筆者は母方から数えて、牧師三代目。
父は第二次大戦直後、青年時にキリスト者になり、翌日伝道者となる献身をした。
親戚縁者は殆ど牧師・伝道者と言う境遇に育った。
割合素直な性格なので、そのまま自分も同様の道を辿って今日まで来た。
と言う風に書くと「宗教的に真面目で熱心」な方は「それは素晴らしい」と言う風に思われるかもしれない。ある程度まではそう言う風に言っても依存はない。しかしその道程に無理がなかったか、と言うと今となっては「あった」と言わざるを得ない。
「宗教的環境」が「普通の人間としてあるべき環境」から離れれば離れるほど、そこには「二重生活」「二重倫理」の要素が入り込んでくる。一個人の中で「宗教的人間」と「普通の人間」とに分裂し、統合されないままになってしまうのである。
牧師やクリスチャンの二世・三世と言われる人たちの中にこの分裂した人間が顕す落差・矛盾・齟齬を敏感に嗅ぎ付ける臭覚を発達させるようになる者が育つ。筆者はその中に入るだろう。
「宗教的に真面目で熱心」な人間の「聖人然」「良人然」とした態度の裏に隠された「普通の人間性」を見通すのである。「宗教的人間」の方は「普通の人間」の上に被る鎧のように見えるのである。次第に人間観察が人の宗教性に対してシニカルになる傾向がある。「お祈りの言葉」や「教会での振舞い」に「宗教臭い」匂いを嗅ぎ取り、嫌悪感を持つようになるのである。
キリスト者となることは、これらの「宗教的人間」の鎧で身を固めることではない。
「普通の人間生活」で起こりうる様々な問題を「祈り」や「聖書」や「牧師に相談」することで“宗教的に処理”する習慣を身につけることではない。
「普通の人間生活」で起こりうる様々な問題を何でもかんでも狭義の「神様の導きや摂理」の枠に押し込んで処理することではない。
残念ながらすぐに「祈ったり」「聖書で導きを探ったり」する「熱心なクリスチャン」にはこういう方がいる。
「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。」と言う戒めを思い起こす。
人の宗教性は簡便で自己中心的なものに堕しやすい。「人に見せる」ためのものに堕しやすい。
真の宗教性はむしろ隠れていて見えないほど深いところで顕されるべきである。
浅薄な宗教性は自身の宗教性の欺瞞や偽善を隠してしまい、自ら気が付かないうちに高慢へと導く。
御子は神と等しい方である方なのに謙って人となられた。
神が造られた被造物中最高傑作である人間自体が卑しいのではない。
罪と死の枷に繋がれた人間の「肉」が卑しいのである。
キリストは「真の人間」となられたのである。
キリスト者も「真の人間」となるのである。
“宗教的な人間”になるのではない。
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