2012年9月6日木曜日

リトリート

所属する日本聖泉キリスト教会連合の「教役者リトリート」に出かけてきた。

場所は那須高原、9月3日~5日の二泊三日。
コンセプトは霊修的な要素の少ないリトリート。
つまり《主にリラックスした時間を過ごす》のが目的の、しかし名前はリトリート。

小さな連合なので参加した人数は7名。
既に良く知っている間柄ではあるが、年数回「教役者会」で顔を合わす時は時間の都合で話すことのできない話題も、ゆったりとした時間の進行の中で「あれ、これ」と思い出したようにポツポツ話すことができるリトリートだった。

だから時間も内容も「ストラクチャー」のない中で、唯一二日目の午前中に「デボーション」と称して、集中的に各自が「牧師」として仕えている教会が直面している問題・課題、あるいは牧師自身の問題・課題などを分かち合う時を持った。

司会者が最初に自分の問題・課題を語ったが、その中で「壁」「後継者問題」と言う事が語られていたので、以降それらの二つをキーワードに各自の近況を分かち合った。
中には教会のミニストリーを新展開させる「積極的な」ものもあれば、停滞や牧師としての「パフォーマンス」や「召名」への疑問、などと言うどちらかと言うと「消極的な」ものまで様々。

筆者も牧師個人としても、教会としてもある種「停滞」の中にいることをお話した。

一巡して「まとめ」をしてくれとの司会者の要望で、みんなの忌憚ないお話を聞かせていただいた中から二つのキーワードがあるように思わせられたので、そのことを少々「お勧め」のような感じで語らせていただいた。

①牧師も教会の兄弟・姉妹の一人であること
牧師が信徒との関係で、色々期待をかけられたり、「パフォーマンス」のように説教や牧会指導を「演じている」様に感じ、孤立していったり、自己嫌悪に陥ったりすることがある。
その背景には牧師と言う仕事を過剰に「特別視する」ことがないだろうか、と言うことを指摘させていただいた。
基本的スタンスとして「兄弟・姉妹として同じ教会員の一人」であることを忘れないようにすることが大事ではないか、と指摘させていただいた。

②「私たちの教会」ではなく「キリストの教会」
通常自分が所属する教会は一(地域)教会であり、ついつい「自分たちの教会」として語られやすい。教会の現在や将来に対して「自分たちの思い」をついつい反映させてしまいやすい。
しかし私たちが属する一(地域)教会は、「私たちの教会」である前に「キリストの教会」であることを自覚しておくことが大事ではないか。
「自分たちの教会」の10年後、20年後の将来を展望して様々な思いや計画を描く時、それを超えた「キリストの来臨」の終末に焦点を合わせた将来設計、と言う視点も忘れてはならない。
教会を私物化することのないように。

と言ったようなことを指摘させていただいた。

初めての試みであったが参加者からは「良いリトリートだった」と言う感想を聞いている。
お互いを慰めあい、励ましあう機会となったのではないかと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿