(※昨今の多文化主義のマナーで言うとシャブゥオトも。)
朗読箇所: 使徒の働き2:1-13
説教題:「御霊が話させてくださるとおりに」
アウトライン:
I. 天が開け、家の扉が開かれ、口を開く
II. 言語と文化の壁
III. 証人と証言
注目聖句:
すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒言行録2:4、新共同訳)They were all filled with the holy spirit, and began to speak in other languages, as the spirit gave them the words to say. (KNT)
といった概要なのですが、礼拝後の会話でこんな感想を聞くことができました。
ペンテコステの出来事で「tongues」とあるのを、今までずーっと(ペンテコステ系の方々の言う)異言だと思っていました。この感想、つまりペンテコステ/カリスマ系の特徴とされる「異言体験」については実はそれほど意識していなかったので少し不意をつかれた気がした。
でも「外国語」、(離散のユダヤ人たちにとっての)「母国語」だったんですね。
それで少し会話をした。
共に「異言体験」を持っていない同士なので、そもそもペンテコステ/カリスマ系の方々が主張する「異言体験」と、ペンテコステの出来事とが、どう密接に関わるかどうかはさておいて以下の二点を確認した。
(1)ペンテコストの日に弟子たちがしゃべった言語は、その日五旬節に集まっていた離散のユダヤ人たちにとっては「母国語」であり、弟子たちにとっては「外国語」であった。どちらにしても「分かる言葉」であって(「異言体験」を持たない者が想像する)「意味の分からない音の羅列」としてのイゲンではなかった。
(2) 新約聖書(特に使徒の働きとコリント第一)の視点から言うと「異言」は否定すべきではないが、(集会の意味で)教会においては「秩序」と「理解」に従う賜物である。
筆者の中では一応整理が付いていることなのだが、結構長い信仰暦のある方が今頃になって「開眼」したかのように話されたことで、改めて聖書を読む時の「規制枠」(既成枠といってもいい)の問題を思った。
ついでに付言すると、この日はメソジスト運動の始祖ジョン・ウェスレーがアルダスゲート街集会で「福音的回心」体験をした日でした。
説教では、キリスト者としての信仰が他のキリスト者によって信仰が補強されることを通して「証人」として整えられる生きた例として
(1)アポロ
(2)ジョン・ウェスレー
を取り上げました。
アポロは信徒伝道者プリスキラとアクラによって(使徒18章24節以降)、ジョン・ウェスレーは「モラヴィア派」と「ルター」によって、それまでの信仰が補強され、その後の伝道に結実しました。
今朝、以上のことを受けて、「聖霊のバプテスマと異言」と言うテーマで少し思索を始めたところです。
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