2015年3月30日月曜日

(4)「若手論客」とか「新世代」について②

で予告していたが、そのままになっていた。

『坂口恭平』とはどういう人物か、とは余り良い質問ではない。

『坂口恭平』はちょっとしたフェノメノン、と言う感じなのだ。私見では。

だから多分に評価は情況的だし、過度的だ。

『坂口恭平』が最初に筆者の視界に入ったのは1年以上前ではなかったか。


坂口恭平躁鬱日記』が出て、その本の評判が筆者のツイッターTLにたまたま出たのを目にして、
坂口恭平@zhtsssをフォロー開始したのではなかったか。
 
最初の印象は、「がんばってんなー、この人」くらいなものであった。

気にはなっていたが別にそれ以上の関心は持たなかったが、つい最近になって『モバイルハウスの作り方』(0yenhouseウェブサイト参照)を読んで俄然面白く思った。

彼はやはり一種の「天才」なのだと思う。

でも躁鬱を抱えてちょっとアブナカしい、綱渡り的人生を送っている。

発言のあちこちにそのことは出てくる。

先日ジャーマンウィングス機の事故があったが、副操縦士の自殺の巻き添えにされたと言うことらしい。

言わばその逆をこの人は果敢にやろうとしているように映る。

革命だの、いのちの電話だの、総理大臣だの、・・・普通の人がやるとちょっと過激すぎることも、この人がやると何か分かるような気がする。

個人的にはこの人の「ラディカル」さが面白い。

思想がラジカルとか、そう言う話ではない。

もっと原始的な感性みたいなものだ。

例えば「土」に対する近さとか(「ダンゴ虫」に対するシンパシー)・・・

視野とか(建築家のパースペクティブを越えて、アボリジニの脳を想像させるような)・・・

いわゆる常識で納まらない思考と言うか、行動的知の探求というか・・・


まっそんなところです。

だから「論客」みたいなメディアに好都合な枠に入れてない方がいいと思います。


2015年3月29日日曜日

(3)英語圏ブログ紹介⑭

こちらも久し振り。

たまたま今朝[注、もう書き始めて2週間が経ってしまいました]目にした記事が簡単で良かったので・・・。

ピーター・ライトハート(Peter J. Leithart)



FIRST THINGSという"America's most influential journal of religion and public life"と自分で謳うほどのカトリック論壇誌でブログ(コラム)を持っている神学者です。

最近始めた「英語圏神学者」に加えてもいいかもしれませんが、コラムの記事は殆どが「短い断想」系でその点で少し規準に合わないかなと思いますので「英語圏ブログ」でご紹介・・・。

義のための器官
We die to sin in baptism, Paul says. Liberated from sin, we are to devote the members of our bodies to God and His righteousness. We already participate in Jesus' resurrection; His resurrection power is already at work in our bodies (Romans 6).
私たちはバプテスマにおいて「罪に死」んでおり、罪から解放された私たちはその体を神と神の義のささげものとする、とパウロは言います。私たちは既にイエスの復活に与っているのであり、その復活の力が私たちの肉に働いている、と言います。(ローマ人への手紙6章)

では「私たちの体・器官が義のための道具になっている」とは一体どんな感じのことを言っているのでしょう・・・とライトハートは問いかけます。


(と、ここで早くも道草)
何代か前の自民党首相で「言語明瞭意味不明瞭」 と言われた方がおりました。

単に日本語で読めるからと言ってその意味がいつでも明瞭か、と言うとそうではありません。

言葉の意味はその言葉だけでは成立せず、最低でも一つの文章と言う「意味の単位」に置かれた中で明瞭となります。
(実際には意味の単位はなるべく「大きく構える」ことが大切であることを、たった2回で中断してしまった『聖書入門』シリーズで書きました。特に「分かるようで分からない聖書入門、2」参照。)

小学校5年生で受洗した時に聖書をもらい、それから段々と通読も含めて聖書を読むようになったのですが、日本語で読めるということは聖書を理解する時にしばしば勘違いを起こしやすいのではないかと長い経験から筆者は思うのです。

単に字を読めたことを「理解」と勘違いしやすい、ということです。

通読などしていると、ほぼそんな感じで読んでいることがしばしばです。
理解しようとして読んでいないのですね。

理解するためには、読んでいる箇所をある程度意識的に「解釈」する(=意味を定める)必要があります。

これは訓練が必要です。
「一体パウロはここで何を言っているんだ」、と読んで分かったつもりにならないで、「意味を問う」ステップを作るのです。


(と、ここで本題に戻って)
「私たちの体・器官が義のための道具になっている」とは一体どんな感じのことを言っているのだ?

このようにライトハートが読者に「意味を問う」ているわけです。

ライトハートの提案は「体の器官」に注目して、聖書中に「文学的繋がり」を探す、と言う手法です。

言葉は文学(神学も文学ですが)的な表現になればなるほど、背景となる、あるいは参照枠となる他の文学表現があるものです。

パウロの書簡も含めた新約聖書の場合、最も緊密な関係にあるのはヘブル語聖書ですから、その中で類似の表現や思想を探して参照する、と言うのがオーソドックスなやり方です。

ライトハートが提案するのは詩篇15篇です。
15:1 主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。

Our feet walk perfectly (v. 3)
 それは、完全な道を歩き、

and our hands work righteousness (v. 4).
 正しいことを行う人。

Our hearts are true (v. 5).
 には真実の言葉があり

We don't misuse the tongue (v. 6).
 には中傷をもたない人。

Our eyes make appropriate judgments, despising a reprobate and honoring those who fear the Lord (vv. 9-10).
 主の目にかなわないものは退け/主を畏れる人を尊び

Our tongues swear and we keep our oaths, even to our own loss (v. 11).
 友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。
この後は「体の諸部分」から、その「延長」としての 「富の使用」へと移行する。

「義のために体の器官をささげる」」とは、利息を取ったり、賄賂を受け取ったりしない、と言う意味になります。
金を貸しても利息を取らず/賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人は/とこしえに揺らぐことがないでしょう。

※新共同訳から引用。





2015年3月28日土曜日

明日の礼拝案内

棕櫚の主日礼拝
 
2015年3月29日(日) 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 4:23-31
説 教 題 「神がお定めになったことの実現」
説 教 者 小嶋崇 牧師

2015年3月22日日曜日

(4)説教節

伊藤比呂美の新刊『新訳 説経節』が出るそうな。


「小栗判官」「しんとく丸」「山椒太夫」の三つの物語が収められているという。

「説教節」については当ブログではこの記事で伊東乾『笑う親鸞 楽しい念仏、歌う説教』(河出書房新社)を紹介して少し触れたことがある。

「語り」の芸能には仏教の説教という前身がある、と言う構図が面白かった。

一般庶民に届く「宗教」の教えには娯楽/エンターテイメントが関わる、と言うことだが。

今では「高座」と言ってもお坊さんのことをイメージする人は少ないだろう。


まあこんな前置きはやめておいて、時系列でこの新刊について思ったことをメモしてみる。

伊藤比呂美については『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』も読んでいたので気にはなっていた。

田口ランディもそうだが「乾いた情念」を滲ませた文章が読ませる感じだ。

結構重たいものを孕んでいるのだが、そう言うものが背景に見え隠れする程度で日常風景が流れて行く随想・・・と言う印象だ。


若松英輔の書評には説教節が以下のように説明されている。
 説教節とは、1600年前後に高みをむかえた語りの、また苦界の詩学である。試練をわが身に受け止め、その重みが肩に食い込むような境涯を生きる人々によって説教節は生み出された。神仏の加護や世界の不可視なつながり、人知を超えたところで起こる不思議、仏教でいう縁起の働きが、さまざまな物語を通じて語られる。
 当初は寺の門前で行われていたが、聞く人が増えるにしたがって場所はどんどん寺から離れて行った。彼らは、寺のなかで僧たちが説くのとは、まったく異なる言葉を口にした。整然とした教学ではなく、矛盾に満ちた出来事のなかにこそ人生の真実があることを、いつか、誰かが語り始めたのだった。(強調は筆者)

まあー説教が聖書解釈に忠実に、と言っているうちに「聴衆が置いてけぼり」になったりと言うことはあるだろうが、「整然とした教学」が「人生の真実」を無視することを意図しているわけではないと思うが・・・。

こちらの本によると、スリランカでの仏教教化において、僧侶は謳ったりするのは禁止されたそうだ。それは釈迦の指示だと言う。


さて「説教節」については、「大衆伝道」との絡みで「日本での発展」の歴史がどうなってきたのか知りたいと思っている。

2015年3月21日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年3月22日(日) 午前10時30分


朗読箇所 使徒の働き 1:1-11
説 教 題 「伝道と教会」
説 教 者 小嶋崇 牧師

教会史遡行(2)  日本のホーリネス運動史(1900-)を軸に、②
  ・・・中田重治の遺産

2015年3月19日木曜日

(4)『ミッショナル』について

さて、新カルヴィン主義動向③で「くぼき」牧師から質問をいただいてもう半年が過ぎようとしています。

つい先日新しく「現代英語圏神学者」シリーズを開始し、「スタンレー・ハウアーワス」をアップしたところで、今度はMH氏より「ジョン・ヨーダー」と「ウォルター・ブリュッゲマン」との関わりについて質問をいただいてしまいました。

と言うことで「順番待ち」状態になってしまいましたので、先ずは「ミッショナル」を(言い方は良くないですが)片付けてしまわなければなりません。


新カルヴィン主義動向③ではシカゴ大マーティー名誉教授の観測(「ミッショナル・チャーチは流行・・・」)の発言に絡んでの質問でした。
コメント・セクションで少し書きましたが、今回は改めて(量は少ないですが)辞典並みの勢いで書いてみたいと思います。(少し冗談)


グーグル先生によれば、「ミッショナル」でヒットするものは極僅か。そのうち幾つかはこのブログにリンクしています。

日本語で「ミッショナルとは何か?」に答えてくれそうな記事は残念ながら見つかりませんでした。

と言うことで、次は英語"missional"で検索。

このクリスチャニティー・トゥデー(2008年3月)記事によれば、missionalやmissional churchと言う語が使われ始めて「まだ10年も経っていない」と前置きして、この本を紹介しています。


Missional Church:
A Vision for the Sending of the Church in North America
Edited By: Darrell L. Guder

実はこの本、筆者の友人の一人でもうかれこれ5-6年前かフラー神学校を卒業したG夫妻が、宣教学のテキストでこの本を使ったそうなことを教えてくれました。

それを聞いた後だったか前だったか、実はこの本買って少し読んでいました。
(そんなに面白くなかったので途中で止まってしまいましたが。)

この記事を機会に「ミッショナルとは何か」だけでも抽出しようと改めて読んでみました。

でもそれを紹介する前に、Missional Church Networkというウェブサイトについて一言二言。

このサイトの説明によると、最初にミッショナルという語を使ったのは
However, the term was used by Dr. Francis DuBose, former professor at Golden Gate Baptist Theological Seminary, in a wonderful book titled God Who Sends published in 1983.
だそうです。(What is missional?
Missional Church(1998年)よりさらに15年も前ですね。
と言うことは筆者が北加で遊学していた頃には既にあったわけだ。
全然覚えがありませんが・・・。
その後「ミッショナル」は爆発的に使われ始め、今では「なんでもかんでもミッショナルをつければ良くなる」風な氾濫状態だそうです。(教会成長論、伝道論、教会員を宣教に教化する、とか。)
このサイトではミッショナルを次の三点に整理して解説しています。
1. Missional Church is about the missionary nature of God and His Church.
2. Missional Church is about incarnational ministry (versus attractional/extractional) in a post-Christendom context.
3. Missional Church is about actively participating in the missio Dei, or mission of God.  
どうも内容が重複しているところを見ると、「まだ十分神学的に煮詰められていない」印象です。


ではMissional Churchに戻って・・・。

編者のダレル・グーダーは現在プリンストン神学校の『宣教と教会一致の神学』教授をしています。
His writing and teaching focus on the theology of the missional church, especially the theological implications of the paradigm shift to post-Christendom as the context for Christian mission in the West.

(彼の著作とクラスはミッショナル教会に焦点を合わせるもので、特に西洋における脱キリスト教時代にパラダイム・シフトした文脈での意味合いを探るものです。)
と紹介されています。

では『ミッショナル教会』でグーダーが第1章で書いている導入部分から「ミッショナルとは何か」について幾つかハイライトして見ます。

(1)(北米)キリスト教会はかつて圧倒的な「キリスト教文化」の中心にいたが、現在では増々「反キリスト教」的状況で「周縁」に置かれるようになっている。そのシフトによって自己のアイデンティティーを再確立する必要が生じ、「教会」についての神学的・霊的思索が「ミッショナル(派遣された教会)」を核にして掘り下げられている。

(2)「教会成長」とか「伝道プログラム」とか、教会の社会学的動態論から提案される様々な新しい伝道論も、この一大文化シフトに対して「解決」を提示しようとするものであり、「ミッショナル」を使用するが、このような「問題の認識→解決の模索」と言う実際問題的対応だけではとてもこのような大きな危機には間に合わない。

(3)これまでの宣教論をリードしてきた西洋の教会は(教会と国家・社会が重複した)キリスト教文明(Christendom)に基礎付けられて「教会中心」的な「宣教」実践をしてきた。その宣教は「キリスト教国」から「非キリスト教国」へ宣教師を遣わすという図式で理解されてきた。

(4)深い神学的反省によって、宣教が「キリスト教地域から非キリスト教地域への水平的な働きかけ」と言う「教会」が中心となる理解から、宣教なさる「神」から遣わされると言う垂直的な次元にまで立ち戻って捉え直されるようになった。

とまあ上手くまとめられませんが、そんな神学的思考が背景となっていると言えます。

今「ミッショナルという宣教的視点」は、単に実践神学の一分野である「宣教学」での強調・フォーカスであることに留まらず、聖書学・神学・教会の実践を統合するものになりつつあるといえるかと思います。

※参考までに、そのようなミッショナルな視点で紹介した「パウロ研究と宣教学的解釈論」も合わせて読んで頂けると、少し理解が進むかもしれません。

2015年3月15日日曜日

(5)ポスト世俗化時代の哲学と宗教

めったに紹介することがないですが、筆者のブログ『宗教と社会 小ロキアム@巣鴨』に記事を投稿しました。

以下の本を紹介しています。宜しければクリックどうぞ。

ユルゲン・ハーバーマスとヨーゼフ・ラッツィンガーの対論とした出版された

『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』 

(三島憲一訳、2007年、岩波書店)


2015年3月14日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年3月15日(日) 午前10時30分


朗読箇所 コロサイ人への手紙 1:9-23
説 教 題 「満ちあふれるもの」
説 教 者 小嶋崇 牧師

コロサイ(15)/パウロ書簡の学び(132)

2015年3月11日水曜日

(4)「若手論客」とか「新世代」について①

先日、日本を変える若手論客20の提言という本を図書館から借りてきた。

「20人」の中の一人である「坂口恭平」に興味があったわけだが・・・。
 
まっ坂口さんについてはまた続編②で取り上げることにして、今回は「若手論客」とか「新世代」とかとメディアが称揚して何をしたいのか、を考えてみることにいたします。

実はこの後書くことは2014年の年頭に『新春放談』として準備していた記事だったのだが、まとまらないうちに時機を逸してお蔵入りになっていた。

その記事はNHKが元旦放送予定の
新世代が解く!ニッポンのジレンマ 僕らが描くこの国のカタチ2014
の(後から分かったことだが)番組録画後に出演者にインタヴューしたものを読んでの感想だった。

そのお蔵入りにしていた記事の冒頭はこんな風に始まる。

新年明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

最近更新が滞っています。
今一つ書くことが見つかりません。

って言うかまたまた波なのでしょう、集中力が湧きません。

そんな中、ツイッターでは結構呟いているのですが、たまたまこれが筆者のツイートとしては珍しく沢山(と言っても数字は一桁ですが)RTや「お気に入り」に登録されました。


なぜでしょう。

勿論10人の論者のうち何人かが自分の名前を見つけてRTするのは分かるのですが、筆者は単にヤフー記事を殆んど加工もせずにツイートしただけなのです。

今読んでも当時の(何とか記事にしようとしている)カッタルサが伝わってくる。
その記事はその後こう続く。
と言うわけで、少しこの記事を改めて読みながら「放談」することで、2014年最初の投稿にしたいと思います。

この国のカタチと言うとすぐ連想するのは、(筆者は読んでませんけど)司馬遼太郎の「この国のかたち」でしょうね。

1970年以降生まれの10人の『論客』が、「日本の新たな未来地図」を描く・・・と言う触れ込みだったので少し期待して読んだのですが・・・。

今再見すると、
※このページで紹介した論客が討論する「僕らが描く この国のカタチ2014」は、NHK Eテレで2014年1月1日(水)夜11時~(150分)放送。
となっているので、ヤフーの方に掲載された文章は、この番組のための前宣伝だったのでしょうね。
だとすればこの文章だけで論評するのも野暮と言うものかもしれません。

とにかく数日前読んだ時には余りぴんと来るものがなかった。

さて再読して気がつきました。

この短い文章群は番組収録後の「インタヴュー」に答えたものなのですね。
宴の後の・・・と言うことでしたか。
うっかりしてました。

読み直して感じるのは(NHK番組と分かったからの偏見なのでしょうが)、問題設定がお行儀がよろしい。
また『論客』たちもお行儀がよろしい。
と言うことでしょうか。
この時の筆者の反応は、
  若手に、
  マジメに、
  「天下国家」を
  論じさせるメディアのお膳立て
に対する居心地の悪さ、とでも言いましょうか。

また、先ほどの「インタヴュー」での
  「ホンネ」にしては
  中途半端で
  生煮え、
  歯切れの悪さを感じさせる内容
だったのではないかと思います。

さてこのNHKの番組では「10人の論客」だったのですが、冒頭に挙げた日本を変える若手論客20の提言と何人か名前が重なっていました。(家入一真、白井聡、與那覇潤、それにMCを務めた古市憲寿)

で、「20人」の方は
本書は『潮』2012年5月号から2013年12月号まで20回連載された「若手論客に問う『日本のカタチ』」を再構成のうえ加筆・修正したものです。
とある。

あれーこれってNHKが殆どアイデアを真似しているのでは・・・。

 
と、やっとここで「20人」の方に話題を移すのだが、はっきり言って面白かったのは「坂口恭平」だけであった。

もちろん何が面白いかは人それぞれなので、その面白さを語るまでは単なる独断に過ぎないが、次回まで待っていただくとして、その他から一つ拾ってみた。

提言13 外交下手のツケを「九条」に回すな 木村草太

主に質問する田原総一朗と「憲法との衝撃的な出会いの思い出」「『押し付け憲法論』をどう見るか?」について話してきた後、「憲法九条改正の波にどう抗うか?」に話題が移る。

田原は「憲法九条」を絶対に変えてはいけない、と自らの戦争体験から語るのだが、それは九条によって日本が戦争に踏み出すのを阻止できる、と考えているからだ。

しかし、木村は田原の勢いを削ぐように、九条は別に日本の武装を制限するわけではない、と主張する。
木村 たしかに憲法上、日本に許されているのは専守防衛のみで、自衛のための必要最小限度を越えると考えられる武器は持っていません。しかし、「自衛のための必要最小限度」というのはあいまいな概念です。「これからの日本は、核武装をしなければ自衛はできない」という説明がもし国民に支持されて通ってしまえば、憲法九条を持ったままでも核兵器保有は可能なのです。ただ、核不拡散条約に違反するので、国際法では禁じられますが。
 田原さんがおっしゃっているのは、九条の法技術的側面ではなく、「外交宣言」としての側面だと思います。九条は、「日本は非核三原則などの諸原則を、これからも守りますよ」という宣言として機能していて、おそらく田原さんはそちらの機能に注目されているのでしょう。
田原 まあ、そう言ってもいいですね。安倍首相にインタヴューしたときに、安倍さんは国連軍に参加したいと言う意向を明言していました。時間がなくて「集団的自衛権」(他国が武力攻撃を受けたとき、第三国が共同で防衛を行う国際法上の権利)のことまで聞けなかったのですが、たぶん自民党は集団的自衛権を行使可能にする方向で改憲するつもりですよ。具体的に言うと、北朝鮮がアメリカに向けてミサイルを発射したとき、日本の自衛隊がそれを撃ち落すべきだという話になる。それを可能にする九条改正を狙っている。
木村 まさにそういう行為を禁じているのが九条一項です。 (162ページ)
とまあこんな調子の対談であった。

若い木村が老獪な(?)田原相手に憲法学者としての条文の厳密な解釈とその適用を解説していて面白く感じた。

この部分だけで何か言うのもなんだが、木村の意見には「(憲法の)コトバと政治的現実とがどのように折衝するのか」ということに関する冷静な態度が垣間見られるように思われた。より柔軟な現実への対処ができそうな感覚というか・・・。

あと二三面白いな、と思われる意見や見方はあったが、総じて「論客」としてコトバを使って対論者との「間を測り」「太刀を斬り交わす」丁々発止の面白さを見せてくれるようなものは少なかったように思う。

余談だが、米国遊学時三大テレビ局の一つABCのテッド・コッペル「ナイトライン」を良く観ていたので、ウィットやユーモアを交えながら、遠慮なく相手を追い詰める質問のコトバの鋭さを懐かしく思うとともに、日本の政治家や責任ある立場の者たちの「応答責任」を引き出すような言論追及を観たいものだと思うのである。

では次回は「坂口恭平」についてになると思う。



2015年3月9日月曜日

ティールームで花見でもいかが・・・

ティールームで花見でもいかが・・・

期間限定オープン
3月28日(土)、11時30分~14時30分

3月29日(日)、12時00分~15時00分

ようやく冬を抜けて春が間近になって来ました。
 

今年の東京の開花予想は3月25日だそうです。

2009年改装以来、ずーっと準備中の「木工房・活水」のティールームですが、「臨時オープン第1弾」として3/28と29の二日間オープンします。

近所にはソメイヨシノの地元染井霊園と染井通り、六義園や小石川植物園、など桜の名所もありますが、ティールームの窓から見える公園の桜また結構ですよ。
 

どうぞ散歩の途中にでもお立ち寄りください。

※「臨時オープン第2弾」はバラが咲く(だろう)5月3日の予定です。

2015年3月7日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2015年3月8日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネ福音書 4:1-26

説 教 題 「現代人の渇望②霊性」
説 教 者  小嶋崇 牧師


『現代キリスト教入門』(3)

※礼拝後、昼食会があります。

2015年3月4日水曜日

(5)現代の英語圏神学者①、スタンレー・ハウアーワス

先の冬季オリンピックでスキー・ジャンプの葛西選手が「レジェンド」と騒がれていました。

普通は存命中はまだ「レジェンド」まで行かないものなのでしょうが、最近では物事の変化が早過ぎるので生きているうちでもどんどん「レジェンド」にしておかないと忘れられてしまうのですかね。

ところで色々連載(中断)中のもあるのですが、今度また「(現代の英語圏)神学者」シリーズを“適当に”始めようかと・・・。

そうですね、かなり偏見と独断による「この人の名前、覚えておくといいかも」と言った感じでしょうか。

中には著書が邦訳されている人もいますが、全然無名に近い人もいるかもしれません。(そこが却って面白いところかもしれません。)

で、トップバッターに選んだのは

スタンレー・ハウアーワス(Stanley Hauerwas)。

日本語で何か紹介しているのを探そうと、「スタンレー・ハウアーワス」で検索したところ筆者が書いたものしか見当たらないではないですか。

なるほど「スタンレー・ハワーワス」に変えたら出てきました。

なかなか日本語表記の問題は難しいですね。
一応英語圏でこの名前を言う時には「スタンレー・ハウアーワス」 の方が幾分近いですよ、とは言っておこう。

※このポストのタイトルもこれで行きます。検索に引っかからなくてもいいや。

ところでなぜハウアーワスがトップバターかと言うと、彼がちょうど旬なのです。

先ごろ(2013年)デューク大学神学部を定年退職なされたのですが、つい先日ハウアーワスが英国スコットランドのアバディーン大学でパートタイムで教えることになった、とアナウンスされました。

大学側の発表はハウアーワス教授を最大級の賛辞で歓迎しています。
つまり彼が来ることでアバディーン大学神学部はワールドクラスと言う箔が付く、と言うことらしい。

さて、これだけのキャリアの人を紹介しようとするとあれもこれも大変なので、ごく私的な紹介に留めます。

筆者が米国留学時からハウアーワスは既に評価されていたのですが、当時は必ずしも幅広く支持を得ていたと言うより、「キャラクター倫理」「共同体倫理」「教会論」等のアプローチをするキリスト教倫理学畑の人として際立っていた印象があります。

しかし筆者の個人的なイメージでは「主流ではなく、アウトロー的」でした。

その後彼が神学者としてアメリカの重鎮となるに従い、皆の見方が変わってきたような印象があります。

彼の神学アプローチの背後にある(神学者ではありませんが)重要な哲学者であるAlasdair MacIntyreも覚えておかなければならないでしょう。

特にマッキンタイアーのAfter Virtueは学際的な影響を及ぼした古典的名著です。


ハウアーワスがノートルダム大学にいた時、マッキンタイアーが同僚だったわけですが・・・。

さてそろそろ長くなってきたので、ハウアーワスがマッキンタイアーについて書いている記事を紹介して終わります。

Alasdair MacIntyre is also a constructive thinker who has sought to help us repair our lives by locating those forms of life that make possible moral excellence. 
(アラスデア・マッキンタイアーはまた建設的な思想家でもある。彼は建徳的指標が備わった「生の営み」がどこにあるかを示し私たちがそれらを再建する助けを提供しようとした人だ。)

(※何か半分はアラスデア・マッキンタイアーの紹介記事のようになってしまった。実はそれも目的だったりして・・・。)

と、終えたはずなのだが、ついでに読んだこの記事が面白かったのでオマケ。
(ハウアーワスの出生に関するエピソードについて。)

There are good reasons for me not to be a Christian. Hannah's Child begins with the story of how I came to be. My mother, who came from dirt poor Mississippi folk, and my bricklaying father married late. They had trouble having a child. My mother had heard the story of Hannah and Samuel, so she prayed that if God would give her a son she would give that son to God. That was a perfectly appropriate thing for her to do, but as I observe she did not have to tell me she had made such a promise. In particular, she did not have to tell me when I was six. That she told me was surely grounds sufficient for me to have nothing to do with Christianity.



2015年3月3日火曜日

(4)オウム真理教ノート 2015/3/3

まもなくオウム真理教幹部たちが起こした「地下鉄サリン事件」から20年を迎える。

3月20日のNHKスペシャルでは、「未解決事件File.04 オウム真理教終わりなき闇(仮)」と題する番組を放送するとのこと。
2012年放送の未解決事件File.02では、オウム真理教の暴走の原点に迫り、大きな反響を得た。今回は、オウムの「終着点」となった地下鉄サリン事件にいたる過程を徹底検証。堅く口を閉ざしてきた元捜査員や、死刑囚たちの新たな証言から、これまで知られていなかった事件の舞台裏が次々と明らかになっ てきた。事件に至るまでの警察とオウムの水面下の攻防、独自に入手した被害の全貌を示すデータや、サリン拡散のシミュレーションなどをもとに、20年前の 「3・20」を立体的に再現しながら、未曾有の事件が今に突き付ける課題を見つめていく。
と言う触れ込みである。

しかし森達也も度々指摘するように、一体「動機の解明」なくして、その「暴走の原点」はどうやって定めるのか。
地下鉄サリン事件、一通の手紙が裁判を覆すかもしれない
地下鉄サリン事件がテロだった誰が断言できるのか?


今回これが「オウム真理教ノート」として投稿する10本目の記事になると思うが、書き始めはこの「2012年放送の未解決事件File.02」だったかと思うので、丸3年が経とうとしていることになるのだろうか。

前回オウム真理教ノート 2014/4/13では、教団中枢ではないがオウム真理教に関する情報を手記の形で表した、《野田成人》と《高橋勝利》の教団への「距離の取れ方」、つまり教団内にいた時どの程度「客観的な観察と批判」が出来たのだろうか、と言うことを二人のオウム入信前の「精神世界の形成や構成」からヒントを得ようとしてみた。

借りた本の返却期限、と言う事情もあり、最後の部分が十分書けないまま終わってしまった。

少なくとも《高橋勝利》の方がより具体的にオウムの内情を在団中も批判できていたのは、高橋が少年期に「世界観」レベルでの「根底的揺らぎ」を体験していたからではないか、と言う見方を提供しようとしたのだった。

その点で《野田成人》の精神世界が宗教と言うか世界観レベルでの体験が少なく幼稚だったため、オウムの教理への疑問や、「グルイズム」による縛りからなかなか取れなかった理由ではないか、と言うことを比較しようとしてみたかったのだが・・・。


さて、以下の文章は「不足した文」を補おうとして書いたもので、日付としては「2014/4/15」ということになる。

既に少し分析視点として書いたこともある「『リアリティー』はどのように構成されているか」、についての一社会学的視点ついてだ。

*  *  *  *  *  *  *

《社会学的リフレクション》
 アルフレッド・シュッツという「現象学的社会学」を理論的に構築した人がいる。

 読者の中にはルター派の宗教社会学者ピーター・バーガーをご存知の方もいるかもしれないが、彼の「現実の社会的構成(旧タイトルは日常世界の構成)」の理論的な部分は殆どシュッツに拠っているところが大きいと思う。
彼の理論で重要なものは、『リアリティー』を複眼的に分類・構想し、『日常世界』というプライマリーな「現実」をアンカーとする一方(シュッツはこれを「パラマウント・リアリティー」と表現している)、「科学」のような他の諸「現実」を二次的なものとして関連付けたことである。(かなり昔に読んだのでシュッツ理論の大雑把な印象的要約に過ぎないのだが・・・。)

一応この「日常世界」、と言う基底的な「現実」認識を念頭に以下を読んでいただきたい。

 野田はサリン事件の後、幹部が抜けたオウム教団の責任ある立場に立たされる。

 しかし実際の教団指導は拘置された麻原や麻原の家族から来た指示をその通りやるだけであったようだ。
 「グルイズム」は依然強力で、とても事件の重大性を自覚し反省するような環境には至っていなかった。

 最終的に野田がグルイズムを振り切り、教団を脱会する一番のきっかけとなったのは、「ハルマゲドン予言(1999年)」が外れたことによる幻滅であった。(それまでは終末の実現→革命のシナリオを否定することは出来なかった。そのことに意識が吸い付けられていた。)

 それに対し高橋は入信後一旦脱会し、また入会する、と言うジグザクをやっている。
 またオウム教団を客観的に観察したり、批判したりするだけの「自己」を保持していた。

 『キリストのイニシエーション』についての部分で高橋はこう述懐している。
三時間続いたこの儀式は、このように噴飯もののきわめて幼稚なものだった。それにしても、この「幼稚さ」はオウムの大きな特徴の一つであると思う。発想もその実行の仕方も管理の仕方も、すべてがあまりにも子供っぽい。だが、子供とは残酷で凶暴な一面ももっている。オウムの怖さは子供の犯罪の怖さに似ている。
高橋はどこまで客観的に、批判的にオウム真理教の行状を観察できていたか、と言うと(このような回想録の性格からしてなかなか難しいところではあるが)、少なくとも「おかしい」と気が付くことは十分出来ていたことは伝わってくる。

彼がある程度“普通に”オウムのおかしさを、それとして認識し批判できていたのは、少年期における『世界観の揺れ』を体験していたからではないか。

高橋はそれを基に「普通の世界」とそれとは「異なる世界」があり得るかもしれないことを感じ取っていたからではないか。

高橋がオウムにいながら、そして疑問を感じながらもワークを継続し、しかし簡単には取り込まれないだけの、オウムの宗教性を判定するだけの精神があったのは、彼にはオウムのような宗教性を比較する《原体験》が幼少期にあったことが大きいのではないか。

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つまり高橋には「日常世界のリアリティー」と「宗教と言う、少し日常とは異なる面を持つリアリティー」とを区別し、観察する『目』が育っていたのではないか、とヨタヨタ考えている次第である。