今回もちょっとそれに引きずられて書きます。
C.I.E.
さて何の略だと思いますか。
ヒント:聖書解釈の原則とも言えることの一つです。(その意味では聖書に限りません。読解力一般に通じる話です。)
Context Is Everything.
これは新約聖書(ギリシャ語)釈義の先生が口を酸っぱくして言っていたことです。
それで今まで覚えていました。
簡単に説明すると、自分の母語の場合は、読んでるものの中によほど難しい語彙がない限り、辞書を引くこともなく読んでしまいます。
実はこれって「CIE」で読んでいるんです。
しかし一旦ギリシャ語のように「自分にとって母語ではない、外国語」の文章を読む時には俄然「辞書に頼」ってしまうわけです。
そうすると一つ一つの「語」に、どの「意味」が適当かを対応させようとするわけです。
でもそれってかなりいい加減になりますよね。
例えば、Context is everything. と言う文章の三つの語をすべて知らないとして、Contextから順番にその意味を調べて行くとします。
すると辞書と言うのは、Contextと言う一つの語に対して、今までの使用例を整理して幾つもの「意味」を羅列します。
読者はその中から適当に「意味が合いそう」なものを拾ってきて元の文章にはめ込んでみて、意味が整うか様子を見るわけです。
でもそんなことをしていたら、次の語の意味を調べて行くうちに、どんどん選択肢が変化して行くことにもなりかねませんよね。
暫く行ってはご破算。最初からやり直し。・・・が繰り返されるような悲惨なこともありえます。
こう言う「マイクロ・マネージメント的な文章釈義」に対する批判的なアプローチとして、C.I.E.はあると思うのです。
一語一語の意味が文章全体の意味を構成(決定)するのではなく、文章全体の意味は、一語一語の意味を構成要素として成り立っている。
言ってみれば、そんな感じですかね。微妙ですが・・・。
C.I.E.で大切なのは「意味のユニット」をどう捉えるか、と言うことだと思います。
一語一語が「一つの意味を持ったブロック」として、それらのブロックを様々に組み合わせて家全体が建て上げられるようなイメージに対して、
「意味を持つブロック」とはもっと大きな集合体を「単位(ユニット)」として想定されるべきで、一つのフレーズや文章などがそれ自体で完結した意味の「単位(ユニット)」として想定されるべきではない、と言う主張を持つアプローチとでも言いましょうか・・・。
ですから、C.I.E.が目指すのは「ロマ書」とか最低でも一つの文書であり、さらに聖書解釈での広い「文脈」で言えば、当然「聖書」全体と言うことになります。
但し、それは前回書いた「正典聖書」と言うこととは意味が少し異なります。
聖書解釈において「ヘブル語辞典」や「ギリシャ語辞典」を使うということは、他の中近東緒語、ギリシャ古典等、文明的に広い意味の「文脈」にあることを自覚して用いるわけですから。
ここで幾つか蛇足を付けたい所ですが、長くなるので付けたかったトピックを挙げるにとどめます。
1.ボンヘッファー『共に生きる生活』2章に「聖書を読む(朗読する)」があります。
2. CIEを教えてくれた「新約聖書(ギリシャ語)釈義の先生」とは、アズベリー神学校の故ボブ・ライオン師です。
3.例えばパウロのロマ書を理解しようとする時、パウロ書簡だけでなく、聖書全体を越えて、「第二神殿期ユダヤ教」の文脈がとても重要になります。
(日本福音主義神学会・東部部会の研究発表会の主題がまさにそれです。6/16、月曜日、午後2時から。御茶ノ水クリスチャンセンター、8階チャペルにて。入場無料。)
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