2012年9月29日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

9月30日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 6:11-18
説 教 題 「十字架の福音」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(92)
ガラテヤ人への手紙(80)
・6:11-18 締めくくりの言葉
(A) 6:11-13 割礼を受けさせようとする者たち 
(B) 6:14-17 大事なのは新しい創造
(C) 6:18   最後の祈り

2012年9月28日金曜日

「イエスに妻」? コプト文書断片

最近イエスに妻がいたことをほのめかす文章を含んだコプト語で書かれたパピルス断片が発見されたと話題を呼んでいる。

日本でも少しは報道されたが(朝日デジタル)、一過的な話題で過ぎそう。

欧米圏ではもっともっと波紋が広がっている。
報道も続々、ブログでも多く取り上げられている。
研究者たちも書かれている内容だけでなく、パピルス断片の物理的な性質(インクや字体)についてつぶさに分析している。

最初は「発見」として話題が先走りした観があった。
故に独身制のカトリック教会の屋台骨を揺るがす可能性が云々された。

しかしその後の様々な分析が示唆するのは、この断片は偽ものの可能性が高いと言うこと。

断片を受け取ってその内容をローマの学会で報告したハーバードのカレン・キング教授はその内容をHarvard Theological Journalにも発表しようとしているのだが、編集側ではまだ承認していないとのこと。インクの検査を待ってと言うこともあるらしいが、多分に断片に対する疑わしさを持っているようにも聞こえる。

ご関心のある方は「ニア・エマオス」のブログ主がずーっとこの件を追跡しているようなので、まとまった情報が整理されているのでどうぞ。
最新の記事は、Near Emmaus

もし多くの識者たちの指摘通り、この断片が偽物だと早くに判明すれば、案外この騒ぎは遠からず収束するかもしれない。

2012年9月25日火曜日

今年のライト読書会

2012年度のN.T.ライト読書会は
1回目・・・3月17日
2回目・・・7月21日
3回目・・・9月22日
以上の合計3回持つことができました。

今年は《主の祈り》をテーマに、3回ともN. T. Wrightの
The Lord’s Prayer as a Paradigm of Christian Prayer
を課題図書としました。

3回で読み通す予定はかないませんでしたが、
 2. People of the New Exodus
まで読み終わることができました。

昨年までの読書会は事前に読んできて当日感想を言い合ったり、ディスカッションしたり、と言うやり方でした。
今年は3回とも事前に読んできた上で、更に当日テキストをパラグラフ毎読み上げながら、と言うさながら大学の原書講読のクラスみたいになりました。

ライトの聖書理解は新約聖書を旧約聖書(プラス一世紀ユダヤ教の思想背景)のナレーティブを下敷きにして「イエス」「十字架の死」「復活」「神の国」「教会」「宣教(ミッション)」の意義を引き出すものですが、今回の「主の祈り」は「出エジプト」のナレーティブをテンプレートにしながら、「主の祈り」の7つの祈祷項目を個々別々に解釈するのではなく、一つの連関した、特に新しい出エジプトをした「神の民」が「終末」に臨む祈りとして解説されています。

さて3回目の読書会の参加者である「ミーちゃんハーちゃん」さんが自身のブログで読書会の感想をアップしてくださいましたので、臨場感溢れるレポートはどうぞそちらをご覧下さい。(ここをクリック

2012年9月22日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

9月23日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 6:1-10
説 教 題 「信仰の家族」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(91)
ガラテヤ人への手紙(79)
・6:1-10 御霊によって歩む兄弟姉妹
(A) 6:1-5 重荷を負いあう 
(B) 6:6-10 善を行なう

《オープンチャーチご案内》
日時:2012年923日(日)
午後12時30分-14時30分
場所:巣鴨聖泉キリスト教会 & 活水工房
※近くにお立ち寄りの際は是非どうぞ。
お茶とお菓子でおもてなしします。

2012年9月20日木曜日

英国新約聖書学会でのシセルトン教授

先日「ハーメニューティックス(解釈学)」の投稿記事で紹介した、アントニー・シセルトン教授が、去る9/6-8、キングス・カレッジ・ロンドンにて開催された「英国新約聖書学会(2012年度要綱)」での主題(プレナリー)講演で「新約聖書における『聖霊の神性』」について語ったことがアンドリュー・ウィルソン氏によって報告されている。(ここをクリック

講演の実際のタイトルは、
Must we rest content with binitarianism in New Testament studies?
である。

講演の内容についてはウィルソン氏の報告に譲るが、シセルトン教授が 「binitarianism(バイニタリアニズム)」と言う用語を使って言わんとしていることは、要するに新約聖書で「神」として崇められているのは「父なる神」と「(子なる神)イエス」までで、聖霊は「神」の中に含まれないと言う見方に疑問を呈し、聖霊も「神」として認められている、ということのようである。

さて 「binitarianism(バイニタリアニズム)」を展開している学者としてラリー・フルタド教授(エディンバーグ大学)の著作を引用してシセルトン教授の講演はなされたらしいのだが、矢面に立ったフルタド教授は後日自身のブログで「バイニタリアン」の意味するところを明確にしようと説明を試みている。(ここをクリック

講演ではシセルトン教授は何度も声を張り上げて(rant)「シセルトン節」を唸ったらしいことを、ウィルソン氏は楽しそうに報告している。
どうやら充実した学会だったようである。うらやましい。

筆者も一つだけ「学会」と言うものに30年以上加わっているが、全般に低調で講演テーマも余り魅力的ではないものが続き、ここ数年はご無沙汰している。

何はともあれネット上でこのような学会の様子が報告されているのを読むことができるだけでも感謝しなければならないだろう。
ウィルソン氏(博士課程の学生)やフルタド教授のブログに日本からお礼を言いたい。

2012年9月17日月曜日

何の為に生きているかなんて一生わかりませんように



明日も友達に会えますように 
大好きな人と明日も会えますように 
君と僕とは違う人間だからなんてくい違いはない方がいい 
言葉が心の反対車線を走りませんように 
片想いが少しだけ伝わりますように 
泣く事が少なくなりますように 
泣く事が10000回あったら 
笑う事が1000000回はありますように  
笑ってばかりで退屈になったら つらい事を少し下さい
成功した人をねたんだりしませんように 
ねたんだとしても自己嫌悪に陥りますように 
外国にしかない野菜を買うよりもつくしんぼを探すのが好きで 
人の傷 みがわかっていられますように 
一生唄がうたえますように 
唄が僕の人生をきっと超えますように 
初めてのライブ あの体の震えを忘れませんように 
僕が 泣いたり怒ったりすることが何かにつながりますように

何の為に生きているかなんて一生わかりませんように 
死ぬまでわかりませんように 死ぬまで

川村かおり 1990年7月21日発売 「Hippies」より
数日前「何の為に生きているかなんて一生わかりませんように」 と言うツイート(ツィッターの呟き)に遭遇した。
今朝伝道者の書1章を読んでシンクした。

ブログにでもそのことを載せようかと「何の為に生きているかなんて一生わかりませんように」でググッたら、川村カオリの曲が出てきた。

そうかもしれない
そんな「生きる意味」なんてことに頭を突っ込まない方が
生きることに疾走すればいいのかもしれない

でも・・・
「何の為に生きているかなんて一生わかりませんように」
はきっと脳内グラフィティだよね。

パラドキシカル パラドキシカル




2012年9月16日日曜日

ハーメニューティックス(解釈学)

今回はかなりマニアックなトピックかと思う。

アントニー・シセルトンという方の名を聞いたことがあるだろうか。
昨日彼の著書、New Horizons in Hermeneuticsを読了した。

途中何度も中断してだから一年以上かかったかもしれない。



英国ノッティンガム大学で長年教鞭を取られ、特に「解釈学」を講じられてきた。
最初に教鞭を取られたシェフィールド大学の聖書学部門で、当時としては(大学の聖書学の分野に)初めて「解釈学」を導入したとのことだそうだ。

本の内容に関してはとても簡単には紹介できない。
何しろ読了するだけで一苦労だったくらいだから。

何と言っても圧倒されるのはそのカバーしている範囲の広さである。

解釈学はもともと学際的な学問だと思うが、聖書学や文学、そして近年は哲学と接してきた、言ってみればリベラル・アーツの基礎のような学問と言えるかもしれない。
何しろ「テキストを読む・・・理解する」と言うことを対象にした学問だから。

筆者は米国での神学校時代、ハイデッガーの影響を受けたキリスト教社会倫理の教授に初めて「解釈学」なるものを紹介していただいてから30年が経つ。
その時はRichard PalmerのHermeneuitcsが教科書だった。シュライエルマッハー、ディルタイ、ハイデッガー、ガダマーが主な解釈学理論家として取り上げられていた。

シセルトンはこれらに加えて、ポール・リクール、ヴィットゲンシュタイン、オースチンやサール等発話行為理論の言語哲学、構造主義、意味論哲学(semiotics)、プラグマティズムのローティーやフィッシュ、クリティカル・セオリーのハーバーマス、現象学的社会学のアルフレッド・シュッツ、解放の神学、ブラック神学、フェミニスト神学、などなど至れり尽くせり、解釈学と言う学際的分野に関わる理論のオンパレード状態である。
良くぞ聖書学の教授がこれほどコンプリヘンシブなカバーレージをしたなと驚嘆する。

のらくら者さんも「いつまでも B. ラムの 『聖書解釈学概論』ではダメですよねぇ・・・。」 とぼやいておられるが(ここをクリック)、旧来の「聖書解釈学」を取り巻く理論環境は飛躍的に複雑になっている。
シセルトンの業績はその意味で辞書学的「テキスト・インタープリテーション」を様々な現代解釈学理論に接続させてくれる貴重なものだと思う。

ある方のブログで今後10年間の神学論争でも「聖書論」は大きな位置を占めるだろうと指摘していたが、「聖書のテキストを中立的な立場で釈義することによって客観的な意味を確立できる」などと言う見解を今でも持っているとすると、現在の「解釈学」的見地からするとそれは理論的に無邪気だと言うことになるだろう。
(教理的から倫理的まで)様々な問題が起こり(それは何時の時代でもそうだが)、その解決を聖書に求めるが、双方の解釈が対立すると言う事態はここかしこで見られる。
解釈者の主観(政治的立場や傾向)が解釈の対立の構図に反映していることを「解釈学」的に観察する必要があることをシセルトンは指摘する。

It enlarges and universalizes Robert Morgan's observation that "some disagreements about what the Bible means stem not from obscurities in the texts, but from conflicting aims of the interpreters." It seems to provide an intellectual and philosophical explanation for the gut-level feeling shared equally by many right-wing conservatives and left-wing radicals, that not only is the ideal of disinterested scholarship an outdated liberal illusion; but also that all biblical exegesis can be predicted by socio-political typifications of "conservative", "neo-liberal", "radical", "historical-critical", "moderate", or "pleasing the Board and the Constituency" goals of interpretation. (P.588, italicsは著者)
まっ、ちょっとまとまりの悪い紹介になってしまったが関心のある方はこのビデオ辺りからどうぞ。(勿論英語です。)


2012年9月15日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

9月16日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 6:1-10
説 教 題 「善行に努める目的」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(90)
ガラテヤ人への手紙(78)
・6:1-10 御霊によって歩む兄弟姉妹
(A) 6:1-5 重荷を負いあう 
(B) 6:6-10 善を行なう

2012年9月14日金曜日

オープンチャーチ

日時:2012年9月23日(日)、 午後12時30分-14時30分
場所:巣鴨聖泉キリスト教会 & 活水工房
   
※近くにお立ち寄りの際は是非どうぞ。
お茶とお菓子でおもてなしします。


2012年9月13日木曜日

神学遍歴⑤

久し振りとなる「神学遍歴」シリーズである。

今のところアズベリー神学校時代のことを書いているが、今回も。
前回は神学者、H. Richard Niebuhrについて書いたが、今回はアズベリー神学校で受講した中でやや異色で、個人的に興味深かったクラスを三つほど紹介しておこうと思う。

①中間時代の神学
今では「第二神殿期ユダヤ教」等と言われるが、旧約聖書と新約聖書の「間」の(諸説はあるだろうが)約400年間の間のユダヤ教文学についての学びである。

教授は「聖書神学」と言って、その頃はまだ神学校の受講科目ではメジャーになっていなかった部門を担当していた。
と言うことで(確か)先ず紹介されたのは、クリスター・ステンダールの「聖書神学」と言う論文(The Interpreter's Dictionary of the Bible所収)だったかと思う。

クラスは講義の他に課題として聖書学関係の専門雑誌から教授が指定した論文の中から幾つか選び出して、そのアブストラクト(要約)を書く、というものだった。
多分4つ5つ読んだと思う。

記憶が確かなら、James Muilenburgを知るようになったのもこの課題の故だった。

講義で紹介された学者の名前は、
D・S・ラッセル(八田正光訳『聖書の中間時代:後期ユダヤ教の歴史・文学・思想』ヨルダン社、一九六八年。)
Joseph Bonsirven
などであった。

②Supervised Ministry
意訳すると「臨床神学入門」とでも言えばいいか、教授がスーパーバイザーとなって学生たちの小グループを指導するのだが、 神学的作業(リフレクション)は神学書を読むことから始まるのではなく、様々な「ミニストリーの現場」から得た経験を元に行なうものであった。

筆者が行った「ミニストリーの現場」は、総合病院、ミニマム・セキュリティー刑務所でのチャプレン見習いのようなものや、大学キャンパスでの個人伝道のようなものであった。

例えば病室で死期の近い患者さんと何とか会話をして、それから帰ってきて、それを一つの「ケース・スタディー」としてまとめるのだが、状況描写と、会話の中から「神学的テーマ」を見つけ出して、ミニストリーの体験を振り返る、というような神学作業を行なう。
グループの学生たちが一堂に会して、それぞれのケース・スタディーをもとにディスカッションする、そして教授が気付いたことを提案したりする、と言うのが Supervised Ministryの一連の作業であった。

実地を通して神学する、と言うプロセスを教えるものであった。

③説教学上級クラス
上級と言っても説教そのものの学びではなく、説教の中で取り扱われるテーマを如何に現代や社会や等広い視野で掘り下げるか、と言うクラスであった。

このクラスを通して筆者は初めて「ホロコースト」に触れることになった。
ノーベル平和を受賞した、エリー・ウィーゼルのアウシュビッツの体験を下にした自伝的小説「夜」を読んだ衝撃は大きかった。

その他にもこのクラスでは、「普通の説教」ではカバーしない事柄をクリスチャン、説教者としてどう捉えていくかを考えさせてくれた。
 

2012年9月9日日曜日

今朝の礼拝案内

(※うっかり昨日中に掲載するのを忘れてしまいました。)

主日礼拝

9月5日 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネの福音書 17:1-26
説 教 題 「世に遣わしました」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《説教シリーズ》「遣わされて」⑧

2012年9月6日木曜日

リトリート

所属する日本聖泉キリスト教会連合の「教役者リトリート」に出かけてきた。

場所は那須高原、9月3日~5日の二泊三日。
コンセプトは霊修的な要素の少ないリトリート。
つまり《主にリラックスした時間を過ごす》のが目的の、しかし名前はリトリート。

小さな連合なので参加した人数は7名。
既に良く知っている間柄ではあるが、年数回「教役者会」で顔を合わす時は時間の都合で話すことのできない話題も、ゆったりとした時間の進行の中で「あれ、これ」と思い出したようにポツポツ話すことができるリトリートだった。

だから時間も内容も「ストラクチャー」のない中で、唯一二日目の午前中に「デボーション」と称して、集中的に各自が「牧師」として仕えている教会が直面している問題・課題、あるいは牧師自身の問題・課題などを分かち合う時を持った。

司会者が最初に自分の問題・課題を語ったが、その中で「壁」「後継者問題」と言う事が語られていたので、以降それらの二つをキーワードに各自の近況を分かち合った。
中には教会のミニストリーを新展開させる「積極的な」ものもあれば、停滞や牧師としての「パフォーマンス」や「召名」への疑問、などと言うどちらかと言うと「消極的な」ものまで様々。

筆者も牧師個人としても、教会としてもある種「停滞」の中にいることをお話した。

一巡して「まとめ」をしてくれとの司会者の要望で、みんなの忌憚ないお話を聞かせていただいた中から二つのキーワードがあるように思わせられたので、そのことを少々「お勧め」のような感じで語らせていただいた。

①牧師も教会の兄弟・姉妹の一人であること
牧師が信徒との関係で、色々期待をかけられたり、「パフォーマンス」のように説教や牧会指導を「演じている」様に感じ、孤立していったり、自己嫌悪に陥ったりすることがある。
その背景には牧師と言う仕事を過剰に「特別視する」ことがないだろうか、と言うことを指摘させていただいた。
基本的スタンスとして「兄弟・姉妹として同じ教会員の一人」であることを忘れないようにすることが大事ではないか、と指摘させていただいた。

②「私たちの教会」ではなく「キリストの教会」
通常自分が所属する教会は一(地域)教会であり、ついつい「自分たちの教会」として語られやすい。教会の現在や将来に対して「自分たちの思い」をついつい反映させてしまいやすい。
しかし私たちが属する一(地域)教会は、「私たちの教会」である前に「キリストの教会」であることを自覚しておくことが大事ではないか。
「自分たちの教会」の10年後、20年後の将来を展望して様々な思いや計画を描く時、それを超えた「キリストの来臨」の終末に焦点を合わせた将来設計、と言う視点も忘れてはならない。
教会を私物化することのないように。

と言ったようなことを指摘させていただいた。

初めての試みであったが参加者からは「良いリトリートだった」と言う感想を聞いている。
お互いを慰めあい、励ましあう機会となったのではないかと思う。

2012年9月2日日曜日

科学と哲学を区別することによって

久し振りに「英語圏ブログ紹介」を兼ねて。

ロス・マーッケンジーのsoli deo gloriaブログ。

彼の最近の投稿記事、 Distinguishing Science From Philosophyがちょっと面白いのではないかと思った。
「科学と哲学を区別することによって」と訳したが、ロスの記事では「哲学」には宗教も含めた「世界観」的解釈を持つ思想が意図されている。

先ず「科学」だが、簡単に定義すれば「科学的知識」と「哲学的主張」の違いは、
Scientific knowledge is something that is experimentally testable, open to confirmation, and can be agreed upon by a wide range of parties. Philosophical claims do not have these qualities. They are not testable in a laboratory.
まっこれは余りにも教科書的で珍しいものは何もないが、次にロスが挙げる例(科学と哲学の相違)が分かりやすくしてくれる。

(1)
科学:「地球は太陽系惑星の中心ではない。」
哲学A:「人類は特別な存在ではない。」
哲学B:「地理的位置は物事を意義付ける尺度ではない。」

(2)
科学:「太陽は1700億を数える銀河の一つ、『天の川銀河』にある2000億個の星の一つである。」
哲学A:「人類は宇宙においては全く無意味な存在である。」
哲学B:「人間は非常に有り得ないほど偶然の存在である。」
哲学C:「人間はその固有性と有り得なさの故に高度に意義深い存在である。」

(3)
科学:「人間のDNAとチンパンジーのDNAは97%同一である。」
哲学A:「人類は他の動物と何ら異なるところはない。」
哲学B:「動物の命は人間の命と平等に価値がある。」
哲学C:「(チンパンジーとの)3%の違いに如何に人間が固有で特別な存在であるかが示されている。」


このように対比してみれば、「科学的知識」と「哲学的主張」の違いが良く分かるのではないか、とロス・マッケンジーさんは申しております。

皆さんはどんな印象をお持ちになりましたか。


2012年9月1日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

9月2日 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネの福音書 13:1-20
説 教 題 「足を洗い合う」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。