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2016年4月13日水曜日

(5)オープン神論サイドノート①

最近更新のペースが落ちています。

が、調子が悪いわけではありません。

一応書きかけ記事が15くらいありまして、手を入れず放置したままにしてしまっている次第。


主に神学ブログ⑧で紹介した、山崎ランサム和彦先生が、オープン神論とは何かの連載記事を開始されました。

それに触発されて、引き出しに入れっぱなしになっていた書きかけの「オープン神論」記事を出してみました。

しかし大したことは書けないので、今後進展するであろう山崎先生の連載記事の「サイドノート」にでもなればよろしいかと・・・。


個人的には筆者は余り「オープン神論」論争には関心が深いわけではなく、ただこれから紹介するように「オープン神論」論者が筆者の神学的背景である「ウェスレヤン・アルミニアン」神学の伝統を支持基盤とするだけ、ある意味「親和性」が高い・・・ということで何かしらシンパシーは感じている、というほどの関わりです。

「オープン神論」論者で最初に紹介するのは山崎先生が紹介している「グレグ・ボイド」の次くらいに名前が挙がる「クラーク・ピノック(Clark Pinnock CT追悼記事 1937-2010)」です。

「説教学」 という雑誌でピノックが「インタヴュー」を受けた記事です。

その中から一部、ETS (アメリカ福音主義神学会)での「論争」の経緯や背景について語っているところです。

HOMILETICS: You weren’t always an open theist. How did this change in direction come about for you?

PINNOCK: Well, I used to be a five-point Calvinist in the late ’60s and then I came to read Hebrews and noticed how it appears our relationship to God is conditional upon faith, so I was intrigued by the idea that God is conditioned by some of the things that creatures do.
The old view is that God is not conditioned by anything his creatures do because he has determined what they do. But if, in fact, God’s will is affected by what his creatures decide, then that calls for a personal theism, relational theism, open theism.
So in a way open theism goes right back to the early ’70s when I realized the weakness of deterministic thinking. And then over the years I wrote different things on the subject. Then John Sanders talked to me and we decided that since this is a view that some people know about, but not all, let’s present it in a clear way just for evangelicals so that they can see what we think.

(※ここではピノックが最初は「5論点カルヴィニズム」からスタートして、ヘブル書を読んで神観が変化したことを述べています。その後ジョン・サンダースと協力してより「リレーショナルな神観」が福音主義に可能なことを示そうと動き始めた、と述べています。)

HOMILETICS: Has this made a ripple on the mainline side, or is this a problem primarily for evangelicals?

PINNOCK: The Evangelical Theological Society is a peculiar group of very conservative evangelicals. But there are many who consider themselves evangelicals who don’t go to it who you would find in different sections of the American Academy of Religion and the Society of Biblical Literature and who are positioned in the Wesleyan faith. So they see it correctly, namely, as a variant of their own position and worthy of consideration — which is all we want them to do. Like Randy Maddox [Professor of Wesleyan Theology, Seattle Pacific University], for example, a major interpreter of Wesley, who wrote a great book. He says that [John] Wesley might well have considered openness in full agreement with what he was getting at.
So there are evangelicals who are not ETS evangelicals. You almost need a new term. There are the ETS types who would go after me like that, but normal evangelicals who are outside that, they regard it just for what it is — a variant of Wesleyan-Arminian thinking. [Roger] Nicole, a five-point Calvinist, wants to emphasize how different our view is so they can isolate it as a heresy, because they don’t want to criticize all Wesleyan-Arminians although they don’t like their views.
最初の部分で「福音主義者」について興味深い定義をしています。
(北米)福音主義神学会は、かなり保守的な福音主義者たちの集まりという点で特有です。他の多くの福音主義者たちの中で「アメリカ宗教学会」や「北米聖書学会」の諸部門に顔を出すような人たちがこの学会(ETS)には出席しません。彼らは「ウェスレヤンの立場」の方々です。
と、「オープン神論」の立場が、「ウェスレアン神学」と親和性が高く(ピノックは「ウェスレアン的神観」に属するとしています。)、「ETS福音主義者ではない福音主義者たち」としています。

とここからがかなり表現がささくれ立ってきますが、(「オープン神論」論争において)ロジャー・ニコールが取った戦術を非難しています。

すなわち、「ノーマルな福音主義(であるウェスレヤン・アルミニアン主義)者たち」からピノックら「オープン神論」論者たちを区別・分離して「異端」視した、と。

その先導をしたのが「5論点カルヴィニズム」を奉ずる「ロジャー・ニコール」(1915-2010)であり、実は「ウェスレヤン・アルミニアン主義者」たちも好きではなかったが、一応「福音主義者」陣営にいるために「オープン神論」論者を彼らから隔離する必要があったのだ、と考えています。

英語ではこう言う述懐を「ビター(苦い)記憶」といいますが、やはり「正統派」から「異端」のように突っつかれたことが癒えない傷となっていたのでしょうね・・・。

※引用文中にあるRandy Maddoxは現在デューク大神学部で、「ウェスレヤン・メソジスト研究」の教授をしています。

2015年6月27日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年6月28日(日) 午前10時30分


朗読箇所 ローマ人への手紙 7:13-8:2
説 教 題 「救いの確立と確証」
説 教 者 小嶋崇 牧師

教会史遡行(5)
 
「大信仰覚醒」と教会復興・・・ジョン・ウェスレー(1703-1791)

2015年5月25日月曜日

(3)昨日の説教からーペンテコストと異言

昨日、5月24日は、今年のペンテコストでした。

(※昨今の多文化主義のマナーで言うとシャブゥオトも。)

朗読箇所: 使徒の働き2:1-13
説教題:「御霊が話させてくださるとおりに」
アウトライン:
 I. 天が開け、家の扉が開かれ、口を開く
 II. 言語と文化の壁
 III. 証人と証言
注目聖句:

 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒言行録2:4、新共同訳)

 They were all filled with the holy spirit, and began to speak in other languages, as the spirit gave them the words to say. (KNT)

といった概要なのですが、礼拝後の会話でこんな感想を聞くことができました。
ペンテコステの出来事で「tongues」とあるのを、今までずーっと(ペンテコステ系の方々の言う)異言だと思っていました。
でも「外国語」、(離散のユダヤ人たちにとっての)「母国語」だったんですね。
この感想、つまりペンテコステ/カリスマ系の特徴とされる「異言体験」については実はそれほど意識していなかったので少し不意をつかれた気がした。

それで少し会話をした。

共に「異言体験」を持っていない同士なので、そもそもペンテコステ/カリスマ系の方々が主張する「異言体験」と、ペンテコステの出来事とが、どう密接に関わるかどうかはさておいて以下の二点を確認した。

(1)ペンテコストの日に弟子たちがしゃべった言語は、その日五旬節に集まっていた離散のユダヤ人たちにとっては「母国語」であり、弟子たちにとっては「外国語」であった。どちらにしても「分かる言葉」であって(「異言体験」を持たない者が想像する)「意味の分からない音の羅列」としてのイゲンではなかった。

(2) 新約聖書(特に使徒の働きとコリント第一)の視点から言うと「異言」は否定すべきではないが、(集会の意味で)教会においては「秩序」と「理解」に従う賜物である。

筆者の中では一応整理が付いていることなのだが、結構長い信仰暦のある方が今頃になって「開眼」したかのように話されたことで、改めて聖書を読む時の「規制枠」(既成枠といってもいい)の問題を思った。


ついでに付言すると、この日はメソジスト運動の始祖ジョン・ウェスレーがアルダスゲート街集会で「福音的回心」体験をした日でした。

説教では、キリスト者としての信仰が他のキリスト者によって信仰が補強されることを通して「証人」として整えられる生きた例として
 (1)アポロ
 (2)ジョン・ウェスレー
を取り上げました。

アポロは信徒伝道者プリスキラとアクラによって(使徒18章24節以降)、ジョン・ウェスレーは「モラヴィア派」と「ルター」によって、それまでの信仰が補強され、その後の伝道に結実しました。


今朝、以上のことを受けて、「聖霊のバプテスマと異言」と言うテーマで少し思索を始めたところです。



2015年4月14日火曜日

(3)ウェスレー著作集(英語)売ります

 暫く前に野呂芳男著「ウェスレーの生涯と神学」をこのブログで「売ります」したらあっという間に売れてしまった。(後から「書き込みが結構あった」と苦情も来たが・・・。)


今回「柳の下の泥鰌」になるかも分からないが、第2弾目をトライしてみる。



画像は「全集」の第1巻目(532ページ・・・厚さ約4.5センチ)、全16巻です。

Zondervan社の「The First Complete Unabridged Edition in Nearly 100 Years」と言うものです。

ウェスレヤン・カンファレンスが1872年に出版したものの写真オフセット印刷、と説明されています。

画像ではよく分かりませんが大分焼けています。

ですので余り高い値段は付けられません。

何しろ洋書ですから買い手が付くかどうか・・・。

1巻あたり100円としてセット価格1,800円1,600円で先ずは試してみます。

なお他に送料手数料(1,000円)を頂戴いたします。

お問い合わせは
sugamo_seisen@yahoo.co.jp
まで、

 ①氏名
 ②住所
 ③電話番号
を明記の上お申し込みください。

※このセットは(またもや)筆者自身が購入したものではありません。父が購入したものです。その父も殆ど使わなかった模様。今回狭くなった書棚スペース確保のため売り払うことにしました。

2015年1月12日月曜日

(3)野呂芳男著「ウェスレーの生涯と神学」売ります

このブログでは初めての「売ります」です。
※この記事をアップしたところ早速「買います!!」の手が挙がりました。既にウレマシタということで以下お読みください。


知人の古本ですが、
野呂芳男著「ウェスレーの生涯と神学」
(1975年、日本基督教団出版局)
4千円で!!


友愛書房では、8740円です。

野呂芳男の本を古本で手に入れようの調査では
 一番高値をつけているのは、『ウェスレーの生涯と神学』で、33.760円です。最安値でも8,000円。日本のウェスレー研究の基礎を気づいた名著で、ウェスレーに関心のある人なら一冊は持っておくべき本です。近所の古本屋で5,000円くらいで売っていたら、それは迷わず「買い」でしょう。
となっています。

どうやらこのお値段だとかなり「お得」かもしれません。

なお他に送料手数料(500円)を頂戴いたします。

お問い合わせは
sugamo_seisen@yahoo.co.jp
まで、
①氏名
②住所
③電話番号
を明記の上お申し込みください。





2014年3月11日火曜日

レント追記

レントに入って7日目。

一応プログラムを辛うじて追っかけている。
(1日2日ビハインドになるけど。)

ところで
当教会では受難週の集会はなく、そういう意味ではキリスト教暦、教会暦に従った教会生活というのは余りない、非典礼的伝統の方である。
いや非典礼的伝統というのは正確ではないな、要するに歴史が浅いのだ。
そういうハイ・チャーチな文化が薄いと言おうか。
確かにメソジストの背景はあるのですが、リバイバリズムの影響の方が濃いわけですね。きっと。
と書いたが、たまたま目にしたサイトに、初期メソジストはレントを特に守ったわけではないことが書いてあった。(リンク

それによるとジョン・ウェスレーがアメリカのメソジストたちに残した「祈祷書・典礼書」にはレントの項目はなかったのだと。

聖公会祈祷書の主日毎の聖書箇所と祈祷文はそのままにしたが、主日の呼び方を変えたのだという。
例えばレントの最初の主日は「降誕節後第十一主日」とし、以降レント第5主日までは、「降誕節後第○○主日」と呼んだそうだ。
灰の水曜日も、聖木曜日も除外されたのだ。

なぜそうしたのか?

かすかに「適当な目的がないから」とだけ説明されていたのだ。

この記事を書いた人の推量では、要するに当時の(英国)メソジストたちは、レントのような教会暦で実践されるような事柄を、彼らの組会やソサエティーへ集会を通して十二分に実践していたからだ、と見る。

要するに二重になってしまうと言うことだ。

しかし今となっては初期メソジストたちが実践したような組会やソサエティーはなくなってしまった。
だから教会暦の伝統に従って灰の水曜日、レント、聖木曜日、グッド・フライデー、と守る需要が出てきたのだ。

うーん、少しなるほどと思った。



※この記事を書こうと思っているうちに、昨晩になってスェーデンのペンテコステ系メガチャーチの牧師がカトリックに改宗、と言うニュースが飛び込んできました。リンク①リンク②

どうもプロテスタントの新興教会は伝統が持つ安定や安心感に惹かれるようですね。