2014年6月29日日曜日

東京やきとり亭 六義園店

当教会がある大和郷についてはごく簡単に紹介した。

最近散歩コースが「近・短」に変わった。
ちょっと体調がいまいちで。

それで近くの六義園の塀を回るコースを歩き出した。
その一回り外、不忍通を歩くようになって気がついた店が「東京やきとり亭 六義園店」だ。

大和郷には独自の町会があって、最近「一般社団法人大和郷会」に組織替えをした。
有名な「大和郷幼稚園」を運営する組織でもある。

大和郷の分譲開始が大正時代だからもうかなり昔のことである。
開始当時分譲を購入した方々が文化人が多かったためか、自治組織を作って色々活動をしてきた。

このご時勢だから、その「大和郷会」も独自のウェブサイトを持っていてもいいと思うのだが、どうやら未だにないようだ。

しかし「大和郷会」については、最近某社のウェブサイトで「理事長 田口邦臣さん・副理事長 伊東久信さん」のインタヴュー記事が出ているので、そこに会の名前の由来や、「大和郷だより」について結構詳しく書かれている。

筆者がこの「六義園店」を耳にしたのは昨年出た「大和郷だより」のどれかであったと記憶している。(年頭号だったような・・・。)

あーあんなとこにそんな店があったのか。いつか行ってみたいな・・・。

くらいで終わってしまっていた。

そして散歩で通りかかるようになって再確認した次第。

そんなに大きな店ではないのでうっかり通り過ごしてしまうくらいだが、何と言っても目印は「山葡萄」。

当教会の前庭にも山葡萄があるのだが、ほっぽりぱなしで、毎年実はついても大きくならず、葉に隠れて萎んで枯れておしまい。

しかしこの店のは大変立派。(先週撮影)



何となくこれ見てお店の方にもまた興味が湧いてしまった。

ちなみにメニューはこれ。

2014年6月28日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2014年6月29日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネの福音書 21:1-14

説 教 題 「家に住む」
説 教 者  小嶋崇 牧師
  


上半期の感謝の礼拝 

 

2014年6月25日水曜日

(4)雑想 2014/06/25

やはり同じテーマになってしまった。

言わずと知れた「『パウロ研究』の新しい視点」について。

あるブログ記事を読んでいて(賢い読者はすぐにお分かりと思うが)、このテーマを取り扱う環境が果たして日本で整っているのか、と言う懸念が一方であることを知らされた。

筆者のように『パウロ研究』と一応「学術領域での議論」であることを断ったとしても、警戒心を抱く方はおられるのだろう。それは無理もないことだ。

特に今頃、かつて70年代以降90年代にかけて一学術領域で盛んになされた議論(それだけでも約20年前となる)を日本に紹介するのは如何なものか--特にその議論が“福音派”を大いに分裂させた論争的なものであるとするならば--と言う見方も分からないでもない。

筆者のスタンスは「論争が巻き起こることを期待する」ものではない。

どちらかと言うと「第二神殿ユダヤ教」理解の積極的評価の可能性、としての研鑽そして受容である。


ただ、「パウロ研究の新しい視点」に対抗的な学者の方々が少なからずおられるので、その方面のことも最初から紹介しておいた方が宜しいと思う。


前回真っ先に挙げておいたThePaulPage、に「新視点」批判者・懐疑論者たちの論文を纏めたページがある。


ご覧のようにかなり沢山あって、とてもじゃないが読み切れるものではない。


たまたま読んだものを紹介しておこう。(上記ページにはリンクはされていないようだ。同著者のものはあるが。)

Sinclair Ferguson, Justification in Christ



ご覧の画像の本、Justified In Christ: God's Plan For Us In Justification の「少し長いイントロダクション」として書かれた論文である。


ファーガソンはここ50年間にもたらされた「福音」の“誤った再解釈”を嘆いている。

そして特にこの本が論敵にしている「新視点」の影響を危険視している。

もし(この本に寄稿している)批判者たちの「新視点」への懸念や疑念が、ファーガソンがこのイントロ論文でまとめている程度であれば、溝はそれほど深いものではないのだと個人的には思う。

そんな感慨を抱いた部分(論点)を三つ選んでみる。

The authors, it should be stressed, do not believe that salvation is received by a mere affirmation of the doctrine of substitutionary atonement and the imputed righteousness of Christ. But they do believe that unless the gospel is articulated in these terms (or worse, if they are denied) the good news about the Christ who does save and what it means to believe in him is distorted and the gospel is compromised.(強調は筆者。以下同様)
The "New Perspective" began life as a new perspective on Jewish faith and religion around the time of Jesus and Paul. In essence its contention is that the Judaism of this period of the second temple was - contrary to Protestant interpretations of the past - actually a religion of grace. It was most certainly not a religion of "works-righteousness." It did not teach that salvation is earned by self-effort. Rather, it held that salvation, or entry into the covenant community, was entirely a matter of grace. Thereafter obedience to the law was the way of remaining in the community whose principal external "boundary" markers were observing the Sabbath, the rite of circumcision, and the food laws. Consequently the teaching of Jesus and especially of Paul must be read (or re-read) in that light.
For Luther the great personal issue was how a sinful man can be justified before God. The "problem" the gospel solves was essentially that of his guilty condition before a righteous and holy God who abhors sin. Luther held that justification, being accounted righteous before God, takes place when the individual trusts in Jesus Christ who was "made sin for us, who knew no sin, that we might be made the righteousness of God in him" (2 Cor. 5:21). Like Calvin, Luther was awestruck by the wonderful exchange, in which our sins were accounted ("imputed") to Christ on the cross, and his righteousness was accounted ("imputed") to us through faith. For the Reformers, then, this "wonderful exchange" meant that a double imputation lies at the heart of the gospel. Thus justification was seen as "the standing or falling article of the church" (Luther) and "the hinge on which all religion turns" (Calvin).
と言うわけでファーガソンは、「新視点」が、「信仰義認」を再解釈することによって、「福音におけるキリストの贖罪のわざ」を軽んずる結果になっていないか、と言う点を重要視しているのではないかと思う。


やはりなかなか厄介な釈義的問題を孕んでいる、と言う印象。(双方が議論し合うだけでなく、双方の釈義がなぜ噛み合わないのかを説明する「解釈学的」視点も持ち込む必要があるのではなかろうか・・・。)

「新視点」を支持するにしても、伝統的「古視点(少し揶揄した感じでそう呼ばれている)」を支持するにしても、将棋やチェスではないが、双方一挙に形勢有利に持って行こうとしない方がいいのではないかと思う。


ざっとそんな感想を抱いている。

2014年6月24日火曜日

(5)現代哲学入門、現象学

母校でもある、The Graduate Theological Unionの加盟校であるドミニカン神学哲学校が主催する

What Has Athens to Do with Jerusalem?
Dialogue between Philosophy and Theology in the 21st Century

が、2014年7月16-20日まで開かれるそうである。(ここ参照

地元のカリフォルニア大学バークリー校のジョン・サール教授もパネリストに名を連ねている。

釣られて、サール教授のウェブサイトをクリックしてみた。

カリキュラム・ヴィテは積年の業績で満載、壮観である。

それから論文(Articles)のページに行って、何か読みやすくて面白そうなものはないか物色してみた。

The Phenomenological Illusionを読み出してみたのだが、ご専門ではない「現象学」について講演を引き受け、それで試みたのが「現象学」(フッサール、ハイデガー、マーロ・ポンティー)を受け継ぐ哲学者たちの「奇妙な学問構築的態度」に対する批判のようである。

それを、the Phenomenological Illusion、と呼んだわけだ。

(どうも読み進むと同じバークリー校のヒューバート・ドレイファス教授が出てくるので、結構彼を標的にしているのかもしれない。
ちなみにドレイファス教授のレクチャーには出た覚えがある。)

イントロの後、Ⅰ. The Current Situation in Philosophyという流れになり、「(人間)意識」を哲学する土俵が、原子物理学、進化論的生物学、脳科学、の進展によって極めて厳しいものになっていることが指摘される。
How do we account for our conceptions of ourselves as a certain sort of human being in a universe that we know consists entirely of physical particles in fields of force.

More precisely: Given that any sort of Cartesianism or other form of metaphysical dualism is out of the question, how do we give an account of ourselves as conscious, intentionalistic, rational, speech-act performing, ethical, free-will possessing, political and social animals in a world that consists entirely of mindless, meaningless brute physical particles.

筆者にはこれだけでも十分である。

確かに物質ベースの「リアリティー」がこれだけ分厚く・詳細にマップ・アウトされてくると、心理を含めた精神活動と言うものの独自性・独立性を領域確保するだけでも一仕事のような感じになってくる。

まっ、でも物質決定主義にそうやすやすと還元できないだろうな、という気もするが。

しかしだからと言って心理を含めた精神活動が「どのようなリアリティー」なのか、ベースとなる物質的リアリティー全体に組み込むためにはどうするかは、サール教授がドレイファス教授を槍玉に挙げているように、従来のデカルト的二元論(精神と身体)を越える「第三の存在」提唱のような議論では間に合わない、と言う指摘はその通りだと思う。

「科学と信仰」もまだまだ接近が必要だろうし、「科学と哲学(現象学)」もまたそうなのだ。


以上午後の遊び終了。

2014年6月22日日曜日

(5)亡命知識人

この話題は宗教と社会 小ロキアム@巣鴨に書いた方がいいのかもしれないが・・・。

話題にするのは
①フランクフルト学派
②ポール・ティーリッヒ
③ハンナ・アーレント

順番から言うとポール・ティーリッヒが最初だが、と言うのもアズベリー神学校やプリンストン神学校にいた時はティーリッヒは殆ど読んでいなかった。

Graduate Theological Unionに来てポール・ティーリッヒに関心を持つようになったのは、ロバート・ベラーが彼から影響を受けている、と聞いたことがあるからかもしれない。

しかし宗教社会学の古典の一人である「マックス・ヴェーバー」を読み出してまもなく、「フランクフルト学派」について知るようになり、特にMartin Jay, The Dialectical Imagination: A History of Frankfurt School and the Institute of Social Research, 1923-1950で関心を持つようになった。

そこで確かポール・ティーリッヒに言及があり、「あれっ、神学者のティーリッヒとフランクフルト学派に何かしら繋がりがあるんだ」と記憶に留めたものの、その後その繋がりについては何も調べることはなかった。

そうしたら日本語で「ティーリッヒとフランクフルト学派


と言うそのものずばりの本が出ているではないか。

ネットで調べると、深井智朗という最近よく耳にする神学者によるものらしい(でも「監修」とある)、と言うことがわかった。

で、図書館から借りて読んでみたのだが、一応少し分かったので重宝した。

そうしたら今度は「ティーリッヒとアレント繋がり」があると言うではないか。

と言うことで、これまた先日図書館から借りてきて読んだ。

悩める神学者ティーリッヒと、それを個人的によく知るハンナ・アーレントの取り合わせは「へー、そうなんだ」である。

筆者が現在出席する某神学者の読書会でも、著作となる神学書の内容と著者の人生における道徳問題とを、どのように斟酌するかと言う課題が読者側に求められるので、ティーリッヒにおいても同様関心を持った。

著者の深井は以下のようなコメントを残している。
 この二つのティリッヒ像[筆者注、精神分析と神学を結び付けた著作家像と、性的倒錯傾向者像]のどちらかに過度に傾くティリッヒ理解はいずれも誤りであろう。両者の統合がティリッヒだからである。それゆえに、今後もしまだ誰もなしえていないティリッヒの思想を総合的に、また全体的に解釈するという難行を誰かがなしうるとすれば、それは具体的には、この思想家自身の統合や体系化への熱情を上回る情熱をもって思想と生活とを統合的に結び付けたティリッヒ像を提示する、ということであるに違いない。
 実はハンナ・アーレントはそういうティリッヒを比較的若い頃から晩年にいたるまで、ひとりの人間として受け入れ、交際することができた数少ない友人のひとりであり、これまであまり注目されてこなかったが、ティリッヒにおける思想と生涯とのけっして引き裂くことのできないあの結びつきを知っている重要な証人のひとりなのである。(147ページ)
さて「思想と生活」「思想と生涯」と言うような『結び付き』は、その神学者なり思想家が「自伝的言及」を著作に入れるか、彼らの伝記作家が然るべく著作と背景とを照合して全体像を提示する仕事であり、特に「あの結び付き」とクローズアップして「思想史専門家」の「情熱的仕事」にするほどのものなのか・・・がまだよく分からないのだが。
 これはティーリッヒの場合に良く当てはまる、と言うことなのか。多分そう言う意味なのだろう。
 (しかしティーリッヒの著作と言うのはそれほど複雑で隠れたニュアンスのあるものなのか。神学者が読むより精神分析家が読み解く方がいいのか・・・。)


※タイトルの「亡命知識人」について説明していなかった。ご存知のように、①フランクフルト学派、②ポール・ティーリッヒ、③ハンナ・アーレント、らは皆ナチスドイツの時代にアメリカに亡命してきた方々で、ティーリッヒを除けばユダヤ人であった。


2014年6月21日土曜日

(2)「トイレの神様」を神学する

いやー土曜日の夜なので・・・。

やっとこ明日の週報を作成したところで、頭を幾分柔らかくしようと思って・・・。

ただ「神様」だけで思いついたので・・・。


はい、歌のタイトルは知っていました。
でも聞いたことなかった。


何かほんわかした歌だね。
かなり単調なメロディー。

やはり実話に基づいたストーリーだからかな、すんなり聞けるのは。

「喪失」と「帰還」がモチーフかな。

なんでおばあちゃんなのだろう。
そして両親が不在。

誰でもが成長と共に家族から離れて行く時がある、それが喪失の原風景。

東京に行って離れて、おばあちゃんが具合悪くなって帰るとすぐ亡くなる。

これは大きな喪失だったけど、おばあちゃんの記憶をより強く呼び戻す。


で、「神学する」だけど

別に「神様」が出てくるから「神学している」ことにはならないと思うけど
「トイレの神様」はおばあちゃんがこさえたストーリー神学なのかな

ちょっと引用しようかと思ったら、歌詞が表示されているサイトから歌詞をコピーしようと思っても出来ないや・・・。

トイレ掃除が苦手なので
おばあちゃんは
トイレ掃除をやる気にさせるために
編み出したんだろうな

だからおばあちゃんが女神様を作っちゃったんだ
でも女神様は別にトイレにいるだけで
特に何かをするわけではないね

要するにトイレれを磨くと自分も磨かれるよ
べっぴんさんになるよ
ということなのだね

人は「意味ない行為」はしたくない
というかあまりやりたくない

でもその行為に「意味がある」とやりやすい

でもトイレ掃除をしたら100円あげる
では余り面白くないよね

自分が変わるストーリー
を生きるのは楽しいよね

女神様はそのストーリーを引き出す
あるいは動かす仕掛けだ・・・
って別にたねあかしみたいなことをしても面白くないよね

きっとその気になってやったんだね
そしてできるようになって
良かったと思っているんだね

お嫁さんになった(結婚なさったそうです、その後)
今では孝行の意味でトイレ掃除がんばっているのかな


と、遊んでいたらもうお風呂に入る時間になりました
お風呂にはどんな神様おるんやろ


※この記事に対するキリスト教神学的批判その他は受け付けておりません。あしからず。

明日の礼拝案内

主日礼拝

2014年6月22日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 1:9-14

説 教 題 「父なる神に感謝をささげる」
説 教 者  小嶋崇 牧師
  

パウロ書簡の学び(124)
コロサイ人への手紙(6)
  手紙冒頭の祈りとその内容について②

2014年6月20日金曜日

(4)雑想 2014/06/20



実は、(4)「『パウロ研究』の新しい視点」の整理、と言うタイトルで用意していたのだが、どうにも余りまとまりがよくないので、『雑想』で投稿することにする。

 今週月曜日に行われた、「『パウロ研究』の新しい視点」をテーマにした講演会の様子を簡単に紹介したまま更新が滞っている。

 実はこの講演会の前後から少し「自分なりのまとめ」の取っ掛かりみたいなものをこちょこちょ始めたのだが、少し風呂敷を広げすぎて今のところ収拾が付かない状態。

 せめて「覚書」程度でもいいから書き残す、と言うことで・・・。


 恐らくこの「ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ」議論については、日本においても研究書や論文がこれから出されていくだろうが(そんな反響の一端を既に耳にしている)、それが「今後どんどん続く」とは個人的にはどうも思われない。

 まっそんな観測はどうでもいいが、念のため一応の整理を「新約聖書学者ではない、一素人」の視点からに過ぎないが、書き残しておこうと思う。

 ①用語の整理
 今後ずっとこの「語用法」で一貫できるか自信はないが、現時点ではNPPとか「ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ」としている用語を、
「『パウロ研究』の新しい視点」で置き換えようと思う。

 これは先日の研究会で発表された伊藤明生(東京基督教大学)教授が採用したものである。伊藤教授はライト読書会の方で、発表の骨子を

いわゆるNPP「『パウロ研究』に関する新しい視点」とは、特別の神学的立場のことではなく、サンダース以降の新しい、1世紀のユダヤ教理解に基づく「パウロ研究」のことである。

とアナウンスされていた。そのことに関し同教授と少しやり取りしたのだが・・・。

 しかし忘れてならないのは、日本では既に「パウロ研究の新しい視点」と言う訳語が、ジェームズ・D.G.ダン『新約学の新しい視点』(山田耕太訳、すぐ書房、1986年)、と言う本で使われていた、と言うことだ。
 (この本の書誌学的なことについては、「のらくら者の日記」さんの
この記事参照
 
 
 「パウロ研究の新しい視点」は、ジミー・ダンの、the New Perspective on Paul、と言う論文に対する訳語としてはそれでいいと思うが、そのままでは今後問題も出てくるのではないか。

 やはり、NPPの訳語を統一する必要があるのではないか、と言う素人観測で述べておく。

 今やNPPで総称されるが、それはかなり色んな議論が混じっていて、あっちこっちに飛び火などして色々異なる文脈が出来ているように見えるのだ。
 (試しにSociety of Biblical Literature、の過去10回の学会プログラムをthe New Perspective on Paulで検索なされるとよい。)

 だからもし(たとえば)「義認論」の問題としてNPP議論に入っていくと、伊藤教授が暗に示唆しているように「特別の神学的立場」に関わる議論だと短絡しかねないのではなかろうか。
 (と言っても改めて全容を見渡すほど知りもしないので、あくまでも印象的な言に過ぎないのだが・・・。)

 「パウロ研究の新しい視点」論文を書いたジミー・ダンの『律法の行い』解釈も、それがどう言う意味で核心的な問題なのか、も再考する必要があるのではないか。
 
 (かと言って、ダンの論文を読んで見なければこれもやはり憶測で終わるだろう。つまり筆者のように「NPP議論」の推移だけを見て来た者は、サンダースやダンは実際には読んでいない。ただNPP論客の一人とされてきたN.T.ライトを通して間接的にサンダースやダンの議論の筋立てを垣間見たような気になっているだけの話だが。)

 既にご紹介したが、「NPP議論入門」としては、The Paul Pageの『
イントロ』辺りから入るのが近道ではなかろうか。

 ダンの「パウロ研究の新しい視点」論文のリンクも貼られているが、今は切れている。現在はマーク・グッドエイカーのNT Pageから入手できる

 
 さて、そんなことを手始めに、いよいよ「用語の整理」について。

 NPP、あるいは「ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ」は、どう訳されるべきか。

 「パウロ研究の新しい視点」だと、既にダン論文に対応してしまっているし、そもそもこれでは一枚岩的議論の印象を与えかねない。それを避けるために別の鍵括弧をプラスした。
「『パウロ研究』の新しい視点」
 このように『パウロ研究』を括弧で括ると、「パウロ研究」が新約聖書学の一分野であることが何となく伝わってくる。それによってNPPはこの分野における一つの貢献であると言う見方ができる。

 だとすると、「パウロ研究」と言う歴史と伝統を持った研究領域にもたらされた「新しい視点」が、サンダースの研究であり、ダンの論文(ロマ書注解)である、と言う構図が理解される。

 なぜこのような面倒くさい説明を試みているかと言うと、「パウロ研究」にとっては背景に過ぎなかった「ユダヤ教」の比重が幾つかの要素により大分変容しつつあるように見えるからだ。(そのことについてはまた別の機会に。)


 とまあ、かなり近視眼的というか、ドン・キホーテ風な切り口になったが、少しでも「現在」の状況に接近しようとの意図で乱暴なことを言っているので、大目に見てやってください。

2014年6月17日火曜日

(4)「パウロ研究」の新しい視点、研究会

 6月16日にもたれた日本福音主義神学会の東部部会、2014年春季研究会、
パウロ研究に関する新しい視点」から「福音」を問い直す
に出席した。

 ほぼ一年前、「福音主義とは何か」をテーマにした同神学会研究会について辛口批評を書いたので、「あー、あれからまだ一年なのか・・・」と言う感慨が先ずある。

 去年はその後目白でのリチャード・ボウカム講演会に出席したわけで、個人的にはなかなか充実した時間をすごしたわけだった。

 今回のテーマは「『パウロ研究』の新しい視点」。

 このブログでも何度か取り上げてきたが、「ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ」、略してNPPと呼ばれるつい最近まで盛んに議論されたテーマである。

 たまたま研究発表をなさったのは、フェイスブックの方の「N.T.ライト読書会」にも加わっておられる方々だったので、予め同読書会内では少しアドバルーンを揚げたり、予備的議論などをしていた。

 昨年も会場が満杯になったことを、そして驚いたことをレポートしたが、今回はさらに賑わった。

 事前に会場を大きなホールに変更したが、それでもほぼ一杯の様子であった。(当日の発表では120名を越えていたようだ。)

《第1発表》
「『パウロ研究』を巡る新しい視点:サンダースとダンを中心に」
伊藤明生、東京基督教大学教授


 雑駁な感想で済ませてしまうのは失礼なのだが、なるべく早く書き留めておかないと忘れてしまうので、ご寛容のほどを・・・。

 先ず時間的には新しいダン(NPPの名付け親)の学術的(特にWCCロマ書注解の出版状況)を巡る話題から入った。どちらかと言うとダンは『露払い』役かな。

 講演の本論はE.P.サンダースによる画期的な「Paul and Palestinian Judaism」の紹介だった。『目次』を眺めるだけでも、彼がパウロ研究にもたらした視点の広さが窺い知れる、と言うようなニュアンスだったかもしれない。

 それにしてもこの書物の影響を考えると、依然として邦訳されていない状況では「最早NPPはちっとも新しくない」とは言っていられないのではないか。

 レジュメには「1世紀のユダヤ教は、パウロの福音を理解する文化脈に他ならない。」とあるが、言ってみればサンダースのような「新しい視点」が、「初期ラビ文献」と言うパウロの背景となる一次資料を丹念に読み込んで形作った故に、「パウロ像」をユダヤ教との連続性と非連続性で比較検討する議論が説得的になるのであろう。

 と言うことはやはり一次資料を読まないと話にならないわけだ。 

《第2発表》
ローマ人への手紙3:20-22の解釈とパウロ研究に関する新しい視点
岩上敬人(インマヌエル狭山キリスト教会牧師)

 これは個別の箇所を釈義することで、「新しい視点」の有効性をある意味弁証しようとした、と言えなくもない。無論「新しい視点」の有益性を主張する。

 参加者にとっては「実際にNPPがどう言う違いをもたらすのか」、と言うことに関心があるだろう。その釈義の実際を詳細に紹介するのは無理なので敢えて賛否両論激しく分かれる「信仰義認」に関わるパッセージを選んだのであろう。

 (岩上氏は使わなかったが、「古い」と冠される視点で支配的な)『法廷的な枠組み』に対置して、『契約』的な枠組みがパウロの義認理解に対して有効なのではないか、との論旨ではないか、と見た。(当日のレジュメは完全原稿で渡されたが、まだ熟読できていないので「こんな印象」でとどめる。)

 該当箇所を「イエス・キリストに対する信仰(目的格属格)」と取るのか、「イエス・キリストの真実(主格属格)」もまた関連する議論として興味深いテーマであるが、個人的な希望としては、広げられた風呂敷をゆっくり展開していきながら、「聖書研究」の裾野をより「分厚く」していきたいものだ。


※以上の2論文は、N.T.ライトFB読書会(非公開グループ)にて提供されています。


補記(1) 、「一世紀ユダヤ教」の文献で重要なものを整理してイントロする仕事が必要だな。

補記(2)、「正典聖書」を超える「一世紀ユダヤ教」を理解するための文献をどう位置づけたらよいのか、もイントロが必要だろうな。特にプロテスタントの方々には「旧約聖書外典偽典」をどのように導入するか、と言う問題。

補記(3)、 パウロを理解するにしても、「文化脈」が重要であることを、解釈学的に理解することを「どう説明するか」と言う問題があるだろうな。

以上、補記(1)、(2)、(3)は特に専門研究するわけではない「一般信徒」も含めた方々を念頭に挙げたものです。





2014年6月16日月曜日

(5)ジョージ・スタイナーと由良君美

 先日、粉河哲夫について投稿した。

 その時「検索していて」出遭ったのが、文学批評を専門にしているらしいqfwfqの水に流してというブログ。

 そのブログのスタイナーの続き、あるいは由良君美と山口昌男(2012年6月23日)と言う記事に粉河がコメントを寄せている。
・・・スタイナーの加藤批判は、ある意味で岩波・朝日文化人の硬直さを鋭く指摘しており、論争を仕掛けることになった由良さんは、このときばかりは、してやったりという顔そしていました。・・・
これに対してブログ主(服部と言う方なのか)はこう切り返す。
・・・やっぱりね、由良君美も人がわるい。スタイナーこそ、いい迷惑でしたね。・・・
筆者がR大学で「ひたすら勉強しない」努力を傾けていた時、後に彼方米国遊学中に勉学・研究のため関心を持つことになる加藤周一等「日本の現代知識人」の思想状況を垣間見せる、「スタイナーと加藤周一の口論」構図は以下のように描写されている。
 ときは1974年、パリ五月革命後の急速に沈滞してゆく西欧の反体制運動の気運のなかで、コミュニスムの理想はいかに実現可能かをめぐって、ふたりは鋭く対立した。スタイナーのペシミスムにたいする加藤周一のオプティミスム。むろん、加藤周一のオプティミスムは、「英知においてはペシミスト、だが、意志においてはオプティミストたれ」とグラムシのいう「意志としてのオプティミスム」である。
先のコメントによると、どうやらこの「口論」を演出したらしい由良君美なる人物に関心をそそられた。

 ネット検索して見ると、粉河哲夫ほどではないが、 由良君美も至って「マイナー」な存在に見える。しかしやはり「加藤・スタイナー」が日本で公開討論するのを仕掛けた人物としてもっと知りたい。

 と言うことで昨日図書館から借りてきたのが、四方田犬彦「先生とわたし」 だ。先生とはもちろん四方田にとっての先生であった由良君美のこと。

 いやー、なかなか面白い。筆者が不勉強を通しているほぼ同時期に、非常な知的興奮を覚えていた人たちがいたのだ。

 しかしそれは「東大」であったからではなく、多分にこの東大にあっては異色の「教養人」、由良君美に負っているのが読んでいて伝わってくる。

 四方田が研究の進路を「宗教学」(その頃東大では柳川啓一教授が面白かったらしい)の方に取ろうとしていたのを由良は推したのだと言う。

 また由良は四方田たち学生にエリアーデを読ませていたらしいし、四方田には個人的に北畠親房の「神皇正統記」を「隠れた」比較神話学のテキストとして紹介したとのこと。


 と、ここまで書いてきてタイトルに挙げた「ジョージ・スタイナー」についてはまだ何も書いていないのに気付いた。

 スタイナーを最初に耳にしたのは何時だったか。すくなくとも「ちゃんと知った」のは、プリンストン神学校でのダニエル・ジェンキンス教授の「神学と言語」みたいなタイトルの講座だった記憶している。

 その講座ではテキストの一つに使われたのが、Gerhard Ebeling, Introduction to a Theological Theory of Language、だったが、副読本に挙げられていたのがGerge Steiner, After Babel: Aspects of Language and Translation、だった。

 ジェンキンス教授は英国の親バルト神学者で、この時は客員で教えていたのだ。(ベン・マイヤースのこの記事が少し参考になるか・・・。)

 何はともあれ、ペーパーバックの大著に見えたスタイナーの『アフター・バベル』にはかなり気圧された感じで、結局手をつけていない。


 しかし「先生とわたし」と入れ替えに返却した『知の○○○○○○○』(ヒント、○はすべてカタカナ)は期待とは逆につまらなかった。

 日本の人文系の若手たちが思想史から中世・ルネサンス期を見直す論文を書いているのだが、「パトスがない」、というか一様に「のっぺり」していて気味が悪い感じがした。仕掛け人(らしくある)のH・Hは一体何をどうしたいのだろう・・・と思ったのだった。

[追記]
Daniel Thomas Jenkins (1914–2002)については、Oxford Dictionary of National Biographyの項を参照。 上記「客員」と書いたが正確には「3年間契約」での教授職だったらしい。

2014年6月14日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2014年6月15日(日) 午前10時30分

朗読箇所 Ⅰテモテ 4:6-16
説 教 題 「神の言葉である聖書」
説 教 者 小嶋崇 牧師


説教シリーズ:キリスト者の交わり(6)  
ボンヘッファー、Life Together2章『聖書を読む』から

 「一日一節」は、しかしながら聖書そのものではない。聖書は「終わりの日」まで変わることはない。聖書は単なる警句や「今日のともし火」以上のものだ。聖書はすべての人への、すべての時代で、神の啓示のことばだ。聖書は個別の箇所からなっているが単一のものであり、そのように読まれるべきものだ。

(2)分かるようで分からない聖書入門、2

 前回は「神学校に入る前の予備的訓練」として、「旧新約聖書全巻を各章毎に要約する」と言う課題についての思い出を書きました。

 今回もちょっとそれに引きずられて書きます。

 C.I.E.

 さて何の略だと思いますか。

 ヒント:聖書解釈の原則とも言えることの一つです。(その意味では聖書に限りません。読解力一般に通じる話です。)

 Context Is Everything.

 これは新約聖書(ギリシャ語)釈義の先生が口を酸っぱくして言っていたことです。
 それで今まで覚えていました。

 簡単に説明すると、自分の母語の場合は、読んでるものの中によほど難しい語彙がない限り、辞書を引くこともなく読んでしまいます。

 実はこれって「CIE」で読んでいるんです。

 しかし一旦ギリシャ語のように「自分にとって母語ではない、外国語」の文章を読む時には俄然「辞書に頼」ってしまうわけです。

 そうすると一つ一つの「語」に、どの「意味」が適当かを対応させようとするわけです。

 でもそれってかなりいい加減になりますよね。

 例えば、Context is everything. と言う文章の三つの語をすべて知らないとして、Contextから順番にその意味を調べて行くとします。

 すると辞書と言うのは、Contextと言う一つの語に対して、今までの使用例を整理して幾つもの「意味」を羅列します。

 読者はその中から適当に「意味が合いそう」なものを拾ってきて元の文章にはめ込んでみて、意味が整うか様子を見るわけです。

 でもそんなことをしていたら、次の語の意味を調べて行くうちに、どんどん選択肢が変化して行くことにもなりかねませんよね。

 暫く行ってはご破算。最初からやり直し。・・・が繰り返されるような悲惨なこともありえます。 

 こう言う「マイクロ・マネージメント的な文章釈義」に対する批判的なアプローチとして、C.I.E.はあると思うのです。

 一語一語の意味が文章全体の意味を構成(決定)するのではなく、文章全体の意味は、一語一語の意味を構成要素として成り立っている。

 言ってみれば、そんな感じですかね。微妙ですが・・・。

 C.I.E.で大切なのは「意味のユニット」をどう捉えるか、と言うことだと思います。

 一語一語が「一つの意味を持ったブロック」として、それらのブロックを様々に組み合わせて家全体が建て上げられるようなイメージに対して、

 「意味を持つブロック」とはもっと大きな集合体を「単位(ユニット)」として想定されるべきで、一つのフレーズや文章などがそれ自体で完結した意味の「単位(ユニット)」として想定されるべきではない、と言う主張を持つアプローチとでも言いましょうか・・・。

 ですから、C.I.E.が目指すのは「ロマ書」とか最低でも一つの文書であり、さらに聖書解釈での広い「文脈」で言えば、当然「聖書」全体と言うことになります。

 但し、それは前回書いた「正典聖書」と言うこととは意味が少し異なります。

 聖書解釈において「ヘブル語辞典」や「ギリシャ語辞典」を使うということは、他の中近東緒語、ギリシャ古典等、文明的に広い意味の「文脈」にあることを自覚して用いるわけですから。

 ここで幾つか蛇足を付けたい所ですが、長くなるので付けたかったトピックを挙げるにとどめます。

 1.ボンヘッファー『共に生きる生活』2章に「聖書を読む(朗読する)」があります。

 2. CIEを教えてくれた「新約聖書(ギリシャ語)釈義の先生」とは、アズベリー神学校の故ボブ・ライオン師です。

 3.例えばパウロのロマ書を理解しようとする時、パウロ書簡だけでなく、聖書全体を越えて、「第二神殿期ユダヤ教」の文脈がとても重要になります。

 (日本福音主義神学会・東部部会の研究発表会の主題がまさにそれです。6/16、月曜日、午後2時から。御茶ノ水クリスチャンセンター、8階チャペルにて。入場無料。)

2014年6月13日金曜日

(3)雑想 2014/06/13

 最近は少し集中力を欠いてきたのでなかなか更新するまでに至らない。

 かと言って放置しておくのもなんだから、宗教と社会 小ロキアム@巣鴨で導入し始めた《ダイアリー》方式みたいなものをこちらでも。

 名称は《雑想》と言うことにしよう。実は既に《断想》と言うラベルも設定してあるのだが・・・。


 現在ツイッター、3アカウントで呟いている。

 左サイドバーでご覧頂いているように、@SugamoSeisen
それから個人的な関心領域(木工、宗教社会学、等)なことを呟くために始めたが現在は宗教と社会 小ロキアム@巣鴨関連に特化しつつある、@yamakoete 、そしてN.T.ライト読書会専門の、@NTWdokushokaiだ。 

 そう言う訳で、ツイッターから捕捉する情報がやや多いため、それらを適切に各関連ブログにフィードしたい時もあるのだが、最早なかなか記事にするまでの時間も集中力もない。

 現在でも人によって「ツイート→フェイスブック」や「ツイート→ブログ」で纏めているケースがままある。(しかし殆ど羅列で終わっているのもある。)

 《雑想》ではせめていくばくかの「文脈」を与えることでスレスレ「簡略記事」にしたいのだが・・・。


 では今朝の《雑想》トップ
 20世紀リベラル・プロテスタントの指導的牧師であった、Dr. Harry Emerson Fosdick (1878 - 1969)が1926年にリバーサイド教会に着任した。それから90年弱かかって初女性主任牧師が誕生したわけだ。※現在では「荘厳な結婚式が出来るウェディング教会」として日本人の間では知られているようだ。


次の《雑想》もニュー・ヨークで関連付け。

 リバーサイド教会のご近所にある、これまた由緒ある、リベラルなプロテスタントの牙城となってきたユニオン神学校でも、初(厳密には2番目)の女性学長となったセリーン・ジョーンズ氏が先ごろ重大発表をした。
 100億円超のエンドーメントと呼ばれる学校運営を支える全寄付金(詳しく説明するのは難しいがこの記事に少々言及あり)の内から、石油関連ものをなくして行く、と言うもののようだ。それによって進歩的神学校の道徳的リーダーシップを発揮する、と言う意思表示。

2014年6月9日月曜日

(2)分かるようで分からない聖書入門、1

 突然「一つの聖書入門」シリーズを始めることにします。

 守備範囲は以下の如く。
①キリスト者
②「ヘブル語聖書」も含めた「キリスト教聖書」に関心ある方
③「世界文学」として『聖書』に関心ある方

 つまりはどんな形にせよ、 「キリスト教聖書」を手にとって読まれる方を対象にした、適当に広く、時々深い「聖書読者入門」と言うことでよろしくお願いします。

 「聖書の専門家でもなく、たかが一牧師の分際で、なぜ入門の手ほどきが出来るのよ?」と言う声が聞こえてきそうです。

 確かに一牧師は「聖書の専門家」と言うにはおこがましい。
 あくまでも一牧師として、実際に人に教えて来た者としての実験的、実際的『入門』と言うことでご了解いただければ・・・。

 あのー、それから断っておきますが筆者の「入門」は親切ではありません。

 入門的な事柄を網羅しません。

 あくまでも筆者の独断と偏見による「これは知っておいていいよ」と言う程度のものであります。

 で、取り扱う事柄には大分バラつきがあることを前もって予告しておきます。

 引用したりする場合は、日本聖書協会の『新共同訳聖書』を標準とします。(必ずしもこの訳の方が良いと言う意味ではありません。)


 以上前置きはそこまでにして・・・。

 では先ずごく簡単な殆ど誰でも知っていること。
3×9=27
※もし「なぜ数式から始まるのか?」、と思われた方がいましたら、こんな聖書入門をやった甲斐があったというものです。

 キリスト教聖書にとっては、「新約聖書」とともに「旧約聖書」と呼ばれる「ヘブル語聖書」を合わせて一つの聖書とする立場からは、この数式は「聖書の中には幾つ本があるの」かを覚える昔から使われてきた一種のあんちょこなのです。

旧約聖書は全部で39書
新約聖書は全部で27書
新旧合わせて全部で66書

となるわけでございます。

 これでお分かりでしょう、3×9=27は聖書にある本の数を新旧と分けて暗記するためのものであることが。

 これで終わると「なんと簡単な聖書入門。読むだけ無駄。」と思われるかもしれません。
 別にそれでも構いませんが、少しだけ尾ひれをつけて第1回目を閉じることにしましょう。

 正典聖書(ここでのポイントは「典」ではありませんのであしからず。)

 正典(カノン)とは「リスト・目録」のことを言います。

 つまり教会が信徒を教導するのに適した権威ある「聖書の本」はどれとどれか、と言う正典を定める過程を経て、現在のようにプロテスタントですと全66巻となった・・・と言うことなのです。

 ちなみにカトリック教会では全73巻と7つ多いのですが・・・。

 ところでこんな数覚えて何の役に立つの、と言う疑問を持たれた方の為に。

 正直別に試験があってそのために覚える・・・みたいな必要はないから「関係ない」とも言えそうなのですが、やはり膨大な聖書を「イメージしておく」ために便利だと思うんです。

 まっPCのハードディスクにデータを入れる時に「仕分け」される時のシステムみたいなものに似ている感じとでも言いましょうか。

 「あっ、あのデータはどこにあったっけ」みたいな検索が必要な時、頭の中に66巻の「書名」とか「章数」が入力されていると、後々整理が楽なのですよ。

 と言うわけで最初は余り気が進まないかもしれませんが、適当に覚えて行って下さい。きっと役に立ちます。

 ところで、余談ですが、筆者が北米の神学校に入学する直前の夏休み、学校の方から「入学前の準備」として聖書全巻、「各章毎の要約」を書いておくように、と言う指示がありました。

 全部で何章ある?

 例えばグーグルで「聖書全体で何章」で検索しても答えがありそうなページは見当たりません。

 英語で、How many chapters in the Bible?ってググると、すぐ出てきます。

 で、自分で計算しないで(暗記していないので)そちらからの情報をお借りして記しますと、

 旧約聖書・・・全929
 新約聖書・・・全260
 合計・・・1,189章、となります。

 へー、一夏で1,189章分の要約を書いたんだあの時・・・。

2014年6月8日日曜日

(3)牧師の適性

下書きが大分溜まってしまった。

少し書き足りないがストックを減らすために投稿してしまおう。

今日の記事はもう1年以上経っている。
が、別に発酵したわけではない。

  *    *    *

 時折、いやしばしば、「自分は牧師に向いているのか」と自問自答したことがある。
(最近は余りない。かと言って自信持ってやっているわけではないが。)

 牧師の適性と言う問題はあると思う。

 やはり人と人との関係構築に深く関与する仕事だから。

 「人柄」「性格」と言った面で向き不向きがあるとは思う。

 牧師と言う仕事に向けての最初の段階で、沢山の質問事項が用意された「性格診断」みたいなものに書き込んだ記憶がある。

 神学校入りたての時だった。

 これは別に「スクリーニング・テスト」というわけではない。
 将来牧師の仕事に就くため自分の性格を(多分に心理学的な見地からだが)掴んでおこう、と言う狙いであろう。

 自分のスコアシートと評価を受け取ったが、多分ほっと安心した位の結果だったと思う。

 その評価表は卒業してからも取っておいたはずだが(牧師になってから参照するためと考えたのかもしれない)、今は消失してしまってない。


 恐らく牧師に向いている人柄とは「柔和」で「謙遜」あたりを先ず考えるのではないかと思う。
 人によってはリーダーシップに必要な「明るさ」とか、「積極性」とか、「社交性」を考える人もいるかもしれない。

 またプロテスタント教会のように牧師の仕事として説教を重要視する人は「聡明さ」とか「思慮深さ」を考えるかもしれない。

 [、ここからは少しリサーチして書き足した。]

 さて、そう言うわけで、消失した結果表もなくあれこれ言うのも何だから、現在どのような「牧師適正診断」みたいなものがあるか検索してみた。英語での話しだが。

 CAS (Clergy Assessment Service)では「(心理学的にみた)牧師適正度psychological fitness)」 を以下のように定義している。
By psychological fitness, we are referring to the applicant’s potential for developing competencies needed for ministry, to become ready to begin the practice of ministry and to grow into an effective ministry professional.
とあるように、最初から「完成された」牧師像で判断するのではなく、あくまでも「牧師職」を始める段階での神学校での研鑽に相応しい『潜在能力』から始まり、神学校卒業後組織によって教会に任じられる段階での適正や、さらに一定期間を経て達成される牧師専門能力習熟度等が判定されるようだ。

 この文章、と言うかウェブサイトを見ていて思ったのだが、「専門化」が進むと、それに相応しい「適正規準」も細かくなっていくことになる。そうすると神学校の先生や教団の人事を扱う部署等がそれに対応しきれず、評価や判定を一部所謂「コンサルティング業」のような機関に外注することになるのだろうか、と言うこと。

 と言ってもそんな規模で牧師職を「専門家」集団と看做しているのは、限られた国ではなかろうか。少なくとも日本ではまだそこまで考えられてはいないだろう。 
 

2014年6月7日土曜日

明日の礼拝案内

ペンテコステ主日礼拝
 
6月8日(日) 午前10時30分

 
朗読箇所 使徒の働き 2:1-13
説 教 題 「神の大きなみわざ」
説 教 者 小嶋崇 牧師
 


※礼拝後、昼食会 

2014年6月4日水曜日

(5)粉河哲夫とFUKUSHIMA-DAIICHI

今日、たまたま、「粉河哲夫」の名前を思い出した。

何でか分からない。ただふっと思い出した。
夕食後にネット検索でもするか、と思っていた。

(これから書くことはまだネット検索前のこと。)

大学生の頃だったか(1970年代後半)、それとも遊学終わって帰国直後の頃だったか(1990年辺り)、 その位はっきりしない記憶。

ただ本を1-2冊買って読んだことは覚えているような。
少し左翼がかった思想から「メディア」の問題を捉えていたような、そんな前衛的言論人だった。

(ここからはネット検索後。)

何と!
あれほど一時期にせよメディアに持ち上げられた
(と自分には少なくとも見えていた)論客が・・・。

検索で引っかかったのは僅か2ページ、10件余りに過ぎない。

文京区の図書館にも、豊島区の図書館にも、蔵書されていない。

一体どうなってるのか。
(陰謀論の誘惑を断ち切って、そのことについては何も書かない。)

とにかく、一つだけ

粉河哲夫の「シネマトーク」


だけは存続している。

どちらにしても「ネットに何かあった」のを発見して、不思議なような懐かしいような、ちょっと言いにくい。


映画評が主のウェッブサイトなのだろうが、こちらは余り関心がないので、最近タイトルだけは何とか気になったくらいのハンガーゲームの映画評を読む。

それからトップページを見渡して気になった

福島原発事故関連

を読む。

3.11以前の1本も含め、3.11からほぼ毎日更新されたブログ記事だ。
3月31日まで更新された後中断された。

改めて事故を時系列的に読むとマスメディア情報ダダ漏れに抗して独自な視点や批判を展開しているのを面白く読んだ。

昔読んだ「粉河哲夫」がまだいるのだな、と感じた。

それに暫く時間がかかったが、もう一本映画評を読んでみようと思った。

で、ハンナ・アーレントにした。

なるほどそこまで評するか、という薀蓄も垣間見ることが出来たので収穫だ。

日中ふと思い出した人物について、こんなに時間をかけてネットで調べてていのか・・・。
時間の無駄!、と思わないこともないが、でも一応調べてみて「余りにも無い」ことを知ることが出来、何かしら理由があるのだろうな、と推理したりする遊び時間が持てて、良かったことにしよう。

※図書館でハンナ・アーレント関連本を予約した。