2010年7月30日金曜日

ご案内

8月1日 主日礼拝

巣鴨聖泉キリスト教会での礼拝はお休みとなります。

毎年国民宿舎鵜の岬で行われている日本聖泉キリスト教会連合のサマーキャンプが、7月30日~8月1日までもたれます。
8月1日は連合合同礼拝となりますので、巣鴨教会での礼拝は休みとしています。

合同礼拝
説教箇所 ガラテヤ3:1-29
説 教 題 「アブラハムの子孫」
説 教 者 小嶋崇牧師

※ブログの更新も土、日とお休みします。

2010年7月28日水曜日

徒然なるままに

今頭の中には整理されたものが何もない。

それで(も)何かを書き出すことに・・・。

教会では時々テーマを決めて「セミナー」を持つことがあります。
今年は「コミュニケーション」。
テーマに相応しい新聞のコラム程度の読み物を探しています。

現代は様々な人間関係の中でそのシチュエーションに合ったコミュニケーションを取る能力・センスを求められています。

でも実際には「敬語」や何やらで“言葉遣いの状況対応”で処理している感じが強いように思います。

本当にコミュニケーションを取る為には先ず良く聞かなければなりませんが、日常生活、仕事場で求められているのは「スムースなコミュニケーション」。

波風立てない、失礼がない、いわゆる失策を回避するコミュニケーション術がより求められているように思います。

突っ込んで相手の意思をはっきり納得できるまで対話するようなコミュニケーションは時間がかかるし、知的・感情的にもエネルギーが要るのでなるべく避けたいタイプではないでしょうか。

買物をしていて店員さんと楽しく会話する場面はどのくらいあるでしょうか。

スーパーのレジなんかでお話していたら後に続くお客さんの邪魔になってしまうから顰蹙ものですが、生活のスピードがもっと緩やかな時代には、家を出て近所の人と顔を合わせてする簡単な会話や、散歩ですれ違う時の簡単な挨拶、買物の時の何気ない会話、などが結構あったのではないでしょうか。

そんな光景は今や下町の商店街で見られるくらいになってきたのかな・・・。

余計なことはしゃべらない、非効率な会話はしない、世間からの一種の閉じこもりを皆さん自己防衛的にやっているのではないでしょうか・・・。

ミクシーや一定の閉じられた社会空間でのおしゃべりは楽しんでおられるようですが・・・。

ツィッターはもしかしたら世間に向かっての軽いおしゃべり発信なのかしら?
答えてくれる場合は少なさそうだけれど。

そう言えば一日を「おはようございます」のツイートで始める人がいたっけ。
あれってツィッター世間に向けて気軽に挨拶しているのかな・・・。

2010年7月27日火曜日

教会と制度

今日はちょっと玄人的な話題

教会と言えばごく自然にクリスチャンが集まる場所や集まりを想像すると思います。
でも“自然に”と言うことを厳密に取れば、教会が自然に集まることは殆どありません。

集まる場所や時間は決めておかなければなりません。集会(礼拝)でなされることも殆ど順序や決まりがあります。(※カリスマ派のような人たち、クエーカーのような人たちは、決められた順序より霊の導きを優先すると言われているが・・・。)

 そもそもなぜ日曜日に礼拝なのか。

 教会堂はどうしても必要なのか。

 クリスチャンが数人集まればそれが教会ではないか。

 さらに、牧師(聖職者)は必要なのか。

 十一献金は聖書的なのか。

 教会は霊的な集まりだと思ったら会議ばかりやっている・・・。

これらは「制度的」な教会の面を示す事柄であると言えます。

先日米国や英国で神学を勉強してきた友人・知人と色々と話す機会がありました。
その中で話題の一つとなったのが様々な教会の伝統の違いや長所・短所について。

アメリカを発祥としてこの十年余『イマージング』と言う主に二十、三十代クリスチャンのムーヴメントが拡がっています。基本的に福音的ですが、よりポストモダンの文化を意識しています。また環境問題や社会正義の問題により敏感です。

彼らは「制度的な教会」に批判的です。それで小グループで自由に集まって信仰を育てているようです。
しかしある程度グループが歴史を積み重ねると「制度的教会」と同じ問題に直面します。色々と話し合って決めていかなければならないのです。

もう一つ興味深い動向があります。

福音派の信仰に育った人たちの中からカトリックやギリシャ正教に宗旨替えする流れが目立つようになってきています。

一番有名なのは一昨年であったか『全米福音主義神学会』の理事長まで務めた方がカトリックに移ったのです。

この動きの背景には「福音派の信仰のあり方」に満足しない、もっと深い霊的伝統に傾倒する傾向があるようです。

日本でもヘンリー・ナウエンがよく読まれているように、いわゆる福音派の「霊性」に対して浅薄さを感じているのではないでしょうか。

戦後開始した殆どのプロテスト教会は教会数を増やしたり、信徒数を増やしたり、いわゆる「教勢的」なことにばかり熱心で、信徒の霊的深まりのような課題とちゃんと取り組んでこなかったツケを今支払わされているのではないでしょうか。

筆者は例えば『プレイズ系』の賛美にはあまり関心がなくなってきました。むしろ古い賛美歌の方に魅力を感じます。
典礼(リタージカル)な面の学びが必要と感じています。

何はともあれ「教会は信仰者の母」と言われたりするように、霊性の深まりにしても、制度的面の充実にしても、キリスト者共同体が自由かつ生き生きと御霊の実を現す方向に導かれていきたいと思っています。

2010年7月26日月曜日

屋上緑化

2001年、新会堂建替えの時、屋上を緑化することになりました。教会関係者のご厚意で工事がなされて9年になろうとしています。

植えられた草は四種類のセダム種の草です。別名メキシコ万年草という渇水や日照りに強い種です。用意された区画に一杯にはびこるまで4~5年要しました。

最初のうちは少しずつ肥料をやったりしながら“伸びる”のを待っていました。すると間もなく雑草の問題が出てきました。最初のうちは見つかったら根こそぎ抜く、と言うことをやや真面目にやっていました。
しかし雑草の中でも厄介なのはイネ科の雑草です。根が細かく引っこ抜こうとすると全体が持ち上がってきてしまいます。数年で勢力を伸ばしていきました。
ついに「雑草抜き」をあきらめてしまいました。

段々と屋上を見るのが億劫と言うか、雑草がはびこっているのを見たくないと言うことで放置するようになってしまいました。
先日ちょっと覗いてみました。雑草が生い茂っているように見えました。後日緑化工事を施工してくれた方に「ついに雑草に駆逐されたみたいです。」と報告しました。

会堂にはトップライトを設けてあるのですが、夏の陽射しが強い間これに覆いをかけるため、今度はちゃんと屋上に上がって一周してみました。
雑草に駆逐されたかに見えたのは一部分でセダムはまだ健在でした。ところどころ雑草とほぼ共存状態でしたが、セダムが勢力を保っている場所も結構ありました。何かほっと安心、そして嬉しくなりました。

先日「駆逐された」と報告した時、「雑草も緑には違いないから屋上緑化がなくなったわけではありませんよ」と慰められましたが、「大丈夫、共存していました。」と再報告することができました。

エアコンを使わず屋上緑化による断熱で過ごしているわが教会としては「屋上の緑の草たち」にまだまだ活躍してもらわねばなりません。

2010年7月24日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

7月25日午前10時30分から

ガラテヤ人への手紙講解(31)
説教箇所 ガラテヤ人への手紙3:16
説 教 題 「アブラハムとその子孫に」
説 教 者 小嶋崇牧師

※夏時間に入りました。説教、礼拝時間とも約10分短縮しています。
※次主日(8/1)は、茨城県鵜の岬で開催される「日本聖泉キリスト教会連合サマーキャンプ」合同礼拝のためお休みとなります。

2010年7月23日金曜日

「福音」の意味の変容

「二つの福音?」の題で、イエスが宣べ伝えた「神の国」の福音と、イエスの使徒たちが宣べ伝えた「イエス・キリスト」の福音の違いと関係について書きました。

基本的にはイエスが置かれた宣教の「時」と、イエス・キリストにおいて成し遂げられた「神の国」の福音を全世界に宣べ伝える宣教に遣わされた弟子たちとの「歴史文脈的相違」がある、とまとめました。

今回はキリスト教の教派を問わず「福音」の本来的性格からずれたところで「福音」をとらえているのではないか、との疑念について。

福音とは本来、民に対して公けになされる王や皇帝の「布告・宣告」です。戦勝報告や王・皇帝の誕生を布告することの中に「平和・正義」などの実質的恩恵の意義を込めてなされたものです。
ですから福音は本来①民一般のための、②王や統治者による、公的性格のものです。

さて福音の内容に関してはかなり巾があるとしても、現在キリスト教会が「福音」と言う時、この公的な性格、「統治者の布告」としてのニュアンスは殆ど前面に出てきません。
その代わりに何が「福音」の内容を性格ずけているかと言えば、それは「救い」、特に「個人的救い」に関するメッセージ、ということになります。

何時からそういうことになったのか、ここでは入り込みませんが、恐らく宗教改革以降、「個人の信仰」が重要性を増し、敬虔主義を通して「活きた信仰」が強調され、リヴァイヴァリズム(信仰復興運動)を通して「回心・新生(ボーン・アゲイン)」の体験を高調するようになったこと、その間に宗教と政治が分離する「世俗化」が進んだ、と言う歴史的背景が考えられます。換言すれば「信仰」は個人の内心の自由に関わること、になっていったのです。

何はともあれ、一番手っ取り早い「福音の受容」は「イエス・キリストの十字架の代償的死を認め、イエス・キリストを個人的罪の救い主として“心”に受け入れる」と言う形でなされることが多いと思います。最もこれはキリスト教の中の福音派の共通部分というのが妥当でしょうが・・・。

では原初に立ち返り初代使徒たちの福音宣言はどうであったか。

使徒たちは、ローマによって十字架に処刑されたけれども、神がこの義しい人を死者の中から復活させたことによって、イエスこそ「イスラエルの真のメシヤ(ユダヤ人の王)」であり、復活によって諸王国を支配する「人の子」であることを、神の右の座に挙げられることによって示された方、と宣言したのです。
すなわち、神が、今やともキリストともされたこのイエスを、あなた方は十字架につけたのです。(使徒2:36)
また、使徒パウロたちの宣教を非難する者たちは、彼らを
「イエスという別のがいると言って、カイザルの詔勅にそむく行いをしている」(使徒17:7)
と描写したのです。

キリスト(ユダヤ人の王メシヤの訳語)、は初代キリスト教の宣教において非常に政治的な文脈で解釈されたのです。換言すれば、彼らはイエスを「個人的・私的な救い主」として人々に推薦したのではなく、ユダヤ人の王、そして世界の主、としてローマ帝國下で宣告したのです。
もし迫害を避けたかったら「キリスト」のタイトルにこだわらない方が賢明だったでしょう。しかし使徒たちはローマへの反逆を含意する「キリスト」の呼称にこだわったのです。なぜならナザレのイエスこそが、真の王、真の主(キュリオス)であるとの宣言を受けて遣わされたからです(マタイ28:18)。

イエスを個人的な救い主として「心の中に受入れた」クリスチャンたちは、初代の使徒たちが同じイエスをカイザルとは別の「真の王、真のキュリオス」として、人々に公けに宣告した福音を思い起こす必要があるでしょう。
イエスは「あなたと言う個人」の犯した罪の代償としてわざわざ十字架刑にかかるような策動をしたのではありません。イエスはイスラエルのために、それ故世界のために、公けに十字架の上で『ユダヤ人の王』として処刑されたのです。これは“私的な”“心の中の出来事”ではありません。公然とした事実なのです。
この公然とした事実の上に使徒たちの宣教は展開されたのです。

フェスト閣下・・・私はまじめな真理のことばを話しています。・・・これらのことは片隅で起こった出来事ではありませんから、そのうちの一つでも王の目にとまらなかったものはないと信じます。(使徒26:25-26)

2010年7月22日木曜日

牧師と木工

ナザレのイエスは、宣教を開始するまで、父ヨセフの後を継いで大工をしていた。
当時の大工は木工だけでなく石工なども含んでいたらしい。家を建て維持する諸事に携わる職業であっただろう。

筆者の木工はナザレのイエスにあやかるためのものではない。
始めたきっかけは身の回りの整理や、仕事場の整理のために棚や収納が必要になったこと。
その後工具を買い足していくうちにいつのまにか趣味になっただけの話。
でも牧師と木工の組み合わせは自分でも気に入っている。
実際財政事情の苦しいキリスト教会は、牧師が日曜大工程度の維持管理をすることは良くあることです。

2001年教会堂建替えに伴い、建物内外の家具・外構でそれまで磨いた木工のノウハウを活かすことができました。

そして2009年思いもよらないことから、隣接する木造平屋の廃屋を工房に改装することになりました。

教会を地域にオープンにする、と言っても普通の人はなかなか教会に足を踏み入れることは億劫です。
しかし工房だと「面白そうだ」と足が向きやすいのではないか。入って工房の主と話してみたら隣に建っている教会の牧師だった、と言う筋立てが面白いのではないか、とそんな出会いを密かに期待しています。

今日の午後も一人「ツルばら用アーチ」製作について尋ねて来られました。聞いてみたらご近所の方でカトリックの信者でした。

工房はまだまだ内部の整理がついていないので「セミ・オープン」の段階です。そのうち本格的にオープンして地域の人たちとの触れ合いの場、色んなおしゃべりの場になればと思っています。

2010年7月21日水曜日

真の人間となる

筆者は母方から数えて、牧師三代目。
父は第二次大戦直後、青年時にキリスト者になり、翌日伝道者となる献身をした。
親戚縁者は殆ど牧師・伝道者と言う境遇に育った。
割合素直な性格なので、そのまま自分も同様の道を辿って今日まで来た。

と言う風に書くと「宗教的に真面目で熱心」な方は「それは素晴らしい」と言う風に思われるかもしれない。ある程度まではそう言う風に言っても依存はない。しかしその道程に無理がなかったか、と言うと今となっては「あった」と言わざるを得ない。

「宗教的環境」が「普通の人間としてあるべき環境」から離れれば離れるほど、そこには「二重生活」「二重倫理」の要素が入り込んでくる。一個人の中で「宗教的人間」と「普通の人間」とに分裂し、統合されないままになってしまうのである。

牧師やクリスチャンの二世・三世と言われる人たちの中にこの分裂した人間が顕す落差・矛盾・齟齬を敏感に嗅ぎ付ける臭覚を発達させるようになる者が育つ。筆者はその中に入るだろう。
「宗教的に真面目で熱心」な人間の「聖人然」「良人然」とした態度の裏に隠された「普通の人間性」を見通すのである。「宗教的人間」の方は「普通の人間」の上に被る鎧のように見えるのである。次第に人間観察が人の宗教性に対してシニカルになる傾向がある。「お祈りの言葉」や「教会での振舞い」に「宗教臭い」匂いを嗅ぎ取り、嫌悪感を持つようになるのである。

キリスト者となることは、これらの「宗教的人間」の鎧で身を固めることではない。

「普通の人間生活」で起こりうる様々な問題を「祈り」や「聖書」や「牧師に相談」することで“宗教的に処理”する習慣を身につけることではない。
「普通の人間生活」で起こりうる様々な問題を何でもかんでも狭義の「神様の導きや摂理」の枠に押し込んで処理することではない。

残念ながらすぐに「祈ったり」「聖書で導きを探ったり」する「熱心なクリスチャン」にはこういう方がいる。

「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。」と言う戒めを思い起こす。

人の宗教性は簡便で自己中心的なものに堕しやすい。「人に見せる」ためのものに堕しやすい。
真の宗教性はむしろ隠れていて見えないほど深いところで顕されるべきである。
浅薄な宗教性は自身の宗教性の欺瞞や偽善を隠してしまい、自ら気が付かないうちに高慢へと導く。

御子は神と等しい方である方なのに謙って人となられた。
神が造られた被造物中最高傑作である人間自体が卑しいのではない。
罪と死の枷に繋がれた人間の「肉」が卑しいのである。

キリストは「真の人間」となられたのである。
キリスト者も「真の人間」となるのである。
“宗教的な人間”になるのではない。

2010年7月20日火曜日

結婚式と納骨式

昨日結婚式に出席してきました。今度の日曜日の午後は納骨式を司式します。

梅雨が明けて暑い日となった岡山。小さな教会でキャパシティーの倍くらいの列席者があると聞かされていました。さらに「岡山は暑い」と散々聞かされていました。それで「平服でご出席ください」の言葉に甘えて半袖シャツで出席することに。さらに扇子を用意し、お絞りも持参で・・・と準備万端のつもりでしたが・・・。

さすがに迎える側の教会もその辺の対策は十分に取っていました。冷房ガンガン、扇風機からの風が四方から。おかげで扇子の出る幕などなく、むしろ寒いくらい。想定外!

司式した牧師の式辞は「カナの婚宴」から三つの想定外。(内容省略)

食事会も含め外の暑さと建物の中の冷房に翻弄された結婚式でした。

まっ、それは別にして新郎新婦の前途の上に先ほどの式辞にもありましたが、「人生想定外をどう乗り越えていくか」二人三脚で取り組んで行って頂きたいと思いました。

そして今度は叔母の納骨式。既に前夜式と告別式を執り行いましたが、「土から出たものを土に返す」一連の葬儀を閉め括る式です。一週間のうちに人生の節目となる二つの式に列席・司式する筆者としては特段の人生の感慨など沸いてくるわけではありません。何しろ今は「暑さ」が意識の大半を占めていますから。

今心に思い浮かんでいるのは、結婚式で歌われた、2ファミリーによるゴスペルアレンジの「アメージング・グレース」 。特にその2節と3節の歌詞。(披露されたのは1節の歌詞でしたが。)

T'was Grace that taught my heart to fear.
And Grace, my fears relieved.
How precious did that Grace appear
The hour I first believed.



Through many dangers, toils and snares
I have already come;
'Tis Grace that brought me safe thus far
and Grace will lead me home.

作者ジョン・ニュートンの個人的体験が重ね合わされた歌詞です。
彼の回心まで、回心、そして人生を締めくくるその時まで、絶えず「恵み」が導いてきたこと、導いていることを証ししています。

旅を始める夫婦と、旅を終えた叔母。
彼らの人生に「恵み」があることを、あったことを、憶えます。

2010年7月16日金曜日

お知らせ

明日は母の召天一周年記念日。

7月18日、日曜日は礼拝後すぐ岡山に出かけます。帰宅は翌日の夜。

と言うことでブログの更新を三日間お休みします

明後日の礼拝は通常通りです。礼拝後特別プログラムはありません。

昨日のブログ・エントリーはツィッターの話題からでした。ちょうど朝日の夕刊も精神科医の斉藤環さんと香山リカさんがツィッターについてコラムを書いていました。全体に否定的なトーンでした。

キリスト者として香山さんが指摘していた、「フォロー」数を気にすることに関して一言。

何億(まで行かないか?)人がツィッター参入で「インスタント・グールー(新興宗教の教祖)」気分を味わえるのは愉快なことではないですか。

ただその個々人の“新興宗教”は「今朝の体の調子」から「買物の内容」「食べたラーメンの味」等、日常的なことが殆どではないかしら。

もちろん日常性の中にも何かしら大事な人生のヒントは隠れているかもしれないから、そんな呟きでも全否定は出来ないと思います。

ただそれらの“軽い呟き”が重要な政治・社会問題や人権・飢餓・貧困・環境問題等と並列でツイートされているわけですから、今度はその人が何をフォローしてるかが興味深いものになってくるでしょう。その人の“世界”が「フォロー」の数ではなく内容で垣間見えてくるのではないでしょうか。

「ツィッターはそのフォロー数ではなく、呟く内容とフォローする対象とで見られている。」

2010年7月15日木曜日

ツイッター伝道その①

「そもそもツイッターなんて言う中途半端なコミュニケーション・ツールで伝道なんてできるわけがないでしょう。」

私もそう思います。


「ツイッターは要するに自分の身辺のことをだらだらと呟くだけのことよ。」

とまでは言いません。中には内容のあるものもあります。

「あのフォーローとか、リフォローとかやって数を増やして自慢したいのよ・・・。」

その「フォロー」と言う部分が今回のエントリーの肝心な部分です。誰を、なぜフォローするのか。一般的には有名人でなければ、誰か自分が関心ある人とか、関心あることについて検索したりして、「フォロー」を増やしていくのでしょうね。

筆者がトライしてみたことはこうです。(以下は英語でのやり取りですので日本語で検索しても見つかりませんが、実際にやったことです。)

M(12才、女子)「・・・本当にイエスなんているのかしら・・・。」
筆者「何でそんな問いを発したの。」
M「だって助けてって祈ったのに誰も助けてくれなかった。頼りになったのは私自身だけだった。」
筆者「目には見えないけれどイエスは本当にいるんだよ。だけど見つけるにはちょっと必要なことがあるけどね。」
M「それはどんなこと。私も本当のイエスを知りたいと思う。今私悩みの中なんだ・・・。」

こうして始まったツィッターでのやり取りは双方合計して30回くらいになった。

結果はこの女の子が少し「祈り」について、「イエス」や「教会」について問いかけたり自分の疑問をぶつけたりする以上のものではなかった。

中年おじさんの筆者が12才の女の子を相手にツィッターでのツイート、リツイートの図は可笑しげで怪しげだが、ことの始まりは私がツイッター検索で「本当のイエス」を入れ、その中から「悩んでいるような」「呻いているような」声を聞き分けようとして辿り着いたのがたまたまこの子であった。
検索はせいぜい24時間以内くらいまでしか(根気がなければ)さかのぼって探せないから、これは偶然のヒットだったのかもしれない。

やり取りの結果は個人伝道でもカウンセリングでもない非対称な二人の会話にしか過ぎなかっただろうが、ツイッターが「意味がない会話」にしかならない、とまでは言えないだろうと思う。

ジャスティン・ビーバーに夢中なごくありふれた女の子(でも自分では不幸の真っ最中であると吐露していたが)の上に神の導きがあるように祈って・・・。

2010年7月14日水曜日

ライトによる福音書

開始から毎日綴って来たこのブログもついに途切れるか、と思っていました。

ちゃんとしたエントリーでなければお休みした方が良いのか、何でも良いから続けた方が良いのか。

で、選択は後者になりました。

既に「福音」について3回ブログ・エントリーしました。
  • 「誰の福音」
  • 「何の福音?」
  • 「二つの福音?」
今回はこの解説を書いている筆者の理解が誰の影響から来ているか、タネ明かししたいと思います。

N.T.Wright/トム・ライト・・・英国国教会ダーラム司教区の主教、現代最も著名な新約学者

右側の「Myサイト」や「マイブログリスト」にライト主教に関係するサイトが紹介してあるのでわざわざ紹介することもないかと思いますが、このブログだけを読んでいる人のために念のため。

ライト主教は「キリスト教起源と『神』の問題」(Christian Origins and the Question of God)というシリーズで既に三冊の大著を著していますが、二冊目となる「イエスと神の勝利」(Jesus and the Victory of God)で主に共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ福音書)を参照しながら、
①イエスがどう言う人物(預言者類型)であったのかを造形し、
②イエスの取った行動(神の国宣教の開始から十字架刑までの道程)がどのような意図(マインドセットと行動目的)によるものであったか、
③当時のユダヤ教(『第ニ神殿期ユダヤ教』)と言う時代と文化背景
をキャンバスにして大きな絵を描いています。

学者さんたちがしている研究ジャンルから言うと、「史的イエスの探求」と「福音書研究」と言うことになるかと思いますが、何と言っても二つの福音で書いたように、「一体いかにしてキリスト教が発生し、発展できたのか」と言う歴史的な問いかけが根底にあります。それで研究の全体をまとめるキーワードが「キリスト教起源」なわけです。

キリスト者が普通に「(新約)聖書を読む」のと、学者たちが専門的知識や方法論を駆使して“解釈する”のとでは大きな隔たりがあります。
ブログではなるべくその落差を感じさせないように書きたいと思っています。
しかし脚注や引用をしないのでこれらのブログエントリーが筆者のオリジナルなものではないことをここで予め示しておきたいと思いました。

どうぞ関心のある方は
①ライト主教の「紹介・入門」及び何本か私が翻訳した論文を参照したい方は「NTライト読書会」の方へ
②英語を苦にしない方はNTWrightPage.Com へ
どうぞ。

2010年7月13日火曜日

子供っぽいのはダメなの?

アドーラ・スヴィタクという12才の少女の講演が話題です(TEDの番組で放映)。

http://www.ted.com/talks/lang/jpn/adora_svitak.html

総論から言うと大人はもっと子供らしい良い特徴から学ぶべきだ。大人が子供に一方的に教えるだけでなく、大人も子供から学ぶべきだ。大人と子供は相互に(レシプロカリー)学ぶべきだ。

既にあちこちで何百回と講演しただけあって、どうにいった演説。終わると殆どが大人の聴衆からスタンディング・オベーション。

スピーチに用いた例証や論点は少し単純だが簡潔に整理され流暢な議論は流れるよう。子供らしい愛くるしさと相まって説得的です。

大人が同じようなことをスピーチしても同様なスタンディング・オベーションはもらえないでしょうね。
逆に子供はいいなー、大人は損だなー、と思うことも。
大人だったら自論を説得的にするためにもっと知的な語彙や論理や例証で武装しないと受けないと思うでしょうね。

彼女が挙げている「子供の良い特徴」は楽観主義的視点や大きな夢を見られること。
彼女はそれらの力が現実を変えていく変革力になる、と力説します。
大人は現実主義でもうあまり夢みたいなことは実行できないのかな・・・。
でも中には「子供」が中に住んでいる大人もまれにいますけどね。

彼女は6才の時から書き溜めたショート・ストーリーを出版しようとしたけれど殆どの子供の本専門出版社は相手にしてくれなかったそうです。
そりゃそうだ普通は本の出版は大人になってからするもんだ。と、出版社も彼女に言ったそうです。でも彼女はめげなかった。自分の夢を実現してくれる出版社が見つかるまであきらめなかった。
そこが大したもんかと思います。

※英語もハキハキと聞きやすいですが、日本語の字幕も付いています。面白いからご覧ください。そして自分の子供時代を思い出して少し明るい気分を取り戻してください。

2010年7月12日月曜日

ツイッターで伝道?

最初のブログ投稿に書いたように、私はツイッターを「伝道のツール」にできないかと思っています。

「最初からそんなこと書いて。まだ大してツイッターしてないくせに・・・。」

仰るとおり。始めて10日経ちましたが、目下何がどうなっているのか「フォロー」「リツイート」「ハッシュタグ」「ピック」「省略形・短略形」と入ってくるツイートを読みこなすだけでも大変。
いやそんなに真面目には目を通していません。物理的に無理です。はい。

でも依然として考えています。どうにか「伝道のツール」にならないかと・・・。

左のツイッター欄に英語で呟いていますが、ポストモダンの時代、既製教会はあまり人の来るところではありません。こちらの教会、あちらの教会と彷徨している人はいますがね・・・。本当の求道者、本格的な求道者が教会に来ることはまれです。

ポストモダンと書きましたが、かなりな程度は時代・文化の影響だと思います。ポストモダンにおける人の宗教性は多分に私的な関心・感性に左右され、既成の組織に属して吸収しようと言う人は例外的です。個々人の今流行の「スピリチュアリティー」に従って私用の宗教を、宗教・アート・エコ・音楽等様々な要素から作り上げている状態です。
近代化が進めば、科学知識が発展すれば、宗教・信仰は駆逐される、と言う短絡的な「世俗化論」はほぼ間違いであることは現在の状況から見れば明らかです。

教会の中で会員の老齢化が進み、少子化で青年・子供がいなくなり、聖職者を志す人が減り、一体これからの教会はどうなるのでしょうか。これはキリスト教会に限ったことではなく殆どの宗教組織に言えることではありますが・・・。

手をこまねいてこの状況を静観しているのでしょうか。
「○○○○○○」とか「○○○○」をやってとにかく集客(お客じゃありませんけど)して、お客がなるべく長く教会の中で夢中になっているように次から次とイベントやって、何とかミニストリーやって引き止めておくのでしょうか。

どちらの選択肢も取れない教会はどうしたら良いのでしょう。「何かしなくちゃ。でも何もできない。」

このような思考循環は即ち問題の渦にはまっている状態です。このままでは解決の方向には向かえません。

何が必要なのか。

そもそもなぜ教会は存続しなければならないのか。
教会は何のために存在するのか。

この問いに答えなければ後は単なるサヴァイヴァルのための方法論に堕してしまいます。

教会は「神の宣教」のために遣わされている。

遣わされている、と言うことは遣わした方の意図と目的に立ち戻って現状を把握しなければならないはずです。
教会はポストモダンという新しい文化変革状況の中で「神の宣教」の視点に立ち戻らなければなりません。そうでなければ買物リストもなくお金もないまま立ち往生するだけです。お使いになりません。

ツイッターが「伝道ツール」になるかどうかは、この宣教の視点の把握如何にかかっています。

「それじゃ、あなたは把握しているの?」

十分ではありませんが方向感覚は少しずつはっきりしてきていると思います。
でも実際に「出て行って」現場で試行錯誤し、検証を繰り返さなければなりません。

2010年7月11日日曜日

二つの福音?

ナザレのイエスは「神の国」の福音を宣べ伝えた。
イースター後のイエスの弟子たちは「イエス・キリスト」の福音を宣べ伝えた。

これら二つの福音は同じ福音なのか。違うとしたら何がどう違うのか。

先ずイエスの福音宣教で抑えておかなければならないポイントを二つほど。

①イエスは「イスラエルの失われた羊たちを集める」ために遣わされた、と語っていること。
イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけませんイスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。行って。『天の御国が近づいた。』と宣伝べ伝えなさい。
(マタイ10:5-7、新改訳)
しかし、イエスは彼女に答えて、「私はイスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。
          (マタイ15:24、新改訳)

②イエスのイスラエル宣教は、神の審きのカウントダウンが刻一刻と進んでいる中で行われた緊急のものであったこと。
彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです。
(マタイ10:23、新改訳)
エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」
(ルカ19:41-44、新改訳)

イエスの神の国の福音は対象がイスラエルに限定されたものであり、さらに時間的にも逼迫したものであった、と言うことが窺われます。

イエスは神の国が到来していることを宣教の言葉と行い(悪霊の追い出し、癒し、罪人の招き)によって示しました。

多くの人はナザレ出身の“預言者”にエリヤやエリシャの再来を見、神の国の到来を嗅ぎ取ったでしょう。しかしエレミヤのような滅びと亡国の警告を注意深く聞き取った人は少なかったのではないでしょうか。

ナザレのイエスは最終的にエルサレムでの死を意図されて都に向かいます。(ルカ9:51、13:31-35)当時のイスラエルの人々がメシヤに期待していたのとは全然異なった形で「イスラエルの贖い」を成就するために。

イエスの弟子たちは三度の死と復活の予告にもかかわらずイエスが成し遂げようとしておられたことを理解しませんでした。そのような道程は彼らのメシヤ像からは大きく外れていたのです。
しかしイエスは繰り返し、その道程が「人の子」メシヤのものであることを聖書から予告していたのです。

イエスの神の国宣教は“イスラエルの預言者”の死によって失敗に終わったのでしょうか。
ローマによって十字架刑に処刑された他の偽メシヤたちと同じように・・・。

イエスの弟子たちは殆どそのように理解したと推定されます。(ルカ24:21)

当時のユダヤ人の歴史的視点から見れば、イエスに従った者たちのメシヤ運動はこれで終了です。

では、一体いかにして使徒たちによる「イエス・キリストの福音」がそもそも発生できたのか

イエスは死んで三日目に復活した、からです。

イエスが復活したからこそ、まさにイエスは真正のメシヤであり、真の王であり、すべてのものの主であることが明らかとなったのです。(使徒2章、特に36節、ローマ1:4)

「神の国」の到来は、イエスの死(古い世の終焉)と復活(新しい世の始まり)によって明々白々となった、その確信に基づいて使徒たちは神の国の福音を「イエス・キリストの福音」「御子の福音」として宣べ伝えたのです。

ナザレのイエスと言うお方の歴史的時点を境に、世界は更新したのです。イスラエルの契約が更新したのです。
そしてイスラエルの贖いが成就し、イスラエルのメシヤが神の右の座に着くことによって(マタイ28:18)、「罪の赦し」が(ルカ24:47)、「御霊の賜物」(使徒2:38-39)が、全民族に宣言されることになったのです。
なぜならイスラエルもイスラエルのメシヤも、全民族の祝福のために召されたからです。
このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。
(ガラテヤ3:14、新改訳)

2010年7月10日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

7月11日(日)、午前10時30分より

ヘブル書の学び(13)

聖書箇所 ヘブル人への手紙 2:12、13
説 教 題 「主と主の民の一体性」
説  教 小嶋彬夫牧師


※礼拝は一時間くらいです。
※礼拝後、「食の日」昼食会があります。
(会費一人200円)『食の日募金』にも協力よろしくお願いします。)

2010年7月9日金曜日

何の福音?

ナザレのイエスが宣べ伝えた福音は「何の福音」?

福音書によりますと、それは「神の国」についての福音でした。

「神の国って何かつかみ所のない表現だよね。」

確かに。
でも預言者たちによってやがて到来すると約束されていた、アブラハム、イサク、ヤコブの神、イスラエルの神がもたらす
「平和と正義の住む新しい世界」
「イスラエルの神ご自身がご支配なさる新しく変えられた世界」
と理解してみてください。

例えば預言者イザヤはこう預言しています。
高い山に登れ
良い知らせをシオンに伝える者よ。
力を振るって声をあげよ
良い知らせをエルサレムに伝える者よ。
声をあげよ、恐れるな
ユダの町々に告げよ。

見よ、あなたたちの神
見よ、主なる神。
彼は力を帯びて来られ
御腕をもって統治される。
見よ、主のかち得られたものは御もとに従い
主の働きの実りは御前を進む。

主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め
小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。
                                                (イザヤ40:9-11、新共同訳)

イエスが宣べ伝えた「神の国」の福音は、見捨てられていたように見えた「神の民イスラエル」のところに主なる神が戻ってくる、イスラエルを回復する、と言う「励ましと慰めのメッセージ」を意味していたのでした。

もう一つイザヤの預言を見てください。

わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ。
わたしはあなたを固くとらえ/地の果て、その隅々から呼び出して言った。
あなたはわたしの僕/わたしはあなたを選び、決して見捨てない。

恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。
勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える。

見よ、あなたに対して怒りを燃やす者は皆/恥を受け、辱められ/争う者は滅ぼされ、無に等しくなる。
争いを仕掛ける者は捜しても見いだせず/戦いを挑む者は無に帰し、むなしくなる。

わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う/恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。

あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神/主は言われる。
恐れるな、虫けらのようなヤコブよ/イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける。              

               (イザヤ41:8-14、新共同訳)

イエスは「羊飼いのいない羊の群れ」のようなイスラエルに向かって「神の福音」を宣べ伝えたのです。つまり預言者たちが言っていた「慰めの時」「回復の時」は到来した、と。
それが「神の国」が表現しているテーマです。

と言うことはナザレのイエスは、この「慰めの時」「回復の時」、そして別な聖書のイメージを借りれば「ヨベルの年の解放」が到来したことを宣言してしまったのです。
イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。 
 「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。」

イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
              (ルカ福音書4:16-21、新共同訳)

こう言う訳で、「福音」の源を遡っていくと、神とイスラエルの間に結ばれた契約の成就、というテーマが前景に出てきます。
私たちが一般的に聞いている福音は、この「イスラエルの契約の神」と言う前景を背景に変えてしまっているのではないでしょうか。
それはもちろん「イエス・キリストの福音」には違いないのですが、福音書で目にするナザレのイエスが宣べ伝えた「神の国」の福音と、使徒たちが宣べ伝えた「イエス・キリストの福音」がどのように繋がっているのか、その意味内容の連関をあまり理解しないできたのではないでしょうか。

さて、二つは同じ福音なのでしょうか、それとも意味が変換したものなのでしょうか。

次回はそのことについて考えて見ましょう。

2010年7月8日木曜日

Myサイトとマイブログリスト

このブログは巣鴨聖泉キリスト教会のためのブログですが、ブロッガーである牧師、小嶋崇の個人的な面も反映しています。それが右側にあるリストです。

Myサイトの方は私が管理しているサイトのうちより教会と関連の深いサイトを並べました。

巣鴨聖泉キリスト教会」 は一応教会の公式サイトです。一般的な情報はここからゲットできます。最近は「説教」や「論考」もアップしています。

NTライト読書会」は私が一応主宰している読書会で、英国国教会ダーラム大聖堂主教(間もなく退任しますが)ニコラス・トム・ライト師の論文の翻訳、師の紹介・入門、読書会案内、などを掲載しています。

木工房活水」は趣味で始めた木工に関するサイトです。最近隣の空き家を改装して“立派な”工房を構えました。(「まあーこんな場所に工房なんて贅沢ねー」などとも言われて恐縮しています。)

マイブログリストは私が良く見ているブログで主に神学関係です。上から順に紹介すると、

Euangelion(ユーアンゲリオンと読みます)」は神学大学教授、マイケル・バード師のブログで更新が頻繁でかつ内容が豊富です。現在の聖書学や神学の動向を知るにはうってつけです。

Faith and Theology」はもう少し落ち着いた神学的エッセイを掲載します。更新は頻繁ではありませんが、掲載記事は結構長文になります。

Jesus Creed」はキリスト教系大学教授、スコット・マクナイト師によるキリスト教全般に関する話題がより大衆的な視点で扱われています。

N.T.Write Page」はMyサイトで紹介した「NTライト読書会」の一大ソースです。ライト主教の論文、説教、音声ファイル、ヴィデォ・クリップなどの一大宝庫です。

Society of Biblical Literature」は最大級の国際的聖書学会です。聖書学のことなら大抵のことはここを出発点にサーチできるでしょう。(このサイトはブログではありません。)
※以上はすべて英語のサイトです。

キリスト教世界観ネットワーク」はNTライト読書会のメンバーでもあり、私と親交の長い島先克臣氏が主宰するネットワークのブログです。私も氏が訳し、巣鴨教会での勉強会でも用いた「わが故郷、天にあらず」の読書随想を掲載しています。

以上、このブログの紹介でした。

(「日本語のサイトが少なすぎる!」現在掲載するに相応しい日本語サイトを探しております。もう暫くお待ちください。)

2010年7月7日水曜日

誰の福音

さて何から説き起こそうか。
やはり「福音」だな。

「福音とは」で検索すると大抵「キリスト教の福音」として説明されていますね。

「当たり前じゃないの・・・。」

でも「良い知らせ」は色々ありますよ。

「癒し系の言葉」
「心に響く言葉」
「悩みから救ってくれたあの人の一言」などなど。

表現を少し変えれば人々は様々な言葉に「救われて」いるのではないでしょうか。
もしそれらの言葉を「福音」と言い換えれば、「福音」のことばはどんな宗教にも、宗教がらみでなくてもあり得るのではないでしょうか。

それで「誰の福音」を先ず語ろうと思いました。

「キリスト教の福音じゃないの。」

いえ、もう一歩掘り下げて「神の福音」。

でも「どの神様の福音」と言う問いが生じます。

答えは「アブラハム、イサク、ヤコブの神、イスラエルの神の福音」です。

「つまり、旧約聖書の神のこと。」

いえ厳密には(ユダヤ人の)聖書の神です。

ナザレのイエスは「アブラハム、イサク、ヤコブの神、イスラエルの神の福音」を語りました。
ナザレのイエスはユダヤ人の聖書に証しされ、預言されている神の福音を宣べ伝えました。

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
(マルコ福音書1章14節、新共同訳)

(次回は「何の福音」について)

2010年7月6日火曜日

クリスチャンとキリスト者

教会内外で「イエス・キリストを信じる人」を『クリスチャン』、あるいは『キリスト者』と呼びます。
多分『クリスチャン』と言う呼称を使う人が圧倒的に多いと思います。
“ノン・クリスチャン”の方はもとより、“クリスチャン”の方でもそうだと思います。
双方に意味の相違はありませんが、このブログ上では筆者は敢えて『キリスト者』をより多く採用することにしたいと思います。

主観的印象になりますが『キリスト者』の方が『クリスチャン』より通俗的に聞こえない、『キリスト者』の方がより自覚的に自己を「キリストに属する者」と捉えているニュアンスがある、と言う余り説得的ではない理由からですが・・・。

「あの方クリスチャンですってねー。」
「あの方キリスト者ですってねー。」

少しニュアンスの違いをお感じになりますか。
であれば少しは上に書いたことに同意していただけるかもしれません。

もう一つもっともらしく聞こえそうな屁理屈にお付き合いください。

仏教、イスラム教、ヒンズー教、etc.と数々ある宗教の中の一つとしてキリスト教があります。

「どの宗教に属していますか。」
と言う問いに、
「私はキリスト者です」と答えるより、
「私はクリスチャンです」と答える方が多いのではないでしょうか。

『クリスチャン』は「どの宗教に属するか」と言う質問に答える自己同定(アイデンティティー)語として使われることも多いと思うのです。

それに対して『キリスト者』は自分が何者かをもう一段掘り下げて用いる自己同定語ではないかと思うのです。

このブログでは「伝道」「福音」「信仰」を初歩に戻って考え、紹介して行きたいと思っています。

『クリスチャン』と『キリスト者』と言う同意味のしかし少しニュアンスの違う呼称についてここまで書いて来たのは、「イエス・キリストを信じる」と言うことは諸宗教の中でキリスト教を選択する以上のことを必要とする、と言うことを言いたかったためです。

2010年7月5日月曜日

どんなブログになるのかな

巣鴨聖泉キリスト教会は45年の歴史があるけれど、思い出してもこの16,7年受洗者は出ていない。

牧師の私はまだ洗礼式をしたことがない。大変残念に思っている。

それで今肝に銘じていることは受洗者が出現するように教会全体で期待すること。
頭数が増え、会堂が賑わうことが目的ではない。

真性に福音を宣べ伝えている限り、主の体に加わる者が出現するのを期待することは当然であろう。

何が欠けていたのだろうか。
反省しながら主イエス・キリストの宣教に従事する態勢を段階的に整えようとしている。

第一段階は宣べ伝えるべき福音の再確認である。これは徐々に確立しつつある。

第二段階は福音を聞くべき人々をどのように教会にお迎えするのか、である。これが目下の課題。具体的にはそのお膳立てをする「伝道のためのツール」を色々開発中。
・教会パンフレット
・この教会ブログ
・ツイッター
は「伝道のためのツール」に入る。

と言うわけで、このブログは狙いとしてはまだ福音を十分に聞いていない方々のための導入の役割を担うはずである。

よろしくね。

2010年7月4日日曜日

教会パンフレット

教会の今年の目標だった「教会パンフレット」が出来上がった。早速今朝の礼拝後皆さんに手にとってもらった。

「どうですか出来上がりは。」
「結構立派に出来ましたね。」

今年の教会目標は「自己PR」。

ただの「自己宣伝」ではなく「キリストの僕」として自己を推薦すること。

その目的は「キリストの福音の前進」に寄与すること。
私たちは小さな教会。

でも福音を携えて地域に出て行く使命は変わらない。

「小さい」と内に閉じこもっていないで「キリスト・イエスを主と推薦」しよう。

(下段右側は教会に隣接する木工房・活水。牧師の私が主宰してます。と言うわけで、これは教会と工房のジョイント・パンフレット。)

2010年7月3日土曜日

聖餐式に備えて

巣鴨聖泉キリスト教会では年8回聖餐式があります。
明日、7月4日、今年5回目。

他の教会のことは良く知りません。プロテスタントでも礼典に対する理解は様々かと思いますが、私たちの教会では重要なものと理解しています。それで式に先行する説教ではその意義を様々な局面から思い巡らす時にしています。

明日は「主と一つになる」ことをもう一つの礼典であるバプテスマと並行させながら思い巡らすつもりです。

そのことを助ける(サイドライトを当てる)箇所が
Ⅰコリント10章2節、
「モーセに属するものとなるバプテスマ」

ではないかと今説教準備中。

2010年7月2日金曜日

ブログ開始

今日からブログも開始。
昨日はTwitterを開始した。
発信するツールを増やして、地域との接点を増やしてみよう。
巣鴨聖泉キリスト教会は小さな教会。
45年の歴史はあるけど、まだまだ〝開拓〟。
よろしくお願いします。