2014年6月20日金曜日

(4)雑想 2014/06/20



実は、(4)「『パウロ研究』の新しい視点」の整理、と言うタイトルで用意していたのだが、どうにも余りまとまりがよくないので、『雑想』で投稿することにする。

 今週月曜日に行われた、「『パウロ研究』の新しい視点」をテーマにした講演会の様子を簡単に紹介したまま更新が滞っている。

 実はこの講演会の前後から少し「自分なりのまとめ」の取っ掛かりみたいなものをこちょこちょ始めたのだが、少し風呂敷を広げすぎて今のところ収拾が付かない状態。

 せめて「覚書」程度でもいいから書き残す、と言うことで・・・。


 恐らくこの「ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ」議論については、日本においても研究書や論文がこれから出されていくだろうが(そんな反響の一端を既に耳にしている)、それが「今後どんどん続く」とは個人的にはどうも思われない。

 まっそんな観測はどうでもいいが、念のため一応の整理を「新約聖書学者ではない、一素人」の視点からに過ぎないが、書き残しておこうと思う。

 ①用語の整理
 今後ずっとこの「語用法」で一貫できるか自信はないが、現時点ではNPPとか「ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ」としている用語を、
「『パウロ研究』の新しい視点」で置き換えようと思う。

 これは先日の研究会で発表された伊藤明生(東京基督教大学)教授が採用したものである。伊藤教授はライト読書会の方で、発表の骨子を

いわゆるNPP「『パウロ研究』に関する新しい視点」とは、特別の神学的立場のことではなく、サンダース以降の新しい、1世紀のユダヤ教理解に基づく「パウロ研究」のことである。

とアナウンスされていた。そのことに関し同教授と少しやり取りしたのだが・・・。

 しかし忘れてならないのは、日本では既に「パウロ研究の新しい視点」と言う訳語が、ジェームズ・D.G.ダン『新約学の新しい視点』(山田耕太訳、すぐ書房、1986年)、と言う本で使われていた、と言うことだ。
 (この本の書誌学的なことについては、「のらくら者の日記」さんの
この記事参照
 
 
 「パウロ研究の新しい視点」は、ジミー・ダンの、the New Perspective on Paul、と言う論文に対する訳語としてはそれでいいと思うが、そのままでは今後問題も出てくるのではないか。

 やはり、NPPの訳語を統一する必要があるのではないか、と言う素人観測で述べておく。

 今やNPPで総称されるが、それはかなり色んな議論が混じっていて、あっちこっちに飛び火などして色々異なる文脈が出来ているように見えるのだ。
 (試しにSociety of Biblical Literature、の過去10回の学会プログラムをthe New Perspective on Paulで検索なされるとよい。)

 だからもし(たとえば)「義認論」の問題としてNPP議論に入っていくと、伊藤教授が暗に示唆しているように「特別の神学的立場」に関わる議論だと短絡しかねないのではなかろうか。
 (と言っても改めて全容を見渡すほど知りもしないので、あくまでも印象的な言に過ぎないのだが・・・。)

 「パウロ研究の新しい視点」論文を書いたジミー・ダンの『律法の行い』解釈も、それがどう言う意味で核心的な問題なのか、も再考する必要があるのではないか。
 
 (かと言って、ダンの論文を読んで見なければこれもやはり憶測で終わるだろう。つまり筆者のように「NPP議論」の推移だけを見て来た者は、サンダースやダンは実際には読んでいない。ただNPP論客の一人とされてきたN.T.ライトを通して間接的にサンダースやダンの議論の筋立てを垣間見たような気になっているだけの話だが。)

 既にご紹介したが、「NPP議論入門」としては、The Paul Pageの『
イントロ』辺りから入るのが近道ではなかろうか。

 ダンの「パウロ研究の新しい視点」論文のリンクも貼られているが、今は切れている。現在はマーク・グッドエイカーのNT Pageから入手できる

 
 さて、そんなことを手始めに、いよいよ「用語の整理」について。

 NPP、あるいは「ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ」は、どう訳されるべきか。

 「パウロ研究の新しい視点」だと、既にダン論文に対応してしまっているし、そもそもこれでは一枚岩的議論の印象を与えかねない。それを避けるために別の鍵括弧をプラスした。
「『パウロ研究』の新しい視点」
 このように『パウロ研究』を括弧で括ると、「パウロ研究」が新約聖書学の一分野であることが何となく伝わってくる。それによってNPPはこの分野における一つの貢献であると言う見方ができる。

 だとすると、「パウロ研究」と言う歴史と伝統を持った研究領域にもたらされた「新しい視点」が、サンダースの研究であり、ダンの論文(ロマ書注解)である、と言う構図が理解される。

 なぜこのような面倒くさい説明を試みているかと言うと、「パウロ研究」にとっては背景に過ぎなかった「ユダヤ教」の比重が幾つかの要素により大分変容しつつあるように見えるからだ。(そのことについてはまた別の機会に。)


 とまあ、かなり近視眼的というか、ドン・キホーテ風な切り口になったが、少しでも「現在」の状況に接近しようとの意図で乱暴なことを言っているので、大目に見てやってください。

0 件のコメント:

コメントを投稿