者 小嶋崇 牧師


《現代キリスト教入門》10

 正典福音書はすべて、イエスをその世界から見ることを主張している。・・・イエスと福音書の歴史的な学びが必要な理由のひとつは、この世界だけではなく教会自体も、福音書が本当は何を語っているのかを繰り返し思い起こすことが必要だからである。・・・

 正典福音書は、ずいぶん前にさかのぼれる口伝と記述の両方の資料をまとめたり、それを元にしたりして書かれている。その資料は初期のクリスチャンの時期のもので、イエスの弟子たちがまだ生きて活動していたときであるだけではなく、他のかなり多くの目撃者、反対者、行政官たちが回りにいて、台頭しつつある新しい動きに注目し、広がりつつあるうわさを耳にしたり、それに反対する話が流布したりした当時のものである。(141ページ) 
 N.T.ライト『クリスチャンであるとは』(上沼昌雄訳、あめんどう、2015年)

2015年11月3日火曜日

(5)追悼: シェルドン・S・ウォリン (1922-2015)

※表記を「ウォーリン」としていたのを「ウォリン」と直しました。(2016年1月29日)

まだネットでは(日本語での)追悼記事も多少詳しい訃報も見当たらないので・・・。

まあ追悼と言っても一種のミーハー的レベルでのことですが・・・。

名誉教授として引退したプリンストン大学に訃報・追悼記事がありますので、一部要約して紹介しておきます。

Political theorist Sheldon Wolin dies at 93
 

民主主義が権力と国家にどう絡むかについて思索した政治理論家シェルドン・ウォリンがオレゴン州セーラムで亡くなった。享年93歳。
 
プリンストン大学で政治学の名誉教授だったウォリンは、1960年に出された『政治とヴィジョン』 で政治理論研究の大切さを再認識させ、その後の著作でより広範な人々に政治理論への関心を広げた。1972年からプリンストン大学となり、1987年から名誉教授となった。

(ウォリンのもとで薫陶を受けたコーネル・ウェストのことば)
"Sheldon Wolin was the greatest political theorist of democracy of our time. His scholarship was impeccable, and his golden heart was undeniable. I was blessed to have him as my thesis adviser, my mentor, my colleague and my democratic comrade in arms."

1922年シカゴに生まれたウォリンはオバーリン大学で学士を、ハーヴァード大学で博士号を受けた。プリンストン大学以外でも、オバーリン大、カリフォルニア大バークレー校、同サンタクルツ校、同ロスアンゼルス校、コーネル大、及びオックスフォード大でも教える。

ウォリンの研究関心の対象は主に合衆国の民主主義、特に国家の政治機構や制度とは区別したもの。

(中略)

1985年に『政治とヴィジョン』で「ベンジャミン・E・リピンコットアメリカ政治学会協会賞」受賞。


政治とヴィジョン』は、デイナ・ヴィラ、ノートルダム大政治学教授によれば、第二次大戦後の「イデオロギーの終焉」が学界の基準になり、政治理論がほぼ死滅したと広く思われていたときに出版された。
ウォリンはこの本で当時の常識を打ち破り、西洋政治思想正典と看做されるものの幅を再解釈して広げ、歴史に対し鋭い関心を有したアイゼア・バーリンやハンナ・アーレントなどと並び称せられるようになった。

(以下略)


ところで、この記事のために少し検索していたら、既に「英語圏神学者」で最初に紹介したスタンレー・ハウアーワス
 『大学のあり方──諸学の知と神の知』アマゾン日本)の第10章で
 「民主主義の時代──ヨーダーとウォリンから学んだ教え」


となっているそうである。(紹介はこちら

なるほど細かい年代までは調べていないが、ハウアーワスがプリンストン時代ラムゼー教授のもとで勉学していたときにウォリン教授からも学んでいたのかもしれない。(一つの発見。得した。)


※ウォリンについては「米国留学時代」の思い出として個人的な観察・印象をこことそして加藤周一と合わせてここにも少し書いておきました。参考まで。

[追記]
※その後(たまたま今日、2016年1月29日)、朝日新聞にICUの千葉眞氏の追悼記事が掲載されているのを発見した。

2015年11月2日月曜日

今日のツイート 2015/11/02

トラウマとは、
【意味】 トラウマとは、個人にとって心理的に大きな打撃を与え、その影響が長く残るような体験。精神的外傷。外傷体験。
【トラウマの語源・由来】 トラウマは、単に「傷」を意味するギリシャ語であった。 1917年、心理学者フロイトが、物理的な外傷が後遺症となると同様に、過去の強い心理的な傷がその後も精神的障害をもたらすことを「精神分析入門」において発表した。 その際、精神的外傷を意味する用語として「trauma(トラウマ)」が用いられたため、現在のような意味として使われるようになった。 (語源由来辞典
で、いま、ツイッターの「トレンド」に《子ども時代のトラウマ》があるのでつらつら見ていたところ。

そしたら、これが見つかったので選びました。

子どもにとっての「地球終わり」イメージとはそんな感じか。ふむふむ。


ちなみにTRAUMAについての大きなサイト。