福音書によりますと、それは「神の国」についての福音でした。
「神の国って何かつかみ所のない表現だよね。」
確かに。
でも預言者たちによってやがて到来すると約束されていた、アブラハム、イサク、ヤコブの神、イスラエルの神がもたらす
「平和と正義の住む新しい世界」
「イスラエルの神ご自身がご支配なさる新しく変えられた世界」
と理解してみてください。
例えば預言者イザヤはこう預言しています。
高い山に登れ(イザヤ40:9-11、新共同訳)
良い知らせをシオンに伝える者よ。
力を振るって声をあげよ
良い知らせをエルサレムに伝える者よ。
声をあげよ、恐れるな
ユダの町々に告げよ。
見よ、あなたたちの神
見よ、主なる神。
彼は力を帯びて来られ
御腕をもって統治される。
見よ、主のかち得られたものは御もとに従い
主の働きの実りは御前を進む。
主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め
小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。
イエスが宣べ伝えた「神の国」の福音は、見捨てられていたように見えた「神の民イスラエル」のところに主なる神が戻ってくる、イスラエルを回復する、と言う「励ましと慰めのメッセージ」を意味していたのでした。
もう一つイザヤの預言を見てください。
わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ。
わたしはあなたを固くとらえ/地の果て、その隅々から呼び出して言った。
あなたはわたしの僕/わたしはあなたを選び、決して見捨てない。
恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。
勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える。
見よ、あなたに対して怒りを燃やす者は皆/恥を受け、辱められ/争う者は滅ぼされ、無に等しくなる。
争いを仕掛ける者は捜しても見いだせず/戦いを挑む者は無に帰し、むなしくなる。
わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う/恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。
あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神/主は言われる。
恐れるな、虫けらのようなヤコブよ/イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける。
(イザヤ41:8-14、新共同訳)
イエスは「羊飼いのいない羊の群れ」のようなイスラエルに向かって「神の福音」を宣べ伝えたのです。つまり預言者たちが言っていた「慰めの時」「回復の時」は到来した、と。
それが「神の国」が表現しているテーマです。
と言うことはナザレのイエスは、この「慰めの時」「回復の時」、そして別な聖書のイメージを借りれば「ヨベルの年の解放」が到来したことを宣言してしまったのです。
イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。」
イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
(ルカ福音書4:16-21、新共同訳)
こう言う訳で、「福音」の源を遡っていくと、神とイスラエルの間に結ばれた契約の成就、というテーマが前景に出てきます。
私たちが一般的に聞いている福音は、この「イスラエルの契約の神」と言う前景を背景に変えてしまっているのではないでしょうか。
それはもちろん「イエス・キリストの福音」には違いないのですが、福音書で目にするナザレのイエスが宣べ伝えた「神の国」の福音と、使徒たちが宣べ伝えた「イエス・キリストの福音」がどのように繋がっているのか、その意味内容の連関をあまり理解しないできたのではないでしょうか。
さて、二つは同じ福音なのでしょうか、それとも意味が変換したものなのでしょうか。
次回はそのことについて考えて見ましょう。
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