2017年8月28日月曜日

(4)宗教改革を越えて 最近の読書に見る流れ(続き1)

前回紹介したのは

 (1)ロバート・ウェーバー『コモンルーツ』
 (2)ウィリアム・エイブラハム他編著『カノニカル神論』

の2冊だが、これら二つは宗教改革後の福音主義神学が理性主義に傾きすぎて、教会生活・信仰生活が(日本語でそれらしき表現を使うと)「情操」的に貧弱になってしまったと言う反省から生まれたものと言えるだろう。

その「欠落した」何ものかを宗教改革以前、特に「古代教父時代の遺産」に遡って探したわけである。

この記事は自分が購入して読んだ(読んでいる)本を軸に書いているのだが、それで言うと読んだことがないので話は逸れるが、この時点で紹介しておきたいのがトーマス・オーデンであろう。

彼はリベラル陣営の神学者でありながら、相対する福音派のロバート・ウェーバーとほぼ同時期にウェーバーと同じように「近代」から「古代」へとUターン した人物である。(オーデンの紹介記事としてインターバーシティ出版社サイトCTの記事をリンクしておく。)

この二人を比較対照するのは結構面白いことではないだろうか。

近代プロテスタンティズムの発露として「神学的リベラリズム」があり、それに対抗するように「キリスト教保守主義・正統主義」が位置するわけであるが、構図的には対立するウェーバーとオーデンが神学的には違う経路を辿りながらも、古代教会と云う同じ場所にUターン したわけである。

リベラル神学にせよ、(しばしば反・近代と思われている)福音主義神学にせよ、どちらも近代主義から来る「欠落」があり、それを自覚し、修正を求めて「古代教会の遺産」に向かったと言うことは、現代プロテスタンティズムを考える上でやはり一つの大事な動向であろう。
※当ブログで取り上げたゴードン・T・スミスの『福音派のパラダイム・シフト』⑤では福音派のアイデンティティーの一つである「回心主義」の背景となるリバイバリズムの歴史の見直しが指摘されており、その関連でウェーバーとオーデンが言及されていた。

New Perspective on Paulの地平

宗教改革を越えた地平の一つ目が「古代教会」とすると、次に取り上げる地平は「NPP(パウロ神学への新視点)」ということになるだろう。

NPPに関してはこのブログでも、N.T.ライト読書会ブログでも度々関連記事を書いたのでここでは特に取り上げようとは思わない。

ただ次に紹介する地平「第二神殿期ユダヤ教」に繋げる橋渡し的なことをメモしておきたい。

(1)OP 対 NPP

NPP自体は1970年代からの動向と見たり、W.D.デーヴィスの『パウロとラビ・ユダヤ教』(1948年)やクリスター・ステンダール(1960年代)を含めて言及したり少し幅があるが、新約聖書の背景としてのユダヤ教諸文書の研究の積み上げの中から出てきていることを見る必要がある。

パウロの「義認」理解に関し、宗教改革の伝統的解釈(をOPと呼んだりする)に対して「新しい視点(NPP)」を提案したのは、このアカデミックな研究の積み上げからの一つの例、一つの適用と云う点が理解される必要があると思う。

しかし伝統的解釈の立場の者たち(主にリフォームド)はこれをあたかも「OP 対 NPPの直接対決・全面対決」のような受け止め方をする傾向がある。

その理由は幾つかあると思うが次の二つは大きいだろう。

 (a) NPPはパウロの「義認」理解のために新約聖書正典外 の様々な情報を多く採用する。
 (b) OPの伝統的「義認」理解を支持する者たちは宗教改革以来の聖書解釈原則である「聖書テクストの自明性(perspicuity of Scripture)」)に依拠した神学、教理的解釈に終始する傾向がある。

つまり(a)と(b)はコインの裏表のような関係であり、聖書テクストへの光の当て方において方法論的対立を抱えていると言える。(もちろんそれが全てではないだろうが・・・。)

さらなる対照として、NPPの方はより「歴史的文脈に即した聖書テクスト理解」を志向するのに対し、OPの方は「『義認』に対して与えられている教理的・組織神学的意味を保全する聖書テクスト理解」を目指しているように見える。

以上は昨年「N.T.ライトの義認論」で討論をした当事者としての体験から感じたことで、やはり方法論的アプローチの違いが大きいと思う。

(2)「教理」対「聖書(スクリプチャー)」の関係

パウロの「義認」とその関連語で織りなされている聖書テクストをどう読むかと云う問題は、ある立場から言えば「教会の存立基盤」に関わる最重要教理問題であり、単なる(というと語弊があるが)一聖書テクストの解釈問題では済まないのである。

しかしその認識が強すぎるために、教理的拘束性が聖書テクスト解釈の幅を制限していないか、との問いは立てられてしかるべきだろう。

完成形、と思われた教理的構築物である「(信仰)義認」をもう一度パウロの手紙の中に解き放ち、歴史的文脈が指し示す「地平」(一世紀ユダヤ教の文脈にあるパウロの福音の全体像)を見渡してもう一度再構成する、そのような「宗教改革を越えた」試みが求められているのではなかろうか。


というわけで、次はいよいよ「第二神殿期ユダヤ教」に関わる本の話題に入って行きたいと思います。



0 件のコメント:

コメントを投稿