「小栗判官」「しんとく丸」「山椒太夫」の三つの物語が収められているという。
「説教節」については当ブログではこの記事で伊東乾『笑う親鸞 楽しい念仏、歌う説教』(河出書房新社)を紹介して少し触れたことがある。
「語り」の芸能には仏教の説教という前身がある、と言う構図が面白かった。
一般庶民に届く「宗教」の教えには娯楽/エンターテイメントが関わる、と言うことだが。
今では「高座」と言ってもお坊さんのことをイメージする人は少ないだろう。
まあこんな前置きはやめておいて、時系列でこの新刊について思ったことをメモしてみる。
伊藤比呂美については『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』も読んでいたので気にはなっていた。
田口ランディもそうだが「乾いた情念」を滲ませた文章が読ませる感じだ。
結構重たいものを孕んでいるのだが、そう言うものが背景に見え隠れする程度で日常風景が流れて行く随想・・・と言う印象だ。
若松英輔の書評には説教節が以下のように説明されている。
説教節とは、1600年前後に高みをむかえた語りの、また苦界の詩学である。試練をわが身に受け止め、その重みが肩に食い込むような境涯を生きる人々によって説教節は生み出された。神仏の加護や世界の不可視なつながり、人知を超えたところで起こる不思議、仏教でいう縁起の働きが、さまざまな物語を通じて語られる。当初は寺の門前で行われていたが、聞く人が増えるにしたがって場所はどんどん寺から離れて行った。彼らは、寺のなかで僧たちが説くのとは、まったく異なる言葉を口にした。整然とした教学ではなく、矛盾に満ちた出来事のなかにこそ人生の真実があることを、いつか、誰かが語り始めたのだった。(強調は筆者)
まあー説教が聖書解釈に忠実に、と言っているうちに「聴衆が置いてけぼり」になったりと言うことはあるだろうが、「整然とした教学」が「人生の真実」を無視することを意図しているわけではないと思うが・・・。
こちらの本によると、スリランカでの仏教教化において、僧侶は謳ったりするのは禁止されたそうだ。それは釈迦の指示だと言う。
こちらの本によると、スリランカでの仏教教化において、僧侶は謳ったりするのは禁止されたそうだ。それは釈迦の指示だと言う。
さて「説教節」については、「大衆伝道」との絡みで「日本での発展」の歴史がどうなってきたのか知りたいと思っている。
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