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2017年5月18日木曜日

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、9

また前回から大分間が空いてしまいました。

遅々として進まず・・・ですが、継続を力として何とかまた一歩。


さて、2回に分けた後半になるわけですが、

 6章 「ファンダメンタリズム」(88-108)
  A 「英米ー明らかに異なる二つの流れ」(88-94)

で、
聖書批評学に対してキリスト教保守(ファンダメンタリズム)は、英では積極的な対応、米では消極的な対応、と異なる二つの流れが生じた
ことを見たわけでした。



6章 「ファンダメンタリズム」(88-108)
 B「ファンダメンタリズムによる聖書信仰の伏流ー前千年期王国論と創造科学」(95-108)


ざっくりしたポイントは、
(1) 無誤論的聖書信仰が教派や他の背景の違いを越えて、広くキリスト教保守派に広まって(浸透して)20世紀初頭のファンダメンタリズムを形成した。
(2) その背景には、「ディスペンセーション主義神学」と「創造科学」が「字義通りの聖書解釈」を実践したが、その理論的根拠を(最初からではないらしいが)ウォーフィールド型の無誤論に求めた・依存した。
というところでしょうか・・・。プリンストン神学と、ディスペンセーション主義神学、通常であれば余り隣近所になりにくそうな二つが繋がったであろう背景を指摘していますね(100ページ)。


筆者は「ファンダメンタリスト連合」に含まれている「ホーリネス諸教派」(95)の系譜にある教会で育ったのですが、実は「ディスペンセーション神学」や「創造科学」の影響は殆ど受けていません。

「千年王国」という用語はもしかしたらどこかから耳に入っていたかも分かりませんが、その諸説に関しては全くといっていいほど無知でした。(現在もさほど変わりませんが。)
 ※そんな程度の経験知ですから「この記事」や「この記事」で書いたことで尽きてしまいます。


「創造科学」はどこかの時点で「ヘンリー・モリス」とその著書くらいは目にしたことがあるかもしれませんが、それでも関心を持ったことは一度もありませんでしたし、その影響を自分の周囲に感じたことはほんのわずかしかありません。

そう「ほんのわずか」、論争の断片を記憶しているくらいです。

父(牧師)が昔「日本福音主義神学会」に少し関係していた頃かと思いますが、創世記の「創造」の記述の「日」を文字通り24時間の一日と取るか否かが「聖書信仰」の試金石・・・みたいな話をしていたのを耳にした程度です。

父は青年期(19歳)にキリスト教に回心していますが、それからまもなくのことと思いますが、信仰的に「疑い」の悩み・問題を抱えた時「聖書と心中する覚悟というか境地に立った」と語ったことを何度か聞いたことがあります。

筆者のように何世代目かのキリスト者となると、そのような「追い込まれた状況での信仰の飛躍」体験はほとんどありません。

神への信頼を通奏低音(丸山真男が日本思想の特徴を描写する時に用いた表現バッソ・コンティヌオの訳語とか)として生きてきた感じで、いちいち(神学)論争の度ごとに自らの信仰態度を決定し・表明する・・・ということには馴染んでいませんしむしろ忌避する傾向があります。

そんな筆者の偏見から見ると、「一日」の解釈を巡って聖書信仰の真贋をテストする・・・ような極端な論争にヒートアップするようなことはもはや「忠誠テスト」であって、解釈の客観的妥当性を巡る論争には思われません。


と、今回は「書評ノート」とは名ばかりの回顧録になってしまいました。

(次回へ続く???あるいはまだ続くかもしれません。)

2015年7月6日月曜日

ツイッター開始5周年

ツイッターを始めた翌日、教会ブログを始めたのでした。

ブログの方は年次報告していますが、ツイッターしていません。(普通そんなことしないですが。)

しかし5周年を迎えてやっておいた方がいいかなと思い・・・。


というのはブログはアーカイブが初めから想定されていて、そのようにプラットフォームが設計されているのですが、ツイッターはその点全然無関心みたいです。

ツイート数がある程度たまると、昔のツイートを見つけるのは大変です。

スクロールダウンだとやたら面倒。

適当に検索しても面倒。

要はアーカイブのコンセプトが丸っきりない。

せっかくいいことツイートしたな、と思ってもしばらくしてからそれを回収しようと思ってもなかなか出来ません。


そこでオススメなのが「お気に入り」を使うことです。

あー、なるほど、ツイッターの「お気に入り」はキュレーションなんだ、とあるときひらめきました。

もちろん人様のツイートを普段「お気に入り」にするのですが、ときどき自分のツイートも「お気に入り」に入れます。

後で何かのときに使うこともあるか・・・を想定して入れたりするのですが。


では現在880たまった「お気に入り」の中からいくつか選んで展示してみましょう。
















ではここまでにいたします。

2015年3月3日火曜日

(4)オウム真理教ノート 2015/3/3

まもなくオウム真理教幹部たちが起こした「地下鉄サリン事件」から20年を迎える。

3月20日のNHKスペシャルでは、「未解決事件File.04 オウム真理教終わりなき闇(仮)」と題する番組を放送するとのこと。
2012年放送の未解決事件File.02では、オウム真理教の暴走の原点に迫り、大きな反響を得た。今回は、オウムの「終着点」となった地下鉄サリン事件にいたる過程を徹底検証。堅く口を閉ざしてきた元捜査員や、死刑囚たちの新たな証言から、これまで知られていなかった事件の舞台裏が次々と明らかになっ てきた。事件に至るまでの警察とオウムの水面下の攻防、独自に入手した被害の全貌を示すデータや、サリン拡散のシミュレーションなどをもとに、20年前の 「3・20」を立体的に再現しながら、未曾有の事件が今に突き付ける課題を見つめていく。
と言う触れ込みである。

しかし森達也も度々指摘するように、一体「動機の解明」なくして、その「暴走の原点」はどうやって定めるのか。
地下鉄サリン事件、一通の手紙が裁判を覆すかもしれない
地下鉄サリン事件がテロだった誰が断言できるのか?


今回これが「オウム真理教ノート」として投稿する10本目の記事になると思うが、書き始めはこの「2012年放送の未解決事件File.02」だったかと思うので、丸3年が経とうとしていることになるのだろうか。

前回オウム真理教ノート 2014/4/13では、教団中枢ではないがオウム真理教に関する情報を手記の形で表した、《野田成人》と《高橋勝利》の教団への「距離の取れ方」、つまり教団内にいた時どの程度「客観的な観察と批判」が出来たのだろうか、と言うことを二人のオウム入信前の「精神世界の形成や構成」からヒントを得ようとしてみた。

借りた本の返却期限、と言う事情もあり、最後の部分が十分書けないまま終わってしまった。

少なくとも《高橋勝利》の方がより具体的にオウムの内情を在団中も批判できていたのは、高橋が少年期に「世界観」レベルでの「根底的揺らぎ」を体験していたからではないか、と言う見方を提供しようとしたのだった。

その点で《野田成人》の精神世界が宗教と言うか世界観レベルでの体験が少なく幼稚だったため、オウムの教理への疑問や、「グルイズム」による縛りからなかなか取れなかった理由ではないか、と言うことを比較しようとしてみたかったのだが・・・。


さて、以下の文章は「不足した文」を補おうとして書いたもので、日付としては「2014/4/15」ということになる。

既に少し分析視点として書いたこともある「『リアリティー』はどのように構成されているか」、についての一社会学的視点ついてだ。

*  *  *  *  *  *  *

《社会学的リフレクション》
 アルフレッド・シュッツという「現象学的社会学」を理論的に構築した人がいる。

 読者の中にはルター派の宗教社会学者ピーター・バーガーをご存知の方もいるかもしれないが、彼の「現実の社会的構成(旧タイトルは日常世界の構成)」の理論的な部分は殆どシュッツに拠っているところが大きいと思う。
彼の理論で重要なものは、『リアリティー』を複眼的に分類・構想し、『日常世界』というプライマリーな「現実」をアンカーとする一方(シュッツはこれを「パラマウント・リアリティー」と表現している)、「科学」のような他の諸「現実」を二次的なものとして関連付けたことである。(かなり昔に読んだのでシュッツ理論の大雑把な印象的要約に過ぎないのだが・・・。)

一応この「日常世界」、と言う基底的な「現実」認識を念頭に以下を読んでいただきたい。

 野田はサリン事件の後、幹部が抜けたオウム教団の責任ある立場に立たされる。

 しかし実際の教団指導は拘置された麻原や麻原の家族から来た指示をその通りやるだけであったようだ。
 「グルイズム」は依然強力で、とても事件の重大性を自覚し反省するような環境には至っていなかった。

 最終的に野田がグルイズムを振り切り、教団を脱会する一番のきっかけとなったのは、「ハルマゲドン予言(1999年)」が外れたことによる幻滅であった。(それまでは終末の実現→革命のシナリオを否定することは出来なかった。そのことに意識が吸い付けられていた。)

 それに対し高橋は入信後一旦脱会し、また入会する、と言うジグザクをやっている。
 またオウム教団を客観的に観察したり、批判したりするだけの「自己」を保持していた。

 『キリストのイニシエーション』についての部分で高橋はこう述懐している。
三時間続いたこの儀式は、このように噴飯もののきわめて幼稚なものだった。それにしても、この「幼稚さ」はオウムの大きな特徴の一つであると思う。発想もその実行の仕方も管理の仕方も、すべてがあまりにも子供っぽい。だが、子供とは残酷で凶暴な一面ももっている。オウムの怖さは子供の犯罪の怖さに似ている。
高橋はどこまで客観的に、批判的にオウム真理教の行状を観察できていたか、と言うと(このような回想録の性格からしてなかなか難しいところではあるが)、少なくとも「おかしい」と気が付くことは十分出来ていたことは伝わってくる。

彼がある程度“普通に”オウムのおかしさを、それとして認識し批判できていたのは、少年期における『世界観の揺れ』を体験していたからではないか。

高橋はそれを基に「普通の世界」とそれとは「異なる世界」があり得るかもしれないことを感じ取っていたからではないか。

高橋がオウムにいながら、そして疑問を感じながらもワークを継続し、しかし簡単には取り込まれないだけの、オウムの宗教性を判定するだけの精神があったのは、彼にはオウムのような宗教性を比較する《原体験》が幼少期にあったことが大きいのではないか。

(ここから現在に戻る)
つまり高橋には「日常世界のリアリティー」と「宗教と言う、少し日常とは異なる面を持つリアリティー」とを区別し、観察する『目』が育っていたのではないか、とヨタヨタ考えている次第である。

2014年3月16日日曜日

(5)映画と神学1:ゼロ・グラビティ

 見てもいない映画について文章を書くのは「ツリー・オブ・ライフ」以来ですね。きっと。

先日の宮崎駿の「風立ちぬ」はあくまで英語圏ブログ紹介でしたから・・・。

 邦題はゼロが付いていますが、原題はただ「グラヴィティー(重力)」ですね。

 例の如く筆者が拾ってくるネタは英語サイトからが多いのですが、今回も。

 でも最初に映画の日本語オフィシャル・サイトにダーっとあるコメントのどれを見ても、この映画が「神学」に関係するようなものは皆無ですね。

 まっ少し哲学的とか、スピリチュアルっぽいのは無くはないですが。

 北米では筆者がうん十年前に神学校で学んでいた時既に「神学的文化批評」として、文学や映画などは題材にされていました。

 今回ご紹介するのはシカゴ大学神学部の博士課程の方が書いた映画批評です。

"Gravity" vs. Richard Dawkins

 要するにポイントはキュアロン監督がこの映画で描いている視点は「神論的」だ、そしてドーキンスの視点に対抗するものだ、という指摘です。
(キュアロン監督ってメキシコ出身なんですね。)

 評者のデーヴィド・ミハリフィー氏はサンドラ・ブロック演ずるライアン・ストーンは「地球帰還という物理的な旅」と「神の導きによって帰還する霊的再生」が並行的に描かれているのだ、と主張します。

 過去に娘を亡くすという不幸(adversity)に直面した時もドライに過ごしたライアンは、一人で地球に帰還しなくてはならない段になって「どうやって祈ればいいか何て教わってない」と吐露する場面があるそうな。

 映画のシーンの中で、蛙が横切り、海草のようなものが漂い、岸辺に昆虫、鳥がさえずる・・・のがあるそうです。
そこで、
As the script specifies, Stone “drags herself from the water, like the first amphibious life form crawling out of the primordial soup onto land.” After she stands, she looks around, and then, as the music swells in a major key, she tilts her head upward. The camera-shot from below emphasizes Stone staring into the heavens. Yes, evolution exists, Cuaron communicates, but when the odd phenomenon of life is comprehended by the life-form that has become sentient, the fact that there is life at all confirms the activity of a benevolent God.
つまり人類が神への感謝を覚える瞬間を表している(らしい)のだそうです。

 評者もNY Villege Voiceの映画評から引用するように、祈りと言う宗教的なモチーフが表現されているようです。
Stone continues to talk even after contact with home has been lost: Kowalski has reminded her that even though she can't hear Houston, Houston may be able to hear her, which is as apt and unsentimental a metaphor for prayer as I can think of. And so she takes us, if not some unseen and unheard God, into her confidence with her soliloquies

 まっ他にも幾つか「宗教的象徴」が仕掛けられている、と指摘しておりますが、作品というものは何層もの意味構造を持っていて、その人の世界観によって見えたり、見えなかったりするのでしょうね。

 このブロガーは
「宇宙の死の恐怖」をテーマとしているよりも、その恐怖との対比として「地球の生」を描きたかったんじゃないかと思う。
地球の水面に着水、神舟の ハッチを開き流れ込む水に翻弄されるライアン。この時の作中の音は「ライアンが水の中にいるときだけ音が消える」という宇宙空間と同じ演出なのだが、これ は水の存在=生を表現しているのだから意味合いは全く真逆の無音であるわけで、ライアンが水面まで泳ぎあがるシーンに移る一匹のカエル、なんとか岸まで泳ぎ着いたライアンが笑うような、泣くような複雑な顔で泥を握るシーン、ラスト5分で「地球という星の生命を育むすばらしさ」が表されているというか。そし てそこで初めて映画内初の「GRAVITY」……重力がライアンを包み込む。このシーンのためにあったんだよ、宇宙空間でのお話は!(リンク
としていますね。

 少なくとも日本では余り宗教的・神学的な解釈と言うのは見当たらないようですね。

※映画の脚本は、ここ
※キュアロン監督へのインタヴュー記事は、ここ

 では次回もう一つ映画を取上げます。
 (またもや見ていない。でも日本ではまもなく試写会が行なわれるという時期ですからいたし方ありませんね。)



2014年1月25日土曜日

(4)信仰と科学

昨日は朝から軽い頭痛がしていた。
頭痛薬を服用したが、夜になっても余り変わりばえしないので、早めに就寝することにした。

目が覚めたのは3時半過ぎ。
今度は空腹の時のような軽い腹痛。

また寝ようと思っても無理そう。
しかし起き上がるのには早過ぎる。

どうしようってんでスマホにすがりついた。
ツイッターやフェイスブックは面倒くさい。

ラジコは好きな音楽がない。
辿りついたのがYOUTUBE。

ちらほら探して時間潰しになりそうなのはこれか、と選んだのがこれだ。


ジョン・レノックスの動画(講演)は何度か聞いたことがある。

オックスフォードの数学の教授だが、キリスト教信仰を弁証する際には、「宇宙の実在を人格的創造神の存在」に訴えることは当然ながらするが、むしろ素朴に敬虔にイエス・キリストの十字架と復活の意義をアッピールする。

その点C・S・ルイスの「キリスト教の精髄」の議論のように、「道徳世界」の前提と「罪の現実」を軸にする。

片やリチャード・ドーキンスは、と言うと、これが真面目に聞いたことはまだなかったのではないかと思う。

数年前、アリスター・マクグラスと討論したり、N.T.ライトが彼をdismissするような発言を聞いたりしていたので、「聞くに値しない」と思っていた。

しかしこの討論を聞いてみて、やはりドーキンスなりのスタンスがあることが分かったような気がする。
「無神論」と区別されるが、思っていたほど攻撃的でも狂信的でもない印象である。

一通り聞いて感じたことはレノックスとドーキンスはやはり「Worlds Apart」なのだろう。どちらかが相手を説得するだけの切り札は持っていない。

もちろん世の中に無神論者はいろいろいるだろうが、ドーキンスのようなcommittedでインテリジェントな神論的説明不要論者はそれほどいないのではないか。

信仰もしばしばそうであるように、無神論もまた多くの人にとって、It Just feels like it、な選択に過ぎないケースが多いのではないか。

ドーキンスのように、生物の起源、宇宙の起源、生命の起源に関して、神論的説明は不要であり、むしろ科学を阻害する有害なものであることを論じるのに熱心な方は珍しいのかもしれない。

欧米では年齢が低くなるに従って「無神論」の立場を取る、あるいは表明する者の割合が増加傾向にあると聞くが、既成宗教の否定の裏でスピリチュアリティーへの関心が持続しているのとどこかで関連しているのではないだろうか。

ドーキンスはキリスト教の「救済信仰」的な面(人間の罪をキリストの死が身代わりで赦す)をpettyと度々指摘していた。

この点に関してはボンヘッファーも指摘していたし、近年そのような個人的救済宗教の牙城である「福音派」内部からも自己批判がかなり出てきている。

ドーキンスの指摘は誇張もあるが、キリスト教の新たな捉え方、あるいは提示の仕方の必要性を示唆しているかもしれない。

レノックスは最後の方で、ハーバーマスが「公共世界」を維持する上でキリスト教に基づく倫理の必要性を指摘していることを、キリスト教信仰の有効性のポイントとして挙げたが、これはドーキンス相手には上手く噛み合いそうもない議論であろう。

筆者の見たところ、ドーキンスの主張・議論はかなり狭い。
「生物の起源」、「宇宙の起源」、「生命の起源」はマクロな知的問題であるが、日常世界を生きる人間を四六時中拘束する問題ではない。

人間関係に悩み、病気に苦しみ、人生の不条理に悩み、愛し憎み合い、対立し殺し合うことに満ちている「現実」世界を生きる殆んどの人間にとっては(ドーキンスもその一人であるはずだが)、科学が問いそして提供する言説は、宗教が提供するそれよりも今のところかなりかけ離れていると言うべきだろう。

生物は自然淘汰して進化してきたことがどれだけ生物学的に証拠に基づく合理的説明であったとしても、自由・平等・慈悲・親切といった倫理的価値観を駆逐するような説得力を持ちえるかどうか疑わしい。

人は「知的パズル」を解明する為に生まれてきたのではなく(それも重要なものであるが)、よく生きるために生まれてきたのだ。

よく生きるとは、この世界で人が与えられたあらゆるもの(困難や悪も含めて)に対して回答を求めて行く生き方であり、その点で(自然)科学はすべての答えを持つものではないただろう。
人類はそのような生きる知恵を宗教的伝統に求めざるを得ないのではなかろうか。

まっ、以上は寝て起きたばかりのボケ発言とご容赦ください。

2013年7月31日水曜日

(4)ジョン・ウォルトン、創世記1章

日本では殆んど話題にもならないが(その手の団体には申し訳ないが)、北米福音派では創世記1-2章の解釈を巡って結構盛んに論争がなされている。

「創造論」対「進化論」のような従来の対立構図に代わって、最近は「神論的進化説」みたいなものが大分出てきている。

この手の代表的なシンクタンクがBiologosだ。
今はやめてしまったが創立に貢献したのが「ゲノムと聖書」の著者、フランシス・コリンズだ。


コリンズのこの本に関しては当ブログでも記事にしている。これこれ

そのバイオ・ロゴス財団のサイトには筆者が注目してきたN.T.ライト教授も色々顔を出している。

その他にもホィートン大学の旧約学教授、ジョン・ウォルトンも貢献している。ここ

これでやっとイントロ(前置き)が出来た。

要するに何が言いたかったかと言うと、ジョン・ウォルトンの
The Lost World of Genesis One
をやっと今日入手した。アマゾン日本

実は筆者も関わるN.T.ライト・セミナー第2回N.T.ライト・セミナーで、ジョン・ウォルトンが指摘する「創造記述の背景には神殿がある」と言う、旧約聖書学では今や常識となりつつある「解釈フレーム」が、基調講演者の鎌野直人氏によって語られる運びとなり、そのリスポンデントである筆者(旧約聖書学の素人)が何とか一夜漬けでもカバーしておかなければ、と注文した本なのである。

あー長ったらしい文章になってしまった。失礼。

まっしかし当の鎌野氏によると、この本はあくまで入門で、Jon D. Levensonを読まないとダメらしい。

と言うことで、また彼の本を注文したところ。

あー、やれやれ。読む本が増えて大変だ。

もう明日から8月だ。読書の夏。

2012年9月2日日曜日

科学と哲学を区別することによって

久し振りに「英語圏ブログ紹介」を兼ねて。

ロス・マーッケンジーのsoli deo gloriaブログ。

彼の最近の投稿記事、 Distinguishing Science From Philosophyがちょっと面白いのではないかと思った。
「科学と哲学を区別することによって」と訳したが、ロスの記事では「哲学」には宗教も含めた「世界観」的解釈を持つ思想が意図されている。

先ず「科学」だが、簡単に定義すれば「科学的知識」と「哲学的主張」の違いは、
Scientific knowledge is something that is experimentally testable, open to confirmation, and can be agreed upon by a wide range of parties. Philosophical claims do not have these qualities. They are not testable in a laboratory.
まっこれは余りにも教科書的で珍しいものは何もないが、次にロスが挙げる例(科学と哲学の相違)が分かりやすくしてくれる。

(1)
科学:「地球は太陽系惑星の中心ではない。」
哲学A:「人類は特別な存在ではない。」
哲学B:「地理的位置は物事を意義付ける尺度ではない。」

(2)
科学:「太陽は1700億を数える銀河の一つ、『天の川銀河』にある2000億個の星の一つである。」
哲学A:「人類は宇宙においては全く無意味な存在である。」
哲学B:「人間は非常に有り得ないほど偶然の存在である。」
哲学C:「人間はその固有性と有り得なさの故に高度に意義深い存在である。」

(3)
科学:「人間のDNAとチンパンジーのDNAは97%同一である。」
哲学A:「人類は他の動物と何ら異なるところはない。」
哲学B:「動物の命は人間の命と平等に価値がある。」
哲学C:「(チンパンジーとの)3%の違いに如何に人間が固有で特別な存在であるかが示されている。」


このように対比してみれば、「科学的知識」と「哲学的主張」の違いが良く分かるのではないか、とロス・マッケンジーさんは申しております。

皆さんはどんな印象をお持ちになりましたか。


2011年7月11日月曜日

進化論と科学すること

今日は門外漢らしく「横やり」的な記事にまとめてみようかな。

最近とある場所でK・Iと言う方が、「心臓外科医が語る驚異の人体」と題する講演を行ったそうなんだ。

と、これをあるキリスト教出版関係の方でMと呼ばれている方が、「私たちはこういう立場はとりません。→ 聖書は正しく、進化論は間違い-クリスチャンは堂々と説明できるべき」と言うツイート(ツイッターのメッセージ)を流したそうな。

すると、これがツイッター上で議論に発展し、クリスチャンもそうじゃない人も巻き込んで、色んな見方と言うか疑問がやり取りされたんだって。
それをtogetterにまとめてくれた人がいて大体追っていくと議論の展開がある程度読めるって言うわけ。

傍観しながらその一部を眺めていた筆者でしたが、
「こりゃーブログ記事になりそうかなー」などとあれこれ考えていたら、議論の一部を構成していたS・NさんとN・Kさんのツイート応酬を、S・Nさんが自分のブログにまとめちゃいました。

ここ数日、そう言う訳で暫く振りにまた「進化論」なるものの存在を確認したわけですな。

でっ、この一連の議論での「進化論」は、かなり通説的な意味での「進化論」の場合もあるし、少し立ち入って現在の生物学的進化論を念頭に語られている場合もあるし、話者によって「進化論」の意味する範囲や科学的次元での認識に少々差があるみたいなんですね。

傍観者としては議論が炎上するのを見るのは多少面白いのだけれど、何か新たな認識やヒントがあるかというと・・・うーん少し期待外れかな。
でも話題は色々な方向に広がってそれなりに楽しめました。

元に戻って、K・Iと言う某大学の准教授さんがやっつけようとした「進化論」は現在の生物学的進化論のレベルから言うとかなり昔の「子供用の通説」のような印象を受けるのですね。
だからこのような「進化論」をやっつけ、被造物としての人体の不思議さを力説しても、それは必ずしも「創造論」を強化するとは限らないように感ずるのですよ。
所謂「ストローマン(藁人形)」を相手にしている議論のようなんですね。

話の視点を大きく変えますが、この一連の議論、特に「進化論」の話題に関して筆者が大切だと思うのは、「教育」ということなんです。

少し極端な言い方をすれば「教育」とは「文化・伝統」を継承することです。科学にしても(進化論はその一部)宗教にしても、それは文化を伝承することだと思うんです。
ただそのやり方には色々あるし、簡単ではありません。

科学的な教育で大事な点は「データの検証」を導く仮説であり、その発展によって仮説自体が進化することですよね。
この科学的検証のプロセスで「批判的なものの考え方」が大事だと言うことは誰でも認めることです。「信仰(宗教)」の伝承とは正反対のように見えるかもしれませんが、実はキリスト教も単なる「教説」を無批判に継承することが大切なわけではありません。
視点は違いますが、科学が対象にしている「世界(リアリティー)」と、キリスト教(宗教)が対象にしている世界は全く相容れない異なるリアリティーではなく、多分に重なっていると思うのです。
確かに科学は「見える世界」としての物質的宇宙全体を相手にしますが、キリスト教(宗教)はそのリアリティを越えた「見えない世界」「スピリチュアルなリアリティー」だけを相手にしているのではありません。

「進化論」と言うと聖書、それも創世記の一部だけが突出して議論されますが、それはキリスト教全体の真理を代表するものではありません。
キリスト教に限って言えば、「世界はどの程度の客観的時間の長さで生成したのか」は中心ではありません。しかしそれは創世記が重要ではない、と言うことにはなりません。

キリスト教の教えの中核は「イエス・キリストにおける神の救いのご計画の実現」です。
しかしこの「神の救いのご計画」は、科学が対象にする物質的宇宙と深く関わっているのです。
その枠付けをしてくれるのが創世記から始まる「世界」の歴史だと思うのです。

キリスト教教育にとって大切なのは「イエス」に関する、「神」に関する、「救い」に関する「教説」を断片的に押し付けることではありません。
この物質的宇宙全体を含めた救済のドラマ全体を把握し、そこに「私」の存在を発見することです。

科学教育にとっても大切なのは「進化論」と言う「学説」を押し付けることではありません。生徒たちは断片的知識の詰め込み教育には余り関心を示さないでしょう。子供たちが知りたいのは世界全体の成り立ちと、自分の存在がそこにどう関わっているか、と言うことの組み合わせだと思うのです。

信仰も科学も今キーワードとなっているのは「ストーリー」だと思います。
この「見える世界」も「見えない世界」も含めたリアリティー全体を有らしめている『原理』『真理』を物語の流れの中で分かるようになりたいのです。

「進化論」教育は単なる学説としてではなく、一つの大きな『世界全体』のエポリューション(成り立ち)として物語られる方向に向かいつつあるようです。
宇宙の進化、物質の進化、地球の進化、生命体の進化、生物の進化、人間の進化、等々を一つの時間の流れの中で展開する物語として子供たちに教えようとする取り組みが試みられています。(Our Common Story

さて傍観者の呟きが説教調になってきたところでやめておくのが賢いでしょうね。
では又いつか「進化論」について呟くことにしましょうかね・・・。

2011年6月9日木曜日

アダムとイブの史実性の問題、追記

昨日ポストした記事に「はちことぼぼるの日記」ブログのはちこさんから、ツィッターでレスを頂いた。

昨日のCT記事でも名前が挙がっていたティム・ケラー師のCreation, Evolution, and Christian Laypeople (pdf) をはちこさん(中村佐知さん)が翻訳してネットで公開されているのを教えてくださったのだ。

一読してケラー師が、「進化論(科学)と信仰(聖書解釈及び聖書の権威)」の問題に、信徒の悩みや疑問に答え導く牧師としてこの文を書かれていることに感銘を覚えた。

牧師として、科学、聖書解釈、神学の専門家ではなくとも、それらを読みこなし、専門家の知見と信徒の疑問との橋渡しをする責務が牧師にあることを指摘されていた。

筆者はそのような牧会的局面に殆んど立たされたことはないが、彼が感ずるこの牧師の責務の大変さの幾分かは、昨日の記事で懸念として表明させていただいた。

さて「アダムとイブの史実性の問題」にティム・ケラー師の「創造と進化ーー牧会者の視点から」
はかなりの紙面を割いてその受け止め方を書いている。
ケラー師は「聖書の権威」を保持する保守的な考え方の持ち主とお見受けするが、科学(進化論、特に生物学的進化論)と聖書箇所、特に創世記の調和のさせ方は柔軟であり、対立的な立場を取らず可能な限り「自然啓示」と「聖書啓示」とをバランスさせようと努力しておられる方である、と見た。

結論としてはケラー師は「アダムとイブの史実性」を保持する調和のさせ方を選択するが、そのような立場をとっても当該聖書箇所の解釈の仕方には幾通りかの選択肢があると指摘している。

是非お読みになって、昨日の筆者の物足りない文章に対する消化不良を解消してください。

(※それにしてもこのような文章の翻訳をボランティアしてくださるはちこさんに感謝です。)

2011年6月8日水曜日

科学と人類の始祖アダムとイブ

「クリスチャニティー・トゥデー」誌でこの問題が最近の福音主義論争において大きな火種になりそうであることを伝えている。

The Search for the Historical Adam

一般のキリスト者は依然として創世記1-3章を歴史的叙述として読むことに慣れている。
人類の祖先であるアダムとイブが歴史的な存在であることも余り議論せずに受け入れていると思われる。

しかしここに来て人類ゲノム解析や進化論的科学が立証するデータが、「アダムとイブ」が人類全体の唯一の祖先、つまり歴史個人的存在として理解するのは困難である、との見方が勢力を強めている。
「アダムとイブは神が直接創造された人類全体の祖先」とする保守的福音主義信条が最早議論抜きでは多くの知的福音主義キリスト者に通用しなくなってきている。

その推進力になっているのが国立衛生研究所長官、フランシス・コリンズ氏と、コリンズ氏が創設した「バイオ・ロゴス財団」だ。



とまあそんな書き出しでまとめられている記事だが、筆者は何しろ門外漢なので内容の細部に渡っては論評できない。是非読んでみて最近の動向を理解して頂くしかない。

そもそも一時代前の「科学と信仰の調和」は、「科学」と「信仰(神学)」との対等な関係を前提にしていたようだが、福音主義クリスチャンでありながらダーウィンの進化論を主張するコリンズ氏やその仲間たちは「科学的証拠」を伝統的な聖書理解を左右する根拠にしている、と筆者には思える。科学がリードしている。その意味で二者は最早対等ではないのではないか、との印象をもってしまうのだ。

「アダムとイブが人類の最初の夫婦」と言う概念は科学的証拠からは残念ながら肯定できない、とするコリンズ氏たちの主張は伝統的キリスト教教義の再考を促すことになる。
「神の像」「原罪」「堕落」「イエスの系図(ルカ)」「人類全体を覆うキリストの贖い(パウロ)」もそのインパクトを受けるだろう、とリチャード・オストリング記者は推測する。

「ヤングアース創造論」「オールドアース創造論」「インテリジェント・ディザイン」の立場すべてをコリンズ氏と「バイオロゴス研究所」に関係する学者たちは否定する。そして最新の科学的データに合致する知的に洗練された「神論的進化論」福音主義を推進する。
勢い関連する聖書箇所の解釈でも科学的データを重視する態度が強いように思う。

この論争はまだ学者・識者間での論争だが、一般信徒のレベルまで降りてきたらどうなるのだろうか。相当の混乱を引き起こすことが予想される。
伝統的な解釈に留まろうとする力と、科学的に開明的な理解を取り入れようとする力が個々人の心のうちで拮抗するようなことになるのだろうか。

科学的誠実さと信仰とは両立する、とはコリンズ氏の信念だが実際においては一般信徒はコリンズ氏のように科学的データをコントロールして信仰と両立させるすべを持っているわけではない。
世は(科学的)専門家の意見、それも対立する意見の間を行ったり来たりせざるを得ないのではなかろうか。

信仰的に柔軟であることは、伝統的聖書解釈や教義的信仰を変更する開明さを持ち合わせている。
しかしオストリング記者が指摘するように、これが神学的人間理解の根幹を揺さぶるとなると、果たして体裁のいい調和は可能だろうか。むしろ「科学的実証的データ」を優先させる立場に立たないと終始一貫しない、ということにならないだろうか。
「科学」と「信仰」を調和させると言うのはこの段階まで来るとそう簡単ではないように見える。

そんな懸念を覚えながらこの記事を読んだ。

2011年5月20日金曜日

ホーキング博士の天国

めったにインタヴューに応じない人らしいが、つい先日英国ガーディアン紙が行ったホーキング博士とのインタヴューが記事になっている。(Stephen Hawking: 'There is no heaven; it's a fairy story.'

難病で20代で余命僅かと言われた人が69まで生きてきて人生観(死生観)を語ると言うわけだからそれなりに重みがある。しかも博士は一大宇宙物理学者だ。その発言がニュースになるのも頷ける。

さてメディアで一番注目されているのが以下の質問と答えだ。
You had a health scare and spent time in hospital in 2009. What, if anything, do you fear about death?
I have lived with the prospect of an early death for the last 49 years. I'm not afraid of death, but I'm in no hurry to die. I have so much I want to do first. I regard the brain as a computer which will stop working when its components fail. There is no heaven or afterlife for broken down computers; that is a fairy story for people afraid of the dark.
一見普通の無神論者が「宗教は心の弱い人が抱くもの」みたいに聞こえるが、人間をコンピューターになぞらえているところが徹底して物質主義的と言うべきか。

彼の言う「ヘブン(天国)」や「アフターライフ(死後の命)」は大衆的キリスト教の一般概念のように思う。神学的にニュアンスされた「身体の復活」「死者からの復活」のような意味は含んでいない。

キリスト教からは当然反論が起こる。特に「復活」をキリスト教信仰の中核と見る者にとっては、ホーキング博士のこの言は中途半端で満足行く議論ではない。(例、Ross McKenzie

またキリスト者かどうか分からないが「イエスの復活」の事実(可能)性から反論している方もおられる。この方はホーキング博士と同じ病気を持つ人であるが、インタヴューが短い会話にならざるを得ず、ホーキング博士が必ずしも言いたいことを尽くしているとは思っていないが、妥当な反論を試みている。(一読者のコメント、I'd stake my life that Stephen Hawking is wrong about heaven
Strangely enough, my theory that there is a form of life after we die is not some sort of wishful thinking. It's based on evidence. If the brain is a computer, then, when I was studying where Stephen Hawking now teaches, I came on a mass of data of which the most convincing, the neatest, explanation was that death is not the end of life. It wasn't the most comfortable nor most obvious of conclusions, but the forensic case was forceful and beautiful, providing "simple explanations of phenomena or connections between different observations". The best exposition I found was by the then director of the Institute of Advanced Legal Studies in London, Professor Sir Norman Anderson, in The Evidence for the Resurrection (later republished as part of Jesus Christ: The Witness of History). My disturbing conclusion was that, if it happened once, as seemed beyond reasonable doubt, then I needed to revise my whole world view. What you see is not all you get.
少なくともホーキング博士のこの度の発言で、「天国」というふわふわした大衆的キリスト教観念を鍛え直す機会になればそれもまたよし、ではないだろうか。

2011年1月24日月曜日

進化論的キリスト教

本ポストの標題はEvolutionary Christianityの訳です。
まだ余り日本語ウェッブサイト上では見当たりませんが、この視点を宣教師的熱心でアッピールしているマイケル・ダウド(Michael Dowd)師が主に使っている表現で、まだ一般的用語ではないようです。

筆者は進化論に関しては大した関心のないまま来てしまいましたが、本ブログ「人気投稿」トップの座を依然としてキープしている「有神論的世界観と『被造世界』の科学的解明」に対する反応を見て、改めて『進化論』に対する認識の重要性に思い至りました。

上記ポストでは「進化論」の問題は「科学と信仰」あるいは「科学と宗教」と呼ばれる討論分野の一アイテム、と言う位置づけでしたが、北米では「進化論」受容の是非を軸に「カルチャー・ウォー(文化対立)」と呼ばれるほど論争がヒートアップしていることを再認識するに至りました。

北米キリスト教の聖書主義的キリスト教の文化的背景では、「創造の時間的古さの問題(字義通りの六日間創造解釈、ヤング・アース説、オールド・アース説、など)」「人類創造(アダムとエバの史実性)の問題」が福音派内でも保守派と穏健派で争点になっています。

ところがマイケル・ダウド師の提唱する「進化論的キリスト教」は生物学的な進化論だけでなく、宇宙の進化、生命の進化、生物の進化、文化・社会の進化まで網羅する「包括的な進化論」の視点からキリスト教を再解釈する問題提起となっています。

昨年末ダウド師は、キリスト教の様々な立場に立つ識者、ノーベル賞受賞者を含む科学者、「科学と宗教」の専門的研究者など38人とネットを介してインタヴューを敢行しそれをネット上で公開しています。
Science-rejecting creationism and faith-rejecting atheism are not the only games in town. Tens of millions in the middle, represented by the amazing diversity of thought leaders participating in this teleseries, see no conflict between faith and reason, heart and head, Jesus and Darwin. For us, religious faith and spiritual practice can be strengthened and deepened by what God/Reality is revealing through science.
とあるように、「進化論を、つまり科学を否定する保守的キリスト教」と「科学を敵視する時代遅れの宗教と見る無神論者」の極端な「文化対立」の構図に見えるけれども、実際にはその間に挟まれた大多数は「科学と信仰」を両立するものと見ているのだ、と捉え、この中間層に位置する識者たちがどのように「科学と宗教」を調和、対話、補完させているのかをインタヴューを通して示そうと言う企画のようです。

と、ここまではダウド師がいかにも「科学と信仰」を調停し、どちらの分野にも独自の存在理由があるかのように思わせますが、インタヴューを幾つか聞いてみると、表面上はそのような会話をしているように見せながら、ここかしこにダウド師独特の理解と言い回し(deep-eye, Reality, evidential knowledge, natural, etc.)を使って、自説をインタヴュー相手に試している、あわよくば同意を得ようとしている、・・・風に聞こえます。

筆者は現在北米保守派の論客第一人者の一人アルバート・モラー師とは大分見方が異なりますが、モラー師のダウド評Thank God for the New Atheists?には一定の同意を覚えます。

ダウド師は心から自説を信じているようで、進化論を受け入れてキリスト教を根底から現在の科学的認識に調和させることがキリスト教にとって良いことであり、聖書やそれに基づいた教義などと言う古い時代的制約下で成立した神話は捨て去るべきだ、と主張しています。

まあ、聞いた範囲の感想なのですが、ダウド師は非常に標準的なアメリカ人、ストレートに物を考え、決まった言い回しを繰り返し繰り返し用いながら、さらに自説への自信を深めていく、無邪気さを兼ね備えている感じです。


それ程自分が達して保持している世界観の素晴らしさに酔っているような雰囲気を持っています。

インタヴューではマナーも良く、相手と自分の考え方の違いも認める率直さも持っています。
ただ「素直で無邪気な頑固さ」と言うか、平均的アメリカ人にアッピールする伝染力を持っている感じです。

不思議なのはバイオ・ロゴスのカール・ギバーソン(副理事長)やジョン・ポルキングホーンなどもインタヴューに応じていることです。
筆者の目から見ると、これほど歴史的キリスト教とはかけ離れた考え方の持ち主と実のある対話を出来ると考えての応諾だったのか・・・その辺が良く分からないところです。

まっ誰とでも対話できることはそれなりに市民社会の成立にとって相応しいことなのかもしれませんが。ただこれがダウド師の信憑性を高める広告塔の役回りをやらされた・・・なんてことにならなければいいのですが。

と言うわけで、結論から言うと38人へのインタヴューはそれなりに興味深いし得る所はあると思います。ただダウド師によるキリスト教のラディカルな再解釈には要注意です。
キリスト教の表現を自説に合うようにつまみ食いし、「キリスト教を原理的に規定する使徒的福音」への配慮は殆んど持ち合わせていないようです。
ダウド師にとってキリスト教の啓示は、「ナザレのイエスにおいて神が成就された終末的救いの出来事」ではなく、太古の昔から延々と繰り広げられ現在も進化している「宇宙全体のリアリティー」そのものであり、彼自身が言うように「全く現在的な啓示」と言うことになるようです。それがどれほど歴史的・正統的キリスト教と乖離した内容となっても、あくまで「現在的(科学的)啓示」が優先する、と言うことのようです。

筆者はもっと慎重で真面目な進化論との対話を促進する神学者、教会人の意見を参考にしたいと思います。その基準から言うとダウド師は表現は良くないですが「包括的進化論の心酔者、道化みたいな宣教師」に見えます。

※果たしてダウド師の奉ずる「進化論的キリスト教」は日本に渡来するでしょうか。もし渡来したとしたら一定のアッピールはすることでしょう。