2015年5月6日水曜日

(4)神学遍歴⑫

さてさて、最近このブログの更新ペースが急進しているが、あくまでたまたまです。

すぐペースダウンするでしょう。


前回神学遍歴の記事を書いたのは、1年以上も前のこと。大分時が経ってしまいました。

Graduate Theological Union 時代のこれが3回目の記事になるようです。


(1)宗教社会学

 既に『神学遍歴⑩』でも書いたが、筆者が入ったのは「第IV領域」と呼ばれる、《社会倫理》と《社会理論》を専門とする分野だった。

 前回は「社会倫理」部門のコアコースである「西方教会社会倫理教説史」を紹介した。

 もう一つの部門「社会理論」は、主に「宗教社会学」入門のような形で入って行くものだった。

 現在は宗教社会学というと、社会学の“一分野”とみなされることが殆どだと思う。

 しかし社会学の祖として挙げられる3人、カール・マルクス、エミール・デュルケーム、そしてマックス・ヴェーバーは(マルクスを除いて)いずれも「社会の中心に宗教をおいて」社会の近代化を分析した。

 つまりデュルケームやヴェーバーにとっては、宗教社会学が社会理論の中核にあった、といえる。


 1980年代前半当時、神学校で「宗教社会学入門」コースに使われたテキストを紹介しておこう。

 教授はイエズス会士で、加大バークリー校のべラー教授の下で博士をやった人であった。

 記憶に残っているテキストは、
  ・Gregory Baum, Religion and Alienation: A Theological Reading of Sociology.
  ・David Martin, A General Theory of Secularization
  ・Andrew Greeley, Unsecular Man: The Persistence of Religion.

あたりかな。

(2) 学術会議(アカデミック)的なこと

 博士課程の学生は学業だけやっていればいい、だけではないことを間もなく知った。

 前回も、「第IV領域」のコア文献確定作業について書いた。

 教授も学生も一緒になって、「自分たちの専門領域の性格と範囲」を、「誰の」「どの文献」を重要とするかを検討しながら、形作る作業をしていたわけだ。

 その他の事案としてよく覚えているのは、博士課程の入学志願者選定作業だ。

 それは教授の専権事項、と思いきや、志願者の履歴・実績・希望等を、学生も教授たちと一緒に討論するのだ。

 もちろん最終選定には学生は関与しないが、色々意見は求められた。

 たまたまその年(筆者が入学してから2年目か3年目)は、候補者の中に日本人学生が入っていたが、TOEFLのスコアが少し低く、学業が成り立つかどうか、意見を求められた。

 一人の人の将来に関わることなので、緊張して意見を述べたことを思い出す。(その後日本人の学生はなかったので、もしかしたらだめだったのかもしれない。)


宗教社会学関連、という事で思い出したことを書いておこう。

鹿児島ナザレン教会の久保木牧師が

ジョン・ポール・レデラック著『敵対から共生へ』を読んで、紛争に向き合う勇気をいただきました..
という記事で以下のようなことを書いていた。
conflict(紛争、対立)がギフトであり、平和へのプロセスとして扱っている
良書です。

訳文がわかりにくい、ということを書いたのですが、
具体的にいうと、こんな文章です。
現状把握への記述的(descriptive)営みの中で、変革に気づ かせてくれるのは、私たち個々人は悪い意味でも良い意味でも、衝突によって影響を受けるということです。衝突は、私たちの肉体的な健康、自己の尊厳、感情 の安定、正しい洞察、全人的霊性の統合に影響を与えるのです。

処方的(prescriptive)視点で捉えるなら、変革とは、慎重に計画された干渉であり、それによって社会的紛争の破壊的な影響は最小限に抑えられ、個人の肉体、感情、霊的レベルで、成長する可能性が最大限に広げられます。
(ジョン・ポール・レデラック著「敵対から共生へ」23頁)
というものです。

以前この記事を読んだ時、記憶に残って、そのうち何か書こうかな・・・と思ったのは「記述的(descriptive)」と「処方的(prescriptive)」との違いと関連についてでした。

おおよそのことは類推がつきましたが、だからと言って言葉/概念の説明だけではイマイチ分からないだろーな、と思ったのでした。

今回「宗教社会学」について書いたことで、この「記述的(descriptive)」と「処方的(prescriptive)」のことを改めて思い出しました。

それは社会学(宗教社会学も含む)と言うものが辿った歴史と関連付けて、少し比喩的にですが、説明できるものではないかと・・・。

経済学もそうですが、社会学は道徳哲学から分岐独立した学問です。
※プラトンの『国家』やアリストテレスの『ニコマコス倫理学』 が社会学の(古典)テキストとして読まれているかどうかで、その社会学の「被写界深度」も測れよう、というもんです。

その後自然科学との対比で、「科学」としての自立性・自律性を獲得するために、《記述的性格》と《予測可能性》と言う科学と呼ばれるに相応しい二つの性格を追求します。

まあここで話題にした《記述的》と言うことが出てくるわけですが・・・。

科学的なステータスを獲得するには「客観性」を証明しなければならない。

そのために「(主観的とされる)価値判断を入り込ませない」と言う原則を方法論的に確立しなければならない。

そのようにして、社会学的事象を「(因果関係で説明できる)法則的な関連」で叙述することを目指したわけですね。

言わば自然科学に似せて、社会学の観察対象を客観的に「記述」できる事象とみなしたわけです。


ここまで書いて、かなり「脱線」したように思います。
(風呂敷を広げすぎたので中断。 )

要するに「記述的(descriptive)」と「処方的(prescriptive)」と言う違いは、ある事象・対象への「対応の2モード」だ、と言うことを社会学を例にして説明しようと思ったのです。

「記述的」・・・とは「観察モード」であり、観察した事象を(できるだけ客観的に、あるがままに)記述する方の対応の仕方です。

「処方的」・・・とは「介入モード」であり、観察した事象を一定方向に「変化させる」ための助言・指示をする時の対応の仕方です。

社会学では「処方的」の代わりに「規範的(normative)」とよく言いますが、健全な社会のあり方を「基準」として持っていることによって、社会を観察し、様々な社会問題を「症例」に分類・整理して「診断」し、それへの対応策を「処方」する・・・とかなり強引に「病理学的」社会学の機能をたとえると、そう言うイメージになります。


さて、レデラックの本ですが、筆者はこの本読んでもいないし、持ってもいないので、それ以上のことを言うにはちょっと憚られると思ったので、ネットで見てみたら、本の要約を掲げたサイトが見つかりました。

一通り目を通してみたのですが、どうも「関係対立診断及び処方(conflict management)」とも言うべき、「知識とスキル」が「対立」と言う実際局面に集中して寄せ集められた「現代的専門家」然としていますね。

レデラックはさらに、そのようなまだ発展途上の「知識とスキル」の集合体に、メノナイトの「平和の神学と実践」を繋げて、独自に理論展開しているようです。

このサイトに要約されていることは、殆ど「概念的な理論構築」に終始しています。

その真価は「個別具体ケース」に適用されて判断され、さらに理論にフィードバックされて精度向上を増すべきものと見えます。

先ほどの久保木牧師の引用の原文は
From a descriptive perspective, transformation suggests that individuals are affected by conflict in both negative and positive ways.
For example, conflict affects our physical well-being, self-esteem, emotional stability, capacity to perceive accurately, and spiritual integrity.

Prescriptively, (i.e., relating to what one should do) transformation represents deliberate intervention to minimize the destructive effects of social conflict and maximize its potential for individual growth at physical, emotional, and spiritual levels.
となっていますが、これは「対立」が関わる「状況」の『パーソナル』な側面についての説明で、以下『関係的』『構造的』『文化的』側面が挙げられ、それらの側面について一つ一つ、「記述的(descriptive)」と「処方的(prescriptive)」の両方からコメントされています。

「対立」 を単に「管理する(マネージメント)」のではなく、「変革する(トランスフォーム)」視点から捉えるのは、メノナイトの平和構築神学からは真っ当なものだとは思うのです。

このサイトでは「聖書的」「神学的」洞察からくるものは殆ど明示されていないようです。

もし(例えば)牧師が「変革的なヴィジョン」としてこのような「実践的な理論」を援用するのであれば、やはりキリスト教的、神学的「人間論」そして「教会論」としっかり繋いで行く必要はあるように思います。

そうしないと、何が「ミニマイズ」すべき「社会的対立から来る破壊的影響」なのか、あるいは何が「マキシマイズ」すべき「個人的成長への潜在的要素」なのか、判断が明瞭にならないのではないでしょうか。
次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。

まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。

あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。

それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。
(以上、新約聖書・コリント人への手紙第一、11章17節~20節、新共同訳。強調は筆者。)


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