牧師について日頃いろいろ考えていることに触れてくる記事があったので、その記事を紹介しながら何本かまとめていこうと思う。と(1)で書き始めました。まあ普段から「牧師」とはなんぞや、みたいなことはいろいろ考えてはいるのですが、大体堂々巡りな感じもしないでもない。
さて筆者の堂々巡りの思索は後回しにして主題に入ろう。ヴァンフーザーの『牧師は公衆神学者』テーゼはかの本では十箇条だったらしいが、その後50以上に増殖しているらしい。
その動きを受けてか、現在新約聖書学で博士課程のさなかにいる(このブログでも何度か登場した)アンドリュー・ウィルソンがクリスチャニティー誌上で反論を展開している。
But how feasible is it to be both a scholar and a pastor?と、牧師と学問の両立はかなり厳しい、と懐疑的です。
数年前『義認』についてそれぞれ本を著して討論した、ジョン・パイパー牧師と(当時)N.T.ライト主教という当代最も有名な「学者兼牧師」の例を挙げて、片や学術的発表の欠如、片や勝手口の牧会経験の欠如を指摘して、いかに両立が難しいかを主張しています。
不可能というわけではないが、牧師と研究家と二つの召命に応答することは時間的にいって無理ではないかと思っていた、ウィルソン氏。
が、ライト主教のように時間的制限はあってもあれだけ次から次と本を出し、さらに世界中講演旅行するような例があるからには、時間の問題は置いておいて、何が「両立困難」にしているのかを考究して、次の三つの理由にたどりついた。
(1)「専門化」と「一般職化」の間での葛藤
もちろん研究者が専門化にさらされるわけであり、牧師は一般人のニーズに応えるためあらゆる話題について行かなければならない故狭い領域の専門家にとどまっていられない、というテンションがある。
(2)「実際(問題)」と「理論」の間でのテンション
2年前、英国新約聖書学会で、ライトとゴーマンそしてバークレーが『パウロ書簡における平和』について大変興味深い討論を行った。しかし中近東での平和樹立という具体的問題が問われたとき、一転静寂が訪れた。とウィルソン氏は述懐する。
(3)(研究機関である)「大学」と「教会」の間でのテンション
それぞれの環境において、「何をどう発言するか」の意味合いが異なってくる問題。 (片や知的主題・問題についての議論が主体であるのに対して、片や指導や・励ましや・様々な日常的会話のニュアンスを伴い、知的側面はしばしば二義的に過ぎない場合がある、というような問題。)
これらの理由を挙げながら、しかしウィルソン氏は「両立の問題」は解決するのではなく、テンションの中でなんとか「やりくりする(マネージ)」のだという。
この段階ではまだコメントは控えておくが、牧師といっても人それぞれ、得意や不得意など様々ある。
特に「牧師と神学者」のテンションとは繋がらないが、どちらかと言うと「説教が好きで」というタイプの牧師は、説教準備の勉強に結構平気で時間をかけられるのではないか。
でも逆に筆者の周りには「机に向かってお勉強」みたいなのが苦手な方が結構多い感じなのである。とても「神学者」云々のレベルには達していない、とみている。
しかし、そのことについては連載の後の方で。
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