2017年8月30日水曜日

(4)宗教改革を越えて 最近の読書に見る流れ(続き2)

宗教改革を越えて、ぼんやりと意識していた地平は「古代教父時代」だったわけですが、その地平はあまり深堀せず次に向かったのが「第二神殿期ユダヤ教」の地平でした。

第二神殿期ユダヤ教については筆者の見えている範囲でちょこちょこと書いたことはあるが、一番まとまっては第二神殿期ユダヤ教 ということになるみたいだ。

前回はこの中で最近(と言っても日本で、しかも保守的なキリスト者の中でということになるが)話題となってきたNew Perspective on Paulについて書いた。

「最近の読書に見る流れ」というタイトルで書いているので、具体的に本を取り上げていこう。

(3) Oskar Skarsaune, Reidar Hvalvik 編著、JEWISH BELIEVERS IN JESUS: THE EARLY CENTURIES (2007)
(4)ダニエル・ボヤーリン『ユダヤ教の福音書: ユダヤ教の枠内のキリストの物語 (2013)
(5)Amy Jill-Levine and Marc Z. Brettler eds., The Jewish Annotated New Testament (2011)



(3)についてはこの記事この記事で少し紹介した。

今回紹介するにあたっての関心事は、初期「キリスト教」と「ユダヤ教」との関係、そして「ユダヤ人キリスト者(民族的にはユダヤ人だがイエスをメシアと信じた者たち)」の歴史だ。

新約聖書時代はキリスト者、特に指導者は総じてユダヤ人であり、パウロの伝道を見ても地中海都市にあったユダヤ人会堂が舞台となっていた。

ざっくり言えばキリスト教はユダヤ教の一派であり、数世紀かかって二つは「分離(the parting of the ways)」したのだ。

原始キリスト教会の「ユダヤ教とキリスト教の関係」そしてある時から「二つが袂を分かった(the parting of the ways)」ことについては、最初にそれとして関心を持ったのは、Graham N. Stanton, A Gospel for a New People: Studies in Matthew を読んだ時だった。

スタントンはこの本の「パート2」でマタイ福音書(マタイ教団)の背景としてユダヤ人会堂からの分離問題を取り上げているのだが、この「分離」がほぼ一世紀中には終了している風な印象を抱いた。

しかしスカルサウネ編論文集を読むと場所にもよるが、その後数世紀に渡って関係が続いたと言うことを知った。

それまでキリスト教会は異邦人世界に浸透するに従い、ユダヤ人信者の存在もユダヤ教の影響も急速に衰退した・・・というイメージだったので、大幅にではないが、二つのグループの相互交渉・影響が数世紀続いたと言うことを知って何かほっとした感じだった。

(4)とボヤーリンについては既に紹介している。(この本は購入してではなく図書館で借りて読んだ。)

そしてその本の中の議論が使われている動画を「マルコ7章16節」問題として数回にわたって連載した。


ある意味この辺から「キリスト教」と「ユダヤ教」の境目が段々と微妙に映るようになって来た気がする。そしてユダヤ人(学者)が福音書に接する時の距離感の近さに対して、(現代の)異邦人学者の距離感の遠さに対する自覚のなさ、みたいなことを思ったりした。


(5)は前々から気になっていてずーっと「ウィッシュ・リスト」に入ったままだったが、「この流れ」が強まってきてついに最近購入した。

編著者の一人、エイミー-ジル・レヴィンについてはここで簡単に紹介している。(発音はレヴァインではなくレヴィンが近い。)

新約聖書についてユダヤ人の学者たちが多数集って「註解」や「関連論文」を執筆すると言うことは(本人たちの弁によれば)画期的なことだという。本当に最近になってから可能になったプロジェクトで、30年くらい前だったら想像も出来なかった、とこのポッドキャストで述懐している。

エイミー-ジル自身、メソジスト系のヴァンダービルト大神学部の教授を務めていて、「時代の変化」を表しているのだが、近年の「史的イエス」研究や「パウロ研究」でのユダヤ人学者たちの貢献はどんどん増えてきており、(いい意味で)刺激を与えているように思う。


いまの所は「へーそんなもんか」でやり過ごしているが、これらのユダヤ人学者たちが「新約聖書文書は(ある意味)ユダヤ教文書でもある」として研究を積み上げてくると、ちょっと意外な展開が将来起こってくるのではないか、とも感じている。


《次回予告》
いよいよ昨年から今年に入って読んできた3冊を紹介する(うち1冊はまだ読んでいる)。
これを書いておかないと「義認論ノート」の終わりの方に書くことがピンボケになるかも知れないので、それでこう言う形で書いて置くことになったわけだ。

2017年8月28日月曜日

(4)宗教改革を越えて 最近の読書に見る流れ(続き1)

前回紹介したのは

 (1)ロバート・ウェーバー『コモンルーツ』
 (2)ウィリアム・エイブラハム他編著『カノニカル神論』

の2冊だが、これら二つは宗教改革後の福音主義神学が理性主義に傾きすぎて、教会生活・信仰生活が(日本語でそれらしき表現を使うと)「情操」的に貧弱になってしまったと言う反省から生まれたものと言えるだろう。

その「欠落した」何ものかを宗教改革以前、特に「古代教父時代の遺産」に遡って探したわけである。

この記事は自分が購入して読んだ(読んでいる)本を軸に書いているのだが、それで言うと読んだことがないので話は逸れるが、この時点で紹介しておきたいのがトーマス・オーデンであろう。

彼はリベラル陣営の神学者でありながら、相対する福音派のロバート・ウェーバーとほぼ同時期にウェーバーと同じように「近代」から「古代」へとUターン した人物である。(オーデンの紹介記事としてインターバーシティ出版社サイトCTの記事をリンクしておく。)

この二人を比較対照するのは結構面白いことではないだろうか。

近代プロテスタンティズムの発露として「神学的リベラリズム」があり、それに対抗するように「キリスト教保守主義・正統主義」が位置するわけであるが、構図的には対立するウェーバーとオーデンが神学的には違う経路を辿りながらも、古代教会と云う同じ場所にUターン したわけである。

リベラル神学にせよ、(しばしば反・近代と思われている)福音主義神学にせよ、どちらも近代主義から来る「欠落」があり、それを自覚し、修正を求めて「古代教会の遺産」に向かったと言うことは、現代プロテスタンティズムを考える上でやはり一つの大事な動向であろう。
※当ブログで取り上げたゴードン・T・スミスの『福音派のパラダイム・シフト』⑤では福音派のアイデンティティーの一つである「回心主義」の背景となるリバイバリズムの歴史の見直しが指摘されており、その関連でウェーバーとオーデンが言及されていた。

New Perspective on Paulの地平

宗教改革を越えた地平の一つ目が「古代教会」とすると、次に取り上げる地平は「NPP(パウロ神学への新視点)」ということになるだろう。

NPPに関してはこのブログでも、N.T.ライト読書会ブログでも度々関連記事を書いたのでここでは特に取り上げようとは思わない。

ただ次に紹介する地平「第二神殿期ユダヤ教」に繋げる橋渡し的なことをメモしておきたい。

(1)OP 対 NPP

NPP自体は1970年代からの動向と見たり、W.D.デーヴィスの『パウロとラビ・ユダヤ教』(1948年)やクリスター・ステンダール(1960年代)を含めて言及したり少し幅があるが、新約聖書の背景としてのユダヤ教諸文書の研究の積み上げの中から出てきていることを見る必要がある。

パウロの「義認」理解に関し、宗教改革の伝統的解釈(をOPと呼んだりする)に対して「新しい視点(NPP)」を提案したのは、このアカデミックな研究の積み上げからの一つの例、一つの適用と云う点が理解される必要があると思う。

しかし伝統的解釈の立場の者たち(主にリフォームド)はこれをあたかも「OP 対 NPPの直接対決・全面対決」のような受け止め方をする傾向がある。

その理由は幾つかあると思うが次の二つは大きいだろう。

 (a) NPPはパウロの「義認」理解のために新約聖書正典外 の様々な情報を多く採用する。
 (b) OPの伝統的「義認」理解を支持する者たちは宗教改革以来の聖書解釈原則である「聖書テクストの自明性(perspicuity of Scripture)」)に依拠した神学、教理的解釈に終始する傾向がある。

つまり(a)と(b)はコインの裏表のような関係であり、聖書テクストへの光の当て方において方法論的対立を抱えていると言える。(もちろんそれが全てではないだろうが・・・。)

さらなる対照として、NPPの方はより「歴史的文脈に即した聖書テクスト理解」を志向するのに対し、OPの方は「『義認』に対して与えられている教理的・組織神学的意味を保全する聖書テクスト理解」を目指しているように見える。

以上は昨年「N.T.ライトの義認論」で討論をした当事者としての体験から感じたことで、やはり方法論的アプローチの違いが大きいと思う。

(2)「教理」対「聖書(スクリプチャー)」の関係

パウロの「義認」とその関連語で織りなされている聖書テクストをどう読むかと云う問題は、ある立場から言えば「教会の存立基盤」に関わる最重要教理問題であり、単なる(というと語弊があるが)一聖書テクストの解釈問題では済まないのである。

しかしその認識が強すぎるために、教理的拘束性が聖書テクスト解釈の幅を制限していないか、との問いは立てられてしかるべきだろう。

完成形、と思われた教理的構築物である「(信仰)義認」をもう一度パウロの手紙の中に解き放ち、歴史的文脈が指し示す「地平」(一世紀ユダヤ教の文脈にあるパウロの福音の全体像)を見渡してもう一度再構成する、そのような「宗教改革を越えた」試みが求められているのではなかろうか。


というわけで、次はいよいよ「第二神殿期ユダヤ教」に関わる本の話題に入って行きたいと思います。



2017年8月26日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年8月27日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 使徒の働き 4
:32-5:11
説 教 題 「善い行いと欺き」
説 教 者 小嶋崇 牧師

主の祈りと実践(7)、礼拝と倫理3

2017年8月25日金曜日

(4)宗教改革を越えて 最近の読書に見る流れ

英語のタイトルにすれば、Horizon(s) Beyond the Reformation 、とでもなるだろうか・・・。

今年は宗教改革500周年でこの1~2年いろいろな関連で宗教改革を改めて考える機会があった。

礼拝説教でもいつもの年より余計に取り上げている。

しかし(ここで標題に戻っていくのだが)ここ1~2年(プラスさらに1~2年)の購入図書の中で目立ってきているのは、宗教改革に戻るよりもその先の事柄ではないかと思っている。

「宗教改革に戻るよりもその先の事柄」ってなんかあまりよく分からないなー。

確かに。

つまりこう言うことではないかと思っている。

昨年は日本伝道会議の分科会で「N.T.ライトの義認論」と取り組んだ。

「(信仰)義認」は宗教改革の基本原理であり、宗教改革を記念するとなると「信仰義認」の再確認・・・ということが大切なことなのだろう。

しかし、昨年の会議でも一緒に話題となった「NPP(パウロ神学への新視点)」が一つの例だが、500年前の「原理」を再確認するとは「一世紀に生きたユダヤ人パウロの『意味の地平(horizon)』」にまで遡らなければならない、ということではないか。

21世紀の地点に立って500年前を見るとき、ルターやカルヴィンなど宗教改革者の生きた時代は(あまり深入りしなければ、そして焦点を500年前に合わせるだけであったら)独立峰に見えてしまうかもしれない。

しかし少し立ち入って調べて行くと独立峰に見えたものが周辺に幾つものピークを持つ結構入り組んだ山容に見えてこないだろうか。

パウロが使った「義認」という言葉(関連語)も、宗教改革の伝統に基づいて構築された「義認論」の景色から目を「一世紀ユダヤ教の諸相」に焦点を合わせると、「行為義認vs信仰義認」の対立というそれまで一本に見えていた山の稜線 が、背景にある山容の複数の稜線と実は重なって一本に見えていた のだということに気づく。と、そういうことがあるのではないか。

そういったような「対象との距離の取り方や背景との遠近による見え方の違い」を「地平(ホライゾン)」にたとえてみたのだ。

そして「対象に近づいていくと、(その背景の)地平も変化する」ということだ。(この辺のことはもっと具体的に説明して行く必要があるだろうが・・・。)



さて前置きはその辺にして最近(購入した本の)読書で変化してきた「地平」を紹介してみよう。

(1)Robert E. Webber, COMMON ROOTS



上のものが初版で、まだ米国留学早々の頃に出版されたのを購入していたが、読む機会がなかった。

帰国後牧師となり、周辺で「福音主義の霊的枯渇」みたいなことが囁かれ始め、ヘンリー・ナウエンなどが読まれるようになってロバート・ウェーバーの「宗教改革前、教父時代への遺産への意識」みたいなものが少しずつ「いつか読まないとなー」になっていた。

しかし結局読むことになったのは、下の方のデーヴィッド・ネフの序言が付いた改装版を廉価で見つけ購入したからだった。

ネフの序言にはウェーバーがこのような教父時代への「Uターン」をするきっかけがまさに自分自身の「福音派としての霊的枯渇の自覚」からだったことが綴られている。

『コモン・ルーツ』には巻末付録に「シカゴ・コール」(1977年)があるが、翌1978年の(聖書の無誤に関する)「シカゴ声明」との関連とズレが微妙にネフによって指摘されています。(ちなみにウェーバーがこの本を出版後まもなくあのハロルド・リンゼルを義理の父とする、というのも一種の皮肉ですかね)
  Here is something very important. Harold Lindsell, an iconic figure of the midcentury evangelical movement  who was to become Webber's father-in-law shortly after the publication of Common Roots, saw the content of the Chicago Call (which formed the backbone of this book's theological reflection) as a defense against the subjectivism of liberal theology. That was the battle that he, Carl F. H. Henry, and others among the charter members of the Fuller Seminary faculty had fought. By contrast, Webber saw the content of the Chicago Call as a way of renewing and reawakening people to the Spirit amid the objectivism of evangelical rationalism. (p.11)

(2)William Abraham, 他編著、Canonical Theism: A Proposal for Theology & the Church


こちらは購入したのは数年前だが、同著者の「正典」と「認識論(エピステモロジー)」の関係を説いた、William J. Abraham, Canon and Criterion in Christian Theology: From the Fathers to Feminismこの本の紹介記事)を読んでいたので迷わず購入した。

こちらはウェバーとはアプローチが多少異なるが、福音派神学と実践の限界を見通した上でその前(宗教改革前)のカトリックの教父たちの構築した聖書に限らない「正典的」遺産に注目している。(キャノンとはリストのこと。正典聖書のリスト以外にも、聖徒たちを建徳し、救いの恵に保持する様々なリストがある。)


(どうやら一回では終わりそうにない。継続とする。)

2017年8月24日木曜日

(5)トランプ政権と福音派キリスト教

「ドナルド・トランプと福音派キリスト教」というタイトルで何回か投稿した。

まだ日本で宗教的背景が良く知られていない共和党大統領候補としてのトランプを追跡してみようと思って20158月から始めたのだが、大統領になって以降は更新していなかった。

初めから「?」が沢山付く候補だったからこそ、その素性・人となり・(特に)宗教的背景や傾向に対する米国福音派の関心や支持に関するメディア情報を追跡してみた。

はっきりしたことは、大統領候補者としての人間的・人格的な資質がキリスト教的に見ても疑問点が多い候補者なのに、結果的に福音派から(一般が驚くほど)高い支持を得て大統領に当選したことだ。(福音派が当選させた、という意味ではなく・・・。)

これによって米国福音派への見方がトランプに対する見方とより密接に繋げられるようになったことは明らかだろう。

就任からしばらくは「選挙戦中の過激な言動も大統領の仕事をする中で収まっていくだろう」との期待があったが、混乱につぐ混乱で、まもなく「いつ弾劾手続きが取りざたされるようになるだろうか」に変わった。

トランプを大統領候補として支持することと、大統領となった後その働きぶりを見ながらなお支持し続けることの違いが、福音派と自称する方々の間でも「良心の痛み」計でいうと我慢の限界点に達したことを表明する記事が出てきている。

その幾つかを紹介するが、最初のものだけ少し解説する。

ピーター・ウェナーは引用した中にもあるように、政治の世界でキャリアを積んだ方であり、レーガン(父)ブッシュ大統領に仕え、(子)ブッシュ政権では大統領の演説草稿作成部のナンバー2だった人とのこと。その発言内容はそれなりの重さを持つものと思われる。

三箇所引用したが、二番目の引用では(筆者強調部分)「政治」の限界を踏まえつつ政治を通してどのような努力がなされるべきか述べている。

その政治観からしても、トランプ政権の数々の逸脱や規範無視といった振る舞いは目に余るものであり、もはや支持し続けることは福音派自身の信頼性を危険に晒す域に入っている、と警告している。

では、なぜ福音派(の多くが)落第点続きのトランプ政権を支持し続けるのか。それはトランプ共和党への党派的忠誠と既得権力への固執を自分たちのキリスト教信仰が求める行動基準よりも優先させているからだ、との見方を示している。

Evangelicals, Trump and the politics of redemption
By Peter Wehner | August 11, 2017

But the worry is that now that the election is over and there is no binary Trump-Clinton choice, many evangelical Christians have lost the capacity to hold the president accountable when he transgresses norms, violates principles and acts in malicious ways. In fact, they have become among his most prominent and reliable public defenders.

Ive worked in politics much of my adult life, including in presidential campaigns and at the White House. I understand that governing involves complicated choices, transactional dealings and prudential judgments. No one ever gets things exactly right, and all who choose to serve deserve our prayers for wisdom. Politics is certainly not a place for the pursuit of utopia and moral perfection; rather, at its best, it is about achieving the best approximation of the public good, about protecting human dignity and advancing, even imperfectly, a more just social order. That is why Christians shouldnt exile themselves from politics.
But with political involvement come temptations and traps, and it is the responsibility of Christians to act in ways that maintain the integrity of their public witness. And that is why this moment is so troubling. It seems clear to me, and I think to others, that many evangelicals, even unwittingly, are subordinating the Christian faith to partisan loyalties and political power.

Im speaking out at this time because Im a Christian who places himself in the evangelical tradition and senses that some important lines have been crossed, some significant damage is being done, and some substantial repair work needs to take place. I hope others who share these concerns who might feel anguished by what they perceive as the abuse of their faith will take a stand in their own lives and in their own way. We can all be part of a politics of redemption.


以下は、ワシントン・ポストのサラ・ポズナー記者、牧師であり政治社会問題への発言も豊富な現オーバーン神学校副学長のポール・ラウシェンブッシュ、そしてポールが記事の中で言及した『ホワイト・キリスト教・アメリカの終焉』を2016年著したロバート・ジョーンズの『アトランティック誌』への一部抜粋です。



白人福音派、白人キリスト教、と多少キリスト教諸派のくくり方は異なりますが、トランプ現象への視点としてはそれぞれ共通していると思います。

By Sarah Posner August 17


White evangelicals have long demanded that political figures display piety, religious fluency and a clear commitment to a biblical worldview.
Yet evangelicals have jettisoned these requirements in favor of Trumps combativeness. Why?

Paul Brandeis Raushenbush

Robert P. JonesJul 4, 2017

 

2017年8月21日月曜日

(5)義認論ノート、5

義認と教会論: 一世紀のキリスト教会においては

「義認」を救済論との関連で論ずるのを不思議がる人はいないと思いますが、さて教会論との関連 だとどうでしょう・・・。

ということでそもそもの発端である「N.T.ライトの義認論」にまた戻ってみます。


ライトの立場を支持する筆者のテーゼは: パウロの義認の教えは「救済論」と「教会論」(と、ライトは理解している)、というものでした。

用いた資料義認論ノート、3で紹介したマクゴワン論文と同じ論文集『Justification In Perspective』にライトが書いたNew Perspectives on Paul から引用した特に次のパラグラフです。
このサブセクションの主要論点の第一は、これら二つのこと(罪の赦しを与えられた罪びとを正しいと宣告し、そして、多民族による一つの家族の一員であるこ とを宣告する)はパウロの脳裏では緊密に連携している、ということである。さらに言えば、後者の論点(家族への所属)がロマ書3章やガラテヤ3章ではとて も重要であると主張することが、前者の論点(神の法廷で義と宣言された者の一人とされる)の重要性を軽減するものではない、ということである。

このポイント(契約神学が下敷きになっている)は多少見えにくいが決定的に重要である。すなわち、神がアブラハムと契約を結んだのは、[旧約]聖書の大枠 から言っても、パウロにおいても、アダム来の「罪」とその影響を除去し、良き創造のわざそのものとして完成に導くためである。かくして、神が罪の赦しを宣 言し、また契約の民の一員と宣言することは、詰まる所、二つ別々の事柄ではないのである。
恐らく「厳密に言えば(義認の釈義的許容範囲内に限定すれば)」義認は「罪人を(キリスト・イエスのゆえに)義しい」と赦免する宣言であり、一世紀以降の異邦人キリスト者がマジョリティーとなっていく教会のコンテクストでは第一義的には救済論的に扱われるのが自然になったのだと思います。
 
しかしライトが主張し、指摘しているのは一世紀の教会において、アブラハム契約の祝福を約束された「神の民」はユダヤ人だけでなく、異邦人も含まれており、「アブラハム契約」の視点からそれまでは「ユダヤ人(イスラエル民族)」と「異邦人(諸民族)」という二つの異なる契約関係にある者たちが「キリスト・イエスにあるという原則」において同じ一つの民になる、ということなのです。
 
この契約関係的に「イスラエル民族と諸民族」という二つに分かれていたものが「メシア共同体(メシアのからだ)」を通して一つになったのはいかなる根拠・いかなる原理によるのか・・・を説明するために取られたのが、「律法の行い」ではなく「(福音に対する)信仰」の原理において、という議論であったということです。
 
引用したライトの論文では、この義認に関する「契約関係における民族間の問題」が前面にあることをロマ書3章の次の箇所を指摘してさらに続けて訴えています。
それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。
実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。(ローマ3:29-30、新共同訳)
 
しかし、長い間(約1800年くらい?)キリスト教会からこの「一世紀における二つの民を繋ぐ」問題が消えていました。そのためパウロがロマ書やガラテヤ書で主張した「(信仰による)義認」をこの「民族の契約関係調整」の視点から具体的に考察する機会がありませんでした。
 
「キリスト・イエスにおいて更新された契約」に入る(言わば)長子の権利を主張する(できる?)人々(ユダヤ人) が長い間出てこなかった、とも言えます。
この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」(使徒2:39、新共同訳)
あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」 (使徒3:25-26、新共同訳)
そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。(使徒13:46、新共同訳)
「義認」の教義的理解にとっても最重要であったこの「一世紀の教会における民族関係問題」という歴史的文脈が視界から遠ざかった後は、教会論は次第に義認論の表舞台から退場していったように見受けられます。
 
宗教改革になって救済論が神学的議論の主役を演じるようになると、義認論はもっぱら救済論との関係で論じられるようになり、宗教改革の第二・第三世代以降(プロテスタント正統主義の時代)は、教会論の弱体化も手伝って、もっぱら「個人の救いの体験」(「救いの順序」)における諸懸案(義認と新生、信仰と新生、義認と聖化、など)との関連で論じられるようになったようです。

 
今後の展望
 
「義認」と教会論の関連をさらに論じて行くにあたり、二つの重要な関心事項があります。
 
(1)教会員の資格問題
 中世カトリック教会や宗教改革後の国教会のような「国家社会と教会」が同心円のような関係にあったいわゆる「クリステンダム(キリスト教文明)」の条件の下での「義認と教会」を考察する必要があります。
 
(2)(聖礼典、特に)洗礼と教会員資格問題
 宗教改革以降、聖礼典に与ったような“外面的”な教会員の教会ではなく、救いの体験を持った「聖徒たちの教会」へと改革を推し進めて行く中で「義認と教会」の関係を見て行く必要があります。
 
(3)教会史の流れ
 
 これらの関心事項を以下のような教会史の流れと関連させながら概観して行きたいと思います。
 
一世紀の教会では、ロマ書やガラテヤ書で論じられたように、「義認」はイスラエル民族と異邦人諸民族がどのような原理原則で「一つの神の民」となるか、という問題でした。
 
しかし、二世紀以降、さらにキリスト教がローマの国教なると、ノミナルなクリスチャンと聖徒らしいクリスチャンとごっちゃになったような教会をどうしたらいいか、という方向に「教会員問題」は向かいます。
「教会らしい教会」をと改革運動が進む中で宗教改革が起こります。
しかし、国教会的なシステムでは「聖徒だけの教会」は難しく、再洗礼派のような急進的な改革は一部に限られます。
 
英国国教会から逃れ、新大陸に移ったピューリタンたちが改革路線を進めますが、この時「教会員」を「救いの体験」を証しすることが出来る者に限定する制度が定着していきます。
この流れは「リバイバリズム」運動とも重なって、個人の救いの体験を重視することにより、組織的・制度的教会を軽視しする流れが強まります。
すなわち「パイエティズム・信仰復興運動」の背景を持つ福音派の「教会論」が後退して行きます。
 
このような流れの中で「洗礼」と「義認」の密接な繋がりが見えなくなり、教会の実践において「回心」と「洗礼」が分離していきます。
 
大雑把に言えば・・・中世のカトリック教会的教会形成原理から、宗教改革原理を徹底した自由教会形成原理へと移行して行く中で「義認」の意味・位置が変化して行くことを辿ってみたいと思います。
 
いわば「義認」の「教会論的文脈の変化」を「マクロな(=大風呂敷な)視点」から追跡した雑多な思いつきの寄せ集めに過ぎないですが、例証・傍証取り混ぜながら述べて行きたいと思います。



2017年8月19日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年8月20日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 4:7-14
説 教 題 「心が励まされる」
説 教 者 小嶋崇 牧師
コロサイ(42)/パウロ書簡の学び(159)
 

同労者たち ① テキコとオネシモ (コロサイ4:7-9)

2017年8月17日木曜日

今日のツイート 2017/8/17

カトリックの学者の方らしいが・・・恐らく悪意は殆どないと思われるが・・・何かしら「対立的で、少し挑発的な響き」を感じたので・・・取り上げさせていただきましょう。

プロテスタント側には「30、000の教派」がある。
「(それだけ多いと)一括りにできるようなものではない」。
「カトリックではない」という定義がプロテスタントの「最大公約数的なアイデンティティ」。

ですか・・・。

真っ先に思うのは(筆者がプロテスタントだからですが)、「ルターがカトリック教会から破門された」ことが引き金となってプロテスタント(教会)が生まれたということでは、カトリック教会は(3万のプロテスタント諸派の)今日的状況と無関係ではない、ということ。

やはりその辺りの当事者意識が余り感じられないような物言いは注意が必要だろう。

次に「30、000の教派」だが、これはカトリック側が(主に?)プロテスタント教会の信頼性を損ねる目的でしばしば使われるポイントだと言う。

つまり「カトリックvsプロテスタント」という対立的な構図での「数字による攻撃」で、プロテスタント側も「数字で反撃」している。(余り建徳的だと思わないので引用紹介は控える。)

次にカトリック教会の「本家意識」は無理もないと思う。「キリスト教の正統を護ってきた」自負はそれなりに認められてしかるべきだと思う。

しかしその場合でも「本家から分岐したグループ」をそれなりに把握する歴史意識は大切だと思う。


次に正教会側の「本家意識」をどう考えるのだろうか。
Due to a variety of complex circumstances, the Western church, known today as the “Roman Catholic Church,” split from the Eastern Orthodox Patriarchates of Constantinople, Jerusalem, Alexandria, and Antioch in the 11th century. Roman Catholics, however, see it from the opposite perspective, namely that the Orthodox Church broke communion with the Roman Catholic Church.
カトリック教会は正教会側が分離したと考えているが、カトリック教会が正統である東方正教会から「分岐」したのではないか・・・。

と、このサイトではそのあたりの歴史事情をさらに資料に当たって調べるように奨めている。


その中の一冊として、ティモシ・ウェアー『正教会入門』(新教出版、2017年)があがっているのでオススメだろう。

さらにユダヤ教/イスラエルとの関係ではどうなるだろう。


もともとがユダヤ人ではなかったキリスト者(の教会)は総じて「接ぎ木された野生のオリーブ」の意識でいる方が健全ではなかろうか。(ローマ人への手紙11章17節)


と、そんなことを思わされた午後であった。

2017年8月14日月曜日

(3)神学ジョーク、2017年 N.T.ライト


かつて「神学的ジョーク」の冒頭で書いたことですが
ジョークと言うのは英語圏でのパブリック・スピーチにおける必須なものです。
シリアスな内容の講演でも、その導入にちょっとしたジョークを入れることで聴衆の食いつきが良くなりますからね。
その中でも「神学的なもの」となるとやはりTPOになり、どうしても「宗派・教派の違い」をネタにすることが多くなるようです。(アリスター・マグラースの場合は“浸礼派”バプテストでした。)

今年5月の“Discerning the Dawn: Knowing God in the New Creation"という講演の冒頭、ライト師が使ったのが「神論」に関わるジョークでした。


(ジョークは1:00~2:10くらいのところ)

引き合いに出されたのは、John W. Bowker(著名な学者です)。

彼がある時忙しい合間を縫って招かれていた米国のどこかの講演に行ったときのこと。


講演題が・・・『今日の世界で「神」を語る』(Speaking of God in Today's World)・・・みたいな感じのことで、飛行機の中で一応内容をささっとまとめて颯爽と会場に出向き、何とか時間にも間に合い講演を始めました。

講演を締め括るに当たって
If the doctrine of Trinity didn't exist, we'd have to invent it.
と高らかに宣言し講演壇を離れました。

すると聴衆からは雷鳴のごとき拍手喝采。

隣の席の(別の)講演者が、「いやー、勇気ある、踏み込んだ発言でした。」

(ボウカー)「別にそんなこと言っていませんよ。しごく教理的にオーソドックスではないですか・・・。」

(隣席)「いや、ボウカーさん、この会議はユニテリアンですよ。」

(ボウカー)「じゃ、なぜみんな拍車喝采しているのですか。」

(隣席)「いや、ボウカーさん、彼らはあなたのアクセントが気に入ったんですよ。」



というわけで、ライト師のアクセントがアイリッシュか???みたいなところから始まったジョークでした。

2017年8月13日日曜日

(4)キリスト教原理主義と福音主義

先日、「(3)藤本満『聖書信仰』ノート、10」を書いたばかりだが、その前の「(3)藤本満『聖書信仰』ノート、8」と「(3)藤本満『聖書信仰』ノート、9」で「ファンダメンタリズム」を扱ってから、あらためてジョージ・マースデンの『Fundamentalism and American Culture』を読み直している。それも結構ゆっくりと。

今回書くことは「『聖書信仰』ノート」に入れても良かったが、風呂敷を広げすぎて(筆者も読者も)混乱するといけないので、独立させた。(なお「アメリカ宗教史」研究、関連の展開は「宗教と社会小ロキアム@巣鴨」プログにて取り上げようと思っている。)

昨年から今年と、トランプ大統領がもたらした旋風は米国福音派だけでなく、日本の福音派にとっても「パブリック・イメージ」の問題だけをとっても結構大きな意義があるように思う。

※たまたま今朝ツイートしたこの記事は的確にその辺の事情を捉えていると思う。


「ファンダメンタリズム」や「福音主義」のような基本的用語の整理ももっとしていく必要があるだろうなー、などと思っていたら意外なことに「日本の福音派のアイデンティティー」に関し長らく研究発表してきた宇田進氏の文章が「いのちのことば社」のウェブサイトにあるのを見つけた。

ここにリンクを貼っておこう。

「原理主義」と「福音主義」 第1回 ファンダメンタリズムの原点は?(前半)

「原理主義」と「福音主義」 第3回 エバンジェリカルをめぐって─アメリカ教会と日本教会(前編)

「原理主義」と「福音主義」 第3回 エバンジェリカルをめぐって─アメリカ教会と日本教会(後編)


冒頭
   このたび、4回にわたり特に「キリスト教原理主義」について拙文をつづることになったが、正直言って≪戸惑い≫を覚えている。
とあるのだが、「第2回」というのが見つかっていない。

一読して(この文章が書かれたのが割合最近だとすると)次の部分がやはり気にかかる。
 ブッシュ政権の“在り方”については大いに論ずべきであるが、ことファンダメンタリズム・福音派に関する著者の見方は、従来から日本のメイン・ラインの教会の中に広く流通してきたものの反復にほかならない。結局、忌避・拒絶 以外の何物でもない。
 以上のようないわば“定説”とも言えるネガティブな見解とは対照的な“稀なる見解”が最近登場している。それは、一定の理解と評価をともなった古屋安雄氏(聖学院大学)の見解である。
 古屋氏は前掲書の中で、一章を「日本の福音派」にあてている。種々問題を論じながらも福音派の成長に注目し、「日本においても福音派に期待するのである。日本基督教団をはじめとするいわゆる主流派の諸教会がいつまでも混迷と混乱のなかにあるならば、福音派の諸教会がそれこそ〈主流〉となる日がやってくるかもしれない」と“オープンで前向きな見解” を披瀝している。
 かつてウィリアム・ホーダーンは、エバンジェリカルはリベラルなものを一生懸命学ぼうとするが、その逆はほとんどみられないと指摘したことがある! また、プリンストン大学の社会学者ロバート・ウスナウは「リベラル派と福音派の両者とも、互いに相手の最も悪い面ばかりを前面に押し出し、それぞれの“よい部分”をまったく見ようとしない」とも批判している(『アメリカの魂のための闘い─福音派・リベラル派・世俗主義』(1989)。日本のキリスト教界はまさにその典型である!(強調は筆者)
過去に(もちろん今でも尾を引いているが)対立した自由主義、根本主義/福音主義両陣営がそれぞれに対する見方をすり合わせながら共に学ぶような機会がまだまだ少ないのだと思う。


以上、不要で不幸な混乱に巻き込まれないためにもなるべく正確な歴史知識を積み上げて行きたい。

2017年8月12日土曜日

明日の礼拝はお休みとなります

巣鴨聖泉キリスト教会での明日、

8月13日の主日礼拝はお休み となります。

どうぞお間違えありませんようにお願い申し上げます。


※今年は比較的過ごしやすい暑さの中ですが、熱中症等 健康にはくれぐれも留意してお過ごしください。 


(5)義認論ノート、4

義認論ノート、3」はかなり長い記事となってしまいました。

そのため「(2)なぜ義認論にとって『救いの順序』は問題なのか」が充分言い尽くせないで終わってしまいました。

「議論の流れ」を簡単に整理するとこんな感じです。 

「義認」を論ずる枠組みは何だろうか。

宗教改革以降、プロテスタント諸派で顕著なのは「義認」を「救済論」の中で論ずることだ。

特に「救いの順序(ordo salutis)」の枠組みを参照して論ずることだ。

しかし、それが余りにも(時系列的にも、論理的にも)詳細な点に渡ってまで整合させようとして聖書テクストの読み(釈義)を歪めさせている・・・

と言った辺りまでやってきました。


アンドリュー・マクゴワンの『義認と救いの順序』を用いてこの辺の整理をしようとしました。

「義認論」が抱える様々な問題点を「救いの順序(ordo salutis)」からくる問題に絞って指摘しても全部が解けるわけではないと思います。

伝道会議・分科会の議論の組み立てでは、(1)救済論の枠組み、に(2)教会論の枠組み、をプラスすることによって「義認」を「『救いの順序(ordo salutis)』のみ」の縛りから解き放つ方向を示唆しようとしました。


でも(2)教会論の枠組みに行く前に・・・

義認論ノート、3」で、「救いの順序(ordo salutis)」を使って「義認」の教理的な位置を解明しようとする(主に改革派系の)神学者の中に、「救いの順序」とは別の(パウロ神学)概念を用いて「義認」を論ずる流れ(school、学派)があり、これが影響力を増している(らしい)ことを指摘しました。

「キリストとの一体(union with Christ)」
です。(マクゴワンの論文ではordo salutis methodに対してunion with Christ methodとなっています。)

バルトの「救いの順序に拘泥すると、救済論が余りにも人間論になってしまう。もっとキリスト論的視点に戻すべきだ。」みたいな批判を紹介しましたが、実はアンドリュー・マクゴワンの『義認と救いの順序』論文にはもう一人(筆者から見て)重要な修正視点を提供した方がいます。


昨年80歳を迎えたウェストミンスター神学校の名誉教授のリチャード・ガフィン・ジュニア(Richard B. Gaffin, Jr.)は、1969年に同校で Resurrection and Redemption: A Study in Pauline Soteriology と題した博士論文を書きます。これが後に The Centrality of the Resurrection: A Study in Paul's Soteriology として出版されます。
ガフィンの主張は、パウロの救済論において「キリストの復活とキリスト者の復活とが密接にリンクしているゆえ、『キリストとの一体』が支配的である」ということです。

この視点から伝統的な「救いの順序」救済論の欠陥が指摘されます。
 (1)終末論的視点が欠落している。
 (2)「救いの順序」の各要素を独立した「行為(アクト)」と見るのは問題だ。

Nothing distinguishes the traditional ordo salutis more than its insistence that the justification, adoption and sanctification which occur at the inception of the application of redemption are separate acts. If our interpretation is correct, Paul views them not as distinct acts but as distinct aspects of a single act.(強調は筆者)

 (3) 「新生(regeneration)」が「信仰」より前に来る見方はパウロ的でない



(マクゴワンの論文にはバルトら新正統主義神学の立場の解釈との違いの指摘もありますが)このガフィンの主張はウェストミンスター神学校の中で受容され、救済論における「キリストとの一体」の主導のもと、「法廷的『義認』(forensic justification)」も堅持しながら、なお議論が進展しているとのことです。


以上「救済論」から「義認」を見た場合の「救いの順序」の限界と、パウロ神学的に見た場合の「キリストとの一体」の中心性・重要性をマクゴワン論文から見てきました。

特に、「キリストとの一体」強調において、ガフィンが指摘した「復活」すなわちパウロの「終末論」的視点は今後の「義認論」を修正して行く上で重要な意義を持っていると思います。


話題が少し離れますが、「義認論ノート」と並行して書いてきた「Salvation By Allegiance Alone」を先日完結し、その最後に「中間考察」の一つとして書いたことですが、ガフィン/ウェストミンスター神学校の義認論における動向はある意味「組織神学的救済論」から「新約聖書(パウロ)神学的救済論」に重点を移したもの、とも捉えることができるのではないかと思います。

かつてこのブログで、リチャード・ガフィン・ジュニアがライトと義認論について議論した動画を紹介したことがありますが、その時と比べ、このマクゴワン論文を読んだあとでは、「ライトとの違いはそれほど大きくない」というのが筆者の印象です。

むしろ、「復活/終末論的視点」の重要性、「救いの順序」の問題性、そして「法廷的『義認』(forensic justification)」の堅持、等において二人はかなり近いように思います。

読者の印象はどうでしょうか・・・。


(次回に続く)


2017年8月11日金曜日

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、10

お待たせしました。(このシリーズまだ頓挫していません。笑)

前回が5月18日のアップですからかろうじてまだ 三ヶ月経っていませんね。

さてこの7章は6章の「ファンダメンタリズム」と8章の「新福音主義」へと飛ぶ前に日本での聖書信仰の受容を「戦前」という枠で紹介します。
 
7章 「戦前日本における聖書信仰」(109-122)
 

代表的な人物に即して、それらの人の神学教育(大抵は米国留学)背景と「聖書観」とを紹介しています。

個人的には筆者の属するグループ(ホーリネス系教会)の「生きた歴史」を語り聞かせられたこともあり(と言っても四方山話みたいな周辺的なことが多いと思います。※)、ある程度のことは知っていますが、このようにある程度整理されていると簡単な紹介ながら助けになります。
※特に「澤村五郎」について。実は戦後すぐ「献身を決めた」父が入学を予定していたのが、澤村五郎校長の関西聖書神学校だったと聞いています。
さて「三人(岡田稔、中田重治、澤村五郎)の聖書信仰の特徴」をまとめている箇所を引用抜粋してみます。 
岡田は当時を振り返って、高倉徳太郎の『福音的基督教』が広く行きわたっていたので、「福音主義」という用語よりも、「聖書信仰」のほうが、聖書に対する自分たちの立場を明確にする ことができたと述懐している。(111)
※筆者はこの引用部分から後者二者のように「信仰生活の実際」における聖書信仰というよりも、「聖書論」としての聖書信仰に自覚的であった、強調があった・・・という印象を受けました。
[中田] この聖書信仰はプリンストン神学的なものではない。むしろ、十八世紀の信仰復興運動を彷彿とさせるような聖書信仰である。神の言葉への信頼、野の草のような人間の知恵や言葉を論じるに足りないものとし、無から有を創造し、罪人に救いを与え、新創造をもたらす神の言葉、すなわち聖書に絶対的信頼を傾ける聖書信仰であった。そして、ムーディーを取り巻くリバイバリズムと米国ホーリネス運動から受け継ぎ、さらにはディスペンセーション主義の再臨観に染まった聖書信仰 であった。(115)
このように澤村の説く聖書信仰は、十八世紀の敬虔主義的・信仰復興運動的な流れにある。しかも彼の聖書理解にはディスペンセーション主義的色彩はなく、徹底して御言葉と聖霊の関係が強調 され、聖書は信仰をもって聞く者の生涯を聖霊が改革していく恵みの手段である。(116-7)
これらの記述を簡単に比較すると、
 岡田・・・P(プリンストン神学)
 中田・・・R(リバイバリズム)+H(ホーリネス運動)+D(ディスペンセーション主義)
 澤村・・・R(リバイバリズム)+S(聖霊)
となる。

もちろんニュアンスを捨象しているので、これだけでは何の比較かということになるだろうが、たとえば6章で取り上げられた「ファンダメンタリズム運動」での「二つの流れの融合」と描写された「P(プリンストン神学)」と「D(ディスペンセーション主義)」を当てはめてみると・・・

潮流的には中田重治が恐らく最も米国根本主義を反映しているが、岡田と澤村に関してはやや部分的、ということが指摘されうるのかもしれない。

藤本氏の『聖書信仰』のテーマの一つが「多様性」の発見にあるとすると、このような背景の違いからくる「(聖書信仰の)ニュアンスの違い」がやはり大事な点なのではなかろうか・・・。

ディスペンセーション主義の再臨観」の前者は受け継がなかったが、後者は受け継いだ、ということになるのだろうか・・・。


(次回へ続く??? 一応まだ続くかもしれません。)  

2017年8月6日日曜日

(5)オープン神論サイドノート④

今年はまだ「オープン神論」についてのエントリーがありませんでした。

(5)オープン神論サイドノート①

(5)オープン神論サイドノート②

(5)オープン神論サイドノート③

今回ご紹介するのは「オープン神論」にサイドライトを当てている日本在住宣教師、デイル・W・リトル氏の「現代神学の概観」です。

さいわい日本語訳があるので、「オープン神論」言及箇所二つを引用します(イタリック強調は筆者)。


現代福音主義神学のアイデンティティの探求
おそらく、このような過去の神学に対する批判的な態度や作為的な単純化は、現代神学が今まさに混乱の中にあることを物語っている。現代神学のアイデンティティが危機に直面しているということだ。この混乱は特に福音主義神学の中で明らかである。福音派が現代神学書を読んでも、そのほとんどが福音主義でない立場で書かれた著作だろう。しかしながら、我々福音派としても、現代「福音主義」神学について学ぶ必要はある。福音派陣営は今や伝統的に受け入れられてきた福音派の基準とは異なる神学的見解を持った人々をも抱えている。ミラード・エリクソンによれば、福音主義神学は今や右派と左派に分かれているという。5 もはや「福音主義」という言葉は、同じ福音主義に立つ神学者の間でも、同じ意味で理解されることはなくなってしまったのである。
 ここ3年間、北米の学会である、福音主義神学会(ETS)の年会では、少数の左派の神学者たちの「オープン神論」(open theism)を議論してきた。2001年に、ETSは、そのようなオープン神論から遠ざかるという神学的声明を発表した。2003年には、ETSのメンバーは議論の上で、二人の左派神学者たちのメンバーシップ剥奪には反対する決定を下した。6 ようするに、現代福音主義神学の世界に足を踏み入れることは、混乱の経験をすることに他ならない。能弁で有名な福音主義神学会の少数派が、まだまだ、過渡期であると主張してきたとおりである。

現代神学の重要問題
[]代神学でも、それらの神学者たちから神論に重点を置く傾向を受け継いでいるが、今日では神の人格的な側面に強調点がある。つまり、現代神学は我々人間が経験するようなある種の限界を神にも設けようとするきらいがある。たとえば、未来に関して言えば、神は人間の自由な選択について、限られた知識しかないとしばしば理解されている(オープン神論)。つまり、神は、時間を超えた存在であるというよりも、時間の中に制約された存在としてみなされているというわけだ。
まあ「オープン神論」自体にそれほど関心持っているわけではないだろうと思います。

宣教の神学(Missionary Theology)にとって「現代の文脈」はどうなっているか概観してみよう・・・ということでの非常に大雑把なものでしょうね。

もちろん「福音主義神学」の立場からの概観ですので、セットアップの仕方が
神学の目的は、教会と深く関わっている。神学はその土台である聖書について教会を教えるものだ。しかし同時に、神学は教会の置かれている幅広い文化や世界を理解するために正しい見地を与えてくれるものであるとも信じる。神学は聖書と文化という二つの極の間で機能している。
となっています。

神学は教会に「聖書」を理解させ、かつその置かれた「文化」に対して正しい見地を与える、とそういう思索的作業をするというわけですね。


以上です。
 
ではまた何か見つけたら報告します。

2017年8月5日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年8月6日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 エペソ 2
:1-10
説 教 題 「恵みのみ」
説 教 者 小嶋崇 牧師

宗教改革原理(2)


※次主日、8月13日の礼拝はお休みとなります。