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2026年2月4日水曜日

ある読書会でのこと(覚書)

先日あった牧師たちのZOOM読書会でのことを記しておく。

取り上げられた本は牧師による説教集のようだ。
「ようだ」というのは、筆者はオブザーバーのような参加なので購入もしていなく読んでもいないので。当日は用意された発表者の感想なような文章を事前に読んで参加するだけ。いわば気楽な立場。

イエスの復活の記事(ヨハネ福音書20:24-29)からの説教だが、次のような部分がある。(引用はこの発表者のものではなく、ネットにある書評から。)

もう一つのショックは「傷によって共に生きる」(本書24頁以下)の中で語られている「傷」に対する捉え方である。聖書個所はイエスが疑い深いトマスに現れ、ご自身の傷口を示した個所である。この個所から北口牧師は語る。
「わたしたち誰もが傷を負っているのです。そしてその傷は、よみがえられたイエスに傷が残っているように、癒えても残りつづけます。誰もが生きる中で傷を負い、残る傷がある点で、わたしたちは兄弟姉妹であり、家族であります。」(30頁)。「キリストが傷を残してよみがえられたのは、それぞれに傷を持つわたしたちを『傷によって共に生きる』という生き方に招くためだったのではないでしょうか。わたしたちには傷があります。なら、その傷によって共に生きることはできないのでしょうか。傷によって傷付け合うのではなく、それに対して思いやりをもって、愛し合うことはできないのでしょうか。決してそうではないと信じています。」(31頁)とある。

この部分もそうだが説教集のタイトルにもある「傷」ということに一番の焦点が当たっていることが分かる。

さて、他の牧師たちが一通り感想を述べた後、筆者もコメントを求められた。
実はそうは言わなかったがこの著書についてはある程度耳にしていた。著者のこともそれなりに耳にしていたので本の内容も推察していた。

発表者の感想に次のような一文があった。

著者は自分の弱さを徹底的にさらけ出して語っている。それがこの書の魅力だが、わたしの○○年の牧師としての歩みは、あまり自分のことを語らなかったように思う。聖書が何を語ろうとしているのか、それを今生きているわたしたちはどのように受け止め、生きていけば良いのかを語ってきた。

この「自分の弱さを徹底的にさらけ出して語っている」という部分に自分(発表者)とは対照的な説教アプローチであることを感じ取っていた。

筆者のコメントは、まずこの点についてのものだった。
つまり「自分を語る」という点。

筆者が見るところ、この「自分を語る」傾向は神学にも出てきているように思う。何かを客観的に語るだけでは説得力がないように感じられ、自伝的なエピソードも交えて語ることで、信憑性が増すように思う傾向である。
英語で言えば「lived experience」。要は体験された真理が真正性の証明と受け取られるような傾向である。

近・現代の聖書解釈の流れにおいても、解放の神学やフェミニスト神学のように、解釈者自身の体験をテキストに持ち込むようなアプローチが有力になっているが、その背景には「真正な自身(authentic self)」を追い求める思想的背景(その時には用いなかったが大雑把に言えばロマンティシズム的背景、現代では「expressive individualism」文化)があるのではないか、とコメントした。

次に筆者がコメントしたのは「イエスの復活」について。

この説教においてイエスの復活は全体として後景に退き、ただ復活のキリストの「傷跡」が抽出され、説教者自身の「傷」と結びつけられ、それがメッセージとなって聴衆も抱えているだろう「傷」体験と響き合うよう語られている。そのような印象を持った。

それでコメントで指摘したのは次の2点だった。

(1)身体的復活
 ヨハネの「イエスの復活」の記述で「傷跡」が持つ意義は、まず「復活のからだの身体性」にあるだろうということ。
(2)復活前と復活後の身体の連続性
 さらに「傷跡」はコリントⅠ15章(35節以降)で「復活の体はどのような体で来るのか」と議論されているように、復活前と後の身体には「連続性」があることの示唆になるだろうということ。(またその傷跡が単なる生前の生きた証のようなものではなく、「十字架刑の傷」であることも安易な感傷的共鳴を退けるのではないだろうか。)

以上覚書として書いたことはまだ思いつきにすぎず、深められる必要があることは言うまでもない。


2021年1月22日金曜日

(説教)序「一からの出直し」について(続)

 「ゼロ」ではなく「一」からの出直し・・・について」

 出直しは「ゼロから」ではなく「一から」だ、ということを少し説明します。
 遡って10年前 [1999年]、N.T.ライトを読み始める少し前、現代の「福音主義信仰」は最早「行き詰まり」に近づいているな、福音派である自分自身が語りかける福音のメッセージ、宣教手法が何か空回りしているな、との自覚がありました。

 しかしライトを読み始め、「使徒たちのキリストへの信仰は歴史的にどのように形成されて行ったのか」を問題意識として持つようになりました。振り返って見ると、現代福音派が「神の愛」「十字架のゆるし」を語る時、どこか選挙で声高に連呼されるキャッチフレーズのように聞こえました。「イエス・キリストの十字架がどういう意味で普遍的な救いになるのか」、その根拠がさっぱり提示できていないではないか…。

 そんな問題意識の中から芽生えたのが、日本聖泉キリスト教会連合、2002年春、総会聖会・合同礼拝での説教でした。『使徒信仰の継承』と題したその説教で、現代福音派の福音理解・伝道メッセージは、「復活」抜きの「十字架の福音」であることに大きな問題があることを指摘しました。(よろしければ注意深くこの説教をご一読ください。)

 私の福音理解の「ターニング・ポイント」はこの時を境にしています。この説教を「ゼロからの出直し」とすると、今回の「一からの出直し」とはどう言う意味なのか・・・。
 それは「キリスト教信仰の土台」である「イエス・キリストの福音-その歴史的性格と使徒的福音における十字架と復活の歴史的事実性」と言う岩盤(鉱脈と言っても良いか…)を掘り当て、「これだ!この鉱脈を掘り進めて行けばいいんだ!」との確信を得、それを持ち続けたまでは良かったのですが、礼拝に来て説教を聞いてくださる会衆一人一人に、その意味・意義を十分伝えることが出来なかった。その反省に立っての「一からの出直し」という意味です。

 (キリスト教歴史学の)学問的成果に立脚しながら(N.T.ライトはそう言う学者の最たる方の一人ですが・・・)、この土台を約30分間の説教の中で明証して行くことは、語る者にも、聞く者たちにも、大変困難な作業でした。
 この土台の上に教会が建てあがって行くはずだ、今は人数こそ小さいが、焦らずこつこつやって行けばよろしい、とそう考えていました。しかし、その間、礼拝出席者数は減少し、まばらな会衆席を見渡しながら、「本当に巣鴨教会は教会として生き延びられるのだろうか」としばしば心は揺れ動きました。
 土台から順に建築を進める作業に確信は持ちながら、「教会の将来を人数や教勢の変化で測り、懸念する」従来のメンタリティーは引きずったままだったのです。その反省に立っての「一からの出直し」ということも、またもう一つの意味です。

 病気になり、毎週会衆席の後ろに座り、“実ーに楽な気持ち”で礼拝を捧げている自分を発見しました。
  大事なことは主の平安だ。
  主の平安を頂いて新しい週を迎えることだ。
  主の臨在を信じていつもの場所に遣わされることだ。
  そう言う礼拝を捧げることなのだ。
 弱さ、無力さを覚え、信徒の立場から改めて礼拝に出席して感じた平安、それがまたもう一つの「一から出直し」と言う意味です。

 (次回からいよいよ本論である『教会の本質』について論を進めていきます。)

(説教)「一から出直す」シリーズについて

 2021年1月28日閉鎖となる「巣鴨聖泉キリスト教会」(My Site→にリストされています)に掲載されている説教をブログの方に転載しておきます。

 「一から出直す」シリーズについて

 『教勢』に目を奪われ、『メガチャーチ』に憧れ、『リヴァイヴァル』や『弟子訓練』の実利的効用に足を取られて悩んでいる牧師や、『教会成長』に滅私奉公してきて疲れてしまっている信徒の方々にも、このシリーズで探索している「教会の意味・意義」「教会の本質」「伝道・宣教の位置づけ」「教職と信徒」等について問い直す一助になればと思います。

 「主イエス・キリストの神の国の福音」に立ち戻り、その福音の宣教を託されている「現代の教会の使命」を再構築する作業にネット上で参加していただければ幸いです。
(ネット公表のため説教内容は少し編集することになりますが、説教の形・流れはなるべく原形を保つようにしたいと思いますのでご了承ください。)

 

2018年3月21日水曜日

今日のツイート 2018/3/21

「AIと教会」、というタイトルでもつけたらいいかなこのツイート。

2017年12月30日土曜日

今日のツイート 2017/12/30

「高齢者デイサービスのメニュー」に適かどうかは別にして・・・



ここで列挙している要素を別の角度から見てみると・・・
 (1)会話・・・インプット、アウトプット
 (2)大きな声で歌う・・・アウトプット
 (3)お話しを聞く・・・インプット
 (4)食事・お茶・・・インプット
と、(要するに)インプットとアウトプットの適度なバランスを図ることに他ならない。

2017年1月10日火曜日

今日のツイート 2017/1/10

説教との比較でキャプチャーして見ました。

《観察1》
まあ「40分の講演」というと、説教としては長い方になりますね。


《観察2》
「説教原稿を読む説教」だとこう言う苦労はありませんが・・・。

その場合でも「会衆とのラポート」のため挿話の一つや二つは入れるでしょうが。
ラポート: 心が通い合って[互いに理解合って]いる状態.
「・・・講演では『言わなくてもいいこと、言わない方がいいこと』ばかりしゃべる・・・」のは、ラポートを求めすぎて脱線しやすい、ということもあるかも。

話の上手い人は往々にしてこの誘惑に負けやすいのでは。


《観察3》
筆者は「説教要旨」だけプログラムに書いておいて、実際は「時間内に収める」ことを枠としてある程度自由に語ります。

終わってから「予定・予想していなかったことを語った」中で、記録に留めておきたい気持が出る時はありますが、あえて「説教集」のような形にすることは今は考えていません。


2016年1月3日日曜日

(2)教会巡り2016年

教会巡りについて書くのはこれが第3弾目となりました。

第1弾目第2弾目

今年もこの「教会巡り」が初めての投稿です。

で、まずはご挨拶から。

新年明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
この年末年始も、巣鴨聖泉キリスト教会は主日礼拝が3週連続でお休みとなりました。
 12月24日夜のイブ礼拝を挟む、12月20日と27日の2回。
 元旦礼拝を越えた3日(今日)。

では順にどの教会へ行って礼拝を守ったかご報告します。


12月20日は、日本聖公会東京諸聖徒教会へ。

 近所なのですが筆者の4つ5つある散歩コースからはちょっと外れていて殆ど(教会が)あることに気づきませんでした。

 たまたま数週間前歩いていて古めかしい建物に出くわしたら、それがこの教会だったという・・・。

 それで今度の教会巡りに訪ねてみようと思い立ちました。

 訪れた20日は多くの教会ではプログラムがクリスマスにちなんでいましたが、こちらではほぼ普段どおり(キリスト教暦に基づいた典礼ですから、聖書箇所はクリスマスでしたが)。

 礼拝では聖餐式があり、特別に案内がないので、スキップしようと思いましたが、案内の人が「洗礼を受けていれば、受けてください」ということなので前に進み出ました。

 しかしなんですね、自分が与っている聖餐式の形と違うとえらくハードルが高く感じられました。

 やり方も分からないし。

 そもそも式に伴う聖書の箇所やら、応答文やら、賛美やらが多くて、何をやっているのやら追っかけるだけでやっと。

 ということで参加せずに見るだけでいいや、などと横着な考えになっていました。


さて訳あって次は新年3日の礼拝について。

近所の日本基督教団の教会の礼拝に出席しました。

名前は伏せておきます。

(後から書く教会でのことがあって)何かいろいろ考えることもありました。

何はさておきこの日は聖餐式があり、当教会で用いている式文が日本基督教団のものなのでアットホームな感じで助かりました。

そうそう、配餐の時ぶどう酒とぶどうジュースと両方あったのですが、間違ってぶどう酒の方を取ってしまいました。

しかしこんな風にオプション式にしているところもあるのですね。

説教は・・・少し長かった。

そして「聞きやすい説教」ということをより具体的に、明確に捉えられるようになったので、自分が今後何を気をつけるべきか、という点についての参考になりました。


さて年末、27日の礼拝について書きます。

しかし詳細は書かないでおきます。

その理由を詳細に具体的に書くことができないのがもどかしいですが。

ただ予想もしてなかった「説教体験」だったので、そのことをメモしておきます。

その他のことはみなある程度想定内というか予定調和的に進んだのですが、説教が始まって何か少しずついい意味での「違和感」「意外観」を覚えるようになりました。

 あれっ何かこの説教違うぞ。何が違うんだろう。

明らかにまだキャリアの浅い牧師が、時に声が上ずり、緊張しているのが分かる話し方であったが、次第に不思議な響きの話し(の語り)に引き込まれていくように感じた。

全体で30分少しくらいの長さであったろうか、ほぼ一定のスピードで、声の強弱やアクセントがほぼ皆無の、始めから最後まで静かな佇まいの説教であった。

このちっともドラマチックでない声の調子で語られる説教の内容は、しかし実にしっかりした人物描写や情景描写が配されたドラマチックなものであった。

25年牧師をやってきて、自分の説教の貧しさを感じ恥ずかしくなるような体験であった。

教会に育ち、米国に留学もし、多くの感動的で、エキサイティングな説教をいくつも聴いてきたと思うが、このような説教は初めてだった。

その日帰ってきてから、ずーっと考えている。

 何が違うのだろう。
 あの説教はどのように構成されていたのだろう。
 どのように準備したのだろう。

とても真似はできないが、しかし様々なことを示唆してくれる得がたい説教体験となった。




今回の教会巡りでは、2回聖餐式に与った。

典礼の占める割合というか、典礼的な度合いを5段階くらいで示すと、自分としての居心地のいい典礼度は大体、「2」ときに「3」もあり、といった感じではないか。

今回最初に行った聖公会や以前行った福音ルーテルは大体「3~4」という感じかな。

さて、では今年もこの「教会巡り」でピックアップしたことを参考にしながら、巣鴨教会の礼拝や教会案内に活かしてみよう。

2015年6月12日金曜日

今日のツイート 2015/6/12

今日のツイート①

2年前、四国・高松を旅行した時は、この松田牧師の「うどん情報」ツイートを参考にしました。

実際その時は「うどんばか一代」で食事し、その後松田牧師にお会いしてお話しすることが出来ました。


今日のツイート②

当教会はこのような説教題を掲げる立派な看板を持っていませんが、もし持っている教会があれば“いろんな意味で”(波及も含めて)効果があるみたいですよ。

RT(リツイート)数をご覧ください。

2015年6月10日水曜日

(5)タカ牧師のセブン-3

これで3回目になります。

もう少し続けば慣れてくるかな。

では今回は日本語も3本です。

1. Adela Collins: Overcoming Obstacles to Shed Important Light on the Bible
  『アデラ・コリンズ:女性聖書学者、壁を乗り越え聖書学の前進に貢献』
  最近ではこのブログでも何度か取り上げたと思いますが、エイミー-ジル・レヴィン(ヴァンダービルト大)やベヴァリー・ガベンタ(ベイラー大)など性別に 関係なく尊敬されている学者が出てきています。いわばそのパイオニア的存在のアデラ・コリンズ教授(イェール大神学部引退教授)の紹介記事。

2. Interview: Elizabeth E. Shively
  『エリザベス・E・シブリー教授インタヴュー』
  Women Biblical Scholarsというサイトです。その名の通り、女性の聖書学者をフィーチャーしたサイトです。シブリー教授などは第3世代ということになるのでしょうね。

3. Why Sermons Often Bore
  『なぜ説教がつまらなくなってしまうのか』
  ニューヨークの有名牧師、ティム・ケラーの説教ワークショップに参加した方のレポートです。TGC(ザ・ゴスペル・コーリション)という改革派の人たち中心のグループなので、どっちかと言うと「頭でっかち」な説教してしまうのに対し、もっと「ココロ」に語りかけましょう、と言う方向をオススメしているようだ。

4. Best and Worst Graduate Degrees for Jobs in 2015
  『修士・博士学位別将来収入ベスト/ワースト2015年』(フォーチューン誌)
  学位獲得後の収入を学位別で調べた結果を報告している。収入が良いのは統計学やコンピューター関係。良くないのはばらばらだが、神学はワースト11位だって。これが日本だったら・・・。

5. 集団的自衛権はコスパが悪い
  今国会で論戦たけなわの話題に関する記事です。少し古いですが。元防衛官僚の目から見た政府案の疑問点を具体的に取り上げています。

6. 祝!国際アンデルセン賞受賞。担当編集者が語る上橋菜穂子(前編)
  読んでそのままの記事です。結構読み応えあります。たまたまフェイスブックでR大卒と知ってから読み始めたのですが、上橋さん、なかなか面白い人だと思います。

7. 後編
  一つズルした感じになりますが。ごめん。


以上です。

2015年5月25日月曜日

(3)昨日の説教からーペンテコストと異言

昨日、5月24日は、今年のペンテコストでした。

(※昨今の多文化主義のマナーで言うとシャブゥオトも。)

朗読箇所: 使徒の働き2:1-13
説教題:「御霊が話させてくださるとおりに」
アウトライン:
 I. 天が開け、家の扉が開かれ、口を開く
 II. 言語と文化の壁
 III. 証人と証言
注目聖句:

 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒言行録2:4、新共同訳)

 They were all filled with the holy spirit, and began to speak in other languages, as the spirit gave them the words to say. (KNT)

といった概要なのですが、礼拝後の会話でこんな感想を聞くことができました。
ペンテコステの出来事で「tongues」とあるのを、今までずーっと(ペンテコステ系の方々の言う)異言だと思っていました。
でも「外国語」、(離散のユダヤ人たちにとっての)「母国語」だったんですね。
この感想、つまりペンテコステ/カリスマ系の特徴とされる「異言体験」については実はそれほど意識していなかったので少し不意をつかれた気がした。

それで少し会話をした。

共に「異言体験」を持っていない同士なので、そもそもペンテコステ/カリスマ系の方々が主張する「異言体験」と、ペンテコステの出来事とが、どう密接に関わるかどうかはさておいて以下の二点を確認した。

(1)ペンテコストの日に弟子たちがしゃべった言語は、その日五旬節に集まっていた離散のユダヤ人たちにとっては「母国語」であり、弟子たちにとっては「外国語」であった。どちらにしても「分かる言葉」であって(「異言体験」を持たない者が想像する)「意味の分からない音の羅列」としてのイゲンではなかった。

(2) 新約聖書(特に使徒の働きとコリント第一)の視点から言うと「異言」は否定すべきではないが、(集会の意味で)教会においては「秩序」と「理解」に従う賜物である。

筆者の中では一応整理が付いていることなのだが、結構長い信仰暦のある方が今頃になって「開眼」したかのように話されたことで、改めて聖書を読む時の「規制枠」(既成枠といってもいい)の問題を思った。


ついでに付言すると、この日はメソジスト運動の始祖ジョン・ウェスレーがアルダスゲート街集会で「福音的回心」体験をした日でした。

説教では、キリスト者としての信仰が他のキリスト者によって信仰が補強されることを通して「証人」として整えられる生きた例として
 (1)アポロ
 (2)ジョン・ウェスレー
を取り上げました。

アポロは信徒伝道者プリスキラとアクラによって(使徒18章24節以降)、ジョン・ウェスレーは「モラヴィア派」と「ルター」によって、それまでの信仰が補強され、その後の伝道に結実しました。


今朝、以上のことを受けて、「聖霊のバプテスマと異言」と言うテーマで少し思索を始めたところです。



2015年5月22日金曜日

(5)タカ牧師のセブン-2

シリーズ最初のセブンからしばらく経ちました。

まだしばらくは「フォルダ」にたまったものが中心になると思います。

と言うことは前回ほどではないですが、少し古い記事もあると思います。

そんな前置きで始めます。


1. The 10 Most Influential Churches of Last Century
  『最近100年の教会トレンド・トップ10』

 CT誌が、過去百年、教会の中での「目立った動き」を10選び出して解説しています。

 時系列で見る教会史よりも、ざっくりトピカルに概観できるので、英語が苦手な人にも読みやすいかと思います。
 スコフィールド聖書、ヨイド純福音、カルバリー・チャペルなどが入っています。

2. Is the Gap Between Pulpit and Pew Narrowing?
  『聖職者と信徒の溝は埋まってきたのか』

 仕事の意義を語る説教によって、信徒はどれだけ自分たちの職業を積極的に見れるようになっているか、をリサーチして記事にしています。

3. 7 Thoughts From A Chronically Unhappy Person
  『常習うつ人間が思った七つのこと』

 作家さんらしい女性が、常駐するうつ症状を報告しながら、対症療法やアドバイスについてエッセイ風に書いています。

4. 「クリスマスと正月が同居する日本」に世界の宗教家が注目! 寛容の精神に見る、宗教の本質とは

 TEDxkyotoの読み物版。京都の僧侶が、日本の混淆宗教事情を「寛容の精神」、と逆手にとって「世界に発信しよう」と頑張っています。

 「8時だよ! 神さま仏さま」と言うラジオ番組も宣伝しています。

 最近はテレビ朝日の「ぶっちゃけ寺」も話題になっていますね。

5. ドイツ哲学者三島憲一氏「東電に骨抜きにされた日本国民」

 筆者の関心領域から言うと、ドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスの著書を翻訳していることで有名な三島氏。

 福島第一原発事故後まもなく、独ツァイト紙に発表された記事をこのブロガーがボランティアで翻訳したもの。

6. On Not Being Funny In Japan
  『日本ではなかなかジョークが通じない』

 文化の違いでもジョークは難しいものの一つ。どのようなジョークがどの程度通じるか、分析しながらアドバイスしています。

 読み方によっては、日本人の気質についての文化論入門みたいなものか・・・。

7. I Ghostwrote Hundreds of Chinese Students' Ivy-league Admissions Essays
  『私は中国人留学生のアイビー校入学審査用論文を何百と代筆しました』

 本当だとすると、何かひどいですね。「裏口」からコソコソと言うより、お金にまかせてガンガン中央突破、といった印象を持ちます。

 経済格差の問題も背景にはありそうなので、現代の縮図として読めるでしょう。


以上でした。


2015年5月1日金曜日

(4)『教会史遡行』から落穂拾い、1

巣鴨聖泉キリスト教会の「前史」 (※まだ読んでいない方はからどうぞ) として2回でまとめたのは、「日本ホーリネス運動」について。

切のいいところで、第二次大戦後のインマヌエル綜合伝道団の創立を初代総理、蔦田二雄を軸に、それから、「1900年から」として日本ホーリネス教会の展開を、中田重治を軸に、回顧した。

1. 蔦田二雄/インマヌエル綜合伝道団

 ネットからなので目ぼしい資料は余り見つけられなかった。

 主にウィキペディアのホーリネス運動や、中田重治の記事を参照した。

 インマヌエルの歴史・沿革ページ、所属する別府キリスト教会サイトにある年表、同じく中目黒教会のサイトにある教団前史部分の要約、を参照した。

 少し関心を持った「リバイバル・リーグ」と「ホーリネス教会弾圧事件」に連なる具体的な歴史関係情報は諸リンク等を辿ってみたが、得られなかった。

2. 中田重治/日本ホーリネス運動

 上記のウィキ記事の他、英語でもいくつかウィキペディア記事を参照した。Holiness Movement
Keswick Convention



・・・とこう言う風に書いてくると、この記事は簡単な「説教準備ノート」のように見えるが、そんな大層なものではない。

何しろネットで入手可能な材料でお茶を濁しているくらいだから。

そう言うわけで、『落穂拾い』とは、説教に組み込めなかった「残部」と言う意味だけでなく、単に本格的な研究がなされている畑に『落っこちている麦穂』を拾ってきただけ、と言う意味でもある。

「説教準備中の逸話」と言う感じで個人的に面白く読んだデータとしては:

1. 蔦田二雄が中田重治の『聖書より見たる日本』を訳したらしいこと
 
脚注を見ると、tr. David T. Tsutada、とある。
David G. Goodman, Masanori Miyazawa, Jews in the Japanese Mind: The History and Uses of a Cultural Stereotype.(グーグルブックスから)


もう一つはベン=アミー・シロニーのCollected Writingsにある、Japan's Support of Zionism after the First World War(『第一次大戦後の日本のシオニズム支持』)と言う論文に、中田らの“貢献”が取り上げられている。

実際には当時、日本の国としてのシオニズム支持は衰退する中であったが、中田ら聖書の預言を大事にした伝道者だけがシオニズムを強く支援し続けたことを以下のように書いている。
 This rosy description had little factual basis. The government of Japan in the late 1920's was losingits interest in Zionism. The only Japanese who remained enthusiastic about the Jewish return to Palestine were Chrsitian evangelists who followed the developments in the Middle East through the eyeglasses of the biblical prophecies. (著作集、326ページ・・・グーグルブックスから)

  
以上、本当はもう少し調べたかった「中田監督とイスラエル問題」だが、ネットでもいくらかは資料が見つかることを発見できたことは良かったと思う。

2015年4月29日水曜日

(4)『教会史遡行』から落穂拾い、序

人によって説教準備のためのベンキョウは様々だろう。

今年筆者が奉仕する教会が創立半世紀を迎える、と言うことは最近の記事でも何回か取り上げた。

で、その前史となる「キリスト教会史」全体を超特急で学ぶ「説教シリーズ」を紹介した。

久し振りに「リサーチ」している観がある。

普段からネットや本やらで「調べもの」みたいなことをやっていないわけではないが、しばしば興味本位で、脈絡も気にせず、「芋づる式」に追っかけている。


しかし、「キリスト教会史」全体・・・となると、そうもいかない。

やはりかなりトピックを絞り込まないといけない。

50年から100年のスパンを代表する「人物」や「運動」を吟味しなくてはならない。


しかし、そうやって選んだ人物や運動をリサーチした後、今度は「説教」に落とし込まなければならない。

聖書のメッセージやレッスンと擦り合わせなければならない。

そうやってできた説教のコンテンツを25-30分の時間枠で提示しようとすると、殆ど削る作業だ。

説教前もそうだし、説教中もさかんに削らなければならない。

準備した者にとっては興味深い逸話なども、時間との戦いの中では、どんどんカットされる。


そうして残ったものをどうしようか、と思った時に思いついたのが、今回のシリーズなのです。


「落穂拾い」というタイトルにしました。

「拾遺録」でもいいかもしれませんが、説教稿自体は記事にして発表していないので、不適です。


何も大したリサーチもしていないのに、「落穂拾い」などともったいぶったことしなくてもいいのに・・・という声も聞こえそうですが、恥ずかしながら、臆面もなく記事にしてみます。


よろしくお付き合いください。

2015年4月14日火曜日

(3)ウェスレー著作集(英語)売ります

 暫く前に野呂芳男著「ウェスレーの生涯と神学」をこのブログで「売ります」したらあっという間に売れてしまった。(後から「書き込みが結構あった」と苦情も来たが・・・。)


今回「柳の下の泥鰌」になるかも分からないが、第2弾目をトライしてみる。



画像は「全集」の第1巻目(532ページ・・・厚さ約4.5センチ)、全16巻です。

Zondervan社の「The First Complete Unabridged Edition in Nearly 100 Years」と言うものです。

ウェスレヤン・カンファレンスが1872年に出版したものの写真オフセット印刷、と説明されています。

画像ではよく分かりませんが大分焼けています。

ですので余り高い値段は付けられません。

何しろ洋書ですから買い手が付くかどうか・・・。

1巻あたり100円としてセット価格1,800円1,600円で先ずは試してみます。

なお他に送料手数料(1,000円)を頂戴いたします。

お問い合わせは
sugamo_seisen@yahoo.co.jp
まで、

 ①氏名
 ②住所
 ③電話番号
を明記の上お申し込みください。

※このセットは(またもや)筆者自身が購入したものではありません。父が購入したものです。その父も殆ど使わなかった模様。今回狭くなった書棚スペース確保のため売り払うことにしました。

2015年3月22日日曜日

(4)説教節

伊藤比呂美の新刊『新訳 説経節』が出るそうな。


「小栗判官」「しんとく丸」「山椒太夫」の三つの物語が収められているという。

「説教節」については当ブログではこの記事で伊東乾『笑う親鸞 楽しい念仏、歌う説教』(河出書房新社)を紹介して少し触れたことがある。

「語り」の芸能には仏教の説教という前身がある、と言う構図が面白かった。

一般庶民に届く「宗教」の教えには娯楽/エンターテイメントが関わる、と言うことだが。

今では「高座」と言ってもお坊さんのことをイメージする人は少ないだろう。


まあこんな前置きはやめておいて、時系列でこの新刊について思ったことをメモしてみる。

伊藤比呂美については『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』も読んでいたので気にはなっていた。

田口ランディもそうだが「乾いた情念」を滲ませた文章が読ませる感じだ。

結構重たいものを孕んでいるのだが、そう言うものが背景に見え隠れする程度で日常風景が流れて行く随想・・・と言う印象だ。


若松英輔の書評には説教節が以下のように説明されている。
 説教節とは、1600年前後に高みをむかえた語りの、また苦界の詩学である。試練をわが身に受け止め、その重みが肩に食い込むような境涯を生きる人々によって説教節は生み出された。神仏の加護や世界の不可視なつながり、人知を超えたところで起こる不思議、仏教でいう縁起の働きが、さまざまな物語を通じて語られる。
 当初は寺の門前で行われていたが、聞く人が増えるにしたがって場所はどんどん寺から離れて行った。彼らは、寺のなかで僧たちが説くのとは、まったく異なる言葉を口にした。整然とした教学ではなく、矛盾に満ちた出来事のなかにこそ人生の真実があることを、いつか、誰かが語り始めたのだった。(強調は筆者)

まあー説教が聖書解釈に忠実に、と言っているうちに「聴衆が置いてけぼり」になったりと言うことはあるだろうが、「整然とした教学」が「人生の真実」を無視することを意図しているわけではないと思うが・・・。

こちらの本によると、スリランカでの仏教教化において、僧侶は謳ったりするのは禁止されたそうだ。それは釈迦の指示だと言う。


さて「説教節」については、「大衆伝道」との絡みで「日本での発展」の歴史がどうなってきたのか知りたいと思っている。

2015年1月4日日曜日

(2)教会巡り2015年

教会巡りについては昨年第1弾を書いて報告いたしました。

今年もこの「教会巡り」が初めての投稿になりました。

で、先ずはご挨拶。

新年明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
この年末年始も、巣鴨聖泉キリスト教会は主日礼拝が3週連続でお休みとなりました。
 12月24日夜のイブ礼拝を挟む、12月21日と28日の2回。
 元旦礼拝を越えた4日(今日)。

では順にどの教会へ行って礼拝を守ったかご紹介。


12月21日は、日本キリスト教団滝野川教会へ。

滝野川教会は、いつもの散歩コースを少し外れる程度の場所にあり、散歩を兼ねた教会行としてはちょうどいい感じ。

ちょうどクリスマス礼拝でした。

会衆は普段より多いのだろうか、大体一杯という感じ。

ダークスーツ姿の熟年男性が少し目に付いた。

とにかく暖房がかなりで少しのぼせ加減。

おととし本郷弓町教会のクリスマス礼拝でも聖餐式があったが、こちらも。

阿久戸牧師の説教は聖書箇所のストーリーラインから場面を取り出し、聞く人に印象的に響くように適度に情景描写、説明、オススメを加える手法。

どちらかというと下町的なくつろいだ雰囲気の中にも「礼拝」に集中する感じ。


12月28日は文京区方面に反転して、日本キリスト教団西片町教会へ。

ここは昔教会学校に通っていた生徒の親が会員だったり、小嶋とは親戚のような関係のおばあさんが教会裏手に住んでいたり、と言うことで少しイメージはあったが、実際に行ったのは初めて。

(老朽化とまでは言えないが)貫禄の佇まいの教会堂に少し早くに着いた。

どちらかというと空席が目立つ。
山本牧師の説教もそんな雰囲気を感じさせる。
ちょうど葬儀があったばかりということで、やはり「寂しさ」の雰囲気が漂う。

(帰り際ボールペンのキャップを外して飛ばしてしまったのを気づかず帰ってきてしまった。)

帰り道、その裏手のおばあさんを訪問したがあいにく不在であったが、息子さんと顔を合わすことが出来、最近の消息を聞いて帰宅することが出来た。


1月4日はいろいろ迷ったがついに、日本キリスト教団巣鴨教会へ。

「巣鴨教会」は同じ「巣鴨」なので、時々間違って問い合わせを受ける教会で、前から関心はあったのだが、つい近過ぎて後回しになっていた。

礼拝開始時間が、10時15分と少し早いのもいい。(礼拝から帰ってちょうど良い時間に昼ごはんにできる。笑)

礼拝の雰囲気は昨年末に行った駒込教会に似ていた。
実に淡々とした感じ。

ここでも聖餐式に与ることができた。

帰り際、渡辺牧師とゆっくり会話が出来た。
初めてだったが最近の教会事情についても少し意見交換が出来た。

「今朝は礼拝がお休みで」と説明すると、「うらやましい」と返されたのは去年と少しちがっていた。


今回の教会巡り3回は、いずれも「日本基督教団」になった。
どうも典礼的に一番レベルが合う感じなのだろうか・・・。
今回も2回聖餐式に与った。

さて、各教会の礼拝に出席しながら、色々と筆者が奉仕する教会の今後のことを考えたり振り返るきっかけもいただいたように思う。

次の「教会巡り」は「新しいところ」を開拓するとなると、少し枠を広げなければならないなー・・・。

2014年4月18日金曜日

(5) 2014 Good Friday Reflection

Just this morning I was reading Acts chapter 5.

Since I started reading N. T. Wright, one of the things I acquired from him and his writings is a historical viewpoint when reading the Scriptures.

When you read the Scriptures from the historical viewpoint, certain things suddenly come to light in the way you would've never expected.

I've had many such aha moments but today's entry is not one of those to share here.

I've been catechizing Mr. Y for the past four months to be baptized this Easter and since our church, being an independent congregation, don't have ready catechetical materials as well as for other liturgical/sacramental ones, I kind of used materials and insights from other Christian traditions.

(To my mind, the Roman Catholic Church has many things you can learn from.)

The basic catechetical materials for me and Mr. Y is the Apostle's Creed so we discussed each point and "unpacked" it by exploring the corresponding Scriptural passages along the way.

I emphasized again and again the historical nature of the Christian Gospel and explained how the Gospel proclamation was formulated into the form as the first disciples, the Apostles, came to realize that Jesus, after all, was the Messiah as the Scriptures have witnessed.

Now, as you read Peter's apostolic preaching on the day of Pentecost, you notice his Gospel proclamation was Israel-specific and very much so because Peter was accusing his fellow Jews of their complicity in killing Jesus on the cross by turning him into the hands of their enemy Rome and refusing Pontius Pilate's amnesty offer to take him from the execution.
this man, handed over to you according to the definite plan and foreknowledge of God, you crucified and killed by the hands of those outside the law. (Acts 2:23, NRSV)

This point is repeatedly emphasized in the following three chapters.
The God of Abraham, the God of Isaac, and the God of Jacob, the God of our ancestors has glorified his servant Jesus, whom you handed over and rejected in the presence of Pilate, though he had decided to release himBut you rejected the Holy and Righteous One and asked to have a murderer given to you, (Acts 3:13-14, NRSV)

For in this city, in fact, both Herod and Pontius Pilate, with the Gentiles and the peoples of Israel, gathered together against your holy servant Jesus, whom you anointed, (Acts 4:27, NRSV)

saying, “We gave you strict orders not to teach in this name, yet here you have filled Jerusalem with your teaching and you are determined to bring this man’s blood on us.” ...The God of our ancestors raised up Jesus, whom you had killed by hanging him on a tree (Acts 5:28, 30, NRSV)
In other words, Jesus of Nazareth didn't die for "me" in the first place.

He was killed by Herod, Pontius Pilate, the leaders of the Sanhedrine, and some of the people gathered in Jerusalem at the historic Passover Feast around ca. 30 C.E.

So Peter's appeal to repent was, I think, very specific. It was their sin of killing innocent Jesus by turning him to the hands of their enemy Rome and putting him on the cross.

Now the roles in the "law court" were reversed. It was now the Jews who were being accused of their guilt.

Jesus was vindicated by God's raising him on the third day.

Jesus was in the right; they were in the wrong.

The apostles were, with the help of the Holy Spirit, prosecuting the true guilty party.  

The conscience-stricken Jews who accepted Peter's message confessed to their guilt in this act and got baptized.

So that's the way the original Gospel was proclaimed.
It was not a proclamation of universal salvation by accepting Jesus' vicarious death on the cross.

At least, the first Christian converts were the Jews who "killed" Jesus.

Of course, Jesus' sacrificial death was established from the beginning (I Cor. 15:3).
And its universal meaning was in view throughout the New Testament.

But we should not lose sight of the fact that the Gospel proclamation was, at the beginning, very specific about who was in the right and who in the wrong.

In that light, John's following passage becomes relevant, at least, to me.

And when he comes, he will prove the world wrong about sin and righteousness and judgment:  about sin, because they do not believe in me; about righteousness, because I am going to the Father and you will see me no longer; about judgment, because the ruler of this world has been condemned. (John 16:8-10, NRSV)
(This is a very sensitive issue and I never intend to be anti-Semitic as you can see from the above construals, I hope. And so far as the atonement theology of vicarious death by one man, it's the High Priest Caiaphas, not the apostles, who first insisted. See, John 11:49-51.)
   

2014年4月13日日曜日

もしお呼びいただければ・・・

説教奉仕/講師にお呼びください、と言うことですね、一応。

 私(小嶋崇)が牧師として仕えている、巣鴨聖泉キリスト教会は年2-3回礼拝を休みます(汗)。
 驚かれるかも知れませんが、日曜以外の集会(元旦礼拝、イブ礼拝、など)との兼ね合いで無理のないよう配慮した結果です。

 さて牧師である私はこれらの日曜を他教会での礼拝参加に用いるようにしました。(例えば昨年末と今年頭、教会巡り
 礼拝式のかなり異なる教会の礼拝に参加することも良い学習だと思っています。(学習は二次的なもので、礼拝に行ったわけですが。)

 今年はただ礼拝に参加するのではなく、説教の奉仕に呼んでもらえたら行きたいな、などと考えています。

 ①2014年8月10日(日)
 ②2014年12月28日(日)


の2回が当方の礼拝休みの日曜です。

 これをお読みの方で、これらの2回の日曜に礼拝説教、あるいは「聖書の学び」講師、に私を招いてくださる教会があれば、どうぞお問合せください。(2回とも同一教会、と言う意味ではありません。

《説教奉仕》
 礼拝説教は基本謝礼は必要ありません。(交通費などの経費は支給してくださると助かります。)
 
《「聖書の学び」講師》 
 以下の三つの本の主題やトピックからお話できます。
 ①ポール・マーシャル「わが故郷天にあらず
 ②スコット・マクナイト「福音の再発見
 ③リチャード・ボウカム「イエス入門
・時間としては1時間枠、私が話す時間は35-40分、残りが質疑応答です。(90分枠に延長もできます。)
 ・講師謝礼として「3000円/時間」を目安としていただければ幸いです。
 ・上記の本、①②③、の「販売コーナー」を用意して頂けると感謝です。
  当然ながらいずれもお勧めの本です。
  本の趣旨を理解して頂くことも「講師として呼ぶ」かどうかの有力な判断材料となることと思います。 

《限定事項》
 ・私が行ける教会(集会)は、JR(山手線)巣鴨駅を起点に、公共交通機関を用いて1時間程度で行ける範囲として頂ければありがたいです。
 ・2主日とも「繁忙期」なため、時間的にゆとりを持って行ける範囲となりますことをご了承願います。
 ・言うまでもなく、「日帰りできる」教会と言うことになります。

《問合せ》
 ・なるべくメールでお願いします。
  小嶋崇、sugamo_seisen(*)yahoo.co.jp
     (*)の部分をアットマークに変えてください。 
 ・①②のいずれも当日から数えて一ヶ月前までに「依頼・双方の要望確認・受諾」が終了するようお願いします。

以上色々条件をつけて申し訳ありません。
よろしくお願いします。

2014年1月31日金曜日

(4)小澤征爾と村上春樹

小澤征爾と村上春樹の対談本を図書館から借りてきた。
「小澤征爾さんと、音楽について話しをする」

と言うタイトルどおりの本だ。

そもそものきっかけは、もう一冊図書館から借りてきた、丸谷才一の「エホバの顔を避けて」だ。

ネットで調べている時、たまたま丸谷がこの本について書評のような文章を書いているのが目に留まった。

それで面白そう、と思って借りたのだ。

読んでみたら、丸谷は小澤の桐朋学園時代の英語の先生だった、とあるではないか。
しかし小沢は英語を全然勉強しなかったと述懐している。

それでレナード・バーンスタインの下で副指揮者をやっていた時、英語が分からなかったことで大変損をしたことを度々嘆いている。

一応メモとしてその中から以下を引用する。
(色々興味深いことはあるのだが、筆者がメモに残しておこうかなと思ったものだ。)
村上「特別ということで言えば、マーラーを聴いていて僕はいつも思うんですが、彼の音楽にとっては、深層意識がかなり大きい意味を持っているみたいです。フロイト的というか。バッハとかベートーヴェンとかブラームスとかそういう音楽の場合、やはりドイツ観念哲学的というか、地上に出ている意識の整合的な流れが、大事な意味を持っている。でもそれに比べるとマーラーの音楽にあっては、アンダーグラウンド的というか、地下の暗闇に潜っている意識の流れみたいなものが、積極的に取上げられているように感じられます。そこには矛盾するもの、対抗するもの、混じり合わないもの、峻別できないもの、そういういくつもノモチーフが、まるで夢を見ている時のように、殆んど見境なく絡み合ってる。それが意図的なのか非意図的なのか、そこまではよく分かりませんが、少なくともきわめて率直で正直ではある」

小澤「マーラーが生きたのは、たしかフロイトとほとんど同じ時代ですよね」

村上「そうです。どちらもユダヤ人ですし、生まれ故郷もすぐ近くだったと思います。フロイトの方が少し年上ですね。マーラーは奥さんのアルマが浮気したときに、フロイトの診察を受けています。フロイトはマーラーを深く尊敬していたそうです。そういう無意識の水脈の率直な追求みたいなものが、ところどころ辟易させられる部分があるにせよ、マーラーの音楽を現在、優れてユニヴァーサルなものにしている原因のひとつじゃないかと、僕は考えています」

小澤「そういう意味では、バッハからハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスといったドイツ音楽の骨太の潮流に、マーラーは反抗したということになると思います。十二音音楽が出てくる前に、ということですが」(249-251ページ)
この他には「楽譜を読み込む」と言うことで、小澤が「カラヤン先生」から学んだこととして、小さなフレーズではなく、もっと大きなフレーズの塊を読み込むこと、その中から音楽のディレクションを探ることの大切さを学んだ、と言うようなことが書いてあった。

これは以前氷の塊をとかすで書いたように「説教を作る過程と似ている」と重なる。
その中で引用したように、「のらくら者の日記」さんが、
聖書の<スコアリーディング>なる訓練が非常に有効であることはもうお分かりかと思います。 与えられた聖書テキストのエッセンスをいかに効率よくテーマ で括るかを鍛える訓練です。 音楽の世界のスコアリーディングを聖書の読み方に適用する訳です。 ここで重要なのは、細部の正確さに拘泥しないということです。 むしろ<抽出>という作業に徹することです。
と書いている部分の<抽出>は多分カラヤンの<音楽のディレクション>を細部の正確さより重視する、と言うのと相通じているのではなかろうか。


2014年1月6日月曜日

教会巡り

これが今年初めての投稿になるようなので、先ずはご挨拶。

新年明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

年末年始、巣鴨聖泉キリスト教会は主日礼拝が3週連続でお休みでした。
別に突然のことではなく、恒例と言ってもいいのですが。

12月24日夜はイブ礼拝。
1月1日は元旦礼拝。

それでこれら二つの特別礼拝に日曜日が近接する場合はその主日の礼拝をお休みとしています。

2013-2014年末・年始は、12月22日、12月29日、1月5日、と3週連続で他教会の礼拝へ出席しました。

12月22日は少し遠出の散歩も兼ねて、日本キリスト教団弓町本郷教会へ。

12月29日は近場の、日本キリスト教団駒込教会へ。

1月5日は近場ではありますが少し教派傾向が遠くなる、日本福音ルーテル小石川教会へ。

礼拝後、帰り際に各教会の牧師と一言二言ことばを交わしましたが、「日曜日礼拝がお休みです」と説明すると「えっと」驚かれました。毎回ではないですが。

3回のうち2回は聖餐式がありました。
1回は洗礼式もありました。

各教会の礼拝に出席しながら、色々と筆者が奉仕する教会との違いを考えてみる機会となりました。
色々ありますが、一番感じたのは、巣鴨聖泉キリスト教会が伝統や格式とはかなり縁のない教会なのだな、と。

まっ他にも色々ありますが、先ずはそんなところで簡単なレポートを。